ダンジョンマスター系の短編、中編集   作:合歓木あやめ

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ダンジョンの奥で、私は息をする
第1話 「目覚めの部屋」


 最初に感じたのは、冷たさだった。

 

 背中から、じわじわと這い上がってくるような石の冷たさ。寝返りを打とうとして、肘が硬い床にぶつかる。ベッドじゃない。畳でもない。

 

「……っ」

 

 目を開けると、暗かった。

 

 でも完全な闘ではなくて、どこかぼんやりと青白い光が滲んでいる。天井——いや、岩の天蓋が見えた。ごつごつした鍾乳洞のような表面に、苔なのか鉱石なのか、淡く発光する何かが点々と張りついている。

 

 ゆっくりと上体を起こす。頭痛はない。吐き気もない。ただ、体がひどく重い。丸一日眠り続けた後のような、だるさとも違う、存在そのものが希薄になっているような——変な感覚。

 

 周囲を見回す。

 

 六畳ほどの空間だった。壁も床も天井もすべて灰色の岩で、出口らしい通路がひとつだけ、正面にぽっかりと口を開けている。その通路の向こうは闇に沈んでいて、何も見えない。

 

 そして、自分のすぐ横に——光っているものがあった。

 

 拳よりひと回り大きいくらいの、半透明の結晶体。淡い青の光を内側からゆっくりと脈動させていて、まるで心臓みたいだと思った。呼吸するように明滅している。

 

 触れてみたい、と思った。

 

 理由はわからない。ただ、そうすべきだという確信があった。飼い猫の額に触れる時のような、あの自然な衝動。指先を伸ばして、結晶の表面にそっと触れる。

 

 瞬間——

 

「——あ」

 

 流れ込んできた。

 

 情報、というには感覚的すぎるし、感覚、というには言語的すぎる。頭の中を文字と映像と感触が一度にかき回されるような、めちゃくちゃな数秒間。

 

 私は目を固く閉じて、歯を食いしばって、それが過ぎるのを待った。

 

 やがて、嵐が引くように、それは収まった。

 

 残ったのは、いくつかの「わかること」だった。

 

 この結晶が「ダンジョンコア」と呼ばれるものであること。このコアが、この空間——ダンジョンの核であること。そして、今ここにいる私が、このダンジョンの主であること。

 

 ダンジョンマスター。

 

 その言葉が、胸の中にすとんと落ちた。しっくりくる、というよりは、逃げ場がないという感覚に近い。

 

「…………はあ」

 

 声に出してみたら、呆れたようなため息になった。

 

 いや、待ってほしい。順番に整理したい。

 

 私は——ミナセアオイ。水瀬葵。十七歳。高校二年生。日本に住んでいて、たしか昨日は——昨日?——学校から帰って、夕飯を食べて、お風呂に入って、布団に入って。

 

 それで。

 

 それで、ここにいる。

 

 間がない。記憶の断絶。ぶつっと途切れて、次の場面がこれ。

 

「転生、ってやつ?」

 

 言いながら、自分の手を見下ろす。

 

 白い。細い。爪が短くて、指が長い。——自分の手だ。見慣れた自分の手。でもどこか違う気もする。肌の質感が妙にきめ細かいというか、現実味がないというか。

 

 服も変わっていた。紺色のブレザーの制服ではなく、白っぽいワンピースのような薄い布一枚。裸足。寒いわけではないけれど、心もとない。

 

 髪を引っ張ってみると、黒くて長い。これは同じだ。

 

 立ち上がる。ふらつく。足に力が入らないのは、この場所のせいなのか、体が変わったせいなのか。

 

 コアに触れた時に「わかったこと」が、頭の隅にまだ残っている。ぼんやりとした知識の残像。全部を一度に理解できたわけじゃない。むしろ大半は靄がかかったみたいで、必要になった時に思い出せるのかもしれないし、永遠にわからないままかもしれない。

 

 でも、ひとつだけ鮮明にわかっていることがあった。

 

 ——この場所から出たら、死ぬ。

 

 正確には「死ぬ」ではなく「衰弱する」。でも結果は同じことだ。ダンジョンマスターは外気に触れ続ければ弱る。太陽の下を歩くなんて論外。この石の部屋が、私の世界の全部になる。

 

「…………」

 

 正面の通路を見つめる。

 

 あの先がどうなっているのかはわからない。でも、どこかには外に繋がっているはずだ。出口がある。出口はあるけれど、私はそこへ行けない。

 

 奇妙な監獄だと思った。鍵も扉もないのに、出られない。

 

 膝を抱えて、コアの横に座り直す。

 

 泣くかな、と思った。泣くような場面だと思う。映画だったら泣く。でも涙は出なかった。現実感がなさすぎるのだ。まだ夢の中にいるような気がしている。明日の朝、目覚ましの音で起きて、顔を洗って、トーストを齧りながら「変な夢見た」と母さんに言うのかもしれない。

 

 コアが、脈動する。

 

 青い光が膨らんで、縮んで、膨らんで。

 

 その光を眺めていたら、ふと、何かが引っかかった。頭の中の靄の一部が晴れるように、情報がひとつ浮かび上がる。

 

 ——モンスター生成。

 

 コアの魔力を使って、モンスターを作り出せる。作り出したモンスターは、ダンジョン内に配置できる。それがダンジョンマスターの役割——というか、機能。

 

 モンスター。

 

「……生成」

 

 呟いてみると、コアの光がわずかに強まった。反応している。

 

 意識を集中する。コアに手を置いたまま、「作る」ということを強くイメージする。何を? わからない。何が作れるのかもわからない。ただ、このコアの中にある魔力は、ほんのわずかだということだけは感じ取れた。卵一個分くらいの——いや、比喩がおかしい。でもとにかく、少ない。

 

 選択肢が、頭の中に浮かぶ。

 

 文字ではなく、イメージとして。小さな——虫のようなもの。ネズミのようなもの。スライムのようなもの。どれも弱々しくて、取るに足らないものばかり。今の魔力で作れるのは、その程度。

 

 スライム。

 

 ゲームや漫画でお馴染みの、あの不定形の生き物。一番魔力の消費が少ないらしい。

 

 試しに、と思った。とりあえず一体作ってみよう。ここで膝を抱えて座っていても何も始まらない。

 

 意識を集中して——「スライム」を強く思い描く。

 

 コアの光が一瞬強く脈動して、ふっと何かが零れ落ちるような感覚があった。魔力が減った。明確に。体の中から何か大切なものが抜けていくような、ちょっと怖い感じ。

 

 目の前の床に、ぽたり、と。

 

 透明な水滴が落ちたように見えた。それがゆっくりと膨らんで、こぶし大の球体になる。薄い青色をしていて、ぷるぷると震えている。

 

「……できた」

 

 スライム。本物のスライム。

 

 しゃがみ込んで、顔を近づける。スライムはぷるんと身を揺らして、私の方を向いた——ように見えた。目も鼻もないのに、こちらを認識しているような気配がある。

 

「……こんにちは」

 

 返事はない。当然だ。スライムだ。

 

 でも、少しだけ気が紛れた。この空間に自分以外の「何か」がいるだけで、こんなに違うものなんだ。

 

 スライムは床の上をゆっくりと移動して、通路の方へ向かっていった。止めるべきかと思ったけれど、頭の中に「配置」という概念が浮かんだ。ダンジョン内のどこに置くかを決められる。逆に言えば、私が意識しない限り、スライムは勝手にダンジョン内をうろつくだけだ。

 

「行ってらっしゃい」

 

 手を振った。虚しい。

 

 スライムが通路の闇に消えてから、また静寂が戻った。コアの明滅する光だけが、時間の経過を教えてくれる。

 

 ——時間。

 

 そういえば、時間の感覚がまるでない。ここには窓がないし、太陽もない。朝なのか夜なのかもわからない。

 

 しばらくぼんやりしていた。

 

 どのくらい経ったのか——たぶん数十分——不意に、コアが小さく震えた。

 

 同時に、頭の中にイメージが飛び込んでくる。

 

 スライムが見ているもの。いや、スライムに目はないけれど、スライムが「感知」しているもの。通路の先、少し広い空間に出たところで、何かが——いる。

 

 何かが、近づいてくる。

 

 心臓が跳ねた。

 

 足音。石の床を踏む足音が、かすかに聞こえる。人の足音だ。ひとつ。ゆっくりとした、慎重な歩調。

 

 冒険者——という言葉が浮かぶ。ダンジョンに入ってくる人間。コアを狙って。

 

 狙って?

 

 いや、まだわからない。たまたま迷い込んだだけかもしれない。でも、あのコアに触れた時の知識の断片が警告のように点滅する。ダンジョンコアは狙われる。魔力の保有量が増えるほど価値が高い。今はまだ微々たるものだけど——でも、コアを壊されたら?

 

 壊されたら。

 

 それが何を意味するのか、正確にはわからない。でも、いいことじゃないのは確かだ。

 

 足音が近づいてくる。

 

 私は立ち上がって、通路の入り口に立った。逃げるところなんてない。この小さな部屋が袋小路だ。コアを背に、正面の闇を見つめる。

 

 やがて——光が見えた。

 

 松明の赤い光。揺れながら近づいてくる。

 

 光の中から現れたのは、一人の少女だった。

 

 私と同じくらいの背丈。いや、少し小さいかもしれない。薄汚れた革鎧を身につけていて、腰に短剣を提げている。髪は砂色で、顎の下で不揃いに切られていた。顔は——痩せていた。頬がこけて、目の下に隈がある。疲弊した顔。でも目だけは鋭く光っていて、洞窟の闇を切り裂くようにこちらを見た。

 

 目が合った。

 

 彼女は足を止めた。

 

 松明を持つ手が、微かに震えている。もう片方の手が腰の短剣に伸びかけて——止まった。

 

 沈黙が数秒。

 

「——人?」

 

 先に口を開いたのは、彼女の方だった。掠れた声。

 

「……うん」

 

 間の抜けた返事だと自分でも思った。

 

「人、だけど」

 

 少女はまじまじとこちらを見ている。松明の光で、私の顔や服装を確認しているのだろう。白いワンピース一枚の裸足の少女が、ダンジョンの最奥にぽつんと立っている。怪しいにもほどがある。

 

「……ここ、ダンジョンだよな」

 

「……らしいね」

 

「らしいねって」

 

 少女が眉をひそめた。当然の反応だ。

 

「あんた、何者だ。なんでこんなところに——」

 

 言いかけて、少女の目が私の背後に移った。コアだ。青白く脈動するコアが、松明の光の中でも存在を主張している。

 

 少女の表情が変わった。警戒の色が、一段階上がる。

 

「ダンジョンコア……?」

 

「…………」

 

「あんた——マスターか」

 

 短剣の柄を握る手に力が入るのが見えた。

 

 考える暇がなかった。否定するべきか、肯定するべきか。嘘をついたところでこの状況で信じてもらえるとは思えないし、そもそも嘘をつく理由も思いつかない。

 

「——たぶん」

 

「たぶんって何だよ」

 

「さっき目が覚めたばっかりで、よくわかってない」

 

 正直に言った。嘘をつく余裕がないだけかもしれない。

 

 少女はじっとこちらを見つめたまま、動かない。短剣に手をかけたまま、間合いを詰めも引きもしない。迷っている。

 

 このダンジョンは、たぶんとても小さい。通路がひとつあって、部屋がいくつかあるだけ。コアの魔力もほとんどない。スライムが一匹いるだけ。冒険者にとって、奪う価値があるとも思えない。

 

 でも——価値がなかったとしても、壊す理由はあるのかもしれない。

 

「……殺すの?」

 

 自分でも驚くほど平坦な声で訊いた。

 

 少女がびくりと体を強張らせた。

 

「は?」

 

「コアを壊しに来たなら、私も一緒に死ぬと思うから。たぶんだけど」

 

「…………」

 

 少女は長い沈黙の後、ゆっくりと短剣から手を離した。

 

「……座っていいか」

 

「え?」

 

「足が限界なんだ」

 

 言うなり、少女はその場にずるずると座り込んだ。松明を壁に立てかけて、壁にもたれる。疲労が一気に表面に出たように、顔から力が抜けた。

 

「殺さないの」

 

「殺すって——あんた、コア壊したら私も死ぬって自分で言ったろ」

 

「だから?」

 

「だからって……人殺しなんかしたくないに決まってるだろ」

 

 少女は苛立ったように言った。

 

「ここに来たのは——別に、コアを壊しにとかじゃない。逃げてたんだ。外で追われてて、穴があったから入った。それだけだ」

 

 追われて。

 

「誰に?」

 

「…………」

 

 少女は答えなかった。代わりに、膝を抱えて顔を伏せた。肩が微かに震えている。泣いているのか——いや、違う。寒いのだ。革鎧の下の服が、ところどころ濡れている。水に落ちたのか、汗なのか。

 

「あの——」

 

 何か言おうとして、やめた。かける言葉が見つからない。私だって自分の状況すら理解できていないのに、他人を気遣う余裕なんてない。

 

 でも。

 

 それでも、この小さな空間に自分以外の人間がいるということが——さっきスライムが生まれた時の何倍も——救いだった。

 

 最低だと思う。見知らぬ誰かが追い詰められてここに逃げ込んできたことを、心のどこかでほっとしている自分が。

 

 コアが脈動する。

 

 ふと、気づいた。コアの光が、さっきより少しだけ強くなっている。

 

 ——通路。

 

 あの知識の断片が、また一つ形を取る。ダンジョンの通路は、コアまでの導線が太いほど外から魔力を取り込める。今、この少女がダンジョンの入り口から歩いてきた。つまり、入り口からコアまでの経路が「使われた」ということだ。それが何か意味を持つのか——正確にはわからないけれど、コアの光がわずかに明るくなったのは事実だ。

 

「……ねえ」

 

「…………」

 

「水、ある?」

 

 少女が顔を上げた。

 

「……は?」

 

「喉が渇いて。目が覚めてからずっと。でも何もなくて」

 

 少女は呆れたような顔をした。——呆れたような顔をして、それから、腰の革袋を外してこちらに差し出した。

 

「少しだけな。これしかない」

 

「ありがとう」

 

 受け取って、口をつける。水だ。ぬるい水。少し土の味がする。でも、体に染み渡るようだった。二口だけ飲んで返す。

 

「……あんた、本当に何もわかってないんだな」

 

「うん」

 

「ダンジョンマスターって、普通は——」

 

 少女は言いかけて、首を振った。

 

「いや、いい。普通じゃないのは見ればわかる」

 

「普通がわからないから、何が普通じゃないかもわからないんだけど」

 

「…………」

 

 少女が、微かに口元を緩めた。笑った、というほどではない。でも、張り詰めた空気が少しだけ和らいだ。

 

「リゼ」

 

「え?」

 

「名前。リゼだ」

 

「……葵。水瀬葵」

 

「ミナセ、アオイ」

 

 リゼは私の名前を反芻するように呟いて、微妙な顔をした。

 

「変わった名前だな」

 

「そっちからしたらそうかも」

 

「そっちからしたら?」

 

「……なんでもない」

 

 異世界転生。その言葉を口にする勇気はまだなかった。言ったところで理解してもらえるとは思えないし、そもそも私自身がまだ受け入れていない。

 

 リゼは壁にもたれたまま、じっとコアを見ていた。

 

「小さいな」

 

「コアのこと?」

 

「ああ。こんな小さいの、見たことない。……いや、ダンジョン自体ほとんど見たことないけど。話に聞く限りだと、もっとでかいもんだと思ってた」

 

「生まれたてなんじゃない? たぶん」

 

「生まれたて……」

 

 リゼが何か考え込むように黙った。松明の炎がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く。

 

「……あんた、外に出られないのか」

 

 不意に訊かれた。

 

「出たら衰弱するみたい」

 

「みたいって——試したのか?」

 

「ううん。でも、わかる。なんとなく」

 

 なんとなく、じゃない。確信がある。骨の髄まで刻まれた制約のように。この暗い部屋の外に広がる空の下に出た瞬間、自分という存在が溶けていくような——そんな予感。

 

 リゼはしばらく黙ってから、立ち上がった。

 

「出口、見張ってくる」

 

「え?」

 

「追っ手が入ってくるかもしれない。ここじゃ逃げ場がない」

 

「——それは、リゼが追われてるから?」

 

「…………」

 

 リゼは答えなかった。松明を手に取り、通路に向かう。

 

「あ——」

 

 呼び止めようとして、何を言うべきか迷った。行かないで、と言いたいのか。気をつけて、と言いたいのか。

 

「スライム」

 

「は?」

 

「通路にスライムが一匹いるから、踏まないであげて」

 

 リゼは怪訝な顔でこちらを振り返った。

 

「……踏まないように気をつける」

 

 それだけ言って、通路の闇に消えた。

 

 また一人になった。

 

 でも、さっきとは違った。「また来る」とは言われなかった。でも、荷物を——水袋を壁際に置いていった。戻ってくるつもりなのだ。たぶん。

 

 私はコアの横に座って、膝を抱えた。

 

 コアが脈動する。さっきより少しだけ明るい。本当に少しだけ。でも、確かに。

 

 ——魔力が増えている。

 

 外の世界から、通路を通じて、ほんのわずかずつ。空気と一緒に流れ込んでくるように。

 

 魔力が増えれば、もっと強いモンスターが作れる。ダンジョンも広げられるかもしれない。でも、同時に——魔力が増えるほど、コアは狙われる。

 

 リスクとリターン。

 

 ゲームみたいだ。本当に、ゲームみたいだ。でもゲームと違って、リセットボタンがない。

 

「…………ふう」

 

 息を吐いて、天井を見上げる。苔の光が、星みたいだと思った。ちっとも綺麗じゃない。でも、他に見るものがない。

 

 足音が聞こえたのは、それからしばらく経ってからだった。

 

 リゼだ。松明の光とともに、通路から戻ってきた。

 

「入り口は一つだけだった。狭い穴で、大人が一人やっと通れるくらいだ。外は——崖の中腹みたいなところだな。道がない。追っ手は来てない」

 

「……よかった」

 

「今のところは、だけどな」

 

 リゼはさっきと同じ場所に座った。壁にもたれて、足を投げ出す。

 

「スライム、いた」

 

「踏まなかった?」

 

「踏まなかった。っていうか、あいつ、私を避けたぞ。ぷるぷるって」

 

 少しだけ、リゼの声に力が戻っていた。

 

「ダンジョン、通路が一本と、小さい部屋が二つ。あとこの部屋。それだけだ。最初の部屋に水が少し溜まってた。飲めるかは——わからんけど」

 

「水……」

 

「魔力で濾過できたりしないのか、マスターなら」

 

「やったことない。というか何もやったことない。スライム作ったのが精一杯で」

 

「はあ……」

 

 リゼが頭を掻いた。

 

「とんでもないダンジョンに逃げ込んだもんだ」

 

「ごめん」

 

「あんたが謝ることじゃないだろ」

 

 そうだけど、と思った。でも、他に言うことが見つからなかった。

 

 松明の火が小さくなってきている。燃料が尽きかけているのだ。

 

「火、消えるな」

 

「…………うん」

 

「暗いの、平気か」

 

「——わからない」

 

 正直に答えた。コアの光があるから真っ暗にはならないけれど、松明の赤い光がなくなったら、この空間はまた青白い薄闇に沈む。怖いかと訊かれたら——怖くないと言えば嘘になる。

 

「あんたが寝てる間は私が起きてる。交代で見張ろう」

 

「……泊まるの?」

 

「他に行くところがないんだよ」

 

 リゼは素っ気なく言った。

 

 でも——ありがとう、とは言えなかった。そう言ったら、彼女の親切を消費してしまうような気がして。代わりに、コアに手を置いた。

 

 魔力の残量を確認する。スライムを一匹作って、大分減った。でも、ほんの少しだけ回復している。外から流れ込んでくる魔力。細い通路を通じて、じわじわと。

 

「ねえ、リゼ」

 

「なんだ」

 

「もう一匹、スライム作ろうと思う」

 

「……はあ? 何のために」

 

「見張り。入り口のところに置いておけば、誰か来たらわかる」

 

 リゼが目を瞬かせた。

 

「……それ、できるのか」

 

「たぶん。さっき、スライムが感知してることが少し伝わってきたから。誰かが近づいたら、私にもわかると思う」

 

「…………便利だな」

 

「ダンジョンマスターだし」

 

 言いながら、コアに意識を集中する。魔力はぎりぎり。本当にぎりぎりだ。スライム一匹分の魔力を絞り出すと、また体から何かが抜けていく感覚。

 

 床に二体目のスライムが現れた。最初のものより少し小さい。省エネ。

 

「入り口の近くに行って」

 

 スライムに意識を向ける。命令——というより、お願いに近い。スライムはぷるんと揺れて、通路の方へ転がっていった。

 

「……器用なもんだ」

 

 リゼが感心したように呟いた。

 

 松明が最後のひと燃えを見せて、消えた。

 

 暗闇——ではなかった。コアの青白い光が残っている。ぼんやりとした光の中で、リゼの顔がかろうじて見える。

 

「寝ろよ、あんた。顔色、悪い」

 

「リゼこそ」

 

「私はいい。先に交代する」

 

「……いいの?」

 

「いいから。横になれ」

 

 言われるままに、コアの横で横たわった。石の床は冷たいけれど、不思議と苦にならなかった。この場所が自分の一部であるかのような——受け入れられている感覚。

 

 意識がまどろみ始める。

 

 リゼが何か言った。小さな声で。聞き取れなかった。聞き返す前に、眠りが私を連れていった。

 

 ——夢を見た。

 

 家のリビング。テレビがついている。お母さんが台所で何か作っている匂い。カレーかな。

 

 声をかけようとする。「お母さん」と。でも声が出ない。口を開いても、空気だけが漏れる。

 

 お母さんが振り返る。でも顔が見えない。逆光で。

 

 窓の外は夕焼けで、オレンジ色の光がリビング全体を染めている。

 

 あったかい。

 

 あったかくて、まぶしい。

 

 ——まぶしい。

 

 目が開かない。目を開けたら、ここじゃないところにいるのがわかるから。開けたくない。もう少しだけ。

 

 でも。

 

「……おい。起きろ」

 

 リゼの声だった。

 

 目を開ける。青白い光。岩の天井。

 

 夢だった。

 

「……なんかあった?」

 

「いや——あんた、魘されてた」

 

 リゼがこちらを覗き込んでいた。コアの光が彼女の砂色の髪を淡く照らしている。

 

「……ごめん、大丈夫」

 

「大丈夫って顔じゃないけどな」

 

「…………」

 

 起き上がって、顔を手で覆った。目尻が濡れていた。夢の中で泣いていたらしい。

 

 リゼは何も訊かなかった。黙って、水袋をこちらに差し出した。

 

「飲め」

 

「……ありがとう」

 

 一口飲んで、返す。

 

「どのくらい寝てた?」

 

「さあ。この空間じゃ時間がわからん。でも、結構寝てたと思うぞ。私がだいぶ暇だった」

 

「……ごめん」

 

「謝るなって。——それより」

 

 リゼが居住まいを正した。表情が少し真剣になる。

 

「あんたに訊きたいことがある」

 

「……何?」

 

「ここに——私がいてもいいのか」

 

 意外な質問だった。

 

「ダンジョンの中だろ。マスターの領域に、勝手に居座ってる。あんたの許可もなく。普通なら——追い出されるか、殺されるか」

 

「殺すわけないでしょ」

 

「でも、私がいることが、あんたにとってマイナスなのかプラスなのか」

 

 リゼはまっすぐにこちらを見ていた。打算でも駆け引きでもない、純粋な確認の目。自分がここにいていいのかどうかを、本気で知りたがっている。

 

 考える。

 

 リゼがいることのプラス。話し相手がいる。見張りを交代できる。外のことを教えてもらえるかもしれない。

 

 マイナス。水や食料を分け合う必要がある——そもそも私に食事が必要なのかどうかも怪しいけれど。

 

 でも、そういう損得の話じゃなかった。

 

「いてほしい」

 

 言ってから、少し恥ずかしくなった。

 

「一人は——つらいから」

 

 リゼが目を見開いた。

 

 それから、ふいと顔を逸らした。耳が赤くなっているように見えたけれど、コアの光のせいかもしれない。

 

「……わかった。じゃあ、いる」

 

「うん」

 

「でも、ただ居座るだけってのも性に合わない。何か——私にできることはないか」

 

「できること……」

 

 考える。コアの魔力は微々たるもので、ダンジョンは小さくて、モンスターはスライムが二匹。

 

 でも——通路を通じて魔力が少しずつ流れ込んでくる。通路が太ければ、もっと多くの魔力を取り込める。

 

「……通路を広げたい」

 

「広げる?」

 

「今の通路、狭いでしょ。入り口も、大人がやっと通れるくらいって言ってた。あれをもっと広げれば、外から魔力が入りやすくなるみたい」

 

「掘れってことか」

 

「……無理?」

 

 リゼは自分の短剣を見下ろした。

 

「この短剣で岩を削るのは——やれなくはないけど、時間がかかるぞ」

 

「急がないよ。少しずつでいい」

 

「…………ふん」

 

 リゼは短剣を鞘から抜いた。刃こぼれだらけの、お世辞にも立派とは言えない短剣。でも、彼女はそれを手に通路の方へ歩いていった。

 

「じゃあ、やる」

 

「……本当に?」

 

「居候の家賃みたいなもんだ。気にするな」

 

 通路の闇に消えていくリゼの背中を見送りながら、私はコアに手を置いた。

 

 脈動が伝わってくる。小さな、小さなダンジョンの鼓動。

 

 私の鼓動。

 

 ——これが私の世界なのだ。

 

 もう戻れない。夕焼けのリビングも、お母さんのカレーの匂いも、制服のブレザーも。全部、夢の向こう側。

 

 でも。

 

 通路の奥から、かつん、かつん、と音が聞こえる。リゼが岩を削る音。規則正しく、ひたむきに。

 

 一人じゃない。

 

 今はまだ、それだけでいい。

 

 コアが脈動する。ゆっくりと。確かに。

 

 私は目を閉じて、その光の中で息を吸った。

 

 地の底の、冷たい空気。でも、苦しくはなかった。

 

 それからどれくらいの時間が経ったのか、正確にはわからない。

 

 リゼが通路を削る音を聞きながら、私はコアの前でずっと考えていた。

 

 この世界のこと。ダンジョンのこと。自分のこと。

 

 コアに触れると、断片的な知識が浮かんでは消える。体系的に学べるわけじゃない。辞書を破ったページをランダムに拾い読みするような感じだ。

 

 わかったこと。

 

 ダンジョンは「成長」する。コアの魔力が増えれば、新しい部屋を作れる。通路を伸ばせる。より強いモンスターを生成できる。

 

 わからないこと。

 

 なぜ私がここにいるのか。なぜ日本の女子高生がダンジョンマスターになったのか。この世界はどういう場所なのか。

 

 ——帰る方法はあるのか。

 

 最後の問いだけは、考えるのをやめた。今はまだ。

 

「おーい」

 

 リゼの声が通路から響いた。

 

「なに?」

 

「ちょっと来てくれ——あ、いや、あんたはここから出られないのか」

 

「この部屋からは出られるよ、たぶん。ダンジョンの中は大丈夫。外気がだめなだけで」

 

「じゃあ来てくれ。見てほしいものがある」

 

 立ち上がって、通路に入る。

 

 初めてコアの部屋を出た。

 

 通路は狭かった。肩幅より少し広いくらいで、天井が低い。かがみながら進む。コアの部屋から離れるほど暗くなるけれど、不思議と足元は見えた。ダンジョンマスターの特権なのか、壁や床の輪郭がうっすらと感じ取れる。

 

 中間にある小さな部屋——リゼが言っていた二つの部屋のうちのひとつ——を通り過ぎた先で、リゼが待っていた。

 

「これ」

 

 リゼが指さしたのは、通路の壁面だった。

 

 彼女が削った部分——短剣で岩を砕いた跡がある。その破片の中に、きらりと光るものが混じっていた。

 

「鉱石か何かだと思うんだけど」

 

 しゃがんで拾い上げる。小さな欠片。暗い赤色をしていて、コアの光を受けて鈍く輝く。

 

 触れた瞬間、わかった。コアを通じて。

 

「——魔鉱石」

 

「魔鉱石?」

 

「魔力を含んだ鉱石。これ——コアに取り込める」

 

「取り込む?」

 

「コアの魔力を増やせるの。たぶん」

 

 リゼの目が光った。

 

「それ、大事なやつじゃないか」

 

「……大事だね。すごく」

 

 欠片は小さい。指先でつまめるくらい。でも、これがもっとあれば——

 

「もっとあるかもしれない。掘ってみる」

 

「うん——ありがとう、リゼ」

 

「だから家賃だって」

 

 リゼが照れたようにそっぽを向いた。

 

 私は魔鉱石の欠片を握りしめて、コアの部屋に戻った。

 

 コアに欠片を近づけると、まるで磁石に吸い寄せられるように、欠片がコアに溶け込んでいった。

 

 光が——ほんの少し——強くなった。

 

 魔力が増えた。スライム一匹分にもならないくらい。微々たるもの。でも、確かに。

 

 増やせるのだ。この小さなダンジョンを。少しずつ、少しずつ。

 

 リゼの短剣が岩を削る音が、また聞こえてきた。

 

 かつん。かつん。かつん。

 

 規則正しいリズム。

 

 私はコアに手を置いて、その音を聴いていた。

 

 小さなダンジョンの、小さな始まり。

 

 これが——私の物語の始まりだということを、この時はまだ知らなかった。

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