ダンジョンマスター系の短編、中編集   作:合歓木あやめ

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第二話「水と牙」

 時間がない。

 

 コアに手を当てたまま、私は迷宮の透視図を頭の中に広げた。コアの部屋。三本の通路。一本は外へ。残り二本は行き止まり。さっき掘ったばかりの小部屋がひとつ。

 

 これだけ。これだけしかない。

 

「ルゥ、あの人たちはどのくらいで着く?」

 

「んー……すこし、とおい。でも、まっすぐこっちにくる」

 

「迷ってない?」

 

「ぜんぜん」

 

 つまり、この洞窟の位置を知っている。偶然通りかかったわけじゃない。

 

 考えろ。

 

 今の魔力で新しいモンスターは生み出せない。ルゥを作ったことで、蓄えのほとんどを使い切っている。壁を動かすだけの魔力は、コアが細々と集め続けている分でなんとかなるけれど、大掛かりなことは無理だ。

 

「ルゥ」

 

「うん」

 

「入り口から真っ直ぐ来るとコアの部屋に着いちゃうから、まずそれを防ぐ。通路の途中に壁を作って塞いで、迂回路を掘る」

 

「うかいろ?」

 

「回り道。遠回りさせる」

 

「おー」

 

 コアに意識を集中させた。外に繋がる通路の中間あたり——そこに壁を生やすイメージを描く。

 

 低い振動。岩壁が左右からせり出して、通路を完全に塞いだ。

 

 次に、その手前から右に分岐する新しい通路を掘る。狭めに。人ひとりがかろうじて通れるくらいの幅。天井も低く。

 

 新しい通路は右に折れて、少し進んで左に折れて、また右——

 

「ぐにゃぐにゃ」

 

「そう、ぐにゃぐにゃ。見通しが悪い方がいい」

 

 曲がり角をいくつも作った。角を曲がるたびに何が待っているかわからない——そういう恐怖は、物理的な罠より効果があるかもしれない。少なくとも足は遅くなる。

 

 魔力がどんどん減っていく。コアの輝きが目に見えて薄くなった。

 

 最後の曲がり角の先を、コアの部屋に繋げた。ただし、直接ではない。間に一つ、小さな部屋を挟む。

 

「ルゥ、ここ」

 

 透視図上で、その小部屋を指し示した。

 

「ここに隠れて。侵入者が通りかかったら——」

 

「やっつける」

 

 ルゥの目がきらりと光った。

 

「……大丈夫? 戦えそう?」

 

「やってみないと、わかんない」

 

 正直な答えだった。生まれてまだ一時間も経っていない。戦闘経験はゼロ。相手は複数の人間。

 

 でも、他に選択肢がない。

 

「ルゥ」

 

「うん」

 

「無理しないで。本当に危なくなったら逃げて」

 

 ルゥが首を傾げた。

 

「にげたら、りんは?」

 

「……」

 

「りんは、にげられないでしょ」

 

 外に出たら衰弱する。この迷宮の外に逃げ場はない。

 

「だから、にげない」

 

 ルゥは笑った。さっきまでの無邪気な笑みとは少し違う——静かで、揺るぎのない笑み。

 

「りんが、ルゥをつくった。ルゥは、りんをまもる。それだけ」

 

 胸が、ぎゅっと締まった。

 

 この子は生まれたばかりなのに。世界のことも、自分のことも、まだほとんどわかっていないのに。

 

 私を守ると決めている。

 

 涙が出そうになって、慌てて飲み込んだ。泣いている場合じゃない。

 

「——わかった。任せる。でも絶対、死なないで」

 

「しなない。ルゥ、すらいむだから。ぐにゃってなっても、もとにもどるよ。たぶん」

 

「たぶんって言った今」

 

「えへへ」

 

 ルゥが小部屋に向かって滑るように移動していく。曲がりくねった通路を、壁をすり抜けるようにして進んでいった。スライムの体は狭い隙間も通れるらしい。

 

 一人になった。

 

 コアの光だけが、静かに明滅している。

 

「…………」

 

 怖い。正直に言えば、すごく怖い。

 

 前世だって怖いことはたくさんあった。テストの点数が悪いとき。クラスで発表させられるとき。母親に成績表を見せるとき。

 

 でもそういうのとは次元が違う。命が懸かっている。私の命と、ルゥの命と、このコアと。

 

 指先が震えている。握りしめて止めようとしたけれど、止まらなかった。

 

 コアに触れて、外の気配を探った。

 

 四つの足音が、洞窟の入り口に近づいている。もうすぐだ。

 

 声が聞こえた。低い、男の声。

 

「——間違いねえ、ここだ。魔力の気配がある」

 

「小せえな。生まれたてか?」

 

「だからいいんだろ。デカいダンジョンは危険だが、生まれたてならコアを抜くのも楽だ」

 

 笑い声。下品な、嗤うような声。

 

 コアを——抜く。

 

 心臓が凍った。コアを奪われたら、この迷宮は崩壊する。そして迷宮と繋がっている私も——

 

「もう一つ。ダンジョンマスターがいるかもしれねえ」

 

「生まれたてなら大した力はない。いたとしても——まあ、売れるだろ」

 

「ダンジョンマスターの女は高く売れるからな」

 

 また笑い声。

 

 体の底から、震えとは違うものが込み上げてきた。恐怖の中に混じった、熱い感情。

 

 怒り。

 

 勝手に来て。勝手に奪おうとして。勝手に売るとか——

 

「——ふざけんな」

 

 小さく、歯の間から声が漏れた。自分でも驚くくらい低い声だった。

 

 怖い。震えている。でも——負けるつもりはない。

 

 足音が洞窟の中に入ってきた。松明の明かりが、コアを通じて感じ取れる。通路の壁に橙色の光が揺れている。

 

 四人。全員男。武器を持っている——剣が二人、短弓が一人。もう一人は——

 

 ……鎖?

 

 四人目だけ、足音が違った。他の三人は革靴の硬い音。四人目はもっと軽くて不規則で——素足だ。そして、金属が擦れる音が足音に混じっている。

 

 首輪と鎖の音だった。

 

「おい、引っ張んな。歩くのが遅えんだよ」

 

「こいつ使い物になんのか? ダンジョンの中でモンスターに反応したら暴れ出すかもしれねえぞ」

 

「だから首輪をつけてるだろ。魔封じの。こいつ自身の魔力は封じてある。いざってときの壁にはなる」

 

 壁——盾代わりということか。

 

 コアを通じて、四人目の姿をもっとはっきり感じ取ろうとした。でも、魔力の感知にはまだ慣れていなくて、輪郭がぼやけてしまう。わかるのは、他の三人より小柄で、体から微かに——人間とは違う気配がすること。

 

 モンスター?

 

 考えている余裕はなかった。先頭の男が、塞いだ壁の前に到着した。

 

「おい。行き止まりだ」

 

「道が変わってる。……ダンジョンマスターがいるな、やっぱり」

 

「めんどくせえな。横に道がある。こっちか」

 

 迂回路に入ってきた。

 

 狭い通路に四人が縦一列に並ぶ。先頭が剣持ち。次が弓。三人目が剣。最後尾が——鎖に繋がれた四人目。

 

 曲がり角を一つ、二つ、三つ。

 

 足音が慎重になっていく。角を曲がるたびに立ち止まって、先を確認してから進む。思った通り、見通しの悪い構造は心理的な圧迫になっている。

 

 でも——止まりはしない。ゆっくりでも確実に、奥へ進んでくる。

 

「りん」

 

 コアを通じて、ルゥの声が頭に直接響いた。

 

「きこえる。あと二つ角を曲がったら、ルゥのいる部屋に出る」

 

「うん。わかった」

 

 覚悟を決めたルゥの声は、不思議と落ち着いていた。

 

「ルゥ——最初の一人だけでいい。混乱させて、あとは引かせよう」

 

「……うん。やってみる」

 

 五つ目の角を先頭の男が曲がった。松明の光がルゥのいる小部屋の入り口を照らす。

 

 六つ目の角。最後の曲がり角。

 

 男が角を曲がった瞬間——

 

 天井から、青い塊が落ちた。

 

「うわっ——!!」

 

 叫び声。松明が飛んで、地面を転がった。

 

 ルゥだ。天井に張りついて待ち伏せしていたのだ。スライムの体が男の頭と肩を覆い、視界を奪っている。

 

「なんだ!? 何がいる!?」

 

「スライムだ! スライムが——」

 

「剥がせ! 剣で——いや当たる!」

 

 狭い通路で大混乱になった。先頭の男は暴れ回ってルゥを引き剥がそうとしているけれど、スライムの体は掴もうとすると指の間をすり抜ける。

 

「目がっ——目が見えねえ!!」

 

 いい。いいぞ。

 

 私はコアに集中しながら、ルゥに念じた。

 

「長居しないで! すぐに離れて!」

 

 ルゥが男の頭から跳ね飛んだ。弾丸みたいに通路の奥へ飛んで、壁の隙間に潜り込む。一瞬で姿が消えた。

 

 男が倒れて、後ろの仲間にぶつかった。狭い通路で将棋倒しになって、四人が折り重なっている。

 

「くそっ……! たかがスライムが!」

 

 先頭の男が立ち上がった。目を擦りながら、剣を構え直す。顔に怒りが浮かんでいる。

 

「殺す——」

 

「待て」

 

 二番目の男——弓を持った男が、冷静な声で制した。

 

「スライム一匹にしちゃ動きが良すぎる。ダンジョンマスターがモンスターを操ってる可能性がある」

 

「だったら何だ。スライムだぞ?」

 

「通路が狭すぎる。こっちの動きも制限されてる。地形ごと利用されたらスライム相手でも厄介だ」

 

 的確な分析だった。この男、頭が切れる。

 

「……おい、こいつを前に出せ」

 

 弓の男が、最後尾を振り返った。鎖を手繰る。

 

「モンスターにはモンスターをぶつけりゃいい。こいつの鼻なら、スライムの居場所もわかるだろ」

 

 ずるずると引っ張られて、四人目が前に出された。

 

 松明の光に、その姿が照らし出された。

 

 コアを通じて見ているのに、息が止まった。

 

 少女だった。

 

 私と同じか、少し下くらいの年齢に見える。汚れた麻の衣を纏った、痩せた体。裸足の足は傷だらけで、首には太い金属の輪がはめられている。鎖がそこから伸びて、弓の男の手に握られている。

 

 そして——頭の上に、獣の耳があった。

 

 三角形の、毛に覆われた耳。薄い灰色の毛並みに黒い縞が入っている。汚れた髪の間から覗く耳が、微かに震えていた。

 

 背中の腰あたりからは、同じ色の尾が垂れ下がっている。力なく、地面すれすれで揺れている。

 

 獣人——いや、モンスター? 人間じゃないのは確かだ。

 

「索敵しろ。スライムの位置を嗅ぎ出せ」

 

 弓の男が鎖を引いた。少女の体が前のめりによろけて、膝をつきかけた。

 

 少女は何も言わなかった。

 

 顔を上げない。目を伏せたまま、黙って鼻を動かしている。灰色の耳がくるくると回って、音を拾っている。

 

 それから——少女がゆっくりと、通路の奥を指差した。

 

「……いる」

 

 かすれた声だった。声変わり前の少女の声。

 

「このさき、みぎ。かべの、なか」

 

 ルゥの隠れ場所を、正確に言い当てている。

 

 まずい。

 

「ルゥ、バレた。移動して」

 

 念じると同時に、ルゥが壁の隙間から流れ出た。液体に戻って床を這い、別の隙間に潜り込む。

 

 灰色の耳がぴくりと動いた。

 

「……うごいた。もっと、おく」

 

「案内しろ」

 

 鎖が引かれて、少女が前を歩かされる。盾として。

 

 卑怯だと思った。自分が安全な場所にいて、鎖に繋いだ少女を前に出す。この子がどうなってもいいと思っている。

 

 でも——私にできることは限られている。

 

 ルゥを逃がし続けるか。迷宮を組み替えて時間を稼ぐか。

 

 どっちにしても、根本的な解決にはならない。魔力は減る一方。壁を動かすたびにコアの光が薄くなっていく。

 

「りん」

 

 ルゥの声が、念話で響いた。

 

「まえの子——あの子、モンスターのにおい」

 

「……わかってる」

 

「あの子も、おなじ。りんとルゥと、おなじがわ」

 

 ルゥの直感は正しいのかもしれない。あの少女は——仲間じゃない。囚われているだけだ。

 

 でも、それがわかったところで何ができる?

 

 四人はさらに奥へ進んだ。曲がりくねった通路の先、もうすぐコアの部屋に繋がる最後の直線——

 

 私は決断した。

 

「ルゥ、最後の直線に出て」

 

「え?」

 

「姿を見せて。あの子の前に立って」

 

「……りん?」

 

「お願い。信じて」

 

 沈黙が一瞬あって——

 

「……うん。わかった」

 

 ルゥが壁から滑り出た。

 

 最後の直線通路の真ん中に、青い少女が立っている。半透明の体が松明の光を透かして、壁に不思議な影を落とした。

 

「いた!」

 

 先頭の剣持ちが叫んだ。

 

「スライム——人型だと!?」

 

「変異種か……ダンジョンマスターの魔力で変質したんだ。気をつけろ」

 

 弓の男が鎖を引いた。灰色の耳の少女が、前に押し出される。

 

 ルゥと少女が、向き合った。

 

 距離は五メートルほど。狭い通路の中、松明の橙色とルゥの青い光が混じり合っている。

 

 ルゥが——笑った。

 

「こんにちは」

 

 場違いなほど柔らかい声だった。少女の耳がぴくりと跳ねた。

 

「あぶないよ。そこにいると、あぶない」

 

 ルゥは少女に向かって話しかけている。敵意のかけらもない、穏やかな声で。

 

「おい、何を——」

 

「うるさい。あなたたちには、はなしてない」

 

 ルゥの声が一瞬だけ鋭くなって、すぐに柔らかさを取り戻した。

 

「ねえ。あなたのなまえは?」

 

 少女は目を見開いていた。警戒と困惑が入り混じった、傷ついた動物の目。

 

 首輪の鎖がじゃらりと鳴った。弓の男が苛立ったように引っ張る。

 

「喋ってないでやれ! 噛みつけ!」

 

 少女の体が前に引かれた。よろめいて、ルゥとの距離が縮まる。

 

 少女は——動かなかった。

 

 噛みつけと命じられて、口は開かなかった。灰色の耳を伏せて、ルゥをじっと見つめたまま。

 

「おい! 聞こえねえのか!」

 

 鎖が強く引かれて、首輪が喉に食い込んだ。少女が苦しそうに咳き込む。

 

 それを見て——

 

 頭の中で、何かが弾けた。

 

「——ルゥ!」

 

 私はコアを通じて叫んだ。叫びながら、残りの魔力を——ほとんど全てを——注ぎ込んだ。

 

 コアの部屋と最後の直線の間にある壁。そこに、穴を開ける。人ひとりが通れるだけの小さな穴。

 

 同時に、ルゥの背後——弓の男たちがいる側の通路の天井を、崩した。

 

 崩落。ごうごうと岩が落ちて、通路を塞いだ。ルゥと少女を、三人の男たちから分断する壁。

 

 土埃が舞い上がって、松明の光が遮られた。

 

「な——!!」

 

「崩れた!! 通路が——」

 

 向こう側で怒号が飛び交っている。

 

 こちら側には——ルゥと、少女だけが残された。

 

 首輪から伸びる鎖は、崩れた岩の下敷きになっている。弓の男の手からは離れた。少女は岩壁の前で尻もちをつき、呆然としていた。

 

「こっち」

 

 ルゥが少女の手を取った。半透明の青い手が、傷だらけの小さな手を包む。

 

「こっちにおいで」

 

 少女は何も言わなかった。ただ——ルゥに手を引かれるまま、壁に開けた穴をくぐった。

 

 コアの部屋に、三人——私とルゥと、灰色の耳の少女が集まった。

 

 私は壁の穴をすぐに塞いだ。最後の魔力を振り絞って、通路の構造を一部組み替える。コアの部屋への経路を、完全に閉ざした。

 

 もう壁を動かす力は残っていない。コアの光は蝋燭の炎みたいに弱々しく揺れていた。

 

 向こう側から、くぐもった怒声が聞こえる。

 

「くそっ! 道が塞がってる!」

 

「迂回だ! 別の通路を——」

 

「ない! 全部行き止まりだ!」

 

「掘るぞ! 剣で——」

 

「馬鹿言え、何時間かかる! ダンジョンの壁だぞ!」

 

 しばらく言い争う声が続いて——やがて、苛立ちに満ちた足音が遠ざかっていった。

 

「——ったく、覚えてろ! 必ず戻ってくるからな!」

 

 最後の捨て台詞が、岩壁の向こうから響いた。足音はさらに遠くなり——やがて、消えた。

 

 外の気配が完全になくなったことを確認するまで、私はコアに手を当てたまま動けなかった。

 

 去った。本当に。

 

「…………はあー」

 

 膝から崩れ落ちた。力が一気に抜けて、指先一本動かす気力もない。

 

「りん!」

 

 ルゥが飛んできて、私を支えた。冷たくて柔らかい感触が背中を包む。

 

「だいじょうぶ? だいじょうぶ?」

 

「……大丈夫。ちょっと使いすぎた。魔力」

 

「もー! むちゃしないでって!」

 

「む、無茶しないと……どうにもならなかったでしょ……」

 

 ルゥに支えられながら、ゆっくりと息を整える。コアの光はほとんど消えかけている。ゼロではないけれど、限りなくゼロに近い。

 

 そして——目の前に、もう一人。

 

 灰色の耳の少女が、壁際にうずくまっていた。

 

 膝を抱えて、こちらを伺っている。灰色の瞳。警戒心の奥に、怯えが見える。折れた首輪の鎖が、じゃらりと床に垂れていた。

 

「…………」

 

 少女は何も言わない。ただ、じっとこちらを見ている。

 

 どうする、と自分に問いかけた。

 

 この子は、あの男たちに連れられていた。鎖に繋がれて、盾として使われていた。コアを通じて感じた気配は人間とは違っていて——モンスター寄りの存在。

 

 でも今、ここにいる彼女はただの——怯えた少女にしか見えなかった。

 

「……お腹、空いてない?」

 

 口をついて出たのは、自分でも意外な言葉だった。

 

 少女の耳がぴくっと動いた。

 

「何か食べ物は——ないか、ここ。洞窟だし……」

 

「水なら! ルゥ、水だせるよ!」

 

 ルゥが自分の手のひらを差し出した。半透明の手のくぼみに、透明な水が溜まっている。コアの光を映してきらきら光る、綺麗な水。

 

 少女の目が、水に吸い寄せられた。

 

 喉が渇いているのだろう。唇はひび割れていたし、肌も乾燥している。長い間、まともに水を与えられていなかったのかもしれない。

 

 でも——少女は動かなかった。罠を疑っている。当然だ。

 

「大丈夫だよ。毒なんて入ってない。ルゥの体の一部みたいなものだけど、普通の水と変わらないから」

 

 少女は私を見て、ルゥを見て、また私を見た。

 

 しばらくの沈黙の後——おずおずと手を伸ばした。ルゥの手からすくうように水を口に運ぶ。最初のひと口。こくりと飲み込んで、目が見開かれた。

 

 そのまま、堰を切ったように飲み始めた。何度もルゥの手から水をすくって、こぼしながら、むせながら。

 

「ゆっくり、ゆっくり。いっぱいあるから」

 

 ルゥが穏やかに言った。少女の背中をそっと撫でている。青い手が灰色の髪に触れるたび、少女の耳が微かに揺れた。

 

 やがて、少女は飲むのをやめた。俯いて、水に濡れた口元を手の甲で拭う。

 

「……あ」

 

 かすれた声。

 

「ありが、とう」

 

 ……泣いていた。

 

 声は出さなかった。でも、灰色の目から雫がぽたぽたと落ちて、膝を濡らしていた。

 

 何も言えなかった。

 

 ルゥも黙っていた。ただ少女の隣に座って、手を握っていた。

 

 三人とも、しばらく何も言わなかった。

 

 コアの微かな光と、水の滴る音だけが、暗い部屋を満たしていた。

 

「……名前」

 

 私が口を開いた。

 

 少女が顔を上げる。

 

「あなたの名前、聞いてもいい?」

 

 少女は少し考えるように目を伏せた。それから、小さな声で。

 

「……シノ」

 

「シノ」

 

 復唱すると、少女の灰色の耳がぴくりと反応した。

 

「シノ。いい名前だね」

 

「……」

 

 シノは何も言わず、ただ僅かに——本当に僅かに——耳を前に倒した。

 

 それが照れている仕草なのだと気づくのは、もう少し後のことだ。

 

「シノ。その首輪、外せないかな」

 

 太い金属の輪が、彼女の細い首を締めつけている。鎖は途中でちぎれているけれど、首輪自体は残ったままだ。

 

 シノが首輪に手をやった。爪で引っ掻いて、引っ張って——首を横に振った。

 

「……はずれない。魔封じの、術式がきざんである」

 

「魔封じ……」

 

 ルゥが首輪を覗き込んだ。

 

「りん、これ——コアのちからで、こわせない?」

 

「今は無理。魔力がほとんど残ってない」

 

 コアの光は、もう点滅すらしていない。蛍の尻みたいな頼りない光が、かろうじて部屋を照らしている程度。

 

「貯まったら、やってみる。——シノ、少し時間がかかるけど、待てる?」

 

 シノは私をじっと見つめた。灰色の瞳に、まだ警戒の色がある。でもさっきよりは——少しだけ薄くなっている。

 

「……なんで」

 

「え?」

 

「なんで、たすけた」

 

 真っ直ぐな問いだった。

 

 なんで。どうして。あの状況で、私を助ける理由なんてなかったでしょう。そう言いたいのだろう。

 

 正直に言えば、明確な理由なんてなかった。計算があったわけじゃない。戦力として期待したわけでも——いや、多少はあるかもしれないけれど、それが主な動機じゃない。

 

 ルゥの言葉が頭をよぎった。

 

——あの子も、おなじ。りんとルゥと、おなじがわ。

 

「……しいて言うなら」

 

 言葉を選びながら、ゆっくりと。

 

「あの鎖を見て、放っておけなかった。それだけ」

 

 理屈じゃない。もっと単純で、もっと根っこにある衝動。

 

 シノは黙っていた。長い沈黙が降りた。

 

 やがて——シノが、ゆっくりと頭を下げた。

 

「……ここに、いてもいい?」

 

 それは許可を求める声というよりは——居場所を乞う声だった。

 

 ルゥが即座に私を見た。目がきらきらしている。いいでしょ、いいでしょ、と全身で言っている。

 

「……もちろん」

 

 私が答えると、ルゥが小さくガッツポーズをした。

 

 シノの耳が——ぴくぴくと忙しなく動いた。尻尾の先が、ほんの少しだけ持ち上がった。

 

「では」

 

 シノが膝を折って、深く頭を下げた。

 

「シノは——おまえの、剣になる」

 

「……けん?」

 

「……ご主人って呼んだほうがいいか?」

 

「いや——凛でいいよ。凛って呼んで」

 

 シノの目が僅かに揺れた。

 

「……りん」

 

「うん」

 

「りん」

 

 二度目は、少しだけ——ほんの少しだけ声が柔らかくなった。

 

 ルゥがにこにこしながら、シノの横に座った。

 

「シノ、よろしくねー」

 

「……よろしく」

 

 ぎこちない返答。でもシノの尻尾が、小さく左右に揺れていた。

 

 三人。暗い洞窟の底に、三人。

 

 コアの光はほとんど消えかけていて、迷宮は行き止まりだらけで、魔力もない。さっきの男たちが戻ってくる可能性もある。

 

 状況は最悪だ。客観的に見れば、積んでいる。

 

 でも——

 

「りん、ルゥおなかすいたー」

 

「スライムってお腹空くの?」

 

「すくよー。魔力がへったからー」

 

「シノもお腹空いてるでしょ。……食べ物、なんとかしないとな」

 

「……コケ」

 

「え?」

 

「壁のコケ、食べられる。苦いけど」

 

「本当に? よくわかるね」

 

「……鼻がいい」

 

 シノの灰色の耳が、少し誇らしげに立った。

 

 三人で壁の苔を剥がして、分け合って食べた。苦くて、土臭くて、お世辞にも美味しいとは言えなかった。

 

 でも、三人で顔を見合わせて「不味い」と言い合ったとき——不思議と、笑えた。

 

 暗い部屋の中。消えかけたコアの光の下で。

 

 ルゥが私の右腕にくっつき、シノが少し離れて座っている。

 

 前世では友達すら少なかった私が——今、二人と一緒にいる。

 

「……明日」

 

 呟いた。

 

「明日、魔力が少し回復したら、通路を整備しよう。もっと複雑にして、もっと深くして。シノの首輪も外す方法を考えないと」

 

「りん、いっぱいかんがえるねー」

 

「考えないとやっていけないでしょ、この状況」

 

「シノも——手伝う」

 

「……ありがとう、シノ」

 

 シノの耳がまた、ぴくりと動いた。

 

 暗闇の中で、三つの呼吸が重なっていた。

 

 いつか、コアの光がもっと強くなったら。迷宮がもっと広くなったら。

 

 この場所を——守れるようになるだろうか。

 

「……守るよ」

 

 誰にともなく呟いて、目を閉じた。

 

 隣で、ルゥの体がぷるんと揺れた。向こう側で、シノの尾がかすかに床を叩いた。

 

 地の底で、夜が——始まる。

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