ダンジョンマスター系の短編、中編集   作:合歓木あやめ

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第4話 「光の届かない場所で」

 魔獣の襲撃から、おそらく数日が経った。

 

 おそらく、としか言えないのは相変わらず時間の感覚がないからだ。眠って起きてを何度か繰り返して、キノコと果実を食べて、コアの魔力が少しずつ回復していく——その繰り返しの中で、日数を数える術がない。

 

 リゼが外に出た時に太陽の位置を確認するようにしてくれてはいるけれど、毎回出るわけでもないし、曇りの日もある。

 

「あんたの体内時計、完全に壊れてるだろ」

 

「元からそんなに正確じゃなかったよ。夜更かしばっかりしてたし」

 

「よふかし?」

 

「夜に寝ないで起きてること。——前に暮らしてた場所でのことだけど」

 

 リゼがちらりとこちらを見たけれど、それ以上は訊かなかった。私の「前」について、リゼは深く踏み込まない。私がリゼの盗賊時代を根掘り葉掘り訊かないのと同じで、触れないでおく領域がお互いにある。

 

 今はそれでいい。

 

 半壊した戦闘ゴーレムは、魔力を注いで修復した。完全ではないけれど、盾の腕のひび割れが半分ほど塞がっている。時間をかけてゆっくり回復させるしかない。

 

 ゴルは相変わらず黙々と通路を掘っている。もはやダンジョンの通路は入り口からコアの部屋まで、大人が三人並んで歩けるくらいの幅になっていた。天井も高くなり、リゼが背伸びしても手が届かない。

 

 その分、外から流れ込む魔力も増えた。コアは拳三つ分ほどの大きさに成長し、光も以前より格段に明るくなっている。部屋の隅まで照らせるくらいに。

 

 スライムは五匹に増やした。入り口に二匹、通路の各所に三匹。感知網をダンジョン全体に張り巡らせている。

 

 セイの回復も完全で、今はダンジョン内を自由に動き回っている。通路を滑るように移動する蛇体の速さは人間の走力を軽く超えていて、偵察役としてリゼが感心するほどだった。

 

 言葉の上達はさらに加速していた。完全な文章で話せるようになり、時々私やリゼが使わないような表現を自分で組み立てることもある。

 

「あおいあるじ、ゴルが新しい穴を見つけたよ。奥に広い空間があるみたい」

 

「広い空間?」

 

「うん。ゴルが壁を削ったら、向こう側が空洞だった」

 

 セイの報告を受けて、通路を歩く。もう松明は必要ない。コアの魔力がダンジョン全体に行き渡って、壁の苔や鉱石が淡く発光するようになっている。私の意思で明るさを調整できることもわかった。ダンジョンマスターとしての力が、少しずつ使いこなせるようになっている。

 

 ゴルが掘り抜いた壁の先には——確かに空洞があった。

 

 天然の洞窟だ。ダンジョンが形成される前から存在していたのだろう。天井が高く、奥行きもある。十畳以上の広さで、天井からは鍾乳石が垂れ下がっている。

 

 そして——奥から水の音がした。

 

「地下水脈?」

 

 足を踏み入れる。壁沿いの苔が私の接近に反応して発光し、空洞の全容が見えてくる。

 

 奥に小さな泉があった。岩の裂け目から水が湧き出して、窪みに溜まっている。透明で、冷たそうで——手を入れてみると、魔力を含んでいた。

 

「魔力水だ」

 

「魔力水?」

 

 リゼが後ろから覗き込んだ。

 

「魔力を含んだ地下水。飲めば体力の回復が早くなる——と思う。モンスターにとっても栄養になるはず」

 

「思う、ね」

 

「飲んでみる?」

 

「あんたが先に飲め」

 

「マスターに毒見させないんじゃなかったの」

 

「魔力水だろ。マスターなら影響がわかるはずだ」

 

 一理ある。両手で水をすくって、口に含む。

 

 冷たい。そして——体の中に魔力が染み渡る感覚。水を飲んでいるのに、温かい。コアに触れている時に感じる脈動が、胃の底からじんわりと広がる。

 

「……おいしい」

 

「大丈夫なのか」

 

「大丈夫。すごくいい。飲んでみて」

 

 リゼが半信半疑で水を口に含んだ。目が丸くなる。

 

「——うまい。っていうか、体が楽になる感じが」

 

「でしょ」

 

「セイも!」

 

 セイが泉に顔を突っ込んだ。ぺちゃぺちゃと蛇のように——蛇だけれど——水を飲む。鶏冠がぴくぴく動いて、尻尾がぱたぱた床を叩く。

 

「おいしい! あおいあるじ、ここすごい!」

 

 セイの無邪気な声が洞窟に反響した。

 

 この泉を中心に、新しい部屋を整備しよう。水場があれば生活の質が格段に上がる。魔力水ならコアの成長も助けられる。

 

「リゼ、ここを生活区にしたい。水場と、休息用の空間と——」

 

「風呂」

 

「え?」

 

「風呂。体を洗いたい。もう何日も拭くだけで過ごしてるんだぞ。泉があるなら——小さくてもいいから、浸かれる場所が欲しい」

 

 リゼの目が珍しく切実だった。

 

 確かに。衛生面は深刻な問題だ。私はダンジョンマスターの体質のおかげか、それほど汗をかかないけれど、リゼは人間だ。革鎧の下は相当な状態だろう。

 

「泉の水を引いて——小さな浴槽みたいなものを岩で作れるかもしれない。魔力で温めることもできるかも」

 

「できるのか」

 

「やったことないけど」

 

「あんたの『やったことないけど』はもう信用してる。やれ」

 

「信用されてるのか強制されてるのかわからないけど、やるよ」

 

 魔力を使って、泉の脇に浅い窪みを作る。浴槽というよりは足湯に近い規模だけれど、座れば腰まで浸かれるくらいの深さ。泉から細い水路を引いて、水を流し込む。

 

 温度。コアの魔力を注いで、窪みの底の岩を温める。じわじわと——湯気が立った。

 

「……温泉じゃん」

 

 リゼが呆然と呟いた。

 

「温泉というほどの温度じゃないけど、ぬるいお湯くらいには——」

 

「入る」

 

「今?」

 

「今」

 

「私とセイがいるけど」

 

「出てけ」

 

「はい」

 

 セイの手——蛇体の端を引いて、洞窟の入り口に移動する。背後で革鎧を外す音と、布が擦れる音。それから——水音。

 

「…………」

 

「あおいあるじ、りぜ何してるの」

 

「体を洗ってるんだよ。セイもあとで入る?」

 

「せい、水すき。入る」

 

 しばらく待った。水音と、時折リゼが漏らす小さな声が聞こえた。感嘆とも安堵ともつかない声。

 

「——入っていいぞ」

 

 振り返ると、リゼが窪みの中に肩まで浸かっていた。コアの光が水面に反射して、揺れている。

 

「入っていいって」

 

「あんたもだ。入れ。気持ちいいぞ」

 

「……一緒に?」

 

「風呂にいちいち気を使ってたらダンジョン暮らしなんかやってられないだろ。いいから入れ」

 

 リゼの言うことにも一理ある。窮屈な地下生活で羞恥心ばかり気にしていたら身がもたない。

 

 白いワンピースを脱いで——その下は何もないので、手で前を隠しながら窪みに入る。ぬるい水が肌に触れた瞬間、声が漏れた。

 

「あ……」

 

「だろ」

 

 リゼが得意そうに笑った。

 

 気持ちいい。水が肌の上を滑って、何日分もの疲労を溶かしていくような感覚。魔力水のおかげか、体の奥まで温かさが浸透する。

 

「セイもー」

 

 セイが滑り込んできた。蛇体が水中でくねくねと動く。窪みの中で三人——いや、二人と一匹?——が肩を寄せ合う形になった。狭い。でも嫌じゃない。

 

「せい、あったかい」

 

「暖かいね」

 

「……あったかい、な」

 

 リゼが目を閉じて、天井を仰いだ。鍾乳石が苔の光を受けてきらきらと輝いている。

 

「なあ、葵」

 

「ん?」

 

 名前で呼ばれたのは初めてだった。いつも「あんた」だったのに。

 

「——いや、なんでもない」

 

「何? 気になるんだけど」

 

「なんでもないって言ってるだろ」

 

 リゼが顔を背けた。耳が赤いのは湯気のせいだと思うことにする。

 

「あおいあるじ、りぜ、かおあかい」

 

「セイ、空気読んで」

 

「くうきよむ?」

 

「……なんでもない」

 

 泉の水音だけが響く。穏やかな時間。

 

 ふと、目の奥が熱くなった。

 

 お風呂。

 

 当たり前のことだった。日本にいた頃は、毎日入っていた。湯船に浸かって、シャンプーの匂いがして、風呂上がりにアイスを食べて。

 

 もう戻れない日常。

 

 でも——こうしてぬるい水に浸かって、隣にリゼがいて、セイが尻尾で水を跳ねさせている。この時間が——嫌じゃない。

 

 泣きそうになって、泣かなかった。代わりに、少しだけ深く水に沈んだ。

 

 洞窟の発見を機に、ダンジョンの構造は大きく変わった。

 

 天然の洞窟を中心に生活区を設け、そこから既存の通路へ繋ぐ。コアの部屋は最奥に据えたまま、生活区と防衛区を明確に分離する。リゼの提案だった。

 

「攻めてくる奴は入り口から通路を通ってコアを目指す。その通路上に罠とモンスターを集中配置して、生活区は通路から分岐した別の経路に隠す。コアの部屋への道を二つ作って、片方を囮にする」

 

 リゼが地面に図を描きながら説明する。指先に迷いがない。

 

「盗賊団の根城もこうやって作ってたのか」

 

「……まあ、基本は同じだ。守る場所と、敵を誘い込む場所と、逃げる道を分ける」

 

 リゼの声がわずかに沈んだ。過去の記憶に触れたのだろう。でも、すぐに顔を上げた。

 

「やれるか」

 

「やる。でも、全部一度には無理。魔力の回復を待ちながら少しずつ」

 

「それでいい。急がば回れだ」

 

 工事は——と呼べるような大層なものではないけれど——ゴルの掘削とコアの魔力を組み合わせて、着実に進んだ。

 

 通路を分岐させる。部屋を増やす。落とし穴の深さを膝から腰に。通路の天井に石のブロックを仕込んで、侵入者の頭上から落とす罠。コアの魔力で制御する仕掛けだ。

 

 モンスターも増やした。スライムを二匹追加して合計七匹。感知網の密度を上げる。石のゴーレムをもう一体——今度はゴルと同じ四足タイプだけれど、少し大きく、体当たりで敵を押し返せるくらいの重量を持たせた。名前はガルにした。安直だとリゼに言われた。

 

 そして——セイ。

 

「セイ、戦えるの?」

 

 訊いたのは、セイ自身が「つよくなる」と宣言してからずっと気になっていたことだった。

 

 セイが頷いた。鶏冠をぴんと立てて、口を開く。

 

 長い舌がちろりと出て——その先端に、紫色の液体が光った。

 

「毒、出せるの?」

 

「うん。おかあさんは出せた。セイも、少しだけ」

 

 おかあさん。

 

 初めてセイの口から出た言葉だった。

 

「お母さん——セイのお母さんは、どうしたの?」

 

 セイの尻尾が動きを止めた。黄金色の目が、一瞬だけ曇る。

 

「……いない。大きい獣が来て。おかあさんが戦って。セイは逃げてって言われた。それから——ここに来た」

 

 淡々と語るセイの声に、感情がないわけではなかった。むしろ、感情が多すぎて処理できていないような、そんな声だった。

 

「そっか」

 

 それ以上は訊けなかった。訊くべきではないと思った。

 

 セイの頭に手を置いた。鶏冠の根元あたり。セイがぴくりと体を硬くして——それから、ゆっくりと力を抜いた。目を閉じる。

 

「セイは強いよ。一人で、ここまで逃げてきたんだから」

 

「…………」

 

「お母さんの分まで、とは言わない。でも、セイが生きていることが——たぶん、お母さんが一番嬉しいことだと思う」

 

 わからない。モンスターの親子関係がどういうものなのか、私には想像することしかできない。的外れなことを言っているかもしれない。

 

 でも——セイが私の手に頬を擦り付けてきた。鱗の頬。冷たくて、滑らかで。

 

「あおいあるじは——おかあさんみたい」

 

「え——いや、私まだ十七だし、お母さんって年齢じゃ——」

 

「おかあさんみたい」

 

 セイが繰り返した。目を開けて、真っ直ぐにこちらを見て。

 

「……ありがとう」

 

 お母さんか。

 

 自分の母のことを思い出す。カレーの匂い。夕焼けのリビング。「おやすみ」の声。

 

 目の奥がまた熱くなった。

 

 でも今は、手のひらの下にセイの温度がある。この子がここにいる。それだけで——十分だ。

 

 変化が起きたのは、リゼが外の偵察から戻ってきた時だった。

 

 いつもより早い帰還だった。走ってきたのか、息が上がっている。

 

「人がいる」

 

 リゼの一言で、空気が変わった。

 

「どこに」

 

「崖の下。森の中を、南から北へ向かっている。四人。武装している——冒険者か、傭兵か。あるいは——」

 

 リゼが言葉を切った。

 

「盗賊団?」

 

「わからない。遠くからしか見てない。でも——歩き方が軍隊式じゃなかった。統制が取れていない。冒険者にしては装備が揃いすぎている。盗賊か、あるいは盗賊崩れの傭兵か」

 

「こっちに向かってる?」

 

「方角的には——微妙だ。このまま北に抜けるかもしれないし、崖沿いに東へ曲がるかもしれない。ただ——」

 

 リゼが視線を落とした。

 

「ダンジョンの入り口、最近だいぶ広くなっただろ。魔力の匂いが外に漏れてるかもしれない。魔力に敏感な奴がいたら——」

 

「嗅ぎつける」

 

「ああ」

 

 沈黙が落ちた。

 

 コアが脈動する。前よりもずっと力強い脈動。それは同時に、このダンジョンの存在を外に知らしめている。

 

 皮肉だった。強くなればなるほど、見つかりやすくなる。

 

「全員戦闘員なら——四人は厳しいか」

 

「通路で一人ずつ相手にできれば、ゴーレムと罠で対処できるかもしれない。でも、彼らがまっすぐ突っ込んでくるとは限らない。慎重に探りを入れてくるかもしれない。罠を警戒して、解除しながら進んでくるかもしれない」

 

「盗賊ならそういうこと、慣れてるよね」

 

「慣れてる」

 

 リゼの声は平坦だった。自分がかつてその側にいたことを、意識しているのだろう。

 

「あおいあるじ——」

 

 セイが不安そうに寄ってきた。

 

「大丈夫。まだ来るって決まったわけじゃないよ。準備だけしておこう」

 

 でも、心臓が速く打っていた。

 

 魔獣の時とは違う。魔獣は本能で動く。追い払えば去る。でも人間は——目的を持って来る。コアを狙って。

 

 ダンジョンコアの価値。魔力の保有量が増えるほど高くなる。売れるのか、使えるのか、具体的にはわからない。でも、コアを欲しがる人間がいるということだけは、あの最初の知識の断片が教えてくれていた。

 

「守る」

 

 声に出した。自分に言い聞かせるように。

 

「守るよ。ここを」

 

 リゼが頷いた。セイがこくりと頷いた。

 

 準備は急ピッチで進めた。

 

 まず、入り口周辺の罠を強化。落とし穴を三つに増やし、深さを腰から胸に。底に尖った石を生やした。殺すためではなく——殺してしまうかもしれないけれど——入れさせないために。

 

 通路の分岐をさらに複雑にした。囮の通路を二本追加。どちらも行き止まりだけれど、途中までは本物の通路と区別がつかないようにした。壁の苔の発光パターンを同じにして、空気の流れも調整する。

 

 戦闘ゴーレムを通路の要所に配置。盾腕のゴーレムがメインの防衛ラインに、体当たり用のガルがその後方に。ゴルは予備として待機。

 

 スライムは感知網に徹する。戦闘には参加させない。彼らの役目は、敵の位置と数を私に伝えること。

 

 セイは——

 

「セイ。戦わなくていいよ」

 

「戦う」

 

「危ない」

 

「セイ、毒がある。通路に毒をまける。敵がすべる」

 

「すべる?」

 

「セイの毒、麻痺毒。触ると体がしびれる。通路の床にまいておけば、踏んだ敵が動けなくなる」

 

 ——それは確かに有効だ。直接戦闘ではなく、罠の一部として機能する。

 

「……前線には出ないで。毒をまいたら、すぐにコアの部屋まで戻って」

 

「うん。約束する」

 

 セイがこくりと頷いた。まっすぐな目。

 

 お母さんに守られて逃げた子供が、今度は自分が守る側に立とうとしている。

 

 止める権利が私にあるのか——ある。ダンジョンマスターとして、セイに命令する権限がある。でも、命令で止めたくなかった。セイの意思を尊重したかった。だから、条件をつけた。

 

「危ないと思ったら、すぐに逃げて。判断は任せる。セイが危ないと思った瞬間に逃げていい。誰にも責められないから」

 

「わかった」

 

 あとは——待つだけだった。

 

 来るかどうかもわからない相手を。

 

 来た。

 

 スライムの感知網が反応したのは、リゼの報告から体感で半日ほど後のことだった。

 

 四つの気配。崖を登ってくる。

 

「来た。四人。崖を登ってる」

 

 私の声に、全員が動いた。

 

 リゼが短剣を手に通路へ。セイが蛇体で通路を滑り、入り口近くの床に毒液を塗布していく。ゴーレムたちが所定の位置に着く。

 

 私はコアの部屋にいる。ここから動けない——動かない方がいい。コアの傍にいれば、ダンジョン全体を感知できる。スライムの目を通じて、侵入者を監視できる。罠を遠隔で起動できる。

 

 入り口のスライムが捉えた映像——映像とは少し違う、感覚の塊——が頭に流れ込む。

 

 四人。男が三人、女が一人。革鎧に剣。一人は弓を持っている。冒険者の装備に見えるけれど、リゼの言う通り、統制が取れていない。各自が勝手に動いている。

 

 先頭の男が入り口の穴を覗き込んだ。

 

「——ダンジョンだ。間違いない。魔力が濃い」

 

 声がスライムを通じて伝わってくる。低い声。中年の男。

 

「規模は?」

 

「わからん。入ってみないと。だが——小さいだろうな。こんな辺鄙な場所の無名ダンジョンだ」

 

「コアはあるのか」

 

「あるから魔力があるんだろうが。問題は大きさだ。ショボいコアなら来た甲斐がない」

 

 会話の内容から、冒険者ではなさそうだった。コアを「商品」として見ている。盗賊か、あるいはそれに近い何か。ダンジョンコアを狙う専門の——

 

「入るぞ。俺が先頭だ。ミラ、後方を頼む」

 

「了解」

 

 女の声。低くて、落ち着いた声。

 

 一人目が入り口に体を入れた。

 

 広い通路——ゴルが広げた通路を、警戒しながら進む。壁を確認し、天井を見上げ、床を注意深く見ている。罠を警戒しているのだ。

 

 最初の落とし穴の手前で、足を止めた。

 

「床の色が違う。罠だ」

 

 避けられた。

 

 二つ目も。三つ目も。彼らは慎重に、一歩ずつ床を確認しながら進んでいく。プロだ。ダンジョンに慣れている。

 

 でも——セイの毒は。

 

 四つ目の落とし穴を避けた先頭の男が、次の一歩を踏み出した。セイが塗布した毒液の上に。

 

 透明な液体。床の岩と区別がつかない。

 

 男の足が滑った。

 

「っ——何だ!?」

 

 体勢を崩して、壁に手をついた。立て直そうとして——足が動かない。

 

「足が——しびれる! 毒だ! 床に毒が——」

 

 後続の三人が足を止めた。

 

「下がれ!」

 

 先頭の男が後退しようとするが、足の感覚がない。膝から崩れ落ちる。後ろの男が腕を掴んで引きずり戻す。

 

 この間に——

 

 天井の罠を起動する。石のブロックが落下。先頭の男がいた場所の真上から。

 

 男はすでに引き戻されていたので直撃はしない。でも、通路が瓦礫で半分塞がれる。前進しにくくなる。

 

「罠だらけだ。マスターがいるぞ」

 

「当たり前だ。コアがあるんだからマスターもいる。——想定通りだろ」

 

 女——ミラの声。冷静だった。

 

「ルカの足が効かない。運べるか」

 

「応急処置する。カイ、前を見張れ」

 

 弓の男——カイが弓を構えて、通路の奥を睨む。残りの一人がルカと呼ばれた先頭の男を後方に運ぶ。

 

 ミラがルカの足を調べている。

 

「ラミアの麻痺毒だな。珍しい。この規模のダンジョンにラミアがいるのか」

 

 ——知識がある。毒の種類を特定できるほどの。

 

「解毒は?」

 

「持ってる。でも時間がかかる。ルカは一旦外に出せ。三人で行く」

 

「三人で足りるのか」

 

「小さいダンジョンだ。マスターもモンスターもたかが知れてる。罠さえ気をつければ——」

 

 ミラの声は自信に満ちていた。

 

 三人が再び前進を開始した。今度は床を足で確認しながら。毒液のある場所を慎重に避けて。

 

 分岐点に到達する。本通路と、囮の通路。

 

「二手に分かれるか?」

 

「馬鹿。分かれるな。各個撃破されるぞ。——こっちだ」

 

 ミラが迷いなく本通路を選んだ。

 

「なぜわかる」

 

「空気の流れ。コアがある方が魔力を含んだ空気の流れが強い。こっちの方が濃い」

 

 ——読まれている。空気の流れまで計算に入れるべきだった。

 

「リゼ」

 

 コアの部屋から声を張る。通路に反響する。

 

「聞こえてる」

 

 リゼの声が、防衛ラインの手前から返ってきた。

 

「三人来る。一人は弓。女が指揮してる。頭がいい。罠はほぼ見破られてる」

 

「了解。——ゴーレムは?」

 

「配置通り。盾が前、ガルが後ろ。でも——」

 

 正直に言うべきだ。

 

「厳しいかもしれない。相手は慣れてる」

 

「…………」

 

 短い沈黙の後、リゼが言った。

 

「一つ、提案がある」

 

「何」

 

「私が出る」

 

「リゼ」

 

「聞け。私が姿を見せて、話をする。この前みたいに——最初にあんたに会った時みたいに。戦う前に、話ができるかもしれない」

 

「相手は盗賊かもしれないんだよ。話が通じる保証なんか——」

 

「だからこそだ。盗賊の考え方は私が一番よく知ってる。コアを壊す目的じゃなくて、売る目的で来てるなら——交渉の余地がある」

 

「交渉って——何を差し出すの。コアは渡せない」

 

「コアじゃない。魔鉱石だ」

 

 魔鉱石。ゴルが掘り出した赤い鉱石。コアに吸収させずに残してあるものが、いくつかある。

 

「魔鉱石に価値があるなら、それを渡して帰ってもらう。ダンジョンを荒らすよりも割のいい取引だと思わせる」

 

「……できる?」

 

「やってみなきゃわからない。でも——あんたが守るって言ったんだろ。守り方は一つじゃない。戦わずに済むなら、それに越したことはない」

 

 リゼの声は落ち着いていた。震えていなかった。

 

 怖くないのか——怖いに決まっている。盗賊団から逃げてきた少女が、また盗賊の前に立とうとしている。

 

 でも、リゼの判断は正しい。三人の武装した相手と正面から戦えば、ゴーレムが何体いても被害が出る。このダンジョンの戦力で確実に勝てる保証はない。

 

「——わかった。でも、交渉が決裂したらすぐに下がって。ゴーレムの後ろまで」

 

「約束する」

 

「前に出ないって約束、まだ有効だからね」

 

「覚えてるよ」

 

 リゼが通路を歩いていく足音が聞こえた。

 

 スライムを通じて、リゼの姿を追う。防衛ラインのゴーレムの前を通り過ぎて、通路の中ほどへ。

 

 侵入者たちが近づいてくる。松明の光が通路の壁を照らす。

 

 リゼが通路の真ん中に立った。短剣を鞘に収めたまま。両手を広げて——武器を持っていないことを示すように。

 

「止まれ」

 

 リゼの声が通路に響いた。

 

 三人が足を止めた。松明の光がリゼの顔を照らす。

 

 先頭のカイが弓を引いた。矢がリゼに向けられる。

 

「撃つな」

 

 ミラが制止した。カイの腕を押し下げる。

 

「……誰だ」

 

 ミラがリゼを値踏みするように見た。四十手前くらいの、痩せた女。黒い髪を短く切っていて、目が鋭い。

 

「このダンジョンの——住人だ」

 

「住人? 人間がダンジョンに住んでるのか」

 

「事情がある」

 

「マスターか?」

 

「違う。マスターは奥にいる。私は代理で話をしに来た」

 

 ミラが目を細めた。

 

「話?」

 

「あんたたちの目的はコアだろう。でも、このダンジョンのマスターは生きてる。コアを奪うなら、マスターを殺すことになる」

 

「ダンジョンマスターを殺すのは珍しいことじゃない」

 

「そうだな。でも、殺さなくても手に入るものがあるとしたら?」

 

 リゼが懐から——赤い鉱石を取り出した。魔鉱石。コアの光とは違う、暗い赤色の輝き。

 

 ミラの目が動いた。鉱石を見て、一瞬だけ、瞳孔が開いた。

 

「——魔鉱石か」

 

「このダンジョンの壁から採れる。魔力を含んだ良質な鉱石だ。コアを壊して一回きりの稼ぎを得るより、定期的にこれを受け取った方が長期的には得だと思わないか」

 

 交渉だ。リゼが盗賊の論理で、盗賊に語りかけている。

 

 ミラが腕を組んだ。考えている。

 

「定期的に、というのは?」

 

「月に一度——いや、あんたたちが望む頻度で。ダンジョンが成長すれば、採掘量も増える。ダンジョンを壊さない方が、長い目で見れば実入りがいい」

 

「……面白いことを言う。盗賊の口説き文句みたいだ」

 

 リゼの肩がわずかに強張ったのが、スライム越しにもわかった。

 

「まあいい。——マスターと直接話がしたい」

 

「それはできない」

 

「なぜだ」

 

「マスターは外気に触れられない。コアの部屋から出られない」

 

「なら私たちがコアの部屋に行く」

 

「それも無理だ。武装した四人を——三人を、コアの前まで通すわけにはいかない」

 

 ミラが薄く笑った。

 

「信用がない、か」

 

「当然だろう。あんたたちが何者か、こっちにはわからない」

 

「お互い様だ」

 

 沈黙が数秒。

 

 ミラが後ろの二人に目配せした。何かの合図。

 

 ——まずい。

 

 直感だった。合理的な判断ではなく、スライムを通じて伝わってくる「気配」の変化。ミラの体から発する殺気——いや、殺気というほど強くない。でも、交渉の空気が変わった。

 

「リゼ、下がって」

 

 コアの部屋から叫んだ。声が通路に反響する。

 

 リゼが反応するより早く、ミラが動いた。

 

 腰の剣を抜く動作が速い。リゼが後ろに跳ぶ。剣先がリゼの革鎧の胸元を浅く裂いた。

 

「交渉決裂だ。悪く思うなよ、小娘」

 

 ミラの声は冷たかった。

 

「コアを壊すつもりはない。生かしておいた方が得なのはわかってる。だが——マスターを制圧して、このダンジョンを丸ごと管理下に置く。その方がもっと得だ」

 

 リゼが短剣を抜いた。

 

 カイの弓が引かれる。

 

「下がれ、リゼ!」

 

 ゴーレムが動いた。私の命令に応じて、通路を突進する。盾腕を前面に構えて、リゼとミラの間に割り込む。

 

 矢が盾に弾かれた。火花が散る。

 

 リゼがゴーレムの背後に転がり込んだ。

 

「言っただろ、前に出るなって!」

 

「今は喧嘩してる場合じゃないだろ!」

 

 その通りだ。

 

 ミラが剣を構えて、ゴーレムを観察している。冷静に。弱点を探すように。

 

「石のゴーレムか。——カイ、関節を狙え。岩の継ぎ目だ」

 

 カイが弓を引く。矢がゴーレムの肘——腕と胴体の隙間に突き刺さった。ゴーレムの動きが一瞬鈍る。

 

 もう一本。膝の裏に命中。ゴーレムが片膝をつく。

 

 ガルが後方から突進した。体当たり。ミラが横に飛んで避ける。カイが壁に押し付けられて弓を落とした。

 

 三人目の男が剣を振るう。ガルの背中に刃が食い込む。岩が砕ける音。

 

「ガル——!」

 

 ガルが振り返って体当たりする。男が吹き飛ぶ。壁に激突して、動かなくなった。気絶。

 

 でもミラは無傷だ。ガルの攻撃を冷静に見切って、距離を取っている。

 

「——ゴーレムだけか。他にモンスターはいないのか? 随分と手薄だな」

 

 ミラが剣を構え直す。盾ゴーレムの足元を狙って踏み込む。

 

 ゴルが飛び出した。猫サイズの体で、ミラの足元に潜り込む。ミラが驚いてよろめく。その隙に盾ゴーレムが腕を振る——が、ミラは体勢を崩しながらも剣でゴーレムの盾腕のひびを突いた。

 

 腕が砕けた。

 

 盾が——なくなった。

 

 ゴーレムが後退する。片腕を失って、もう壁にはなれない。

 

「終わりだな」

 

 ミラが歩みを進める。

 

 ——このまま押し込まれたら、コアの部屋まで到達される。制圧されたら、このダンジョンは彼らの管理下に置かれる。

 

 私は——

 

 私自身が、何もできないまま——

 

「…………いやだ」

 

 声が漏れた。

 

 小さな声。でも、体の底から絞り出すような。

 

 嫌だ。ここを奪われたくない。この場所を。リゼがいて、セイがいて、ゴルがいて、スライムたちがいる——この場所を。

 

 コアに両手を置いた。

 

 魔力を引き出す。蓄えた全て。この数日間——数週間かもしれない——で積み上げた全ての魔力を。

 

 体が燃えるように熱くなった。視界が白く飛ぶ。

 

 ——ダンジョンそのものを、動かす。

 

 通路の壁が軋んだ。天井が揺れた。床が波打った。

 

 地震——ではない。ダンジョンの構造を、リアルタイムで変形させている。ミラたちがいる通路を——狭める。天井を下げる。壁を迫り出させる。

 

 ミラが異変に気づいた。

 

「——何だ!?」

 

 天井が落ちてくる。壁が押し寄せてくる。通路が彼女たちを押し潰そうとしている。

 

「撤退! 下がれ!」

 

 ミラが叫んだ。冷静だった彼女の声に、初めて焦りが混じる。

 

 三人——気絶した男を一人がかついで——入り口に向かって走り出す。通路が背後から閉じていく。追い立てるように。殺すためではなく——出ていかせるために。

 

 入り口から弾き出されるように、三人が外に飛び出した。

 

 通路が——入り口が——狭まる。人一人通れないくらいに。

 

 そして——止まった。

 

 全てが、止まった。

 

「——」

 

 手を離した。

 

 コアから手を離した瞬間、体中の力が抜けた。膝が折れて、床に崩れ落ちた。視界が暗い。体が——重い。指先の感覚がない。

 

「葵!」

 

 リゼの声。遠い。すぐ傍にいるはずなのに、遠い。

 

「あおいあるじ!」

 

 セイの声。泣いている?

 

「だい、じょうぶ……」

 

 大丈夫じゃない。声が出ない。意識が沈んでいく。コアの光が——弱い。弱すぎる。魔力を使いすぎた。ほとんど枯渇している。

 

 コアと繋がっている自分の体も——

 

「寝るな! 目を開けろ!」

 

 リゼの手が頬を叩いた。痛い。でも、その痛みが意識を繋ぎ止める。

 

「——し、ぬ?」

 

「死なせるか! 寝るな!」

 

 セイの蛇体が腰に巻きつく。冷たい。でも——

 

「あおいあるじ、しんじゃだめ。だめ。しんじゃだめ」

 

 セイが泣いている。子供の泣き声。甲高い、引きつるような。

 

「おかあさんもいなくなって——あおいあるじもいなくなったら——セイ——」

 

 ——ああ。

 

 駄目だ。死ねない。死にたくない。

 

 この子が泣いている。リゼが叫んでいる。

 

 死ぬわけにいかない。

 

 コアに——もう一度手を。かろうじて動く指先で、コアの表面に触れる。魔力はほとんど残っていない。でも——ゼロじゃない。

 

 ゼロじゃないなら。

 

 意識を集中する。残りの全てを、自分の体の維持に。ダンジョンの構造でも、モンスターの生成でもなく。ただ、生きるために。

 

 脈動。

 

 弱い。弱い脈動。でも——ある。

 

 心臓が動いている。コアが光っている。

 

 まだ——終わっていない。

 

「…………りぜ」

 

「ここにいる」

 

「せい」

 

「ここにいるよ、あおいあるじ」

 

 二人の声が聞こえる。

 

 ゆっくりと、意識が戻ってくる。視界が明るくなっていく。コアの光が——ほんのわずかに——強さを取り戻している。

 

 外からの魔力の流入。通路は狭まったけれど、完全には塞いでいない。わずかな隙間から、外気が、魔力が、じわじわと入ってくる。

 

 点滴のように。

 

 ゆっくりと。ゆっくりと。

 

「……ごめん。無茶した」

 

「無茶なんてもんじゃないぞ。死にかけただろ」

 

「うん。——でも、追い出せた」

 

「…………ああ。追い出した」

 

 リゼの声が震えていた。怒っているのか、安堵しているのか。たぶん両方。

 

「りぜ、泣いてる?」

 

「泣いてない」

 

「目、赤いよ」

 

「セイ、黙れ。——泣いてない」

 

 泣いていた。たぶん。

 

 私は床に横たわったまま、天井を見上げた。苔の光。ぼんやりとした青白い光。

 

「……ねえ、リゼ」

 

「なんだ」

 

「入り口、また広げなきゃね。魔力を取り込むために」

 

「——今はいい。今は寝ろ」

 

「でも——」

 

「寝ろって言ってるんだ。馬鹿」

 

 リゼの手が、私の手を握った。温かい手。人間の手。

 

 反対側から、セイの手が重なった。冷たい鱗の手。小さな手。

 

「二人とも——」

 

「寝ろ」

 

「おやすみ、あおいあるじ」

 

 目を閉じた。

 

 今度は夢を見なかった。

 

 どのくらい眠ったのかわからない。

 

 目を覚ました時、コアの光は前よりも少しだけ明るくなっていた。ほんの少しだけ。

 

 右手にリゼ。壁にもたれて眠っている。私の手を握ったまま。

 

 左手にセイ。蛇体を丸くして、私の腕に巻きついたまま眠っている。

 

 体は——まだ重い。でも、あの時のような「消えていく」感覚はなくなっていた。

 

 コアに触れる。魔力の残量を確認する。——最低限。スライム一匹分にも満たない。でも、回復し始めている。

 

 ダンジョンの状態を確認する。通路は歪んでいる。あの時無理やり変形させた名残が、そこここに残っている。壁がひび割れ、天井が傾き、床が波打っている。入り口はほぼ塞がっている。拳ひとつ分の隙間しかない。

 

 それでも——その隙間から、外の空気が入ってきている。魔力を含んだ空気が。

 

 ゆっくりと。少しずつ。

 

 ゴーレムたちの状態を確認する。盾ゴーレムは片腕を失って機能停止寸前。ガルは背中に深い傷を負って動きが鈍い。ゴルだけは無事だ。穴掘り担当の小さなゴーレムが、通路の修復を始めていた。誰に命令されたわけでもなく、自主的に。

 

「……ゴル」

 

 呼びかけると、遠くからかちゃかちゃという足音が聞こえた。ゴルがコアの部屋に駆けてきた。猫サイズの石の体で、私の手元に寄ってくる。

 

「ありがとう。働き者だね」

 

 ゴルは何も答えない。石だから。でも、私の手のそばで動きを止めて、じっとしている。待機しているのだ。次の指示を。

 

「ゆっくりでいいから。入り口を少しだけ広げて。人が通れるくらいに」

 

 ゴルがかちゃかちゃと走っていった。

 

 リゼが目を開けた。

 

「起きたか」

 

「うん。——リゼ、怪我は」

 

「かすり傷だ。大したことない」

 

 革鎧の胸元が裂けている。その下の肌が少し見えた。目を逸らす。

 

「あいつら——また来るかな」

 

「……わからない。でも、このダンジョンが通路ごと変形するって知った以上、気軽には入ってこないと思う。あの女——ミラは合理的な判断をするタイプだ。リスクが高い相手には慎重になる」

 

「でも、諦めたわけじゃないかもしれない」

 

「ああ。だから——」

 

 リゼが私の手を見下ろした。まだ握ったままだったことに気づいたのか、ぱっと離した。

 

「——だから、強くなるしかない。今回みたいな無茶はもうさせない。もっと——計画的に」

 

「リゼに作戦参謀を任せようかな」

 

「参謀?」

 

「指揮官。全体の作戦を考える人。リゼの方が私より戦術に詳しいし」

 

「…………買いかぶるなよ」

 

「買いかぶってない。あの交渉だって、リゼがいなかったら最初から戦闘になってた。時間を稼いでくれたから、こっちも準備できた」

 

 リゼが黙った。

 

「——あの時」

 

 リゼが、ぽつりと言った。

 

「あんたが倒れた時。——本気で、怖かった」

 

「……ごめん」

 

「謝るなよ。あんたが守ってくれたんだ。でも——もう、ああいうのは——」

 

 言葉を切って、リゼが顔を伏せた。

 

「死ぬかと思った。あんたが死ぬかと思った。それが——こんなに怖いって、知らなかった」

 

 リゼの声が、掠れていた。

 

「誰かを失うのが怖いなんて、思ったことなかった。盗賊団にいた頃は、誰かが死んでも——何とも思わなかった。思わないようにしてた。でも——」

 

「リゼ」

 

「あんたが死んだら、私は——」

 

「死なないよ」

 

 リゼの手を取った。今度は私から。

 

「死なない。約束する」

 

「……約束ばっかりだな、私たち」

 

「約束が多いのはいいことだよ。守るものが多いってことだから」

 

 リゼが顔を上げた。

 

 泣いていた。声は震えていなかったけれど、目尻に光るものがあった。

 

 綺麗だと思った。

 

 泣いているリゼが綺麗だと思うのは不謹慎かもしれない。でも、思ってしまった。

 

「——ありがとう」

 

 リゼが言った。

 

「こちらこそ」

 

「何がこちらこそだよ。あんたは命がけで守ったんだろ。こっちが感謝する側だ」

 

「リゼがいてくれたから、守れたんだよ。守りたい人がいたから、無茶もできた」

 

「…………」

 

 リゼが目を逸らした。耳が赤い。

 

「あおいあるじー。セイもいるよー」

 

 セイが腕から顔を出した。起きていたのか。いつから。

 

「セイも守ったよ。毒まいたよ」

 

「うん。セイも頑張った。ありがとう」

 

「えへへ」

 

 セイが鶏冠をぴくぴく動かした。

 

 リゼがセイの頭をぽんと叩いた。

 

「あんたも頑張ったな」

 

「りぜにほめられた!」

 

「……別に褒めてないけど」

 

「褒めたー!」

 

 セイがリゼに巻きつこうとして、リゼが「暑い」と文句を言って、セイが「セイは冷たいよ」と反論して。

 

 コアの光の中で、小さな騒ぎが起きている。

 

 私はそれを見ながら——笑っていた。

 

 数日後。

 

 コアの魔力はゆっくりと回復していた。ゴルが入り口を少しずつ広げて、外からの魔力流入も再開している。

 

 あの四人は戻ってこなかった。リゼの読み通り、慎重になっているのか、それとも他の標的に移ったのか。どちらにせよ、猶予をもらったことには違いない。

 

 盾ゴーレムは修復中。ガルも回復中。新しいモンスターの生成は、もう少し魔力が貯まってから。

 

 セイの毒の精度が上がった。自分でコントロールできるようになったらしく、麻痺毒の濃度を調整して、長時間効果が続くものと、短時間だけ効くものを使い分けられるようになっている。

 

「セイ、すごいね」

 

「えへへ。おかあさんに教えてもらったの。ちっちゃい時に。ずっと練習してなかったけど——思い出した」

 

 セイの表情が一瞬だけ翳って、すぐに戻った。

 

 強い子だ。

 

 リゼは外の偵察を再開していた。あの四人の痕跡を探るため、そして——

 

「南の集落に行ってみようと思う」

 

「え?」

 

「煙が見えてただろう。まともな集落なら、物資の調達ができるかもしれない。塩とか、布とか。魔鉱石を通貨代わりに使えないかと思って」

 

「危なくない?」

 

「歩いて半日。日帰りはできないかもしれないけど——」

 

「リゼがいない間は——」

 

 不安だった。正直に。リゼがいない時間が、怖い。

 

「セイがいる。ゴーレムもいる。スライムの感知網もある。——葵」

 

 名前で呼ばれた。二度目。

 

「あんた一人で守れるようになってるんだぞ。もう」

 

「…………」

 

「最初に会った時は、スライム一匹しかいなかった。今は——」

 

 リゼが指を折って数えた。

 

「スライム七匹。ゴーレム三体——一体は修復中だけど。ラミアが一匹。罠がいくつも。そして——ダンジョンそのものを動かせるマスターが一人」

 

「無茶したらまた死にかけるよ」

 

「だから、無茶しなくていいように準備するんだ。私が外から物資を持ち帰る。あんたが中を固める。セイが偵察と毒の罠を担当する。——役割分担だ」

 

 リゼの目は真っ直ぐだった。

 

 あの、ダンジョンに逃げ込んできた時の——疲弊して、怯えて、何もかも失った顔ではなかった。

 

 目的を持った人間の目。守るべきものを見つけた人間の目。

 

「……いってらっしゃい」

 

「行ってくる」

 

 リゼが通路に向かう。途中で足を止めて、振り返った。

 

「あのさ——帰ったら、風呂入っていいか」

 

「当たり前でしょ」

 

「あんたも一緒に入れよ。背中流すから」

 

「……は?」

 

「じゃあな。セイ、葵を頼んだぞ」

 

「りぜいってらっしゃい!」

 

 リゼが手を振って、通路の闇に消えた。

 

 心臓がどきどきしていた。なんでだろう。帰りを待つからだろうか。それとも——

 

「あおいあるじ、かおあかい」

 

「……うるさい」

 

「あかいよー」

 

「うるさいって」

 

 セイが楽しそうに笑った。

 

 コアの光が脈動する。ゆっくりと。確かに。

 

 この場所に来て——何日経ったのだろう。何週間だろう。

 

 まだ何もわからないことだらけだ。この世界のことも、自分がなぜここにいるのかも、帰る方法があるのかも。

 

 でも。

 

 わかったこともある。

 

 一人じゃないということ。

 

 守りたいものがあるということ。

 

 守りたいものがあると、人は強くなれるということ。——それと同時に、脆くもなるということ。

 

 リゼが「怖い」と言った。誰かを失うのが怖いと。私もそうだ。リゼを失うのが怖い。セイを失うのが怖い。この小さなダンジョンの住人たちを——スライムも、ゴルも、ガルも——失うのが怖い。

 

 怖いから、強くなりたい。

 

 強くなるから、もっと大切なものが増えて、もっと怖くなる。

 

 その繰り返しの先に、何があるのかはわからない。

 

 でも——悪くない。

 

 この暗い、光の届かない場所で。

 

 私は息をしている。

 

 しっかりと。

 

 確かに。

 

 コアが脈動する。

 

 私の心臓が、それに応える。

 

 セイが私の膝の上で丸くなって眠っている。尻尾がゆっくりと揺れている。

 

 入り口の方から、かすかに風の音がする。外の世界の音。

 

 いつか、その音の向こうへ手を伸ばす日が来るかもしれない。いつかは。

 

 今は——ここでいい。

 

 ここが、私の世界だ。

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