時間がない。
コアに手を当てたまま、私は迷宮の透視図を頭の中に広げた。コアの部屋。三本の通路。一本は外へ。残り二本は行き止まり。さっき掘ったばかりの小部屋がひとつ。
これだけ。これだけしかない。
「ルゥ、あの人たちはどのくらいで着く?」
「んー……すこし、とおい。でも、まっすぐこっちにくる」
「迷ってない?」
「ぜんぜん」
つまり、この洞窟の位置を知っている。偶然通りかかったわけじゃない。
考えろ。
今の魔力で新しいモンスターは生み出せない。ルゥを作ったことで、蓄えのほとんどを使い切っている。壁を動かすだけの魔力は、コアが細々と集め続けている分でなんとかなるけれど、大掛かりなことは無理だ。
「ルゥ」
「うん」
「入り口から真っ直ぐ来るとコアの部屋に着いちゃうから、まずそれを防ぐ。通路の途中に壁を作って塞いで、迂回路を掘る」
「うかいろ?」
「回り道。遠回りさせる」
「おー」
コアに意識を集中させた。外に繋がる通路の中間あたり——そこに壁を生やすイメージを描く。
低い振動。岩壁が左右からせり出して、通路を完全に塞いだ。
次に、その手前から右に分岐する新しい通路を掘る。狭めに。人ひとりがかろうじて通れるくらいの幅。天井も低く。
新しい通路は右に折れて、少し進んで左に折れて、また右——
「ぐにゃぐにゃ」
「そう、ぐにゃぐにゃ。見通しが悪い方がいい」
曲がり角をいくつも作った。角を曲がるたびに何が待っているかわからない——そういう恐怖は、物理的な罠より効果があるかもしれない。少なくとも足は遅くなる。
魔力がどんどん減っていく。コアの輝きが目に見えて薄くなった。
最後の曲がり角の先を、コアの部屋に繋げた。ただし、直接ではない。間に一つ、小さな部屋を挟む。
「ルゥ、ここ」
透視図上で、その小部屋を指し示した。
「ここに隠れて。侵入者が通りかかったら——」
「やっつける」
ルゥの目がきらりと光った。
「……大丈夫? 戦えそう?」
「やってみないと、わかんない」
正直な答えだった。生まれてまだ一時間も経っていない。戦闘経験はゼロ。相手は複数の人間。
でも、他に選択肢がない。
「ルゥ」
「うん」
「無理しないで。本当に危なくなったら逃げて」
ルゥが首を傾げた。
「にげたら、りんは?」
「……」
「りんは、にげられないでしょ」
外に出たら衰弱する。この迷宮の外に逃げ場はない。
「だから、にげない」
ルゥは笑った。さっきまでの無邪気な笑みとは少し違う——静かで、揺るぎのない笑み。
「りんが、ルゥをつくった。ルゥは、りんをまもる。それだけ」
胸が、ぎゅっと締まった。
この子は生まれたばかりなのに。世界のことも、自分のことも、まだほとんどわかっていないのに。
私を守ると決めている。
涙が出そうになって、慌てて飲み込んだ。泣いている場合じゃない。
「——わかった。任せる。でも絶対、死なないで」
「しなない。ルゥ、すらいむだから。ぐにゃってなっても、もとにもどるよ。たぶん」
「たぶんって言った今」
「えへへ」
ルゥが小部屋に向かって滑るように移動していく。曲がりくねった通路を、壁をすり抜けるようにして進んでいった。スライムの体は狭い隙間も通れるらしい。
一人になった。
コアの光だけが、静かに明滅している。
「…………」
怖い。正直に言えば、すごく怖い。
前世だって怖いことはたくさんあった。テストの点数が悪いとき。クラスで発表させられるとき。母親に成績表を見せるとき。
でもそういうのとは次元が違う。命が懸かっている。私の命と、ルゥの命と、このコアと。
指先が震えている。握りしめて止めようとしたけれど、止まらなかった。
コアに触れて、外の気配を探った。
四つの足音が、洞窟の入り口に近づいている。もうすぐだ。
声が聞こえた。低い、男の声。
「——間違いねえ、ここだ。魔力の気配がある」
「小せえな。生まれたてか?」
「だからいいんだろ。デカいダンジョンは危険だが、生まれたてならコアを抜くのも楽だ」
笑い声。下品な、嗤うような声。
コアを——抜く。
心臓が凍った。コアを奪われたら、この迷宮は崩壊する。そして迷宮と繋がっている私も——
「もう一つ。ダンジョンマスターがいるかもしれねえ」
「生まれたてなら大した力はない。いたとしても——まあ、売れるだろ」
「ダンジョンマスターの女は高く売れるからな」
また笑い声。
体の底から、震えとは違うものが込み上げてきた。恐怖の中に混じった、熱い感情。
怒り。
勝手に来て。勝手に奪おうとして。勝手に売るとか——
「——ふざけんな」
小さく、歯の間から声が漏れた。自分でも驚くくらい低い声だった。
怖い。震えている。でも——負けるつもりはない。
足音が洞窟の中に入ってきた。松明の明かりが、コアを通じて感じ取れる。通路の壁に橙色の光が揺れている。
四人。全員男。武器を持っている——剣が二人、短弓が一人。もう一人は——
……鎖?
四人目だけ、足音が違った。他の三人は革靴の硬い音。四人目はもっと軽くて不規則で——素足だ。そして、金属が擦れる音が足音に混じっている。
首輪と鎖の音だった。
「おい、引っ張んな。歩くのが遅えんだよ」
「こいつ使い物になんのか? ダンジョンの中でモンスターに反応したら暴れ出すかもしれねえぞ」
「だから首輪をつけてるだろ。魔封じの。こいつ自身の魔力は封じてある。いざってときの壁にはなる」
壁——盾代わりということか。
コアを通じて、四人目の姿をもっとはっきり感じ取ろうとした。でも、魔力の感知にはまだ慣れていなくて、輪郭がぼやけてしまう。わかるのは、他の三人より小柄で、体から微かに——人間とは違う気配がすること。
モンスター?
考えている余裕はなかった。先頭の男が、塞いだ壁の前に到着した。
「おい。行き止まりだ」
「道が変わってる。……ダンジョンマスターがいるな、やっぱり」
「めんどくせえな。横に道がある。こっちか」
迂回路に入ってきた。
狭い通路に四人が縦一列に並ぶ。先頭が剣持ち。次が弓。三人目が剣。最後尾が——鎖に繋がれた四人目。
曲がり角を一つ、二つ、三つ。
足音が慎重になっていく。角を曲がるたびに立ち止まって、先を確認してから進む。思った通り、見通しの悪い構造は心理的な圧迫になっている。
でも——止まりはしない。ゆっくりでも確実に、奥へ進んでくる。
「りん」
コアを通じて、ルゥの声が頭に直接響いた。
「きこえる。あと二つ角を曲がったら、ルゥのいる部屋に出る」
「うん。わかった」
覚悟を決めたルゥの声は、不思議と落ち着いていた。
「ルゥ——最初の一人だけでいい。混乱させて、あとは引かせよう」
「……うん。やってみる」
五つ目の角を先頭の男が曲がった。松明の光がルゥのいる小部屋の入り口を照らす。
六つ目の角。最後の曲がり角。
男が角を曲がった瞬間——
天井から、青い塊が落ちた。
「うわっ——!!」
叫び声。松明が飛んで、地面を転がった。
ルゥだ。天井に張りついて待ち伏せしていたのだ。スライムの体が男の頭と肩を覆い、視界を奪っている。
「なんだ!? 何がいる!?」
「スライムだ! スライムが——」
「剥がせ! 剣で——いや当たる!」
狭い通路で大混乱になった。先頭の男は暴れ回ってルゥを引き剥がそうとしているけれど、スライムの体は掴もうとすると指の間をすり抜ける。
「目がっ——目が見えねえ!!」
いい。いいぞ。
私はコアに集中しながら、ルゥに念じた。
「長居しないで! すぐに離れて!」
ルゥが男の頭から跳ね飛んだ。弾丸みたいに通路の奥へ飛んで、壁の隙間に潜り込む。一瞬で姿が消えた。
男が倒れて、後ろの仲間にぶつかった。狭い通路で将棋倒しになって、四人が折り重なっている。
「くそっ……! たかがスライムが!」
先頭の男が立ち上がった。目を擦りながら、剣を構え直す。顔に怒りが浮かんでいる。
「殺す——」
「待て」
二番目の男——弓を持った男が、冷静な声で制した。
「スライム一匹にしちゃ動きが良すぎる。ダンジョンマスターがモンスターを操ってる可能性がある」
「だったら何だ。スライムだぞ?」
「通路が狭すぎる。こっちの動きも制限されてる。地形ごと利用されたらスライム相手でも厄介だ」
的確な分析だった。この男、頭が切れる。
「……おい、こいつを前に出せ」
弓の男が、最後尾を振り返った。鎖を手繰る。
「モンスターにはモンスターをぶつけりゃいい。こいつの鼻なら、スライムの居場所もわかるだろ」
ずるずると引っ張られて、四人目が前に出された。
松明の光に、その姿が照らし出された。
コアを通じて見ているのに、息が止まった。
少女だった。
私と同じか、少し下くらいの年齢に見える。汚れた麻の衣を纏った、痩せた体。裸足の足は傷だらけで、首には太い金属の輪がはめられている。鎖がそこから伸びて、弓の男の手に握られている。
そして——頭の上に、獣の耳があった。
三角形の、毛に覆われた耳。薄い灰色の毛並みに黒い縞が入っている。汚れた髪の間から覗く耳が、微かに震えていた。
背中の腰あたりからは、同じ色の尾が垂れ下がっている。力なく、地面すれすれで揺れている。
獣人——いや、モンスター? 人間じゃないのは確かだ。
「索敵しろ。スライムの位置を嗅ぎ出せ」
弓の男が鎖を引いた。少女の体が前のめりによろけて、膝をつきかけた。
少女は何も言わなかった。
顔を上げない。目を伏せたまま、黙って鼻を動かしている。灰色の耳がくるくると回って、音を拾っている。
それから——少女がゆっくりと、通路の奥を指差した。
「……いる」
かすれた声だった。声変わり前の少女の声。
「このさき、みぎ。かべの、なか」
ルゥの隠れ場所を、正確に言い当てている。
まずい。
「ルゥ、バレた。移動して」
念じると同時に、ルゥが壁の隙間から流れ出た。液体に戻って床を這い、別の隙間に潜り込む。
灰色の耳がぴくりと動いた。
「……うごいた。もっと、おく」
「案内しろ」
鎖が引かれて、少女が前を歩かされる。盾として。
卑怯だと思った。自分が安全な場所にいて、鎖に繋いだ少女を前に出す。この子がどうなってもいいと思っている。
でも——私にできることは限られている。
ルゥを逃がし続けるか。迷宮を組み替えて時間を稼ぐか。
どっちにしても、根本的な解決にはならない。魔力は減る一方。壁を動かすたびにコアの光が薄くなっていく。
「りん」
ルゥの声が、念話で響いた。
「まえの子——あの子、モンスターのにおい」
「……わかってる」
「あの子も、おなじ。りんとルゥと、おなじがわ」
ルゥの直感は正しいのかもしれない。あの少女は——仲間じゃない。囚われているだけだ。
でも、それがわかったところで何ができる?
四人はさらに奥へ進んだ。曲がりくねった通路の先、もうすぐコアの部屋に繋がる最後の直線——
私は決断した。
「ルゥ、最後の直線に出て」
「え?」
「姿を見せて。あの子の前に立って」
「……りん?」
「お願い。信じて」
沈黙が一瞬あって——
「……うん。わかった」
ルゥが壁から滑り出た。
最後の直線通路の真ん中に、青い少女が立っている。半透明の体が松明の光を透かして、壁に不思議な影を落とした。
「いた!」
先頭の剣持ちが叫んだ。
「スライム——人型だと!?」
「変異種か……ダンジョンマスターの魔力で変質したんだ。気をつけろ」
弓の男が鎖を引いた。灰色の耳の少女が、前に押し出される。
ルゥと少女が、向き合った。
距離は五メートルほど。狭い通路の中、松明の橙色とルゥの青い光が混じり合っている。
ルゥが——笑った。
「こんにちは」
場違いなほど柔らかい声だった。少女の耳がぴくりと跳ねた。
「あぶないよ。そこにいると、あぶない」
ルゥは少女に向かって話しかけている。敵意のかけらもない、穏やかな声で。
「おい、何を——」
「うるさい。あなたたちには、はなしてない」
ルゥの声が一瞬だけ鋭くなって、すぐに柔らかさを取り戻した。
「ねえ。あなたのなまえは?」
少女は目を見開いていた。警戒と困惑が入り混じった、傷ついた動物の目。
首輪の鎖がじゃらりと鳴った。弓の男が苛立ったように引っ張る。
「喋ってないでやれ! 噛みつけ!」
少女の体が前に引かれた。よろめいて、ルゥとの距離が縮まる。
少女は——動かなかった。
噛みつけと命じられて、口は開かなかった。灰色の耳を伏せて、ルゥをじっと見つめたまま。
「おい! 聞こえねえのか!」
鎖が強く引かれて、首輪が喉に食い込んだ。少女が苦しそうに咳き込む。
それを見て——
頭の中で、何かが弾けた。
「——ルゥ!」
私はコアを通じて叫んだ。叫びながら、残りの魔力を——ほとんど全てを——注ぎ込んだ。
コアの部屋と最後の直線の間にある壁。そこに、穴を開ける。人ひとりが通れるだけの小さな穴。
同時に、ルゥの背後——弓の男たちがいる側の通路の天井を、崩した。
崩落。ごうごうと岩が落ちて、通路を塞いだ。ルゥと少女を、三人の男たちから分断する壁。
土埃が舞い上がって、松明の光が遮られた。
「な——!!」
「崩れた!! 通路が——」
向こう側で怒号が飛び交っている。
こちら側には——ルゥと、少女だけが残された。
首輪から伸びる鎖は、崩れた岩の下敷きになっている。弓の男の手からは離れた。少女は岩壁の前で尻もちをつき、呆然としていた。
「こっち」
ルゥが少女の手を取った。半透明の青い手が、傷だらけの小さな手を包む。
「こっちにおいで」
少女は何も言わなかった。ただ——ルゥに手を引かれるまま、壁に開けた穴をくぐった。
コアの部屋に、三人——私とルゥと、灰色の耳の少女が集まった。
私は壁の穴をすぐに塞いだ。最後の魔力を振り絞って、通路の構造を一部組み替える。コアの部屋への経路を、完全に閉ざした。
もう壁を動かす力は残っていない。コアの光は蝋燭の炎みたいに弱々しく揺れていた。
向こう側から、くぐもった怒声が聞こえる。
「くそっ! 道が塞がってる!」
「迂回だ! 別の通路を——」
「ない! 全部行き止まりだ!」
「掘るぞ! 剣で——」
「馬鹿言え、何時間かかる! ダンジョンの壁だぞ!」
しばらく言い争う声が続いて——やがて、苛立ちに満ちた足音が遠ざかっていった。
「——ったく、覚えてろ! 必ず戻ってくるからな!」
最後の捨て台詞が、岩壁の向こうから響いた。足音はさらに遠くなり——やがて、消えた。
外の気配が完全になくなったことを確認するまで、私はコアに手を当てたまま動けなかった。
去った。本当に。
「…………はあー」
膝から崩れ落ちた。力が一気に抜けて、指先一本動かす気力もない。
「りん!」
ルゥが飛んできて、私を支えた。冷たくて柔らかい感触が背中を包む。
「だいじょうぶ? だいじょうぶ?」
「……大丈夫。ちょっと使いすぎた。魔力」
「もー! むちゃしないでって!」
「む、無茶しないと……どうにもならなかったでしょ……」
ルゥに支えられながら、ゆっくりと息を整える。コアの光はほとんど消えかけている。ゼロではないけれど、限りなくゼロに近い。
そして——目の前に、もう一人。
灰色の耳の少女が、壁際にうずくまっていた。
膝を抱えて、こちらを伺っている。灰色の瞳。警戒心の奥に、怯えが見える。折れた首輪の鎖が、じゃらりと床に垂れていた。
「…………」
少女は何も言わない。ただ、じっとこちらを見ている。
どうする、と自分に問いかけた。
この子は、あの男たちに連れられていた。鎖に繋がれて、盾として使われていた。コアを通じて感じた気配は人間とは違っていて——モンスター寄りの存在。
でも今、ここにいる彼女はただの——怯えた少女にしか見えなかった。
「……お腹、空いてない?」
口をついて出たのは、自分でも意外な言葉だった。
少女の耳がぴくっと動いた。
「何か食べ物は——ないか、ここ。洞窟だし……」
「水なら! ルゥ、水だせるよ!」
ルゥが自分の手のひらを差し出した。半透明の手のくぼみに、透明な水が溜まっている。コアの光を映してきらきら光る、綺麗な水。
少女の目が、水に吸い寄せられた。
喉が渇いているのだろう。唇はひび割れていたし、肌も乾燥している。長い間、まともに水を与えられていなかったのかもしれない。
でも——少女は動かなかった。罠を疑っている。当然だ。
「大丈夫だよ。毒なんて入ってない。ルゥの体の一部みたいなものだけど、普通の水と変わらないから」
少女は私を見て、ルゥを見て、また私を見た。
しばらくの沈黙の後——おずおずと手を伸ばした。ルゥの手からすくうように水を口に運ぶ。最初のひと口。こくりと飲み込んで、目が見開かれた。
そのまま、堰を切ったように飲み始めた。何度もルゥの手から水をすくって、こぼしながら、むせながら。
「ゆっくり、ゆっくり。いっぱいあるから」
ルゥが穏やかに言った。少女の背中をそっと撫でている。青い手が灰色の髪に触れるたび、少女の耳が微かに揺れた。
やがて、少女は飲むのをやめた。俯いて、水に濡れた口元を手の甲で拭う。
「……あ」
かすれた声。
「ありが、とう」
……泣いていた。
声は出さなかった。でも、灰色の目から雫がぽたぽたと落ちて、膝を濡らしていた。
何も言えなかった。
ルゥも黙っていた。ただ少女の隣に座って、手を握っていた。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
コアの微かな光と、水の滴る音だけが、暗い部屋を満たしていた。
「……名前」
私が口を開いた。
少女が顔を上げる。
「あなたの名前、聞いてもいい?」
少女は少し考えるように目を伏せた。それから、小さな声で。
「……シノ」
「シノ」
復唱すると、少女の灰色の耳がぴくりと反応した。
「シノ。いい名前だね」
「……」
シノは何も言わず、ただ僅かに——本当に僅かに——耳を前に倒した。
それが照れている仕草なのだと気づくのは、もう少し後のことだ。
「シノ。その首輪、外せないかな」
太い金属の輪が、彼女の細い首を締めつけている。鎖は途中でちぎれているけれど、首輪自体は残ったままだ。
シノが首輪に手をやった。爪で引っ掻いて、引っ張って——首を横に振った。
「……はずれない。魔封じの、術式がきざんである」
「魔封じ……」
ルゥが首輪を覗き込んだ。
「りん、これ——コアのちからで、こわせない?」
「今は無理。魔力がほとんど残ってない」
コアの光は、もう点滅すらしていない。蛍の尻みたいな頼りない光が、かろうじて部屋を照らしている程度。
「貯まったら、やってみる。——シノ、少し時間がかかるけど、待てる?」
シノは私をじっと見つめた。灰色の瞳に、まだ警戒の色がある。でもさっきよりは——少しだけ薄くなっている。
「……なんで」
「え?」
「なんで、たすけた」
真っ直ぐな問いだった。
なんで。どうして。あの状況で、私を助ける理由なんてなかったでしょう。そう言いたいのだろう。
正直に言えば、明確な理由なんてなかった。計算があったわけじゃない。戦力として期待したわけでも——いや、多少はあるかもしれないけれど、それが主な動機じゃない。
ルゥの言葉が頭をよぎった。
——あの子も、おなじ。りんとルゥと、おなじがわ。
「……しいて言うなら」
言葉を選びながら、ゆっくりと。
「あの鎖を見て、放っておけなかった。それだけ」
理屈じゃない。もっと単純で、もっと根っこにある衝動。
シノは黙っていた。長い沈黙が降りた。
やがて——シノが、ゆっくりと頭を下げた。
「……ここに、いてもいい?」
それは許可を求める声というよりは——居場所を乞う声だった。
ルゥが即座に私を見た。目がきらきらしている。いいでしょ、いいでしょ、と全身で言っている。
「……もちろん」
私が答えると、ルゥが小さくガッツポーズをした。
シノの耳が——ぴくぴくと忙しなく動いた。尻尾の先が、ほんの少しだけ持ち上がった。
「では」
シノが膝を折って、深く頭を下げた。
「シノは——おまえの、剣になる」
「……けん?」
「……ご主人って呼んだほうがいいか?」
「いや——凛でいいよ。凛って呼んで」
シノの目が僅かに揺れた。
「……りん」
「うん」
「りん」
二度目は、少しだけ——ほんの少しだけ声が柔らかくなった。
ルゥがにこにこしながら、シノの横に座った。
「シノ、よろしくねー」
「……よろしく」
ぎこちない返答。でもシノの尻尾が、小さく左右に揺れていた。
三人。暗い洞窟の底に、三人。
コアの光はほとんど消えかけていて、迷宮は行き止まりだらけで、魔力もない。さっきの男たちが戻ってくる可能性もある。
状況は最悪だ。客観的に見れば、積んでいる。
でも——
「りん、ルゥおなかすいたー」
「スライムってお腹空くの?」
「すくよー。魔力がへったからー」
「シノもお腹空いてるでしょ。……食べ物、なんとかしないとな」
「……コケ」
「え?」
「壁のコケ、食べられる。苦いけど」
「本当に? よくわかるね」
「……鼻がいい」
シノの灰色の耳が、少し誇らしげに立った。
三人で壁の苔を剥がして、分け合って食べた。苦くて、土臭くて、お世辞にも美味しいとは言えなかった。
でも、三人で顔を見合わせて「不味い」と言い合ったとき——不思議と、笑えた。
暗い部屋の中。消えかけたコアの光の下で。
ルゥが私の右腕にくっつき、シノが少し離れて座っている。
前世では友達すら少なかった私が——今、二人と一緒にいる。
「……明日」
呟いた。
「明日、魔力が少し回復したら、通路を整備しよう。もっと複雑にして、もっと深くして。シノの首輪も外す方法を考えないと」
「りん、いっぱいかんがえるねー」
「考えないとやっていけないでしょ、この状況」
「シノも——手伝う」
「……ありがとう、シノ」
シノの耳がまた、ぴくりと動いた。
暗闇の中で、三つの呼吸が重なっていた。
いつか、コアの光がもっと強くなったら。迷宮がもっと広くなったら。
この場所を——守れるようになるだろうか。
「……守るよ」
誰にともなく呟いて、目を閉じた。
隣で、ルゥの体がぷるんと揺れた。向こう側で、シノの尾がかすかに床を叩いた。
地の底で、夜が——始まる。