ダンジョンマスター系の短編、中編集   作:合歓木あやめ

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後日談「陽だまりに似た場所」

 あれから、どれくらい経っただろう。

 

 美夜はもう日数を数えることをやめていた。コアの脈動で朝と夜を決め、ルリの光の明滅でなんとなく時間を区切り、シロの巡回報告を日課にして暮らしている。リゼが来るたびに「今日は何月何日」と教えてくれるのだが、翌日にはもう忘れている。地下には季節がない。あるのはただ、花の色が少しずつ変わっていくことだけだった。

 

 迷宮は三階層になっていた。

 

 一階層目は広大な庭園のような空間に成長した。天井はヨルが翼を広げて飛べるほどに高く、壁面を覆い尽くす花々が柔らかな光を放っている。通路の分岐は十五箇所。行き止まりが九つ。正解ルートですら、慣れた者でなければ一刻はかかる。

 

 二階層目は薄暗い森のような雰囲気になった。天井から垂れ下がる蔦と花房が視界を遮り、足元に広がる苔の絨毯が足音を吸い込む。ヨルの領域だ。暗闘に溶ける青灰色の肌と翼で、侵入者を翻弄する。

 

 三階層目は美夜とコアの居場所。最も深く、最も静かで、最も花が多い場所。壁も天井も床も、隙間なく植物に覆われていて、空気そのものが甘い花の香りを帯びている。

 

 ここが、わたしの世界の全部。

 

 そう思うことに、もう悲しみはなかった。

 

「美夜さま、お客様です」

 

 シロの声に、美夜はコアから手を離した。

 

「リゼ?」

 

「はい。それと——もう一人」

 

 もう一人。美夜は首を傾げながら、コアを通じて一階層目の入口を確認した。クロが尾を振っている。リゼの姿。そしてその横に、見慣れない人影。

 

 長い黒髪を一つに結んだ、背の高い女性。リゼより頭一つ分は大きい。簡素だが質の良い革鎧を身につけ、背中に長弓を背負っている。

 

 冒険者だ。

 

 二人が三階層目まで降りてくるのを待つ間、美夜は落ち着かない気持ちで花を一輪引き抜いては植え直すという無意味なことを繰り返した。リゼ以外の人間と会うのは、あの盗賊たち以来だ。

 

「美夜ー!」

 

 リゼの声が螺旋通路に反響した。駆け下りてくる足音。赤い髪が視界に飛び込んできて、美夜の両手をぎゅっと掴んだ。

 

「ギルドの話、通ったよ!」

 

「え——本当に?」

 

「本当! この迷宮、正式に登録される! 条件付きだけど——あ、詳しい話はこの人から」

 

 リゼが振り返った。長身の女性が、通路から静かに姿を現す。

 

 黒い瞳が美夜を見た。整った顔立ち。三十手前くらいの年齢だろうか。表情は穏やかだが、纏っている空気に一切の隙がない。

 

「初めまして。冒険者ギルド第三支部所属、シルバー等級のナギ・ハヤセです。迷宮登録の査察官を兼任しています」

 

「高月美夜です。ここの——迷宮主です」

 

 ナギの黒い目が、美夜の顔を静かに観察した。それからゆっくりと部屋を見回す。壁の花。天井の藤。苔の絨毯。コアの虹色の光。

 

「——報告は聞いていましたが」

 

 ナギが、わずかに目を見開いた。この人が驚くことは珍しいのだろうと、リゼの表情から察した。

 

「花の迷宮、というのは初めてです」

 

「よく言われます」

 

「空気に回復効果がある、というのも」

 

「みたいです。わたしの性質が反映されてるらしくて——自分でもよく分かってないんですけど」

 

 ナギがしばらく考え込むように腕を組み、それから一つ頷いた。

 

「登録の条件を説明します。まず——」

 

 条件は三つだった。

 

 一つ、迷宮内で意図的に冒険者を殺害しないこと。罠や魔物による自衛は許容されるが、降伏した者の処刑は禁止。

 

 二つ、ギルドの定期査察を受け入れること。三ヶ月に一度、査察官が迷宮内に入り、コアの状態と迷宮環境を確認する。

 

 三つ、迷宮の産物をギルドと取引すること。迷宮内で採れる素材や植物を、ギルドを通じて流通させる。対価として物資や情報が提供される。

 

「三つ目は——花とか苔とかを?」

 

「ええ。この迷宮の花には回復効果があるとリゼから報告を受けています。事実であれば、薬草としての価値は計り知れない」

 

 美夜は壁の菫を見た。自分の迷宮に咲く花が、外の世界で誰かの役に立つ。不思議な話だ。

 

「——受け入れます」

 

「即答ですか」

 

「断る理由がありません。わたしは外に出られないから、外との繋がりは多いほどいい。それに——」

 

 美夜は少し言い淀んで、それから正直に言った。

 

「ここで一人でやっていくのは、限界があるって分かったので」

 

 ナギの表情が微かに和らいだ。ほんの少しだけ。

 

「賢明な判断です。正式な書類は後日持参します。それまでに——」

 

 ナギが言葉を切った。壁の花をじっと見つめている。

 

「一つ、個人的に聞いてもいいですか」

 

「はい」

 

「この花は——あなた自身ですか」

 

 不思議な問いかけだった。でも美夜には、その意味が分かった。

 

「……たぶん、そうです。この迷宮の全部が、わたしの延長みたいなものなので」

 

「そうですか」

 

 ナギが壁の菫にそっと指先を触れた。花弁が微かに揺れる。

 

「美しい迷宮ですね」

 

 その声は、査察官のものではなかった。ただ一人の人間として、素直にそう感じた声だった。

 

 ナギが帰った後、リゼが残った。最近はそれが当たり前になっている。

 

「ねえ、ナギさんのこと怖かった?」

 

「怖くはなかったけど——緊張した。あの人、強いでしょ」

 

「シルバー等級だからね。あたしの三つ上。でもいい人だよ。あたしが仲間とはぐれたとき、探すの手伝ってくれたの」

 

「仲間——見つかったの?」

 

 リゼがにっと笑った。前に聞いたときの翳りは、もうなかった。

 

「見つかった。生きてた。頑丈だって言ったでしょ」

 

「よかった……」

 

 美夜は心から安堵した。

 

「今度連れてきていい? あいつにもここ見せたい」

 

「もちろん。いつでも」

 

 リゼが嬉しそうに笑って、それから——不意に、真顔になった。

 

「……ねえ、美夜」

 

「うん?」

 

「あたしさ——最近、ここに来るのが一番楽しいんだよね」

 

「冒険者なのに?」

 

「冒険者だからかも。外はさ、危ないし汚いし臭いし。でもここは——なんていうか——」

 

 リゼが言葉を探すように、天井の花を見上げた。

 

「帰ってきたって感じがするんだよ。変かな」

 

 変じゃない、と美夜は思った。思ったけれど、声にすると泣きそうだったから、代わりにリゼの手をぎゅっと握った。

 

「っ——! ちょ、急に——!」

 

「変じゃないよ。嬉しい」

 

「だからそういうことさらっと——!」

 

 リゼの耳が赤くなる。もう何度目だろう、この反応。美夜にはリゼが照れている理由がいまひとつ分からないのだが、可愛いなとは思う。

 

 壁の上からヨルが降りてきた。翼を畳んで、リゼの反対側に着地する。

 

「……みや。ヨルも」

 

「ヨルも?」

 

 ヨルが美夜の袖をちょいちょいと引いた。赤い目がまっすぐにこちらを見ている。

 

「て。つないで」

 

 美夜は空いている左手をヨルに差し出した。ヨルの細い指が、そっと美夜の手を握った。青灰色の肌はひんやりとしている。尖った爪が掌に触れるが、痛くはない。力加減を覚えたのだ。

 

「——ヨルちゃんもですか」

 

 シロの声が上から降ってきた。壁と天井の角に蜘蛛の身体を収めて、器用にぶら下がっている。紫の瞳が、美夜の両手をじっと見ていた。

 

「ちゃんつけないで」とヨルが抗議する。いつものやり取りだ。

 

「シロは手、繋がなくていいの?」

 

 美夜が聞くと、シロが一瞬だけ固まった。紫の瞳が揺れる。

 

「わたくしは——八本脚で壁に張りついておりますので、物理的に——」

 

「降りてくればいいじゃん」

 

「——降りても、両手は空いておりません。糸の準備が——」

 

「シロ」

 

「……はい」

 

「降りてきて」

 

 シロが壁から降りた。蜘蛛の脚が床を打つ音がして、美夜の後ろに立つ。銀の髪がさらりと美夜の肩に触れた。

 

 美夜はリゼとヨルの手を離して——二人から「あ」と声が上がった——振り返って、シロの手を取った。

 

 白い指が震えていた。蜘蛛の糸を自在に操る器用な手が、こんな単純な接触で震えている。

 

「……美夜さま。わたくしの手は、冷たいですよ」

 

「知ってる。ヨルも冷たい。慣れた」

 

「そういう問題では——」

 

「そういう問題だよ」

 

 シロの紫の瞳が、潤んでいた。泣いてはいない。でも——泣く直前の、あの危うい光が宿っていた。

 

「ずるい」

 

 リゼがぼそっと言った。

 

「あたしが先に手繋いでたのに」

 

「リゼもおいで」

 

「えっ——いや、四人で手繋ぐのは物理的に——」

 

「ヨルも」

 

「……うん」

 

 結局、全員がなし崩しにコアの部屋の中央で固まる形になった。美夜がリゼとヨルの手を握り、シロが後ろから美夜の肩にそっと手を置き、ルリが足元で全員にくっついてぷるぷるしている。クロが匂いを嗅ぎつけて二階層目から降りてきて、二つの頭を美夜の膝に突っ込んだ。ヒカリが全員の頭上をくるくる飛んで、金色の光を振り撒いた。

 

 狭い。暑い。蜘蛛の脚が邪魔。翼がぶつかる。犬の頭が重い。スライムがぬるぬるする。妖精が髪に絡まる。

 

 最悪に窮屈で、最高に幸せだった。

 

「——わたし」

 

 美夜が、溢れそうな笑いを噛み殺しながら言った。

 

「ここに生まれてきて、よかった」

 

 誰も返事をしなかった。

 

 代わりに——シロの手が肩を少し強く握り、ヨルが手をきゅっと握り返し、リゼが照れ隠しに鼻を鳴らし、クロが尾を振り、ルリが光り、ヒカリが鈴の声で歌った。

 

 暗がりの奥で、花が咲いていた。

 

 今日も明日も、きっとその先も——ずっと。

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