【仮想戦記】 The Islands War 二次創作 作:perry
ノイテラーネ国 十二月十六日 パン=ノイテラーネ空港上空
「……なぜ、そのようなことを言うのかね?」
官房副長官の蘭堂寿一郎は――国会対策委員長から、連立の発足とともにこの職に転じたばかりだ――今さらながら、自分の考えをこのまま告げていいものか、迷いはじめている自分に気づいていた。原因ははっきりしている。小柄な身体から強烈な威圧感を放つ男――内閣総理大臣、神宮寺一と向き合っているからだ。
しかも、今口にしようとしているのは、ある意味で"告発"である。
目の前の、政治家にしては頑固なほど真っ直ぐな男が、そういうことを嫌うのを、蘭堂は重々承知していた。
――しかし、今ここで言わなければ、いつ言うというのだ!
一つ息を吸い込み、蘭堂はゆっくりと"告発"を口にした。
「寺岡祐輔に全権を委任するのは、危ういと思います」
「……ふむ。君がそう言うのだから、何か理由があるのだろうな」
その反応に、蘭堂は内心、胸をなで下ろした。まずは第一関門突破だ。
自分の言おうとしていることがいかに無茶で、面倒なものかは理解している。
最低限の信頼を彼から得ていなければ、スタートラインに立つことすらできなかっただろう。
「もちろん、あります」
日本国の最高権力者――神宮寺の目を真っ直ぐに見ながら、蘭堂は答えた。
「なるほど……君も知ってのとおり、この話はほとんど決まっている。決まっているも何も、他に適任が見当たらん。加えて――」
そこで神宮寺は、いったん何かを考える素振りを見せた。
「――士道たっての希望だからな。まぁ、安全保障と外交にこだわる共政会のことだ、分からんでもないさ」
そう言って、神宮寺は苦笑いを浮かべた。
「つまり、彼を替えるのは難しい、と」
「ああ。できないことはないが、相当な負担をかけるだろうな。それに、まず理由が見当たらん。人を動かすには、それ相応の理由が要る。すでに決まったことをひっくり返すのなら、なおさらだ」
「そう、ですか……」
やはり難しいのか――そんな思いが顔に出たのだろう。神宮寺は苦笑しつつ続けた。
「……なんてことは、君も承知の上だろうことくらい分かっているさ。さて、その相応の理由とやらを聞かせてくれ」
「はい」
そう応えると、蘭堂は小さく何事か呟き、言葉を探すように斜め上へ目をやった。
二人の間に、短い沈黙が流れる……ようやく、蘭堂は口を開いた。
「彼は――寺岡祐輔は、共政会の、いや、士道のシンパである疑いがあります」
「士道の……シンパ?」
怪訝な顔をする神宮寺に、蘭堂は黙って頷いた。
「今は共政会と呉越同舟の関係にありますが、その関係がこの先長く続くとは、とうてい思えません。士道はいつか、自分の理想のために何かを仕掛けてくるでしょう」
「それは理解できる。しかし、奴もこの戦争にある程度決着がつくまでは動けんだろう。第一、それが民意でもある」
「ええ、私もそう思います。彼が動くとすれば、終戦の前後だと。だからこそ……」
ここで、蘭堂は神宮寺の目を正面から見据えた。
「……だからこそ、戦後に直結する今回の交渉で仕掛ける意味があるのです」
顎をさすりながら、神宮寺は何かを考える素振りを見せた。
「ふむ、なるほど。確かにそう考えれば、わざわざ士道が彼を推していることにも説明がつく。しかし、まだ状況証拠にすぎん。それに、寺岡君が今回の交渉の適任者であるのも事実だ。優秀な官僚でもあるし……今回の件で注目されていることは、君も知っているだろう?」
彼の言うとおり、あの衝撃的な交渉の内実が省内に、そして日本中に知れ渡るにつれ、寺岡の名前は確かに話題になっていた。一介の官僚にすぎなかった人物にしては少々過大な評価ではないか、と蘭堂は感じていたが、彼自身も寺岡に興味を持ったのは事実である。
言うなれば、落差のなせる業だろうか。強面の男がふと見せる優しさと同じように、冴えない中年官僚が見せた一瞬の煌めきは、人々の心に強い印象を植えつけたようだった。
「ええ。だからこそ、余計にまずいと思います。彼が対ローリダ外交に影響力を持ち、士道と結託すれば、この国は士道の思うとおりに誘導されかねません」
まだ迷っている様子の神宮寺に、蘭堂は畳みかける。
「彼は、安全保障に関する勉強会にも出席しています。もちろん、共政会の議員が主催する勉強会です」
「しかし、それは政治家の言うような、派閥的な"勉強会"ではなかろう」
なおも渋る神宮寺に、蘭堂は最後の切り札を切る決意をした。
――これをここで使うのは危険すぎる。しかし、このままでは説得はかなわないだろう
「これは、ある筋から得た情報なのですが――士道と寺岡は、たびたび二人きりで会っているようです」
「……二人で、か」
「はい。何も、寺岡さんに代表団を抜けてもらおうというわけではありません。私も代表団に随行して……彼が仕掛けてくるかどうか見極めましょう。そのために必要な立場と権限を、私にいただきたい」
そこで蘭堂は口を閉じ、神宮寺をじっと見つめた。
神宮寺はなおも考えを巡らせている様子だったが、ついには首を縦に振ったのだった。
総理を説き伏せたあの日のことを思い返しながら、蘭堂はC-2輸送機の座席で、無骨な機体が安定飛行に入ったのを感じていた。
日本から、ローリダとの交渉の舞台となるノイテラーネ国までは、ざっと二時間といったところか。隣には、今回の外交団の団長である寺岡が、気分悪そうに座っている。
普通の人間なら、こんな輸送機に乗る機会などそうそうない――搭乗前はそう楽しげに話していた寺岡だったが、彼の身体はこの機体がお気に召さなかったらしい。
結局、蘭堂の働きかけによって、今回の交渉の全権は"一時的に"蘭堂が持つことになった。こんなややこしい形になったのは、もちろん共政会が反対したからだ。いわく、外交はその道の専門家に任せるのが一番正しいのだ、と。
しかし、無理が通れば道理が引っ込むのが、摩訶不思議な政治の世界である。加えて、士道がこれといった動きを見せなかったことが決定的だった。蘭堂にはそれが少し不気味に感じられたが、望みが叶ったのだから文句の言いようもない。
結果として、外交団はある意味で理想の形になった。蘭堂が前面に立って交渉し、寺岡ら官僚がそれを補佐する形である。かつて、政治主導などというお題目ばかり唱えていた政治家もいたが――形だけ見れば、外交団はその理想どおりに見えたかもしれない。
数分後、ようやく寺岡の胃の反乱も収まったようで、顔色がいくらかよくなった。
蘭堂は、すでに現地入りしている後輩、東スロリア課事務官の西原聡との電話を思い出していた。大学時代の先輩と後輩で、気の置けない間柄なのだ。
その時に西原が言っていたことを思い出し、蘭堂は寺岡に声をかけた。
「寺岡さん、具合は大丈夫ですか?」
「あー、ええ……何とか大丈夫です」
「はは、さっきよりはだいぶマシそうですね。さっきの寺岡さんは――文字どおり顔を青くしていましたから」
寺岡は、少し乾いた笑いで応えた。
まだ完全には回復しきっていないようだ。
「体力は戻しておかないと……なにしろ、相手はあのローリダ人ですからね。一筋縄ではいかないでしょう」
「ええ……今回の交渉も、捕虜の存在を匂わせなければ、乗ってきたかどうか怪しいですし」
そう言って、寺岡は顔に浮かべていた弱い微笑を消した。
今回の交渉を取りつけたのは外務省の手柄とされている――が、実質的には寺岡の手柄だ。少なくとも、周りにはそう認識されていた。彼個人の外交ルート――ローリダ共和国の中枢とつながっていると噂される――から、今回の交渉をもぎ取ってきたらしい。
外務省そのものは、今回の戦争を防げなかった時点で、失態を演じたに近い評価を受けている。だからこそ、彼の特異さに、蘭堂は何かの影響を感じずにはいられなかった。
「ローリダ人……どんな人たちなのでしょう……私たちの価値観とかけ離れているのは予想できますが、好戦的な――原始人のように大柄でむさ苦しい男たちと向き合うのは、勘弁願いたいですね」
「ああ、姿かたちは私たちと変わらないように見えましたよ。服装は、どこか古代ローマ風でしたが。……それに、一人、すごい美人がいます」
「へぇ……お飾りですか?」
蘭堂は身を乗り出して訊いた。
そんな彼の様子に苦笑しつつ、寺岡はあの交渉――ある意味で痛烈な外交デビューとなったあの交渉を思い浮かべているようだった。
「いや、彼女が相手の外交団をまとめているようでした。今回も、彼女が来るのではないでしょうか?」
「……それは興味深い」
会談に臨む一団――美女と野獣――を思い浮かべて、蘭堂は少し吹き出した。
野獣のイメージは、まだ払拭できていないらしい。
◆◆◆
ノイテラーネ国 同日 パン=ノイテラーネ空港上空 セレス-117型旅客機機内
クリスティーナ=デ=キルチネルは、人生最良の時間を過ごしていた。もっとも、この機に同乗している随員たちに尋ねても、同意を得るのは難しいだろう。ローリダ交渉団は、こちらの軍勢をあっさりと蹴散らした悪魔の軍団――ニホンとの交渉に向かっているのだから。
その意味で、武者震いのような気持ちでいる搭乗員もいたかもしれない。
しかし、クリスティーナの幸せの源は、そんなところにはない。今回の交渉に抜擢された――正確に言えば、エンクルマ独裁官に選ばれた――こと自体が、彼女にとっては望外の幸せだったのだ。そして、その幸福感は、交渉の予備協議としてエンクルマと会議や会談を重ねる中で、すでに最高潮に達していた。
そう、彼女にとって今回の交渉はあくまでデザートであり、メインディッシュはもう食べ終えていたのである。
だからといって、デザートを放り出すつもりはなかったが。
エンクルマの方針に疑問など抱かない彼女にとって、今回の交渉は消化試合に等しい。彼の期待に応えねばとプレッシャーを感じる凡人とは、彼女は格が違った!
神に疑問を持つことなど、彼女にとっては論外なのだ。
それとは正反対の感情を抱いているに違いないのが、元交渉団の面々である。
いや、元交渉団という呼び方は正確ではない。書類の上では、いまだに彼らが正式なローリダ交渉団なのだ。
しかし、その実質的な権限は、彼らに付いてきた植民地軍の将校ら――独裁官エンクルマの意を汲む者たちにあり、彼らはお飾りにすぎなかった。
彼らは、今回の破滅的な戦争の引き金を直接引いた張本人たちである。いくらでも言い訳はできようが、その事実は揺るがない。
そのことは、彼ら自身も重々理解していた。だからこそ、この葬式のような空気の旅客機の中で、いくら嫌味を言われようと黙って耐えているのだった。
交渉団の中心だった人物――ルーガ=ラ=ナードラは、そんな卑屈極まる団員たちの中で、一人異彩を放っていた。
機内で浮いていたのは確かだが、それは他人から見れば、孤高ともいえる雰囲気だった。
そして、その態度が、クリスティーナには心底気に入らないのだった。
いかにも澄ました態度は、もはや開き直っているようにも見える。それ以上に、彼女がエンクルマの独裁官就任に賛成しなかったことが、何より気に入らない。
――これほどの危機を招いておきながら、その解決に尽力しようというエンクルマ閣下の足を引っ張るとは! この女はどれだけ恥知らずなのかしらっ!
そこには、ナードラの容姿への嫉妬も少し混じっていたのだが、そんな不都合な真実を彼女が自覚するはずもなかった。彼女が常々コンプレックスに思っている身長や胸――そういったものを、ナードラが完璧に備えていることも、原因の一つに違いない。
だから、ナードラに話しかけるクリスティーナの声は、自然と棘を帯びてしまう。
「……じゃあ、ニホン人の印象でも聞いておきましょうか、ルーガ=ラ=ナードラ。エンクルマ閣下のお話を疑うわけじゃないけど、実際に会ったあなたの印象くらいは参考になるでしょ」
「……ええ、分かったわ」
それまでぼんやりと窓の外の青空を眺めていたナードラは、頬に手を当て、何かを思い出す素振りを見せた。数分後、彼女はゆっくりと口を開く。
「ニホン人は、そうね……画一的な服を着て交渉の場に現れた。それが彼らの特徴を表しているのかもしれない……たとえば、彼らは最後の最後まで、すべてを譲歩や話し合いで解決しようとしていた。それは、協調を重んじ、争いを避ける彼らの性格に根ざしているのかも」
「なんだ、交渉に一番向いてない性格じゃない」
「ええ……悔やむべきは、私たちの方針と彼らの性格が、まったく合わなかったことに尽きる。私たちとニホン人は、決定的に噛み合わせが悪すぎた……そういう意味で、彼らをもっと知る努力をするべきだった」
「……ふーん」
悔しがるナードラを見て、クリスティーナは少しばかり優越感を覚えた。
「さすがエンクルマ閣下! お話のとおりだわぁ……これで、あれが効果的に使えるわけね」
小さくそう呟くと、聞き取れなかったらしいナードラが、きょとんとした顔でこちらを見た。クリスティーナは顔に浮かぶ笑みを抑えようとしたが、にやにやを止めることはできなかった。
クリスティーナ=デ=キルチネル――後に独裁官秘書団に抜擢される彼女の最初の仕事は、こうして幸福に包まれて始まった。
◆◆◆
ノイテラーネ国 同日 スルアン-ディリ迎賓館
ノイテラーネ国でも最上級の格式を誇るスルアン-ディリ迎賓館。その中の"青の天井の間"で、長いテーブルを挟み、二つの交渉団が向かい合っていた。
もちろん、日本交渉団とローリダ交渉団である。
日本側の中央には、蘭堂が座っている。その両脇を、対ローリダ交渉の経験がある寺岡と西原が固める形だ。
彼らの予想では、向かいに座るのはあのナードラ女史のはずだった。
だが、ローリダ側の中央に座っていたのは、ナードラ女史ではなかった。
彼女だけではない。西原や寺岡が見覚えのある顔は、テーブルの後ろに所在なく座っているだけで、交渉の席には出てきていない。その尋常ではない様子は、日本とローリダの立場が百八十度逆転したことだけによるものではなさそうだった。
代わりに、テーブルには軍服姿の数名が着席している。
――軍服姿とは、穏やかではないな……
事前の情報とは違う状況に、蘭堂はそう思わずにはいられなかった。
それに――
――目の前に、小柄な少女が座っているとは、ねぇ
足が床に届くかどうかを心配したくなるような彼女が、向こうの代表者だという。
軍服に着られている、という言葉がよく似合うこの少女と、これからやり合うことになる――その未来を思って、蘭堂は少し憂鬱になった。
「では、始めましょう。さっきも自己紹介したけど、私の名前はクリスティーナ=デ=キルチネルよ。今後ともよろしく」
「あ、ああ」
二人は握手を交わす。いまひとつ様にならないのは、クリスティーナが精一杯身を乗り出して、ようやく蘭堂の手に届いているからだろうか。
「……私の役職は、独裁官代理としての交渉官です。分かりやすく言えば、私の言葉はエンクルマ閣下の言葉。エンクルマ閣下の言葉は、ローリダ国の言葉よ」
「……確認したいんだが、君は全権委任状を持っている、という認識で構わないんだな」
「ええ、当然」
ずいぶんフランクだな――蘭堂は場違いな感想を抱いた。
少し軽すぎないか、と思っているのは自分だけではない、と蘭堂は確信した。両脇の二人はもとより、他の日本交渉団の随員たちも、あっけにとられた顔をしていたからだ。
そんな彼らの気持ちをよそに、彼女の口は止まらない。
「ここに来るまでの景色を見ると、私たちが負けたのも納得できるわ。えーと、こんなのが、あと……?」
「日本は、ノイテラーネ国中央市に匹敵する都市を七つほど持っております」
「……あなたが寺岡さん?」
クリスティーナが少し調子を変えて問いかけたのは、彼女の疑問に答えた寺岡に対してだった。寺岡は静かに頷いて応える。
「……そう、分かったわ」
何が分かったのか――日本側の誰もが気になったが、話題が次に移ると、その疑念は霧散した。
次の話題とは、いよいよ本題――日本が抱える捕虜についてである。
「まぁ、正直、私からすれば捕虜なんてどうでもいいんだけどね」
クリスティーナがそんな爆弾を落としたのは、本題に入ってすぐのことだった。
反応が大きかったのは、むしろローリダ側のほうに見えた。
「な、何を言っているのだっ! クリスティーナ交渉官!」
声はクリスティーナの後ろから――元交渉団の一員、ゴジェス=リ=サナキスのものである。
「ま、そういうことだから、捕虜はカードにならないわよ」
後ろからの怒声を無視して、クリスティーナはそう言い放った。
蘭堂は驚いた。見かけによらず、彼女――クリスティーナが、どちらかといえば『豪腕』な外交をする人物であることに、である。
そもそも日本でさえ、彼女らについての情報は不足している。相手国の情報は衛星画像などが主で、政治的な動向はよく分かっていないのだ。
唯一アクセスできるとすれば、公安か、それこそ外務省だろう。だが、そうした情報が回ってこないところを見ると、手に入れていないのだろう。そもそも独裁官という話からして、蘭堂には初耳だった。
「あー、あなた方は、直接選挙に基づく議会制民主主義の政体である、と。それで間違いないだろうか?」
「――だった、わね。今は……そうね……」
少し笑って、クリスティーナは言う。
その笑みに、小柄な体格にもかかわらず、蘭堂はどこか妖艶なものを感じた。
「――独裁制」
ふらりと倒れそうになるのを、蘭堂はぐっとこらえた。
――独裁! それも軍部の独裁か!
根本からいろいろなものが崩れていく音を、蘭堂は聞いた気がした。
今回の敗戦が原因だろうが――相手の政体が倒れるとは予想していなかった。いや、ある程度の推測はあったが、それはただでさえ乏しい情報から導いた予想にすぎない。推測した当人にも自信がないような、とても使えるものではなかったのだ。
――ちょっと待てよ。となると、今回の会談の目的は何だ?
相手は日本側の捕虜の情報に釣られてこの交渉に参加した――その前提が崩れた今、蘭堂には相手の狙いがいまひとつ見えなかった。
――それに……後ろの元交渉団の存在はなんだ? ただの独裁ではない、か……?
寺岡がやり合ったというナードラは、クリスティーナらの後ろの椅子に座り、こちらを観察するように見つめている。確かに主導権は軍人たちにあるようだが、もし本当に軍事クーデターを起こしたのなら、彼らがここにいる説明がつかない。
混乱する蘭堂に、クリスティーナは続けて言った。
「さぁ、始めましょう。ニホンとの停戦交渉を」
そこで初めて、彼女は今回の交渉の目的を明かしたのだった。
「……私たちが圧倒的に後退を重ねたのだから、こちらから条件を突きつけることなどできないわ。だから、ニホン――あなた方の停戦条件を、まずは示してほしい」
その言葉に、蘭堂は案外拍子抜けだな、という感想を抱いた。
各関係者から聞いたローリダの話を総合すると、こんな素直な人物像は想像できなかったからだ。
「あ、ああ、分かった。こちらの条件を伝える」
蘭堂は両隣の二人の顔を確かめる。
二人とも頷いたのを見て、蘭堂は事前の協議で決めた条件を突きつけた。
・十二月三十一日二十三時五十九分を期限に、ローリダはスロリア亜大陸に駐屯するすべての軍部隊の武装を解除し、スロリアより撤兵せしめる。
・ローリダは、スロリアにおける日本及び各国による平和維持活動の一切を妨害しない。
・ローリダは、スロリア地域より不法に連行した現地住民の身柄をすべて引き渡す。
・ローリダ側は、一連の挑発的行動を、指導者の声明をもって日本に謝罪する。
・ローリダは、ノドコールの支配権を放棄し、以後を現地住民の自治に委ねる。
・ローリダは、ノドコール救済及び自治に必要な日本側人員及び物資の、安全なノドコール入国を無条件で認める。
・ローリダは、侵攻により被災したスロリア住民に、自国の国内総生産の約半分に相当する額を補償金として支払う。
・ローリダは、今後五十年間、いかなる形であれスロリア地域に軍事力を行使してはならない。
――ヤクザの交渉術
蘭堂がそう呼ぶ外交方針は、つまるところこういうことだ。
まず、相手が到底受諾できないほどの厳しい条件を突きつける。現状は圧倒的に日本が優位であり、彼らは恐れ、混乱するだろう。
そこで、すっと一歩引いて相手を戸惑わせ――比較的緩い条件を提示するのだ。
もちろん、その条件は見た目どおりのものではない。遅効性の毒のような条件を紛れ込ませることができれば、この作戦は成功といえる。
もしここで相手が毒に気づけば、交渉は振り出しに戻るだけだ。なにしろ状況は日本に味方している――先の厳しい条件に、軍事的な恫喝が加わるだけである。
蘭堂が今回この方針をとったのは、日本の軍事的優位を最大限に活かすためだ。もちろん、この方法が孕む弱点も理解していた。
ヤクザが強気でいられるのは、力の弱い一般人に対してだけだ。国家権力である警察には歯が立たないし、一般人が相手でも、ヤクザを"まともに怖がって"もらわなければならない。
だからこそ、ヤクザは舐められることを何より恐れる。舐められたら、ヤクザはおしまいだからだ。
もう一つ、ヤクザが相手にできない人種がいる。
それは、狂人だ。
――彼ら独裁政権が狂人だったなら、この戦争は泥沼になる
彼らが狂人ではなく、まともな相手であることを心の中で願いながら、蘭堂は目の前の軍人たちを見つめた。
彼らの反応は、比較的冷静だった。
反応が大きかったのは、むしろ後ろの元代表団のほうだろう。文官の彼らは顔を青くして思わず立ち上がった――が、その怒りを言葉にすることもできず、顔を歪めるだけだ。
ここで自分たちに何もできないことを、彼らなりに理解しているのだろう。
蘭堂は、視線を目の前のクリスティーナに戻した。
クリスティーナは、しげしげと要求書を眺めていた。
「――ずいぶんと、厳しい条件ですね」
「ああ。しかし、これがこちらの出せる条件だ」
「飲めない、と言った場合には……?」
少し挑発するように、下から見上げる格好でクリスティーナは問いかけてくる。
蘭堂には、彼女の意図が見えなかった。期待していた混乱が、彼女らには見受けられなかったからだ。
「それ相応の手段を、こちらはとることになるだろうな」
「それ相応の、ですか」
まるで手応えのない反応に、蘭堂は次第に不安になってくる。
彼女が――ローリダが狂人である可能性が、見えてきたのだから。
「ならば、私たちにもそれ相応の手段があることを、あなたに教えてあげましょう」
勝ち誇った顔で、クリスティーナはこう宣言した。
「現在、前線に複数の――原子爆弾を、すでに配備しています」
その宣言は、雷鳴のような衝撃をともなって蘭堂の頭に響き渡った。
彼が恐れていたことが、現実になったのだ。
――しまった、こいつらは狂人っ……
――それも、刃物を持った狂人だ!