【仮想戦記】 The Islands War 二次創作 作:perry
ローリダ共和国 首都アダロネス 高級住宅地 南門
軍の高級幹部や議員が住まう高級住宅街――その最奥にエンクルマ邸はあるらしい。
住宅地というより一種の軍事施設のような物々しさに、アミン=タダは改めて、ここが普通の人間の住むところではないと思い知る。やはり、これだけの警備をつけなければ安全は保証できないのだろうか。
植民地軍よりいい装備をしていそうなガードマンに通行証を見せ、ついでにエンクルマ邸の場所を地図で教えてもらう。そのとき向けられた生温かい目線は、お上りさんのようにはしゃいでいる隣の人物のせいだと思いたい。
「エンクルマ司令は家に居るかなぁ?」
「いねぇだろう。あの人だって、忙しいらしいし。まぁ、何に忙しいのかまでは分からないが」
「そりゃそうよ! あのお方がドクグラムなんかにこのままやられて終わるわけないじゃない!」
いつもの勢いで持論を展開するのは、隣のクリスティーナ=デ=キルチネルである。
彼女はアミンと同窓で、学生の間はよくつるんだ間柄だった。もともとアミンは庶民の出であり、この愛らしい金髪ツインテールのお嬢様が属する貴族階級とは、本来なら馬が合わないはずだ。仲良くなれた一番の理由は、植民地軍大学の『出自で差別しない』という学風だろうか――そう推察してみるが、考えるうちに、もっと根本的な問題へたどり着いた。
――というより、他に貴族階級出の同窓などいなかったのではないか?
そう思うと、隣の女がいかに奇特な人物か分かろうというものだ。
哀しいかな現実社会は厳しく、大学卒業後に軍へ進んだ彼女と、大手新聞社に就職した自分とが顔を合わせる機会はそう多くなかった。右隣に揺れる金色の尻尾を視界の端に入れながら歩くのは久しぶりだ――そんな感慨にふけってしまうのも仕方がないだろう。
彼女が奇特――というより悪目立ちする理由は、貴族階級でありながら植民地軍に任官していることだけではない。
まばゆいほどの金髪はここローリダでも珍しく、しかも絹のようになめらかで、見る者の目を惹きつけてやまない。
おまけに、その長く伸ばした髪とは裏腹に、背丈は平均――本人いわく、軍という特殊な環境での平均――に大分足りていないのだから、目立ちもする。こう言ってはなんだが、小柄な金髪ツインテールのお嬢様が制服を着てふんぞり返っている姿は、どうしても戯画にしか見えない。
彼女はいま軍務についていて、対ニホン情勢は緊迫の一途をたどっている。にもかかわらず、なぜこんなところにいるのか?
昨日、久しぶりに彼女から電話がかかってきたとき、アミンの頭に浮かんだのもその疑問だった。
対する彼女の返答は、
「だって、こっち仕事ないんだもん」
という、何ともコメントに困るものであった。
彼女が言うには、アダロネスから海を渡ったノドコールでの植民地軍のやる気の"無さ"は凄まじく、将校である彼女に『有給を使っとけ』と指示が来るほどだという。
それを聞いたアミンは、別の意味でこの戦争の行方が心配になったのだが、ともかく彼女はそういう事情で帰国していたらしい。
その彼女が電話をかけてきたのは、懐かしい同窓の声を聞きたいなどというロマンティックな理由からではない。もっと即物的な、己の欲望に忠実な理由からであった。
『エンクルマ邸での取材アポを取り付けたの!?』
久しぶりに聞いた親友の第一声である。
彼女が植民地軍に任官した最大の理由――それは、尊敬してやまない"常勝将軍"への憧れだ。家には反対され、勘当されかかったらしいが、それでも勉強して本当に大学へ入ってしまったのだから、そのバイタリティは凄まじい。
親友のアミンから見ても、彼女の心酔ぶりは同窓の中で突出していた。
もちろんアミンも、国防軍と植民地軍のどちらかを選べと言われれば植民地軍を選ぶ。卒業生の九割以上が植民地軍に任官するのを見ても、誰もが多少の憧れを抱いて入学してきたのは事実だ。
表向きは、広く開かれた門戸や、安い授業料で質の高い教育を受けられることに惹かれて――と言って入学しても、最後には任官する者が大部分なのだ。むしろ、アミンのように一般企業へ就職するほうがよほど珍しい。
――アイツはいつか『エンクルマ教』の教会を建てるだろうよ
そんな評判を立てられても、嫌がるどころか誇らしげにしているのだから、どうしようもない。
そんな彼女を連れて、豪奢な家々が並ぶ迷路を通り抜けていく。この高級住宅地は、それ自体で生活が完結するよう、学校から食料品店まで何もかもが揃っていると言っても過言ではない。そして、その周りを鉄格子で囲い、完璧な安全を保証する――これがこの高級住宅地の全容だ。
アミンがエンクルマ邸を訪れる理由。それは新聞社勤めという肩書きからも分かるとおり、取材という、ごく一般的な目的のためであった。
そもそも彼が大学に入ったのも、安い授業料に惹かれたというのもあるが、一番の理由はエンクルマへの興味だった。
勘違いされやすいのだが、彼が興味を持っているのはエンクルマという個人であって、クリスティーナが惚れ込んでいるような"英雄"としてのエンクルマではない。もちろん、個人としての評価には英雄としての評価も含まれるだろう。だが彼は、もっとその人そのものに光を当てたくて入学したのである。
だから卒業後は新聞社に入り、取材の技術や人脈といったものを一通り身につけることにした。アミンの夢は、エンクルマの伝記を書くことであった。
小さい頃から、ずっと思っていたのだ。
――孤児の身で、どうやって難関の士官学校に入れたのか?
――学生時代はどう過ごしたのか?
――何を思って植民地軍を設立し、ここまで大きくしたのか?
転移前のことを知るのは、そう容易ではない。現在進行形の事件でさえ、記者は自分の足で歩きまわって情報を集めるのだ。いわんや、転移という大災厄より前の昔話となれば。
そんな彼にとって、今回の辞任騒ぎはある意味でいい区切りだったのかもしれない。
ここで一度、これまで集めてきた情報を整理してみようと考えたのである。
そこで、ダメ元で学生時代の彼をよく知る人物――彼の妻であるエミリー女史に取材を申し込んだ。
返事は、まさかの快諾であった。
まぁ、彼女は今や一市民という立場だ。これまでは軍の広報を通してしか聞けなかった質問も、本人に直接ぶつけられるだろう。
そういう意味で、アミンの心は浮き足立っていた。
そこへ冷や水を浴びせかけたのが、先の電話である。
アミンは必死に言い聞かせた。取材する相手はあくまでエミリー女史であって、エンクルマではない、と。
それでも、もしかすると家にいて会えるかもしれないじゃない! と興奮気味にまくし立てる彼女を、もう止められない――親友であるアミンは、そのことを重々承知していた。
こうして、不機嫌そうな仏頂面の男と、その横を千切れんばかりに尻尾を振っていそうな様子で歩く金髪の少女という、奇妙な二人組が誕生したのであった。
門から歩いて十五分ほど経っただろうか。
たどり着いたエンクルマ邸は、他の家とそう変わらない――いや、むしろ他より小さく見えた。
呼び鈴を鳴らし、予定より一人多い二人で来たことを伝えると、お手伝いさんはにこやかに案内してくれた。隣のクリスティーナはきょろきょろと落ち着きがない。
通された応接間では、元植民地軍総司令部参謀長にしてエンクルマの妻、ティム=ファ=エミリーが、柔らかな笑みを浮かべて座っていた。
そういえば、この人と隣のクリスティーナは似ているな――とアミンはなんとなく思った。美しい金髪という共通項だけでも、印象としては大きいのだろう。
二人で来ることは聞いていたのか、エミリーは特に驚いた様子もなく立ち上がり、アミンと握手を交わす。
「初めまして、ローリダ中央新聞のアミン=タダです。今回は取材を許可していただき、ありがとうございます」
「ええ、初めまして。"元"総司令部参謀長のエミリーよ。ちょうど空いてたから、都合が良かったの」
無難に挨拶を済ませたアミンは、次はお前の番だ、と隣のクリスティーナを見やる。すると彼女は、きちんと敬礼していた。
そんなクリスティーナに、エミリーは苦笑して言い添える。
「もう軍籍にあるわけじゃないのよ。だから、そんなに固くならなくていいわ」
そう言われて、ようやくクリスティーナは敬礼を解いた。
応接間には座り心地のいいソファーと豪華なテーブルがあり、エミリーの対面に二人が腰を下ろす。頃合いを見計らったように、お手伝いさんが三人分のコーヒーを運んできた。
その香りを楽しみながら、アミンは今回の取材の趣旨と目的を説明する。
「……なるほど、エンティの伝記ねぇ」
コーヒーを啜りながら、エミリーはしみじみと呟いた。
隣のクリスは、エミリーを前にしてからというもの、借りてきた猫のようにおとなしい。最初に、今日はエンクルマが外泊する予定だと耳にしたからだろうか。
「はい。ちょうどいい時期かと思いまして」
そこで、エミリーの形のいい眉がわずかに持ち上がった。
――失言だったか。これでは辞任を「ちょうどいい」と言ったも同然だ。慌てて訂正と謝罪をしようとするアミンに、エミリーは微笑みながら首を振る。
「大丈夫よ、気にしないで。……でも確かに、立ち止まっているからこそ、振り返るにはいい時期かもしれないわね」
独り言のようにそう言って、彼女は何かを深く考えるように宙へ視線をさまよわせる。
数秒ののち、その視線はこちらへ戻ってきた。
「で? いつのことを聞きたいの? エンティの――」
「――転移前の、それもできれば士官学校時代のことを教えていただけると助かります」
「士官学校? ……というより、私が初めて彼を見たのがその頃なのよ?」
「あ、そうですね。ということは、その頃からお付き合いされていたのですか?」
「……そうね。付き合いだしたのは学校を出てからだけど」
男女交際は禁止されていたもの、とエミリーは笑う。
そこへ、意外な伏兵から質問が飛び出した。さっきからおとなしかったクリスティーナである。
「お二人の馴れ初めが気になります!」
ふん、と鼻息も荒く急にエンジンのかかったクリスに、エミリーは少し驚いた様子だ。それに乗っかる形で、
「そうですね、自分も気になります」
とアミンも同意した。
彼としては、エミリーの知る最も古い記憶から聞き取りたかったのだ。いま手に入るナマの情報としては、それが一番古いものになりそうだった。
それに、後に妻となる彼女なら、当時のエンクルマのこともよく知っていただろうと思ったからでもある。
少し恥ずかしそうな笑みを浮かべて渋っていたエミリーだったが、二人の熱意に押され、ついにゆっくりと二人の物語を紡ぎはじめた。
その物語のプロローグは二十数年前――ローリダという国が、まだ転移という史上最大の試練に直面する前に始まる。
◆◆◆
エミリーはすこぶる機嫌が悪かった。
彼女の予定では、今日は清々しい気分で一日が始まるはずだった。そのために、できる範囲で最大限の努力もしてきた。なまじ多大な努力をしてきたと自負しているからこそ、機嫌は急降下している――とも言える。
機嫌が斜めな理由。それは今日、中間考査――この士官学校に入学して最初の考査――の結果が貼り出されたことにある。
当然、自分が一番のはずだった。そのための努力もした。
だというのに――
「どうして私が二位なのよっ!」
周りに聞こえないくらいの小声で呟く。
結果は、上から数えて二番目であった。
友達の女学生たちは、それでもすごいと褒めてくれる。だが、彼女にとってはたまったものではなかった。その賞賛の裏にあるものこそ、エミリーが打ち倒したいものだったからだ。
口には出さないが、彼女たちの賞賛はある常識を前提にしている。
それは『女だてらに……』から始まるすべての言葉。この封建的な社会における女性への態度や見方――そういったもののすべてが、彼女は気に食わなかった。
そうした風潮が色濃く残るローリダで、女性にも能力があること、下手な男よりよほど有能であることを示したかったのだ。
だからこそ、比較的能力主義である軍隊への最短ルート――士官学校に入学したのである。
もちろん、それがたやすく成し遂げられるとは思っていない。
――だから、あんなにも努力したのに……
胸のなかで暴れる理不尽な怒りの、向け先が分からない。
この怒りがまったくの見当違いであることくらい、自分でも分かっていた。そしていま、この足が食堂へ向かい、自分より"上"にいる奴を見つけ出そうとしている――それが、ともすれば危うい行為であることも。
分かってはいたが、どうしても気になるのだ。自分を下した男が。
『ティム=ファ=エンクルマ』
彼女の名前の上にあったのは、そんな名前だった。
事前に集めた情報によると、何とも微妙な奴らしい。
それを聞いて、なんでまたそんな微妙な奴に……と彼女は歯噛みした。というのも、よくつるんでいる男二人のうち、『じゃない方』がティム=ファ=エンクルマだというのだ。
――まぁ、今回の考査で『頭のいい奴』くらいには知られるかもしれないが
ともかく、もう一人のほうは金髪で背が高く、顔もいいと女子の間で評判の男だった。その美男子、エアーズ=ディ=アドルフの親友であるティム=ファ=エンクルマを探して、エミリーは足音も荒く、彼らがいるらしい食堂へ向かっているのだ。
着いた食堂に、人影はまばらだった。好都合だ、と見渡すと、奥のほうに目立つ金髪と黒髪の二人組が、テーブルで向かい合って話しているのが見えた。
近づくにつれ、会話が断片的に耳に入ってくる。
「……にしても、今回の件で有名になるんじゃないか?」
「……はは、名前はよく見ても顔は覚えてない、みたいなことになると思うけどね」
会話からして、間違いなさそうだ。
この二人が、エアーズ=ディ=アドルフとティム=ファ=エンクルマなのだろう。
「ちょっといい?」
声をかけると、二人の顔がこちらを向いた。
一人はさすが噂の美男子だ。女子から黄色い声が上がるのも無理はない、整った顔をしている。
対して、今回の目当てであるティム=ファ=エンクルマは、一言で表すなら冴えない風貌だった。
いや、冴えないとまで言うのはかわいそうかもしれない。隣にいるのが図抜けた美男なのだ――彼単体で見れば、まぁ普通といったところだろう。
黒髪は、隣が金髪だからか、少し魅力的に見えた。彼女自身も金髪なのだ。
そして、野暮ったい眼鏡をかけている。童顔に似合わない真っ黒な縁のそれが、彼の見栄えを数段割り引いているように思えた。
二人の視線は同時にこちらへ向けられたが、先に外れたのはエンクルマのほうだった。すぐに興味をなくしたように、そばに伏せてあった文庫本を開く。
お前に興味などない、と語るようなその態度に――エミリーは少し、ほんの少しだけむっとした。
「おやおや。マーガレットさんじゃないか? 高嶺の花が、なぜこんな場末に?」
少し芝居がかった調子で、アドルフが問いかけてくる。
その問いを無視して、エミリーは席についた。そこでやっと、エンクルマの目が手元の本から上がる。
「初めまして、マーガレット=エミリーよ。よろしくね、学年一位のエンクルマさん?」
少し挑発じみた挨拶だ。自分が暴走気味なのは感じていたが、エミリーはそのまま相手の挨拶を待った。
顔を上げたエンクルマは、少し首を傾げる。なぜ突っかかってくるのか分からない、といった顔だ。
「はぁ、初めまして、マーガレットさん。あー、ティム=ファ=エンクルマです」
そこで、彼の口はいったん閉じられた。
一拍の静寂。二人の間にあった調和を、自分が見事に乱してしまったからだろう。困惑の表情を浮かべるエンクルマとは正反対に、隣の金髪はやけに楽しそうだが。
「俺はエアーズ=ディ=アドルフだ。よろしく」
半ば無視された形なのに、アドルフは気にした様子もなく挨拶してくる。
「よろしく」
彼には簡潔に答えて、エミリーはエンクルマを観察する。
――これが、私を下した男、ねぇ?
正直、拍子抜けした感は否めなかった。
勝手に幻想を抱いて勝手に失望するなんて失礼だ――そう自覚してはいても、目の前の彼がそう大人びて見えないのも事実だった。
手早くエンクルマの品定めを済ませたエミリーは、ひとまず目的を果たそうと質問を投げかけることにした。ここに長居しても、いいことはないだろう。アドルフを慕う誰かに目をつけられてはかなわない。
女の世界も、それなりにめんどくさいのだ。
あるいは、そんな世界から逃げるために、こんなことをしているのかもしれない。
「こう言っちゃなんだけど、私、今回の考査には自信があったのよ」
「はぁ」
エンクルマは、ただ一言そう漏らすのみだ。
対してアドルフは、何が楽しいのかニヤニヤと笑っている。
「だから正直、今回は私が一位だと思ったわ。けど、蓋を開けてみればあなたが一位。それもオール満点とか、ありえないでしょ!」
途中から愚痴のようになったが、それも仕方がないと自己弁護してみる。
なにせ、控えめに言っても簡単ではないと評されるこの士官学校の考査で、満点は史上初だというのだ。その馬鹿らしさが分かろうというものだ。それを仕方がないと割り切れるほど、エミリーは大人ではなかった。
声の熱が上がっていくエミリーに、エンクルマは若干引きつつ、またしても「はぁ」とぼやけた返事を返すのみだ。その隣の美男子はといえば、ニヤニヤ笑いがいつの間にか忍び笑いに変わっていた。口元を隠してはいるが、もう完全に笑っている。
「何がおかしいのよ」
「フフッ、……いや、別に」
にやけた顔のまま、アドルフはそう答えた。
「なんだか話が見えてきた気がする……それで、マーガレットさんは何か用でも?」
素直に、素朴に、彼は当然の疑問を口にする。
ここで、エミリーはどうしても聞きたかったこと――彼が一位を取れた"理由"――を尋ねることにした。
特別な答えを求めていたわけではない。もしそれが、あの便利で非情な言葉――"努力"とかであるなら、それはそれで納得しただろう。
努力が足りないというのなら、もっと努力するだけだ。
彼女はそこまで完璧主義というわけでもなかった。次の考査で勝てればいい。それがダメなら学年末で。それもダメなら卒業までに。優秀な男たちよりも自分が優秀だと、皆に認めさせればいいだけの話なのだ。
「――あなたは、どうして一位を取れたの?」
それに対する彼の答えは、彼女を混乱させ、そして激昂させるに十分だった。
「ズルをしているんだよ、俺は」
そう言って、エンクルマは寂しそうに笑うのだ。
◆◆◆
「ズル、ですか?」
それまで静かにメモを取りながら聞いていたアミンが、顔を上げて問う。
当然の疑問に、エミリーはゆっくりと頷いた。
「ええ。あの後も何度も聞いたけど、答えは変わらなかったわ」
「さすがエンクルマ司令ですね! 考査をオール満点だなんて!」
これがクリスの知らない武勇伝だったのは、エミリーにとって意外だった。これほど熱心な子が知らないエンクルマの武勇伝があるとは思えなかったからだ。
考査で満点などという、いかにも武勇伝向きの話ならなおさらだ。
「さすがのエンティも、満点はあれっきりだったけどね」
口ではそう言いながら、エミリーはあの悲しげな微笑みを思い出していた。
――なんで、私はあの微笑みを忘れていたのだろう?
思い出すにつれ、その強烈な印象に心臓が早鐘を打つ。
悲しげで、ほんの少しの諦観が混じった微笑み――あれを、私は別の場面でも見たことがある。無意識に記憶から消していたところを見ると、自分にとって嫌な記憶だと、心の奥底が判断したのだろう。
――そうだ、あの時も同じような微笑みを彼はしていた
結婚してから、自分が子供を産めない身体だと分かった時。泣きながら彼に謝った時だ。
彼はあの時と同じ、諦めと納得と悲しみが混ざり合ったような微笑みで、大丈夫だと言ってくれたのだ。
――なぜ、この二つが重なるのだろう?
「それが、エンクルマ司令との出会いですか?」
「え、ええ。それから、まぁ気にかけるようにはなったわね」
そうだ。あれから彼を意識するようにはなったが、だからといって付き合うところまではいくはずもなかった。どちらかといえば、ライバルとか、敵とか、そういう言葉のほうが似合う間柄だったはずだ。
――さて、何がきっかけで、付き合うほど近づいたのだったっけ?
そう考えて、思い当たる節がないことに愕然とする。
金髪のお嬢様は興味津々の輝く目で、隣の記者は思いついたことはすべてメモしようと集中した様子で、上目遣いにこちらを窺ってくる。
そのささやかな圧力に押されるように、ある出来事がふわりと頭に浮かんできた。
思い出してしまえば、なぜこんなことを忘れていたのかと不思議になるほど強烈な出来事だった。
一つ思い出しては語り、語りながらまた思い出す。
彼に助けられた――一言で片付けられるその事件は、何ともちんけな理由から起きた。
◆◆◆
結果から言えば、目立ちすぎたのが理由だろうか。
腕を後ろで縛られるなんて経験はそうそうできるものではない――そう前向きに考えようとしても、体は正直だ。寒くもないのに歯が鳴り、震えが止まらない。
自分の感覚が確かなら、ここはナンセン駐屯地だろう。
士官学校の課業の一環として、実際の駐屯地に研修へ行くというものがある。その研修メンバーの顔ぶれを見れば、何も起きないはずがないと確信できるような人選だった。嫌がらせか何かだろうか。
――もしくは、やっぱりあのいけ好かない奴らの身内が手引きしているのか
各駐屯地に振り分けられる研修メンバーのうち、ここに来たのはエミリーとエンクルマ、そして、いわゆる『選ばれし者』のグループだった。
『選ばれし者』などと大層な名前がついているが、その実、ただのコネのあるグループにすぎない。高級将校の子弟は難関で知られる士官学校の入試でも有利だ、という噂は聞いていた。彼らの愚鈍ぶりを見るに、あながち嘘でもないらしい。
そんな彼らとエミリーの仲が良いわけがなかった。
彼らが身の程をわきまえていれば、そう派手な衝突も起きなかっただろう。だが彼らは、それにすら気づかないレベルだったのだ。自分たちが有能だと信じて疑わず、そのくせプライドは天より高いのだから、面倒くさいことこの上ない。
だから、突っかかってくる彼らをエミリーは歯牙にもかけなかった。急に呼び出され、俺の女になれと傲慢に言われた時には、思わず平手打ちしてしまったが、それも仕方のないことだろう。
エミリーは自分の容姿が周りにどんな影響を与えるかを十分に理解していたし、彼らが付き合う女を、ちょっとしたアクセサリー程度にしか考えていないだろうことも知っていた。まさしく、彼女の信条の真反対に位置する連中だったのだ。
だから、彼らがこんな馬鹿なことをする理由はまったく理解できなかった。
……いや、理解はできないが、推測はできそうだ。
彼らは毎回、考査の結果発表で、その実力に見合った順位に名を連ねていた。考査とはそういうものだろう。しかし彼らは、その当たり前が気に入らなかったらしい。
私が上にいることは、構わないらしい。
――アクセサリーは、質が高いほうが周りに自慢できる、ということだろうか
その考え方こそが嫌われる主因だと気づきもしない彼らの妬みは、当然、立場の弱い者に向けられる。
つまり、毎回エミリーと席次を争う、孤児院出身のエンクルマに。
もっとも、彼は彼らの嫌がらせを上手くかわし続けていた。
並の手段が効かないと見た彼らは――
「――おい、やっと来たか」
その声に、エミリーは顔を上げた。
ここは倉庫のどこかだろう。眩しい照明に照らされた室内は、明るいというより白く見える。その中央の椅子に座らされているのが自分だ。明日の課業に備えて早めに寝ようとしたはずが、気づけばこうして、椅子に後ろ手で縛られていた。
周りを囲むあのいけ好かないグループと、そのリーダーらしき男――名前すら覚える価値がないと覚えていなかったが――が、一斉に倉庫の扉のほうへ顔を向ける。
そこには、眠たそうに目をこすりながら歩いてくるティム=ファ=エンクルマの姿があった。助けに来てくれたのだろう彼に、悔しいが少しの安堵と、胸に何か温かいものを感じる。
「……これは、何の集まりだい? リウロ?」
「ふん、そのいけ好かない余裕もいつまで持つかな」
リウロと呼ばれたリーダー格の男は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
エンクルマの視線が、椅子に縛られた私へと向けられる。
「マーガレットさん? どうしてここに?」
「それはそっちの人に聞いてもらえると助かるわ」
目線で、リウロという男のほうを示す。
リウロは薄笑いを浮かべて答えた。
「調子に乗っている、お前みたいな親なしに、己の立場を分からせてやろうと思ってな。俺たちの『先輩方』に頼み込んで、ここと――」
彼が見やる先には、二本の線が引かれた道路と、向かい合うように置かれた車があった。倉庫には大きな物を出し入れするためのスライド式の扉がついているのが常だが、今夜はそれが全開になっていて、外がよく見渡せる。
月明かりに照らされたその"ステージ"は、まるで何かの舞台装置のようだった。
車の間は二百メートルほどだろうか。視界のちょうど端と端に、軍用トラックが向かい合って停めてある。そして、そのトラックを挟むように、平行な二本の直線が引かれていた。
これらが何のための装置か、エミリーは薄々気づいていた。
最近、馬鹿な兵士たちの間で流行っているという――
「――チキンゲームができる一式を、少しお借りしたんだよ」
リウロは得意げに言い放った。
「ああ、チキンゲームができるのは分かったけど……」
エンクルマは二台のトラックを見ながら言う。
「それで、なんで俺が?」
呼ばれた理由が分からない――そう言いたげなエンクルマの顔に、苛立ったリウロが吐き捨てる。
「お前みたいな意気地なしに、マーガレット=エミリーは似合わないっ!」
そう言って、彼は顔を赤くするのだ。
それを見たエンクルマの顔から、ふっと困惑が消えた。何もかも腑に落ちた――そんな顔だった。
「……なるほどね」
「お前、考査だけで、体育教練も他もからっきしじゃないか。それに……その考査だって、"ズル"してあんな上位にいるってこと、俺は知ってるぜ?」
その言葉を聞いた瞬間、エンクルマの顔が一瞬、ひどく歪んだように見えた。
エミリーはエミリーで、今の言葉に妙な不快感を覚える。何か大切な宝物を盗られたような、そんな不快感。
――彼が『ズルをしているんだよ』と言ったのは、あの時くらいのはずだ。なぜ、この男がそれを知っているのだろう?
そんな疑問が湧いたが、リウロは話を続ける。
「そんなお前の化けの皮を剥がすのに、これはうってつけだ。まさか、断るなんてことはしないだろう? お前がチキンだってことを、ここで証明してやる」
そう言って、リウロは一台の車のほうへ向かっていった。
その背中を、エンクルマは険しい顔で眺めている。
チキンゲーム。白線に囲まれた"線路"の上を、向かい合った車で正面衝突するようにアクセルを踏む。衝突を恐れて先にハンドルを切ったほうが負けだ。
そんな、本当にくだらないゲーム。
これまでライバルとして張り合ってきた経験から、彼は断ると思っていた。
こんな馬鹿げた、片思いのパフォーマンスなんかに命を賭けるわけがない。それが正常な判断というものだし、断ったからといって、自分がどうにかされることもないだろう。リウロという男は自分を好いているようだし。
そんな予想を、彼はいとも簡単に裏切った。
エンクルマが、じっとこちらを見つめている。
それはこちらを見ているようで、どこか別の何かを見ているかのようだった。
「……何よ」
「いや……ちょっと、迷ってるんだ」
「はぁ?」
エンクルマの言葉に、エミリーは思わずそんな声を上げてしまった。
「……うん。まぁ、いいか、な」
「ちょ、ちょっと! まさか、ゲームに参加しようとか思ってるんじゃないわよね!? 危ないし、しょうもない怪我でもしたらどうするのよ!?」
「こういう状況で、もし勝ったら――」
一拍、彼は言葉を溜めた。
何か言いたいことを言いかけて、やめた――そんな印象をエミリーは受けた。
――ああ、そうだ。この時の雰囲気が……この時の顔が……
――あの悲しげな微笑みに重なるのだ
「――かっこいいと思うんだよね」
「なっ!」
「女の子をめぐって戦って死ぬっていうのも、いけてるじゃないか」
「ば、ばか! そんなカッコつけてる場合じゃないでしょ!」
エミリーの制止もむなしく、エンクルマはもう一台の車のほうへ歩いていった。
取り巻きの連中には少し意外だったようだが、それでも気持ちの悪い笑みは浮かんだままだ。こういうゲームでは多少なりとも慣れているほうが有利――つまり、エンクルマのほうが不利だと知っているのだろう。
「ちょっと! ティム=ファ=エンクルマ! 止まりなさい!」
エミリーはそう叫ぶが、エンクルマは止まらない。笑みさえ浮かべて車のもとまで歩いていき、その車体を観察する。
「……なぁリウロ、これって壊れてもいいような旧型だよな」
「ふん、それがどうした」
「いや……」
彼はすぐには乗り込もうとしない。座席の近くで何かを点検しているように見えるエンクルマに、痺れを切らしたリウロが運転席から挑発する。
「どうした、怖気づいたか?」
その問いには答えず、エンクルマは数分、座席のあたりで何かをしているようだった。
何をしているのかまでは、分からない。
ようやくエンクルマが乗り込むと、取り巻きの一人が倉庫から出てきて小旗を掲げた。
旗が振り下ろされる。同時に、両側から激しい摩擦音が響いた。悲鳴のようなその音は、タイヤが古いせいか、アクセルの踏み込みが強いせいか。
その二つの爆音の合間を縫うように、甲高い音がカンッと鳴った。
音の正体は、投げ捨てられたハンドルだった。
一瞬、その場の誰もが理解できなかった。目の前のハンドルがひどく場違いで、異常に見えるだけで、それがどこから来たのかまでは頭が回らない。
しかし、数秒後に理解する。
これは、エンクルマの運転席から投げ捨てられたものだ。
顔を上げると、まさに衝突しようとする二台の車が見えた。
なぜか世界がスローモーションのようにゆっくりと流れる。見えたのは、盛大に引きつったリウロの顔と――
微笑むエンクルマの顔だった。
――その顔は、あの悲しげな……
◆◆◆
「それで、どうなったんですか!」
いつの間にか身を乗り出して聞き入っていたクリスが、興奮気味に声を上げる。
エミリーはその様子に苦笑しつつ、思い出すのに少し苦労しながら続きを話した。
「ええ、結局相手の男が先にハンドルを切って、おしまい。その後は子分たちも含めて、すたこら逃げ帰っていったわよ。ホント、小物っぽい終わり方……」
話している途中で、クリスの顔が少しずつ怪訝そうに変わっていく。
隣のアミンも、メモを取る手を止めてこちらを見つめていた。
「……え?」
顔に温かいものを感じる。
頬に手をやり、離してみると、手のひらにはそこだけ濃い絵の具で描いたような、大小の点々がついていた。
「え……なにこれ……泣いてる?」
「だ、大丈夫ですか!? 急に……」
向かいのクリスが声をかけてくるが、突然の涙に一番動揺していたのは、ほかならぬエミリー自身だった。
なぜこんなに涙があふれてくるのか、すぐには分からない。理解できない。
「ご、ごめんなさいね。せっかく話してたのに…………うう、ううぅ…」
「ちょ、ちょっと! 本当に大丈夫ですか!?」
二人の声と涙に溺れながら考える。
本当は、薄っすらと。
心当たりがある。
彼のあの悲しい微笑みを、最近も見るのだ。
そして、その顔をさせてしまったこと。そのことを今まで忘れていたこと。
その微笑みに、自分では決して踏み込めない何かが含まれていることに、今さらながら気がついて。
その不甲斐なさと無力感に。
「うう……うわああああぁ!」
エミリーの涙は、すぐには止まらなかった。