ダンジョンマスター系の短編、中編集   作:合歓木あやめ

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最終話「ここが、わたしの」

 ミラが迷宮に加わって三日が過ぎた。

 

 最初の一日は、ミラの居住区画を作ることに費やした。二層目の空き部屋をひとつ割り当てて、壁を滑らかに整え、岩を削って簡素な寝台を作った。ミラは「贅沢すぎます」と恐縮していたけれど、ルゥが「もっとひろくして!」と騒ぐので結局少し広めになった。

 

 二日目から、ミラはシノの首輪の解析に取りかかった。

 

 今日はその三日目。

 

 二層目の一室を作業部屋に改装して、ミラがシノの首輪を調べている。私はコアの部屋から念話で様子を把握しつつ、迷宮の拡張作業を続けていた。

 

「——ここの術式、三重に編み込んでありますね。一層目が物理強化、二層目が魔力封印、三層目が……服従の呪い」

 

 ミラの声がコアを通じて聞こえる。冷静な口調だけれど、最後の言葉にわずかな硬さが混じっていた。

 

「……どれでもいい。全部、消せるのか」

 

 シノの声。いつもより低い。緊張しているのだろう。

 

「消せます。ただ、順番が大事です。外側から解いていかないと術式が暴走する可能性がある。時間をください」

 

「……どのくらい」

 

「一週間——いえ、もう少しかかるかもしれません。凛さんのコアから魔力を借りる必要もあります」

 

 一週間。

 

 長い。でも——不可能じゃないと言ってくれた。それだけで十分だ。

 

「りん」

 

 ルゥが隣にぺたりとくっつきながら、透視図を覗き込んでいる。

 

「シノのくびわ、はずれるね」

 

「うん。——たぶん」

 

「たぶんじゃなくて、ぜったい」

 

「……うん。絶対」

 

 ルゥの確信に満ちた声に、少し救われた。

 

 コアに手を当てて、拡張作業に戻る。四層目の掘削。天然の空洞を利用して、大きな部屋を二つ作った。ひとつは広間——来るかもしれない戦闘に備えた迎撃用の空間。もうひとつは——

 

「ねえ、りん。この部屋はなにに使うの?」

 

「んー……まだ決めてない。でも、広い部屋がひとつくらいあってもいいかなって」

 

 嘘だった。本当は少し考えていることがあったけれど、口に出すのは恥ずかしかった。

 

 迷宮は着実に大きくなっている。入り口から数えて四層。分岐と行き止まりを含めれば、通路の総延長はかなりのものだ。コアに流入する魔力も増えて、蓄積量は日々右肩上がり。

 

 ——だからこそ、嫌な予感がしていた。

 

 大きくなれば、目立つ。魔力が増えれば、狙われる。あの男たちは「必ず戻る」と言っていた。

 

 今日か、明日か、一週間後か。いつ来てもおかしくない。

 

「マルたち、入り口付近に配置してある?」

 

「うん。マルとポチが入り口、タマは一層目のまんなか」

 

「ありがとう。——何か動きがあったらすぐ教えて」

 

「まかせて!」

 

 ルゥが胸を張った。ぷるんと揺れた。

 

 五日目の夜——コアの明滅が暗くなった時間帯のこと。

 

 私はコアの部屋で設計図を練っていた。五層目の構想。罠の配置。通路の幅と天井の高さの最適なバランス。頭の中は数字と図形でいっぱいで、背後の足音に気づくのが遅れた。

 

「……凛」

 

「わっ——!」

 

 振り返ると、シノが立っていた。いつもは距離を取って壁際にいるのに、今日はすぐ後ろにいる。

 

「ど、どうしたの?」

 

「…………」

 

 シノは何か言おうとして、口を開きかけて、閉じた。灰色の耳が忙しなく動いている。迷ったときの癖。

 

「……座る?」

 

 コアの前の岩を指すと、シノは少し迷ってから腰を下ろした。私の隣。間に拳ひとつ分くらいの隙間。シノにしては近い。

 

「眠れない?」

 

「……べつに」

 

「目が冴えちゃった?」

 

「……うるさい」

 

 いつもの返しだけど、声に棘がない。

 

 しばらく、二人で黙ってコアの光を見ていた。青い輝きがゆっくりと明滅して、二人の影を壁に映している。

 

「凛」

 

「うん」

 

「ミラが——言ってた」

 

「何を?」

 

「首輪の三層目。服従の呪い。あれが一番深い位置にあって——解くときに、記憶が溢れるかもしれないって」

 

「記憶?」

 

「呪いが刻まれたときの記憶。封じられていた感情が——一気に戻ってくるって」

 

 シノの声が、微かに震えていた。

 

「……怖い?」

 

 聞いてから、無神経だったかもしれないと思った。でもシノは否定しなかった。

 

「……覚えてないことがある。首輪をつけられる前のこと。顔とか——声とか。家族がいたのか、ひとりだったのか。全部ぼやけてる。呪いのせいだって、ミラが」

 

「…………」

 

「思い出すのが——怖い、のかもしれない。何を思い出すのか、わからないから」

 

 初めてだった。シノが自分の感情を——こんなにはっきり言葉にするのは。

 

 私は何も気の利いたことを言えなかった。「大丈夫」とか「きっと良い記憶だよ」とか、そういう根拠のない慰めは言えない。言いたくなかった。

 

 だから。

 

「隣にいるよ」

 

 それだけ言った。

 

「解呪のとき。何が溢れてきても——隣にいる。ルゥもミラも」

 

 シノが私を見た。灰色の目が揺れている。

 

「……おまえは」

 

「凛だってば」

 

「凛、は——」

 

 シノが俯いた。灰色の髪が顔を隠す。でも耳は見えていて——赤くなっていた。耳の内側が、うっすらとピンク色に。

 

「……ずるい」

 

「え?」

 

「そういうこと——簡単に言うな。……困る」

 

 困る、と言いながら——シノの体が、ほんの少しだけこちらに傾いた。拳ひとつ分の隙間が、半分になった。

 

 肩が触れた。

 

 シノの体温は高い。ルゥとは正反対の、火に近い温かさ。その熱が肩から伝わってきて——心臓が、どくんと鳴った。

 

「…………」

 

「…………」

 

 どちらも何も言わなかった。

 

 ただ肩を寄せ合って、コアの光を見ていた。

 

 なんだろう、この気持ち。胸の奥がじんわりと温かくて、くすぐったくて——少し苦しい。

 

 前世にはなかった感覚だ。誰かの体温をこんなに近くで感じて、離れたくないと思うこと。

 

「シノ」

 

「……なに」

 

「ありがとう。話してくれて」

 

 シノの耳がぴくりと動いて——肩に預ける力が、少しだけ強くなった。

 

 七日目の朝。

 

 マルが異常を知らせた。

 

 コアを通じて飛び込んできた警告は鋭くて、私は設計作業の途中で弾かれるように立ち上がった。

 

「ルゥ!」

 

「わかってる——入り口、複数! 前と同じにおい!」

 

 来た。

 

 コアに意識を沈めて、入り口付近を走査する。足音。革靴の硬い音が——一、二、三……五つ。

 

 前回より多い。

 

「くそっ、人数増やしてきた……」

 

 ルゥが目を鋭くして通路の先を見据えている。小スライムのポチが入り口から転がるように戻ってきて、ルゥの足元に隠れた。

 

「シノ!」

 

 シノは既に戦闘態勢だった。壁にもたれていた体を起こし、爪を——いや、指先が少し変形している。爪が伸びて、硬質化している。首輪で魔力を封じられていても、身体能力自体は高いのだ。

 

「ミラさん!」

 

「聞こえています」

 

 ミラが作業部屋から出てきた。杖を握り、表情を引き締めている。

 

「凛さん、結界を張れます。ただし範囲は限定的です。コアの部屋と、この周辺くらいが限界」

 

「お願いします。コアを守って。——私は迷宮を操って迎撃する」

 

「わかりました。——気をつけて」

 

 ミラが杖を掲げた。淡い紫の光が杖先から広がって、コアの部屋を包み込む。空気が変わった。膜のようなものが部屋全体を覆っている感覚。

 

 入り口から侵入者が入ってきた。先頭は見覚えのある気配——前回の弓の男だ。

 

「予告通り来やがったな……」

 

「道が変わってやがる。前よりでかくなってる」

 

「上等だ。コアが育ってるってことだろ。値が上がる」

 

 下卑た笑い声。

 

 五人が一層目に足を踏み入れた。

 

 私はコアに両手を当てて、迷宮全体に意識を広げた。通路の一本一本、壁の一枚一枚が自分の体の延長線みたいに感じられる。

 

「——いらっしゃい」

 

 呟いて、最初の罠を発動した。

 

 一層目の分岐路。三方向に道がある。正解はひとつ。残り二つは——

 

 先頭の二人が左の道に入った瞬間、背後の壁がせり出して通路を塞いだ。

 

「なっ——!」

 

「閉じ込められた!?」

 

 同時に、正面の道に入った三人の足元が陥没した。床が抜けて——ただし落とし穴ではない。膝下くらいまでの浅い穴。足を取られて転倒する程度のもの。殺す必要はないし、そんな魔力もない。

 

「足場が! くそっ——」

 

「落ち着け! 浅い! 立て!」

 

 弓の男が冷静に指示を出している。前回もそうだった。この男だけ頭が切れる。

 

「壁が動いたってことはマスターが操作してる。魔力を使えば使うほどコアが消耗する。持久戦に持ち込め」

 

 図星だった。壁を一回動かすたびに、魔力が減っていく。このペースで撃退し続けるのは不可能だ。

 

「ルゥ、二層目で迎え撃って。天井裏の通路を使って」

 

「うん!」

 

 ルゥが壁の隙間に溶け込んで、二層目に向かった。

 

 一層目で分断された二人は行き止まりに閉じ込めてある。壁を厚くして、当分は破れないはずだ。問題は残りの三人。弓の男と、剣持ちが二人。

 

 三人が一層目を突破して、二層目に入った。

 

「道が三つに分かれてる。——おい、ここの天井高いな」

 

「罠に注意しろ。上も見ろ」

 

 弓の男が天井を警戒している。ルゥの奇襲パターンを学習していた。

 

 でも——ルゥだけじゃない。

 

「シノ」

 

「わかってる」

 

 シノが通路を駆けた。裸足の足音はほとんど聞こえない。獣のような身のこなしで壁を蹴り、天井近くの突起を掴み、二層目の迎撃地点に先回りした。

 

 首輪がある限り魔力は使えない。でもシノの戦い方は、そもそも魔力に頼らない。

 

 鼻で敵の位置を嗅ぎ取り、耳で足音の方向を聴き、暗闇の中で——獣が獲物を狩るように動く。

 

 二層目の分岐路。剣持ちの一人が右の道を選んだ。単独行動。弓の男と離れた。

 

 好機。

 

「ルゥ、右の通路。天井から」

 

「りょうかい!」

 

 右の通路を進む剣持ちの男。松明を掲げて慎重に歩いている。角を曲がる。もうひとつ角を曲がる。

 

 天井裏の隙間をルゥが流れていく。男の真上に到達したとき——

 

 私は天井を薄くした。

 

 ルゥが天井を突き破って落下した。前回と同じ奇襲——だけど、今回は違う。ルゥの体が落下しながら大きく広がって、男の上半身全体を包み込んだ。

 

「がっ——!!」

 

 視界だけじゃない。腕も封じた。剣を振るえないように、両腕を体に押さえつけている。男が暴れるけれど、ルゥの体はぬるぬると形を変えて拘束を維持する。

 

 五日間で、ルゥは成長していた。戦い方を覚え、体の操り方を洗練させていた。

 

「りん、おさえた!」

 

「そのまま! シノ!」

 

 シノが通路の奥から飛び出した。伸びた爪が松明を叩き落とす。火が消えて、通路が闇に沈んだ。

 

 暗闇はシノの領域だ。

 

 鈍い打撃音。男の呻き声。数秒後に——どさりと倒れる音。

 

「……気絶させた。殺してない」

 

「ありがとう。——あと二人」

 

 一層目に閉じ込めた二人は放置でいい。残りは弓の男と、もう一人の剣持ち。

 

 弓の男が、仲間の叫び声を聞いて足を止めていた。

 

「ヴォルグ! ……くそ、やられたか」

 

 冷静さが少し揺らいでいる。一人減って、閉じ込められた仲間とも合流できない。

 

「……撤退するか?」

 

 隣の剣持ちが不安そうに言った。

 

「——いや」

 

 弓の男は短弓を構え直した。

 

「スライムと獣人だけだ。マスター本人は出てきてない。魔力も限界に近いはずだ。ここを越えればコアがある」

 

 鋭い判断。そして——正しい。

 

 私の魔力は底を突きかけていた。壁を動かす余力が、もうほとんどない。

 

 弓の男が二層目を慎重に進んでいく。隣の剣持ちと背中合わせで、死角を消しながら。

 

 三層目に入った。ここは天然の鍾乳洞を利用した区画で、天井が高く、岩の柱が林立している。視界が複雑で——奇襲もしやすいが、逃げ場もある。

 

「ルゥ、三層目。岩の柱の影に——」

 

「りん、むり。ルゥもけっこう疲れてる。さっきので魔力つかいすぎた」

 

 ルゥの声に、初めて疲労の色があった。

 

 シノも連戦で消耗している。首輪のせいで魔力による回復ができないから、純粋な体力勝負だ。

 

 二対二。こちらは消耗済み。向こうはまだ余力がある。

 

 弓の男が、矢を番えた。

 

「出てこい。——わかってるだろう。もう壁は動かせない。モンスターも限界だ」

 

 沈黙。

 

「取引しよう。コアを渡せば命は取らない。ダンジョンマスターには別の使い道がある。悪いようにはしない」

 

「嘘つけ」

 

 私の口から、低い声が漏れた。コアを通じてではなく——直接。

 

 三層目の通路に、私は立っていた。

 

 コアの部屋から出て、ここまで歩いてきた。震える足で。

 

「りん!!」

 

 ルゥの悲鳴みたいな声。

 

「なにしてるの!! もどって!!」

 

「凛!!」

 

 シノの叫び。

 

 二人の声を背中で聞きながら、私は弓の男と向き合った。

 

 松明の光の中に、男の顔が見えた。三十代くらい。頬に古い傷がある。冷たい目。

 

「……出てきたか。物分かりがいいな」

 

「取引なんかしない」

 

「なら殺す」

 

 弓が引かれた。矢先が私の胸を狙っている。

 

「待ってくれ」

 

「何だ」

 

「ひとつだけ聞きたい。——前に連れてきた子。灰色の耳の。あの子をどうやって手に入れた?」

 

 男の目が、一瞬だけ揺れた。

 

「あの獣人か。奴隷市で買った。安かったぞ。言うことを聞かねえ不良品だってな」

 

「不良品……」

 

 後ろで、シノの息を呑む音がした。

 

「あの子は——生き物だ。物じゃない」

 

「は? モンスターは物だ。道具だ。お前だってそうだろう? ダンジョンマスターなら、モンスターを生み出して使い潰す側の——」

 

「違う」

 

 声が震えた。怒りで。

 

「この子たちは——私の家族だ」

 

 言ってしまってから、顔が熱くなった。恥ずかしい。青臭い。でも——嘘じゃない。嘘じゃないから声が震える。

 

 弓の男が、鼻で笑った。

 

「家族ごっこか。——反吐が出る」

 

 弦が鳴った。矢が放たれた。

 

 動けなかった。足が縫いつけられたように動かなかった。矢が私に向かって飛んでくるのが、ゆっくりに見えた。

 

 青い光が、視界を覆った。

 

 ルゥだった。

 

 私の前に飛び出したルゥが、体を大きく広げて壁のように立ちはだかった。矢がルゥの体を貫通する——半透明の体を突き抜けて、勢いを失って床に落ちた。

 

「ルゥ!!」

 

「だいじょぶ。すらいむだから。矢は——きかない」

 

 ルゥの体に穴が開いている。でもすぐにぷるんと塞がった。

 

「いったーい。でも、へいき」

 

 笑っている。穴だらけの体で、笑っている。

 

「りんは——ルゥが、まもるって、いったでしょ」

 

 男が舌打ちして、二本目の矢を番えた。今度は狙いを変えて——ルゥの頭を射った。ルゥの頭部が弾けて飛散する。

 

「ルゥ!!」

 

「あったまとんだ。あはは」

 

 飛散した液体が床を這って、ルゥの体に戻っていく。数秒で頭部が再生された。

 

「物理攻撃じゃ、すらいむは倒せないよ」

 

 弓の男の表情が初めて、明確に歪んだ。

 

「——オルトス! 火だ! 松明を投げろ!」

 

 剣持ちの男が松明を振りかぶった。

 

 火。スライムの天敵。蒸発する。

 

 松明が宙を飛んだ。

 

 炎がルゥに届く寸前——

 

 紫の光が弾けた。

 

「させません」

 

 ミラだった。

 

 コアの部屋にいるはずのミラが——いつの間にか三層目の通路に立っていた。杖を構えて、紫の結界で松明を弾き返している。

 

「ミラさん!? コアの防衛は——」

 

「結界は維持しています。遠隔で。——それより凛さん、前に出すぎです」

 

 叱られた。でもミラの声は震えていない。穏やかで、でも芯のある声。宮廷魔術師の声だ。

 

「元宮廷魔術師だと……!?」

 

 弓の男の顔が青ざめた。さすがに宮廷魔術師の看板は伊達じゃない。

 

「ありえねえ——なんでこんな辺境のダンジョンに……!」

 

「居心地がいいものですから」

 

 ミラが微笑んだ。穏やかな笑み。でもその目は笑っていなかった。

 

「退きなさい。これ以上進めば——痛い目では済みません」

 

 弓の男が歯を食いしばっている。戦況は逆転した。ルゥは物理攻撃が効かない。ミラは火を防ぐ結界を持っている。そしてシノが——いつの間にか天井の岩柱の上に登って、二人の真上に位置取っていた。完全に詰んでいる。

 

「………………ッ」

 

 弓の男が、弓を下ろした。

 

「……撤退だ。オルトス、閉じ込められてる二人を回収する。——おい、気絶してるヴォルグも連れていけ」

 

 剣持ちの男が頷いて、後退を始めた。

 

 弓の男が最後にこちらを睨んだ。前回と同じように捨て台詞を吐くのかと思ったけれど——男は何も言わなかった。何も言わずに背を向けて、暗い通路を戻っていった。

 

 足音が遠ざかる。

 

 完全に消えるまで、誰も動かなかった。

 

 ——消えた。

 

「…………はあー……」

 

 腰が砕けた。今度こそ本当に立っていられなくて、床に座り込んだ。

 

「りんっ!!」

 

 ルゥが飛びついてきた。全身でしがみつかれて、冷たくて柔らかい感触が体を包む。

 

「ばか! ばかばかばか! なんでまえにでたの! しんだらどうするの!」

 

「ご、ごめん——」

 

「ごめんじゃない!!」

 

 ルゥが泣いていた。スライムなのに涙が出るのかよくわからないけれど、目の下に透明な雫が浮かんでいて、ぽたぽたと私の服に落ちている。

 

「ルゥがまもるって言ったのに! りんはうしろにいてって言ったのに!!」

 

「……ごめん。ごめんね。もう、しない」

 

 ルゥを抱きしめた。冷たくて、柔らかくて、でも確かにここにいる。

 

「約束して。もう、ぜったい、まえにでないって」

 

「……約束する」

 

「ゆびきりして」

 

「え、指切り知ってるの?」

 

「ミラにおそわった」

 

 小指を差し出された。半透明の、小さな小指。私の小指と絡ませると、ひんやりとした感触が指先に伝わった。

 

「ゆーびきーりげーんまん——」

 

「嘘ついたら針千本飲ます、でしょ」

 

「のーます! できあがり!」

 

 ルゥがぐしぐしと目元を拭って——笑った。泣き笑い。

 

「凛」

 

 シノが岩柱から降りてきた。着地は無音。目が据わっている。

 

「……おまえは、ほんとうに」

 

「凛だって——」

 

「凛は、ほんとうに——馬鹿だ」

 

 怒っている。シノの怒りは静かだけれど重い。灰色の目が真っ直ぐに私を射抜いていて、逃げ場がない。

 

「あのまま矢が当たっていたら死んでいた」

 

「……うん」

 

「うん、じゃない。——死ぬな」

 

 最後の二文字が——かすかに、震えていた。

 

「死んだら——」

 

 シノが言葉を切った。顎を引いて、顔を隠すように。でも耳は見えていて、真っ赤だった。

 

「——困る」

 

「……シノ」

 

「もう言わない。二度と言わない。だから——覚えておけ」

 

 シノが踵を返して、足早に通路の奥へ去っていった。尻尾が左右にぶんぶん振れている。本人は気づいていないんだろう。

 

 私はしばらくそこに座ったまま、燃えるみたいに熱い頬を押さえていた。

 

「凛さん」

 

 ミラが隣にしゃがみ込んだ。

 

「……すみませんでした。無茶して」

 

「いえ。——あの場で前に出た凛さんの判断は、結果的には正しかったと思います。時間を稼いでくれたおかげで、私が追いつけました」

 

「結果論ですけどね……」

 

「ええ。だから次はやめてくださいね。心臓に悪いので」

 

 ミラが笑った。穏やかで、少し呆れた笑み。

 

「——それと、凛さん」

 

「はい」

 

「さっき言ったこと。家族だって」

 

「……聞いてました?」

 

「ダンジョン中に響いてましたよ」

 

「——っ」

 

 顔が爆発しそうに熱い。穴があったら入りたい。ダンジョンマスターだから穴なら掘れるけど、掘る魔力がもう残ってない。

 

「素敵な言葉だと思いました。私も——含めてもらえますか?」

 

「……え?」

 

「家族に。——私も、仲間に入れてほしいんです」

 

 ミラの黒い瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。冗談の色はない。本気の目。

 

「私にはもう、帰る場所がありませんから。ここが——ここを、そうさせてもらえたら」

 

「…………」

 

 返事ができなかったのは、言葉を選んでいたからじゃない。喉が詰まって、声が出なかっただけだ。

 

 前世では、こんなことを言われたことがなかった。一緒にいたいと。ここにいていいかと。

 

 頷いた。声の代わりに、何度も。

 

 ミラが——ふわりと微笑んだ。その笑顔がひどくきれいで、またちょっと泣きそうになった。

 

 その夜。

 

 コアの部屋に四人が集まっていた。

 

 ルゥが私の右側にべったりくっついている。いつも通り。シノが私の左側に——いつもより近くに座っている。肩が触れている。ミラが向かいに座って、杖を膝に乗せている。

 

 小スライムのマル、ポチ、タマが足元でぷるぷると転がっている。

 

「明日から——ミラさん、シノの首輪の解呪を本格的に始めてください。魔力はコアから供給します」

 

「わかりました。準備はできています」

 

「ルゥは迷宮の警備を引き続きお願い。マルたちと連携して」

 

「はーい」

 

「シノは——」

 

「……凛の護衛」

 

「……え、いや、そんな——」

 

「凛の護衛。以上」

 

 反論を許さない口調だった。有無を言わさず決定された。

 

「あはは」

 

 ルゥが笑った。

 

「ふふ」

 

 ミラも笑った。

 

「……何がおかしい」

 

 シノだけ笑っていなかったけど、耳がぴくぴくしているから内心では何かしら感じているのだろう。

 

「みんな——」

 

 私は三人の顔を見回した。ルゥの透き通った青い瞳。シノの静かな灰色の目。ミラの穏やかな黒い瞳。

 

「ありがとう。ここにいてくれて」

 

 しんとした。

 

 水が滴る音。コアが明滅する微かな音。三人の呼吸。

 

「りんこそ」

 

 ルゥが私の腕を抱きしめて言った。

 

「ルゥをうんでくれて、ありがとう」

 

「……凛がいなかったら、私はまだ鎖に繋がれていた」

 

 シノが目を逸らしながら、小さな声で。

 

「凛さんが受け入れてくれなかったら、私は今頃野垂れ死にでしたね」

 

 ミラが肩をすくめて笑った。

 

 胸がいっぱいだった。

 

 前世の私は一人だった。四畳半の部屋で、画面の光だけを見つめて、誰とも繋がらずに生きていた。それが普通だと思っていた。一人でいることが楽だと——本気でそう思っていた。

 

 嘘だ。

 

 楽だったんじゃない。怖かっただけだ。誰かと繋がることが。傷つくことが。傷つけることが。

 

 でも今、ここには——

 

「……外には出られないけど」

 

 呟いた。

 

「空は見えないけど。太陽も、星も、風も」

 

 コアの青い光が、四人を照らしている。

 

「でも——ここがいい。ここがいいよ、私は」

 

 暗い。地の底は暗くて、冷たくて、狭い。

 

 でも。

 

「ここが——私の世界だから」

 

 ルゥがぎゅっと腕を抱きしめた。シノの肩が、そっと私に預けられた。ミラが目を細めて、静かに微笑んだ。

 

 陽の届かぬ庭で。

 

 それでも確かに——花は咲く。

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