第1話 「目覚めの部屋」
最初に感じたのは、冷たさだった。
背中から、じわじわと這い上がってくるような石の冷たさ。寝返りを打とうとして、肘が硬い床にぶつかる。ベッドじゃない。畳でもない。
「……っ」
目を開けると、暗かった。
でも完全な闘ではなくて、どこかぼんやりと青白い光が滲んでいる。天井——いや、岩の天蓋が見えた。ごつごつした鍾乳洞のような表面に、苔なのか鉱石なのか、淡く発光する何かが点々と張りついている。
ゆっくりと上体を起こす。頭痛はない。吐き気もない。ただ、体がひどく重い。丸一日眠り続けた後のような、だるさとも違う、存在そのものが希薄になっているような——変な感覚。
周囲を見回す。
六畳ほどの空間だった。壁も床も天井もすべて灰色の岩で、出口らしい通路がひとつだけ、正面にぽっかりと口を開けている。その通路の向こうは闇に沈んでいて、何も見えない。
そして、自分のすぐ横に——光っているものがあった。
拳よりひと回り大きいくらいの、半透明の結晶体。淡い青の光を内側からゆっくりと脈動させていて、まるで心臓みたいだと思った。呼吸するように明滅している。
触れてみたい、と思った。
理由はわからない。ただ、そうすべきだという確信があった。飼い猫の額に触れる時のような、あの自然な衝動。指先を伸ばして、結晶の表面にそっと触れる。
瞬間——
「——あ」
流れ込んできた。
情報、というには感覚的すぎるし、感覚、というには言語的すぎる。頭の中を文字と映像と感触が一度にかき回されるような、めちゃくちゃな数秒間。
私は目を固く閉じて、歯を食いしばって、それが過ぎるのを待った。
やがて、嵐が引くように、それは収まった。
残ったのは、いくつかの「わかること」だった。
この結晶が「ダンジョンコア」と呼ばれるものであること。このコアが、この空間——ダンジョンの核であること。そして、今ここにいる私が、このダンジョンの主であること。
ダンジョンマスター。
その言葉が、胸の中にすとんと落ちた。しっくりくる、というよりは、逃げ場がないという感覚に近い。
「…………はあ」
声に出してみたら、呆れたようなため息になった。
いや、待ってほしい。順番に整理したい。
私は——ミナセアオイ。水瀬葵。十七歳。高校二年生。日本に住んでいて、たしか昨日は——昨日?——学校から帰って、夕飯を食べて、お風呂に入って、布団に入って。
それで。
それで、ここにいる。
間がない。記憶の断絶。ぶつっと途切れて、次の場面がこれ。
「転生、ってやつ?」
言いながら、自分の手を見下ろす。
白い。細い。爪が短くて、指が長い。——自分の手だ。見慣れた自分の手。でもどこか違う気もする。肌の質感が妙にきめ細かいというか、現実味がないというか。
服も変わっていた。紺色のブレザーの制服ではなく、白っぽいワンピースのような薄い布一枚。裸足。寒いわけではないけれど、心もとない。
髪を引っ張ってみると、黒くて長い。これは同じだ。
立ち上がる。ふらつく。足に力が入らないのは、この場所のせいなのか、体が変わったせいなのか。
コアに触れた時に「わかったこと」が、頭の隅にまだ残っている。ぼんやりとした知識の残像。全部を一度に理解できたわけじゃない。むしろ大半は靄がかかったみたいで、必要になった時に思い出せるのかもしれないし、永遠にわからないままかもしれない。
でも、ひとつだけ鮮明にわかっていることがあった。
——この場所から出たら、死ぬ。
正確には「死ぬ」ではなく「衰弱する」。でも結果は同じことだ。ダンジョンマスターは外気に触れ続ければ弱る。太陽の下を歩くなんて論外。この石の部屋が、私の世界の全部になる。
「…………」
正面の通路を見つめる。
あの先がどうなっているのかはわからない。でも、どこかには外に繋がっているはずだ。出口がある。出口はあるけれど、私はそこへ行けない。
奇妙な監獄だと思った。鍵も扉もないのに、出られない。
膝を抱えて、コアの横に座り直す。
泣くかな、と思った。泣くような場面だと思う。映画だったら泣く。でも涙は出なかった。現実感がなさすぎるのだ。まだ夢の中にいるような気がしている。明日の朝、目覚ましの音で起きて、顔を洗って、トーストを齧りながら「変な夢見た」と母さんに言うのかもしれない。
コアが、脈動する。
青い光が膨らんで、縮んで、膨らんで。
その光を眺めていたら、ふと、何かが引っかかった。頭の中の靄の一部が晴れるように、情報がひとつ浮かび上がる。
——モンスター生成。
コアの魔力を使って、モンスターを作り出せる。作り出したモンスターは、ダンジョン内に配置できる。それがダンジョンマスターの役割——というか、機能。
モンスター。
「……生成」
呟いてみると、コアの光がわずかに強まった。反応している。
意識を集中する。コアに手を置いたまま、「作る」ということを強くイメージする。何を? わからない。何が作れるのかもわからない。ただ、このコアの中にある魔力は、ほんのわずかだということだけは感じ取れた。卵一個分くらいの——いや、比喩がおかしい。でもとにかく、少ない。
選択肢が、頭の中に浮かぶ。
文字ではなく、イメージとして。小さな——虫のようなもの。ネズミのようなもの。スライムのようなもの。どれも弱々しくて、取るに足らないものばかり。今の魔力で作れるのは、その程度。
スライム。
ゲームや漫画でお馴染みの、あの不定形の生き物。一番魔力の消費が少ないらしい。
試しに、と思った。とりあえず一体作ってみよう。ここで膝を抱えて座っていても何も始まらない。
意識を集中して——「スライム」を強く思い描く。
コアの光が一瞬強く脈動して、ふっと何かが零れ落ちるような感覚があった。魔力が減った。明確に。体の中から何か大切なものが抜けていくような、ちょっと怖い感じ。
目の前の床に、ぽたり、と。
透明な水滴が落ちたように見えた。それがゆっくりと膨らんで、こぶし大の球体になる。薄い青色をしていて、ぷるぷると震えている。
「……できた」
スライム。本物のスライム。
しゃがみ込んで、顔を近づける。スライムはぷるんと身を揺らして、私の方を向いた——ように見えた。目も鼻もないのに、こちらを認識しているような気配がある。
「……こんにちは」
返事はない。当然だ。スライムだ。
でも、少しだけ気が紛れた。この空間に自分以外の「何か」がいるだけで、こんなに違うものなんだ。
スライムは床の上をゆっくりと移動して、通路の方へ向かっていった。止めるべきかと思ったけれど、頭の中に「配置」という概念が浮かんだ。ダンジョン内のどこに置くかを決められる。逆に言えば、私が意識しない限り、スライムは勝手にダンジョン内をうろつくだけだ。
「行ってらっしゃい」
手を振った。虚しい。
スライムが通路の闇に消えてから、また静寂が戻った。コアの明滅する光だけが、時間の経過を教えてくれる。
——時間。
そういえば、時間の感覚がまるでない。ここには窓がないし、太陽もない。朝なのか夜なのかもわからない。
しばらくぼんやりしていた。
どのくらい経ったのか——たぶん数十分——不意に、コアが小さく震えた。
同時に、頭の中にイメージが飛び込んでくる。
スライムが見ているもの。いや、スライムに目はないけれど、スライムが「感知」しているもの。通路の先、少し広い空間に出たところで、何かが——いる。
何かが、近づいてくる。
心臓が跳ねた。
足音。石の床を踏む足音が、かすかに聞こえる。人の足音だ。ひとつ。ゆっくりとした、慎重な歩調。
冒険者——という言葉が浮かぶ。ダンジョンに入ってくる人間。コアを狙って。
狙って?
いや、まだわからない。たまたま迷い込んだだけかもしれない。でも、あのコアに触れた時の知識の断片が警告のように点滅する。ダンジョンコアは狙われる。魔力の保有量が増えるほど価値が高い。今はまだ微々たるものだけど——でも、コアを壊されたら?
壊されたら。
それが何を意味するのか、正確にはわからない。でも、いいことじゃないのは確かだ。
足音が近づいてくる。
私は立ち上がって、通路の入り口に立った。逃げるところなんてない。この小さな部屋が袋小路だ。コアを背に、正面の闇を見つめる。
やがて——光が見えた。
松明の赤い光。揺れながら近づいてくる。
光の中から現れたのは、一人の少女だった。
私と同じくらいの背丈。いや、少し小さいかもしれない。薄汚れた革鎧を身につけていて、腰に短剣を提げている。髪は砂色で、顎の下で不揃いに切られていた。顔は——痩せていた。頬がこけて、目の下に隈がある。疲弊した顔。でも目だけは鋭く光っていて、洞窟の闇を切り裂くようにこちらを見た。
目が合った。
彼女は足を止めた。
松明を持つ手が、微かに震えている。もう片方の手が腰の短剣に伸びかけて——止まった。
沈黙が数秒。
「——人?」
先に口を開いたのは、彼女の方だった。掠れた声。
「……うん」
間の抜けた返事だと自分でも思った。
「人、だけど」
少女はまじまじとこちらを見ている。松明の光で、私の顔や服装を確認しているのだろう。白いワンピース一枚の裸足の少女が、ダンジョンの最奥にぽつんと立っている。怪しいにもほどがある。
「……ここ、ダンジョンだよな」
「……らしいね」
「らしいねって」
少女が眉をひそめた。当然の反応だ。
「あんた、何者だ。なんでこんなところに——」
言いかけて、少女の目が私の背後に移った。コアだ。青白く脈動するコアが、松明の光の中でも存在を主張している。
少女の表情が変わった。警戒の色が、一段階上がる。
「ダンジョンコア……?」
「…………」
「あんた——マスターか」
短剣の柄を握る手に力が入るのが見えた。
考える暇がなかった。否定するべきか、肯定するべきか。嘘をついたところでこの状況で信じてもらえるとは思えないし、そもそも嘘をつく理由も思いつかない。
「——たぶん」
「たぶんって何だよ」
「さっき目が覚めたばっかりで、よくわかってない」
正直に言った。嘘をつく余裕がないだけかもしれない。
少女はじっとこちらを見つめたまま、動かない。短剣に手をかけたまま、間合いを詰めも引きもしない。迷っている。
このダンジョンは、たぶんとても小さい。通路がひとつあって、部屋がいくつかあるだけ。コアの魔力もほとんどない。スライムが一匹いるだけ。冒険者にとって、奪う価値があるとも思えない。
でも——価値がなかったとしても、壊す理由はあるのかもしれない。
「……殺すの?」
自分でも驚くほど平坦な声で訊いた。
少女がびくりと体を強張らせた。
「は?」
「コアを壊しに来たなら、私も一緒に死ぬと思うから。たぶんだけど」
「…………」
少女は長い沈黙の後、ゆっくりと短剣から手を離した。
「……座っていいか」
「え?」
「足が限界なんだ」
言うなり、少女はその場にずるずると座り込んだ。松明を壁に立てかけて、壁にもたれる。疲労が一気に表面に出たように、顔から力が抜けた。
「殺さないの」
「殺すって——あんた、コア壊したら私も死ぬって自分で言ったろ」
「だから?」
「だからって……人殺しなんかしたくないに決まってるだろ」
少女は苛立ったように言った。
「ここに来たのは——別に、コアを壊しにとかじゃない。逃げてたんだ。外で追われてて、穴があったから入った。それだけだ」
追われて。
「誰に?」
「…………」
少女は答えなかった。代わりに、膝を抱えて顔を伏せた。肩が微かに震えている。泣いているのか——いや、違う。寒いのだ。革鎧の下の服が、ところどころ濡れている。水に落ちたのか、汗なのか。
「あの——」
何か言おうとして、やめた。かける言葉が見つからない。私だって自分の状況すら理解できていないのに、他人を気遣う余裕なんてない。
でも。
それでも、この小さな空間に自分以外の人間がいるということが——さっきスライムが生まれた時の何倍も——救いだった。
最低だと思う。見知らぬ誰かが追い詰められてここに逃げ込んできたことを、心のどこかでほっとしている自分が。
コアが脈動する。
ふと、気づいた。コアの光が、さっきより少しだけ強くなっている。
——通路。
あの知識の断片が、また一つ形を取る。ダンジョンの通路は、コアまでの導線が太いほど外から魔力を取り込める。今、この少女がダンジョンの入り口から歩いてきた。つまり、入り口からコアまでの経路が「使われた」ということだ。それが何か意味を持つのか——正確にはわからないけれど、コアの光がわずかに明るくなったのは事実だ。
「……ねえ」
「…………」
「水、ある?」
少女が顔を上げた。
「……は?」
「喉が渇いて。目が覚めてからずっと。でも何もなくて」
少女は呆れたような顔をした。——呆れたような顔をして、それから、腰の革袋を外してこちらに差し出した。
「少しだけな。これしかない」
「ありがとう」
受け取って、口をつける。水だ。ぬるい水。少し土の味がする。でも、体に染み渡るようだった。二口だけ飲んで返す。
「……あんた、本当に何もわかってないんだな」
「うん」
「ダンジョンマスターって、普通は——」
少女は言いかけて、首を振った。
「いや、いい。普通じゃないのは見ればわかる」
「普通がわからないから、何が普通じゃないかもわからないんだけど」
「…………」
少女が、微かに口元を緩めた。笑った、というほどではない。でも、張り詰めた空気が少しだけ和らいだ。
「リゼ」
「え?」
「名前。リゼだ」
「……葵。水瀬葵」
「ミナセ、アオイ」
リゼは私の名前を反芻するように呟いて、微妙な顔をした。
「変わった名前だな」
「そっちからしたらそうかも」
「そっちからしたら?」
「……なんでもない」
異世界転生。その言葉を口にする勇気はまだなかった。言ったところで理解してもらえるとは思えないし、そもそも私自身がまだ受け入れていない。
リゼは壁にもたれたまま、じっとコアを見ていた。
「小さいな」
「コアのこと?」
「ああ。こんな小さいの、見たことない。……いや、ダンジョン自体ほとんど見たことないけど。話に聞く限りだと、もっとでかいもんだと思ってた」
「生まれたてなんじゃない? たぶん」
「生まれたて……」
リゼが何か考え込むように黙った。松明の炎がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く。
「……あんた、外に出られないのか」
不意に訊かれた。
「出たら衰弱するみたい」
「みたいって——試したのか?」
「ううん。でも、わかる。なんとなく」
なんとなく、じゃない。確信がある。骨の髄まで刻まれた制約のように。この暗い部屋の外に広がる空の下に出た瞬間、自分という存在が溶けていくような——そんな予感。
リゼはしばらく黙ってから、立ち上がった。
「出口、見張ってくる」
「え?」
「追っ手が入ってくるかもしれない。ここじゃ逃げ場がない」
「——それは、リゼが追われてるから?」
「…………」
リゼは答えなかった。松明を手に取り、通路に向かう。
「あ——」
呼び止めようとして、何を言うべきか迷った。行かないで、と言いたいのか。気をつけて、と言いたいのか。
「スライム」
「は?」
「通路にスライムが一匹いるから、踏まないであげて」
リゼは怪訝な顔でこちらを振り返った。
「……踏まないように気をつける」
それだけ言って、通路の闇に消えた。
また一人になった。
でも、さっきとは違った。「また来る」とは言われなかった。でも、荷物を——水袋を壁際に置いていった。戻ってくるつもりなのだ。たぶん。
私はコアの横に座って、膝を抱えた。
コアが脈動する。さっきより少しだけ明るい。本当に少しだけ。でも、確かに。
——魔力が増えている。
外の世界から、通路を通じて、ほんのわずかずつ。空気と一緒に流れ込んでくるように。
魔力が増えれば、もっと強いモンスターが作れる。ダンジョンも広げられるかもしれない。でも、同時に——魔力が増えるほど、コアは狙われる。
リスクとリターン。
ゲームみたいだ。本当に、ゲームみたいだ。でもゲームと違って、リセットボタンがない。
「…………ふう」
息を吐いて、天井を見上げる。苔の光が、星みたいだと思った。ちっとも綺麗じゃない。でも、他に見るものがない。
足音が聞こえたのは、それからしばらく経ってからだった。
リゼだ。松明の光とともに、通路から戻ってきた。
「入り口は一つだけだった。狭い穴で、大人が一人やっと通れるくらいだ。外は——崖の中腹みたいなところだな。道がない。追っ手は来てない」
「……よかった」
「今のところは、だけどな」
リゼはさっきと同じ場所に座った。壁にもたれて、足を投げ出す。
「スライム、いた」
「踏まなかった?」
「踏まなかった。っていうか、あいつ、私を避けたぞ。ぷるぷるって」
少しだけ、リゼの声に力が戻っていた。
「ダンジョン、通路が一本と、小さい部屋が二つ。あとこの部屋。それだけだ。最初の部屋に水が少し溜まってた。飲めるかは——わからんけど」
「水……」
「魔力で濾過できたりしないのか、マスターなら」
「やったことない。というか何もやったことない。スライム作ったのが精一杯で」
「はあ……」
リゼが頭を掻いた。
「とんでもないダンジョンに逃げ込んだもんだ」
「ごめん」
「あんたが謝ることじゃないだろ」
そうだけど、と思った。でも、他に言うことが見つからなかった。
松明の火が小さくなってきている。燃料が尽きかけているのだ。
「火、消えるな」
「…………うん」
「暗いの、平気か」
「——わからない」
正直に答えた。コアの光があるから真っ暗にはならないけれど、松明の赤い光がなくなったら、この空間はまた青白い薄闇に沈む。怖いかと訊かれたら——怖くないと言えば嘘になる。
「あんたが寝てる間は私が起きてる。交代で見張ろう」
「……泊まるの?」
「他に行くところがないんだよ」
リゼは素っ気なく言った。
でも——ありがとう、とは言えなかった。そう言ったら、彼女の親切を消費してしまうような気がして。代わりに、コアに手を置いた。
魔力の残量を確認する。スライムを一匹作って、大分減った。でも、ほんの少しだけ回復している。外から流れ込んでくる魔力。細い通路を通じて、じわじわと。
「ねえ、リゼ」
「なんだ」
「もう一匹、スライム作ろうと思う」
「……はあ? 何のために」
「見張り。入り口のところに置いておけば、誰か来たらわかる」
リゼが目を瞬かせた。
「……それ、できるのか」
「たぶん。さっき、スライムが感知してることが少し伝わってきたから。誰かが近づいたら、私にもわかると思う」
「…………便利だな」
「ダンジョンマスターだし」
言いながら、コアに意識を集中する。魔力はぎりぎり。本当にぎりぎりだ。スライム一匹分の魔力を絞り出すと、また体から何かが抜けていく感覚。
床に二体目のスライムが現れた。最初のものより少し小さい。省エネ。
「入り口の近くに行って」
スライムに意識を向ける。命令——というより、お願いに近い。スライムはぷるんと揺れて、通路の方へ転がっていった。
「……器用なもんだ」
リゼが感心したように呟いた。
松明が最後のひと燃えを見せて、消えた。
暗闇——ではなかった。コアの青白い光が残っている。ぼんやりとした光の中で、リゼの顔がかろうじて見える。
「寝ろよ、あんた。顔色、悪い」
「リゼこそ」
「私はいい。先に交代する」
「……いいの?」
「いいから。横になれ」
言われるままに、コアの横で横たわった。石の床は冷たいけれど、不思議と苦にならなかった。この場所が自分の一部であるかのような——受け入れられている感覚。
意識がまどろみ始める。
リゼが何か言った。小さな声で。聞き取れなかった。聞き返す前に、眠りが私を連れていった。
——夢を見た。
家のリビング。テレビがついている。お母さんが台所で何か作っている匂い。カレーかな。
声をかけようとする。「お母さん」と。でも声が出ない。口を開いても、空気だけが漏れる。
お母さんが振り返る。でも顔が見えない。逆光で。
窓の外は夕焼けで、オレンジ色の光がリビング全体を染めている。
あったかい。
あったかくて、まぶしい。
——まぶしい。
目が開かない。目を開けたら、ここじゃないところにいるのがわかるから。開けたくない。もう少しだけ。
でも。
「……おい。起きろ」
リゼの声だった。
目を開ける。青白い光。岩の天井。
夢だった。
「……なんかあった?」
「いや——あんた、魘されてた」
リゼがこちらを覗き込んでいた。コアの光が彼女の砂色の髪を淡く照らしている。
「……ごめん、大丈夫」
「大丈夫って顔じゃないけどな」
「…………」
起き上がって、顔を手で覆った。目尻が濡れていた。夢の中で泣いていたらしい。
リゼは何も訊かなかった。黙って、水袋をこちらに差し出した。
「飲め」
「……ありがとう」
一口飲んで、返す。
「どのくらい寝てた?」
「さあ。この空間じゃ時間がわからん。でも、結構寝てたと思うぞ。私がだいぶ暇だった」
「……ごめん」
「謝るなって。——それより」
リゼが居住まいを正した。表情が少し真剣になる。
「あんたに訊きたいことがある」
「……何?」
「ここに——私がいてもいいのか」
意外な質問だった。
「ダンジョンの中だろ。マスターの領域に、勝手に居座ってる。あんたの許可もなく。普通なら——追い出されるか、殺されるか」
「殺すわけないでしょ」
「でも、私がいることが、あんたにとってマイナスなのかプラスなのか」
リゼはまっすぐにこちらを見ていた。打算でも駆け引きでもない、純粋な確認の目。自分がここにいていいのかどうかを、本気で知りたがっている。
考える。
リゼがいることのプラス。話し相手がいる。見張りを交代できる。外のことを教えてもらえるかもしれない。
マイナス。水や食料を分け合う必要がある——そもそも私に食事が必要なのかどうかも怪しいけれど。
でも、そういう損得の話じゃなかった。
「いてほしい」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
「一人は——つらいから」
リゼが目を見開いた。
それから、ふいと顔を逸らした。耳が赤くなっているように見えたけれど、コアの光のせいかもしれない。
「……わかった。じゃあ、いる」
「うん」
「でも、ただ居座るだけってのも性に合わない。何か——私にできることはないか」
「できること……」
考える。コアの魔力は微々たるもので、ダンジョンは小さくて、モンスターはスライムが二匹。
でも——通路を通じて魔力が少しずつ流れ込んでくる。通路が太ければ、もっと多くの魔力を取り込める。
「……通路を広げたい」
「広げる?」
「今の通路、狭いでしょ。入り口も、大人がやっと通れるくらいって言ってた。あれをもっと広げれば、外から魔力が入りやすくなるみたい」
「掘れってことか」
「……無理?」
リゼは自分の短剣を見下ろした。
「この短剣で岩を削るのは——やれなくはないけど、時間がかかるぞ」
「急がないよ。少しずつでいい」
「…………ふん」
リゼは短剣を鞘から抜いた。刃こぼれだらけの、お世辞にも立派とは言えない短剣。でも、彼女はそれを手に通路の方へ歩いていった。
「じゃあ、やる」
「……本当に?」
「居候の家賃みたいなもんだ。気にするな」
通路の闇に消えていくリゼの背中を見送りながら、私はコアに手を置いた。
脈動が伝わってくる。小さな、小さなダンジョンの鼓動。
私の鼓動。
——これが私の世界なのだ。
もう戻れない。夕焼けのリビングも、お母さんのカレーの匂いも、制服のブレザーも。全部、夢の向こう側。
でも。
通路の奥から、かつん、かつん、と音が聞こえる。リゼが岩を削る音。規則正しく、ひたむきに。
一人じゃない。
今はまだ、それだけでいい。
コアが脈動する。ゆっくりと。確かに。
私は目を閉じて、その光の中で息を吸った。
地の底の、冷たい空気。でも、苦しくはなかった。
それからどれくらいの時間が経ったのか、正確にはわからない。
リゼが通路を削る音を聞きながら、私はコアの前でずっと考えていた。
この世界のこと。ダンジョンのこと。自分のこと。
コアに触れると、断片的な知識が浮かんでは消える。体系的に学べるわけじゃない。辞書を破ったページをランダムに拾い読みするような感じだ。
わかったこと。
ダンジョンは「成長」する。コアの魔力が増えれば、新しい部屋を作れる。通路を伸ばせる。より強いモンスターを生成できる。
わからないこと。
なぜ私がここにいるのか。なぜ日本の女子高生がダンジョンマスターになったのか。この世界はどういう場所なのか。
——帰る方法はあるのか。
最後の問いだけは、考えるのをやめた。今はまだ。
「おーい」
リゼの声が通路から響いた。
「なに?」
「ちょっと来てくれ——あ、いや、あんたはここから出られないのか」
「この部屋からは出られるよ、たぶん。ダンジョンの中は大丈夫。外気がだめなだけで」
「じゃあ来てくれ。見てほしいものがある」
立ち上がって、通路に入る。
初めてコアの部屋を出た。
通路は狭かった。肩幅より少し広いくらいで、天井が低い。かがみながら進む。コアの部屋から離れるほど暗くなるけれど、不思議と足元は見えた。ダンジョンマスターの特権なのか、壁や床の輪郭がうっすらと感じ取れる。
中間にある小さな部屋——リゼが言っていた二つの部屋のうちのひとつ——を通り過ぎた先で、リゼが待っていた。
「これ」
リゼが指さしたのは、通路の壁面だった。
彼女が削った部分——短剣で岩を砕いた跡がある。その破片の中に、きらりと光るものが混じっていた。
「鉱石か何かだと思うんだけど」
しゃがんで拾い上げる。小さな欠片。暗い赤色をしていて、コアの光を受けて鈍く輝く。
触れた瞬間、わかった。コアを通じて。
「——魔鉱石」
「魔鉱石?」
「魔力を含んだ鉱石。これ——コアに取り込める」
「取り込む?」
「コアの魔力を増やせるの。たぶん」
リゼの目が光った。
「それ、大事なやつじゃないか」
「……大事だね。すごく」
欠片は小さい。指先でつまめるくらい。でも、これがもっとあれば——
「もっとあるかもしれない。掘ってみる」
「うん——ありがとう、リゼ」
「だから家賃だって」
リゼが照れたようにそっぽを向いた。
私は魔鉱石の欠片を握りしめて、コアの部屋に戻った。
コアに欠片を近づけると、まるで磁石に吸い寄せられるように、欠片がコアに溶け込んでいった。
光が——ほんの少し——強くなった。
魔力が増えた。スライム一匹分にもならないくらい。微々たるもの。でも、確かに。
増やせるのだ。この小さなダンジョンを。少しずつ、少しずつ。
リゼの短剣が岩を削る音が、また聞こえてきた。
かつん。かつん。かつん。
規則正しいリズム。
私はコアに手を置いて、その音を聴いていた。
小さなダンジョンの、小さな始まり。
これが——私の物語の始まりだということを、この時はまだ知らなかった。