リゼが帰ってきたのは、出発からおよそ二日後のことだった。
スライムの感知網が入り口付近に人の気配を捉えた瞬間、心臓が跳ねた。一人。足取りは疲労しているけれど、覚えのあるリズム。左足をわずかに引きずる癖がある歩き方。
リゼだ。
「セイ、リゼが帰ってきた」
「りぜ!」
セイが蛇体を伸ばして通路を滑っていった。私もコアの部屋を出て、途中まで迎えに行く。
通路の向こうから現れたリゼは、出発時よりさらにぼろぼろだった。
革鎧の肩当てが片方なくなっている。髪が乱れて、頬に乾いた泥がこびりついている。背中には見慣れない麻袋を背負っていて、それが重いのか、体が右に傾いている。
でも——顔は晴れやかだった。
「ただいま」
「おかえり。……ひどい格好」
「山道を歩いたらこうなった。獣道しかないんだぞ、あの集落までの道」
セイがリゼの足元にするすると寄っていって、蛇体をリゼの脛に巻きつけた。
「りぜ、おかえり!」
「ただいま。——おい、巻きつくな。歩けないだろ」
「やだ」
「やだじゃない」
リゼがセイを引きはがそうとして諦めて、セイを脛に巻きつけたままずるずると歩いてきた。コアの部屋に入って、麻袋をどさりと下ろす。
「成果は?」
「上々」
リゼが麻袋を開いた。中から出てきたのは——
塩。布。干し肉。火打ち石。細い縄。そして、小さな金属の鍋。
「すごい。これ全部?」
「魔鉱石三つと交換した。思ったより高く売れた。あの集落——ルーアの村っていうんだけど——小さいけどまともな場所だった。鍛冶師が一人いて、魔鉱石の価値をわかってた」
干し肉を手に取る。固い。でも匂いは——肉だ。本物の肉の匂い。
「これ——食べていい?」
「あんたのために買ったんだろうが」
齧る。固い。顎が痛い。でも——味がする。塩味と、肉の旨味。キノコと果実しか食べていなかった体に、それは暴力的なほどの美味だった。
「……おいしい」
声が震えた。自分でも驚いた。たかが干し肉で泣きそうになるなんて。
「セイもー」
セイに干し肉を千切って渡す。セイがもぐもぐと咀嚼する。鶏冠がぴくぴく動く。
「……おいしい?」
「かたい」
「正直だね」
「でも、おいしい」
リゼが麻袋の底から、もう一つ何かを取り出した。
布に包まれた小さなもの。手のひらサイズ。慎重に包みを開くと——鏡だった。手鏡。磨かれた金属の表面に、ぼんやりと像が映る。ガラスの鏡ではなく、錫か何かの合金を磨いたもの。歪みがあって、鮮明ではないけれど。
「何これ」
「鏡。あんた——自分の顔、見たことないだろ。ここに来てから」
確かに。
水面に映る自分の姿は見たことがあるけれど、ちゃんとした鏡で自分の顔を見るのは——いつぶりだろう。
鏡を受け取って、顔を映す。
黒い髪。白い肌。少し痩せた頬。でも、最初の頃の「死人みたい」な顔色ではない。コアの成長とともに、血色が戻っている。目は——黒い。日本にいた頃と同じ、普通の黒い目。
自分の顔だった。見慣れた、自分の顔。
でもどこか違う。表情が——前より柔らかい気がする。高校生の頃は、もっと無表情だった。別に不幸だったわけじゃないけれど、何かにときめくとか、心から笑うとか、そういうことが少なかった。
今は違う。
鏡の中の自分が、少し笑っていた。
「——ありがとう、リゼ」
「塩と布のついでだ。大した値段じゃなかった」
「ついでじゃないでしょ。私のために選んでくれたんでしょ」
「…………ついでだって言ってるだろ」
リゼがそっぽを向いた。
その横顔を鏡越しに見た。泥だらけで、疲れていて、ぶっきらぼうで——
綺麗だと思った。また。
「あおいあるじ、かおあかい」
「セイ、その指摘いい加減やめて」
「だってあかいもん」
「赤くない」
「あかーい」
リゼが怪訝な顔でこちらを振り返った。
「何の話だ」
「何でもない。——お風呂入る? 約束したでしょ」
「ああ。入りたい。死ぬほど入りたい。二日間水浴びすらしてないんだ」
「じゃあ泉の方に——」
「背中」
「え?」
「流すって言っただろ。あんたの背中」
「——あ、あれ本気だったの?」
「冗談に聞こえたか?」
「いや——」
聞こえなかった。聞こえなかったから困っている。
「セイも入るー」
「セイは——まあ、いいか」
三人で洞窟の泉に向かう。ゴルが修復した通路を抜けて、天然の洞窟に入ると、鍾乳石が苔の光を受けてきらきらと輝いていた。泉の水音が穏やかに響く。
コアの魔力で窪みの水を温める。湯気が立つ。
リゼが迷いなく革鎧を外し始めた。ボロボロのシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ——
「ちょ——先に入ってて。私、後で——」
「何を今さら。前も一緒に入っただろ」
「前は暗かったからよかったの。今はコアの光が明るくなってるから——」
「だからなんだよ。体見られるのが恥ずかしいのか?」
「恥ずかしいに決まってるでしょ!」
「……あんた、変なところで乙女だな」
リゼが呆れたように笑った。すでに下着姿で、躊躇なく窪みに入っていく。
見ないようにしようとして——ちらりと見えた。リゼの体には、古い傷跡がいくつもあった。背中に、腕に、脇腹に。盗賊団にいた頃のものだろう。線状のものや、丸い火傷のようなもの。
訊かなかった。
「あおいあるじ、入らないの?」
「入る。入るけど——セイ、あっち向いてて」
「なんで?」
「いいから」
背を向けて服を脱ぐ。窪みに素早く入る。ぬるい水が肌を包む。
「……ふう」
「気持ちいいだろ」
「うん……」
三人で窪みに収まると、やっぱり狭い。肩がリゼの肩に触れる。セイの蛇体が水中で足に絡む。
「セイ、足に巻きつかないで」
「あったかいから」
「私の足は暖房器具じゃないんだけど」
「あったかいー」
セイの体温が水中で少しずつ上がっていくのがわかる。変温動物だから、温かい水に入ると活発になるのだ。鶏冠がぴくぴく動いて、尻尾がぱしゃぱしゃと水を跳ねさせる。
「暴れるな。水が顔にかかる」
「ごめんねー、えへへー」
全然反省していない。
「……背中」
リゼが言った。
「え」
「流す。こっち向け」
「いや——」
「約束だろ」
約束——いつの間に約束になったのか。でもリゼの目は真剣で、断る空気ではなかった。
おそるおそる背中を向ける。
リゼの手が背中に触れた。水で濡れた手のひら。布の切れ端——たぶんリゼのシャツの残骸——で、背中をゆっくりと擦る。
「……力、強い?」
「大丈夫」
大丈夫ではなかった。力加減の話ではなくて——心臓がうるさくて大丈夫ではなかった。
リゼの手が肩甲骨のあたりを丁寧に洗う。首筋に触れた時、背筋がぞくりとした。
「……あんた、細いな」
「え?」
「骨が浮いてる。もっと食べないと」
「干し肉がこれだけあるから、しばらくは——」
「足りない。次に村に行った時は、もっと買ってくる。あと——穀物が手に入るかもしれない。パンとか」
「パン……」
パン。最後にパンを食べたのはいつだろう。日本での最後の朝食が——トーストだった。バターを塗った食パン。
「——あんた、泣いてるのか」
「泣いてない」
「嘘つけ。背中が震えてるぞ」
「泣いてないってば」
泣いていた。少しだけ。リゼの手が温かくて、パンのことを思い出して、ここではないどこかの朝食の風景が頭をよぎって——
「あおいあるじ、泣いてるの?」
「泣いてない。目にお湯が入っただけ」
「うそだー」
「本当」
「あおいあるじ、うそつくとき鼻がぴくってなるの、セイ知ってる」
「……なにそれ」
リゼが小さく笑った。背中に触れている手が少し震える——笑っているのだ。
「笑わないでよ」
「笑ってない」
「嘘。背中でわかる」
「…………お互い様だな」
背中を流す手が止まって、代わりに——背中に額が触れた。
リゼの額。汗と泥を洗い流した、きれいな額。
「——感謝、してるんだ」
リゼの声は小さかった。背中に押し当てられた唇から漏れるような声。
「ここに来て。あんたに会って。セイがいて。——生まれて初めて、帰る場所ができた」
「…………」
「盗賊団にいた頃は、根城はあったけど、帰る場所じゃなかった。帰りたい場所じゃなかった。でも——ここは」
リゼの声が途切れた。
「帰りたい場所になった。二日間外にいて——早く帰りたいって、ずっと思ってた。あんたとセイのところに帰りたいって」
胸が詰まった。
振り返りたかった。リゼの顔を見たかった。でも振り返ったら——リゼが泣いているかもしれない。見られたくない顔をしているかもしれない。
だから、振り返らなかった。代わりに、自分の手を後ろに伸ばして、リゼの手を探した。水の中で指が絡まった。
「おかえり」
「…………ただいま」
「リゼの帰る場所は、ずっとここだから。どこにも行かない。私はここにいるから」
リゼの指が、きゅっと力を込めた。
「セイもいるよ!」
セイが水の中から顔を出した。空気を読まない完璧なタイミングで。
「セイも、りぜの帰る場所!」
「……ああ」
リゼの声が笑っていた。泣き笑い。背中越しにわかった。
「ああ、そうだな」
泉の水音。
苔の光。
湯気の向こうに、鍾乳石がきらきらと光っている。
風呂上がり——と呼ぶのが正しいのかわからないけれど——三人でコアの部屋に戻った。
リゼは新しい布を体に巻いて、革鎧は脱いだまま。ぼろぼろの革鎧は修繕が必要だけれど、ここには革細工の道具がない。村で新しい防具を調達するか、ダンジョンの素材で何か作るか——課題はまだまだ多い。
干し肉を少しずつ齧りながら、リゼが村の情報を話してくれた。
「ルーアの村。人口は五十人くらい。農業と牧畜が主産業で、鍛冶師が一人、薬師が一人いる。冒険者ギルドの出張所はないけど、たまに行商人が来るらしい」
「友好的だった?」
「最初は警戒された。見知らぬ人間が山から降りてきたんだから当然だ。でも、魔鉱石を見せたら態度が変わった。鍛冶師のじいさんが特に食いついてきた。武器や防具の素材として使えるらしい」
「定期的に取引できそう?」
「できると思う。ただ——」
リゼが言葉を選ぶように間を置いた。
「村長に訊かれた。どこから来たのか、って」
「……なんて答えたの」
「北の山に住んでる、とだけ。ダンジョンのことは言ってない。言ったら面倒なことになる」
「面倒って?」
「ダンジョンがあるとわかったら、冒険者が押し寄せる。この辺りは未開拓地域だから、新規ダンジョンの発見は大ニュースだ。ギルドに報告されたら——」
「管理下に置かれる?」
「最悪の場合はな。コアを回収されて、マスターは——」
リゼが口をつぐんだ。
マスターは、どうなるのか。殺されるのか。捕らえられるのか。利用されるのか。
「……しばらくは秘密にしておいた方がいいね」
「ああ。村との取引は続ける。でも、ダンジョンの存在は伏せる。私が個人的に鉱石を売っている——ということにしておく」
「リゼに負担がかかるね」
「負担って——私はここの住人だぞ。あんたとセイのために動くのは当たり前だろ」
「でも——」
「あのな」
リゼが正面から私を見た。
「私はもう、ここを出て行く気はない。この先何があっても。あんたが追い出さない限り」
「追い出すわけないでしょ」
「なら、対等だ。あんたがダンジョンを守る。私が外とのパイプを作る。セイが中の偵察と防衛を担当する。——三人で、やっていくんだ」
三人で。
「——うん」
頷いた。頷くしかなかった。リゼの目がまっすぐすぎて、逸らせなかった。
「あおいあるじ、セイね、もっと強くなるよ」
セイが膝の上で顔を上げた。
「毒ももっと練習する。あと——おかあさんが教えてくれた、もうひとつの力がある。まだうまく使えないけど」
「もうひとつの力?」
「——ないしょ。使えるようになったら見せる」
セイが得意げに鶏冠を立てた。
「……楽しみにしてる」
「えへへ」
コアが脈動する。
以前よりも大きく、力強く。でもまだまだ小さい。世界にはもっと巨大なダンジョンがあるのだろう。もっと強大なダンジョンマスターがいるのだろう。
でも、ここは私たちの場所だ。
小さくて、暗くて、キノコの味がしないダンジョン。お風呂は狭くて三人で入るとぎゅうぎゅうで、ベッドは岩にキノコを敷いただけで、食事は干し肉と果実と味のないキノコ。
でも——
「ねえ」
「ん」
「なに、あおいあるじ」
「二人とも、目を閉じて」
「は?」
「いいから」
不審そうな顔をしながらも、リゼとセイが目を閉じた。
コアに手を置いて、意識を集中する。ダンジョン内の苔の光を——調整する。
天井の苔を強く発光させる。壁の苔を点滅させる。ゆっくりと、パターンを変えながら。
「——開けていいよ」
二人が目を開けた。
コアの部屋の天井が——星空のように光っていた。
苔のひとつひとつが小さな星のように瞬いて、不規則なリズムで明滅している。青白い光。冷たい光。でも、見上げると——本物の星空に似ている。
似ているだけだ。本物じゃない。地下にいるのだから、本物の空は見えない。
でも。
「…………きれい」
リゼが呟いた。天井を見上げたまま。
「きれー……」
セイが黄金色の目を大きく見開いて、口をぽかんと開けた。尻尾がぱたぱたと興奮気味に揺れている。
「星空——じゃないけど。真似事」
「十分だよ」
リゼが言った。静かな声で。
「十分、きれいだ」
三人で天井を見上げた。偽物の星空。でも、三人で見上げているから——寂しくはなかった。
「……あ」
ふと気づいた。コアの光が——少しだけ、暖かい色に変わっている。青白い光に、ほんのかすかなオレンジが混じっている。
なぜだろう。魔力の質が変わったのか。コアが成長したからか。
それとも——
——私の気持ちが、反映されているのか。
わからない。確かめる方法もない。でも、コアの光が温かくなっているのは——嬉しかった。
「ねえ、二人とも」
「ん」
「なに、あおいあるじ」
「ありがとう。ここにいてくれて」
「——何度目だよ、それ」
「何度でも言うよ」
「…………はいはい」
リゼがそっぽを向いた。耳が赤い。セイが嬉しそうに鶏冠を揺らしている。
偽物の星空の下で、三人が寄り添っている。暗い地下の、小さなダンジョンの、狭い部屋で。
外の世界には脅威がある。盗賊がいる。魔獣がいる。冒険者がいる。いつか——もっと大きな危機が訪れるかもしれない。
でも今は、このぬるい温度の中で。
干し肉を齧って、偽物の星を見上げて、隣にいる人の温度を感じて。
それだけでいい。
明日のことは、明日考える。
リゼが帰ってきた。セイが笑っている。コアが光っている。
それだけで——今は、十分だ。
深夜——だと思う——にふと目が覚めた。
隣でリゼが眠っている。疲労のせいか、いつもより深い眠りに落ちているようだった。寝息すら聞こえないほどの静けさ。
反対側にはセイ。蛇体を丸くして、私の腕を枕にして眠っている。ぷにぷにとした鱗の頬が腕に押し付けられている。
起こさないようにゆっくりと体を起こす。コアに手を触れる。
脈動。穏やかな脈動。
ダンジョンは静かだ。スライムたちも眠っている——スライムが眠るのかどうかわからないけれど、活動が低下している。ゴルは通路の隅で丸くなっている。猫みたいな恰好で。石なのに。
入り口からの外気が、かすかに流れ込んでいる。その中に——夜の匂いがあった。草と土と、冷えた空気の匂い。
外は夜なのだ。
星が出ているのだろう。本物の星が。
見たいと思った。一瞬だけ。
でも、出られない。出たら衰弱する。太陽だけでなく、外気そのものが——
——本当にそうなのだろうか。
試したことがない。コアから得た知識は「外気に触れると衰弱する」だった。でもそれは、どの程度の接触で、どの程度の衰弱なのか。一歩外に出ただけで倒れるのか。数分なら持つのか。
考えて——やめた。今はまだ、リスクを冒す時ではない。
いつか、とは思う。いつかこのダンジョンが十分に成長して、コアの魔力が十分に蓄えられて、外気の影響を跳ね返せるくらいに強くなったら。
その時は——外の空を見てみたい。
星空でも、夕焼けでも、朝焼けでもいい。
リゼと。セイと。一緒に。
「…………いつか、ね」
呟いて、横たわる。
リゼの手が、無意識にこちらに伸びてきた。寝返りのついでのような動きで、指先が私の手に触れる。
握り返す。
セイの尻尾が、もう片方の手首にゆるく巻きつく。
繋がっている。
この小さな暗闇の中で、三人が繋がっている。
コアが脈動する。
私が息をする。
同じリズムで。
少しだけ温かいオレンジ色の光の中で、偽物の星空の下で——眠りに落ちた。
今度は、夢を見なかった。
見る必要がなかった。
だって——目を覚ませば、ここにいるから。
二人が。