シノの首輪が外れたのは、あの戦いから十日後のことだった。
ミラは毎日決まった時間に作業部屋にこもり、術式の解析を続けていた。紫色の光が部屋の隙間から漏れて、通路をぼんやりと照らす。私はコアから魔力を供給しながら、その進捗を見守った。
一層目——物理強化の解除は三日で終わった。金属の表面に走っていた強化の文様が消えて、首輪がただの鉄の輪に戻る。
二層目——魔力封印の解除に五日。ミラは額に汗を浮かべながら、禁術の理論書を何度も読み返していた。封印が緩むたびに、シノの体から微かな熱が放たれた。本来の魔力が少しずつ目を覚ましているのだと、ミラは言った。
そして三層目——服従の呪い。
「凛さん。今日、最後の術式を解きます」
その朝——コアの明滅が明るくなった頃——ミラが私を呼んだ。
「シノに伝えてあります。覚悟はできていると」
「……記憶が溢れるかもしれないって話」
「ええ。抑え込まれていた感情と記憶が、一気に戻ってくる可能性があります。どの程度のものかは——正直、やってみないとわかりません」
ミラの声は冷静だったけれど、杖を握る指先がわずかに白くなっていた。
作業部屋に入ると、シノが部屋の中央に座っていた。目を閉じて、背筋を伸ばして。耳は——ぺたんと伏せられている。
私が入ると、片目だけ薄く開いた。
「……来たのか」
「隣にいるって言ったでしょ」
「…………ああ」
シノがまた目を閉じた。口元が僅かに——本当に僅かに緩んだのが見えた。
ルゥも来ていた。部屋の隅で体を小さくして、心配そうにシノを見つめている。
「では——始めます」
ミラが杖を掲げた。紫の光が首輪の表面を走る。刻まれた最後の文字列——服従、隷属、忘却——が、光に触れて浮き上がった。
「第三層術式、解放」
ミラの声が響いた。杖先から放たれた光が首輪に集中して——
ぱきん、と。
乾いた音がした。
首輪に亀裂が走った。亀裂から黒い煙のようなものが噴き出して、天井に向かって渦を巻く。腐った匂いが部屋に充満した。呪いの残滓だとミラが教えてくれたけれど、そんな説明を聞いている余裕はなかった。
シノが——叫んだから。
声にならない叫びだった。口を開いて、でも音が出なくて、代わりに全身が震えている。灰色の耳が逆立って、爪が床の岩を削った。
「シノ!」
駆け寄ろうとした私を、ミラが腕で制した。
「まだです。今触れると術式が暴走する——もう少しだけ」
「でも——!」
「凛さん。信じてください」
ミラの目が真剣だった。歯を食いしばって、私はその場に留まった。
首輪の亀裂が広がっていく。黒い煙が薄れていく。そして——
金属が砕けた。
首輪の破片が床に散らばって、からんからんと転がった。錆びた鉄片がコアの光を鈍く反射する。
シノの首から——首輪が消えていた。
代わりに、赤い痕が一周するように残っている。何年も——いや、もっと長い間つけられていた証。
シノは動かなかった。膝を抱えて、頭を伏せて、じっとしている。震えが止まらない。
「シノ」
もう一度名前を呼んだ。ミラが頷いて、腕を下ろしてくれた。
近づいて、隣に座った。
触れていいのかわからなかった。今のシノの中で何が起きているのか、私には想像することしかできない。封じられていた記憶が、感情が、何年分も一気に流れ込んできているのだ。
だから——ただ隣にいた。何も言わず、何もせず。
どのくらい時間が経っただろう。
「————」
シノの唇が動いた。音にならない声。
「……え?」
「——っ、あった」
かすれた声。震える声。
「家族が——いた。母親が。山の——集落に。小さくて——温かい——」
言葉が途切れ途切れに零れた。記憶の断片を拾い上げるように。
「焼かれた。集落が。煙の——匂い。逃げて——走って——」
シノの爪が自分の膝に食い込んでいる。
「捕まって。鎖。首輪。——声が出なくなった。母さんの顔が——わからなくなった。何も——何も思い出せなくなって——」
「シノ」
「——思い出した」
シノが顔を上げた。灰色の目から涙が流れていた。
泣いているシノを見るのは初めてだった。泣かない子だと思っていた。泣くことすら首輪に禁じられていたのかもしれない。
「母さんの、顔。覚えてる。——覚えてる」
声が震えて、崩れて、嗚咽に変わった。
私はシノの肩に手を置いた。それだけ。それだけしかできなかった。
でもシノは——その手に、自分の手を重ねた。
爪だらけの、傷だらけの、でも温かい手。ぎゅっと握りしめられて、骨が軋むくらい痛かったけれど、振りほどく気は微塵もなかった。
ルゥがいつの間にかシノの反対側に来ていた。何も言わず、そっとシノの背中に寄り添っている。冷たいスライムの体が、シノの熱を受け止めている。
ミラは部屋の入り口に立ったまま、静かに目を閉じていた。杖を胸に抱いて、祈るような姿勢で。
シノが泣き止むまで、誰も動かなかった。
長い時間が経った。
シノの呼吸が落ち着いた頃、ようやく私は口を開いた。
「……大丈夫?」
「……大丈夫。——大丈夫だ」
シノが顔を上げた。泣き腫らした目。でも——その目の奥に、これまで見たことのない光があった。
澄んでいる。
曇りガラスの向こうにあった灰色の瞳が——初めて、晴れた空みたいに透き通って見えた。
「……軽い」
シノが自分の首に触れた。何年も巻かれていた首輪がない。赤い痕だけが残っている。
「軽い——こんなに軽かったのか。首って」
何でもないことのように言って——また泣きそうな顔になって——唇を噛んで堪えた。
「シノ」
「なんだ」
「おかえり」
……言ってしまってから、ちょっと恥ずかしくなった。どこに帰ってきたわけでもないのに。でも他に合う言葉が見つからなかった。
シノが——ぽかんとした。
こんな間抜けな顔もするんだ、と場違いなことを思った。
「……ただいま」
ぼそりと。目を逸らして。耳を真っ赤にして。
ルゥが「えへへ」と笑った。ミラが杖で口元を隠して微笑んでいた。
首輪が外れて、シノは変わった。
いや——変わったというより、本来の姿に戻り始めた、と言うべきかもしれない。
まず、魔力。
封じられていたシノの魔力が解放された。その質と量は、ミラが目を見張るほどだった。
「この子、相当な素質ですね……。魔封じの首輪で長年抑えられていたのが、逆に魔力を圧縮していたようです。蓋を開けたら——この量」
「どのくらい?」
「私と同等か——それ以上かもしれません」
ミラが苦笑いしていた。宮廷魔術師と同等の魔力を持つ少女。首輪さえなければ、どんな人生を歩んでいたのだろう。
シノの魔力は迷宮にも変化をもたらした。ダンジョンマスターである私を通じて、シノの魔力がコアに流れ込む。コアの蓄積量が一気に跳ね上がって、結晶の輝きが明らかに強くなった。
そしてもうひとつ。シノの性格——というか、態度が少しずつ変わっていった。
「凛」
「ん?」
「……ここ」
シノが通路の壁を指差した。迷宮の巡回中のことだ。
「この壁の裏、水脈がある。掘れば水場を作れる」
「また見つけたの? シノの鼻すごいね」
「……べつに。普通のことだ」
相変わらず素っ気ないけれど——以前のような、壁を作るような拒絶がなくなっていた。「普通のことだ」と言いながらも、ちらりと私の反応を確認する横目。褒められるのを待っている耳のぴくぴく。
わかりやすくなった、とルゥが言ったら「うるさい」と唸られていた。
水場は実際に作った。壁を掘って地下水脈を引き込み、小さな泉のような空間を三層目の奥に設けた。澄んだ水が岩の隙間から湧き出て、浅い池を作っている。天井の苔が水面に反射して、幻想的な緑の光を放っていた。
「わー! きれい!」
ルゥが真っ先に飛び込んだ。水の中でスライムの体が溶けかけて、慌てて再形成している。
「ルゥ、溶けてる溶けてる」
「とけてない! これはリラックスしてるの!」
「形がなくなりかけてるのはリラックスとは言わない」
「言うもん!」
水場はすぐに全員のお気に入りの場所になった。
特にシノが気に入っていた。水浴びをするシノの姿を——一度だけ、偶然見てしまった。
灰色の髪を水で濡らして、傷だらけの体に水を掛けている姿。汚れが落ちると、その下の肌は思っていたよりずっと白くて。首輪の痕は赤く残っているけれど、その周りの肌は——
「——っ、凛!?」
シノが振り返った。灰色の目が驚愕に見開かれて、耳が爆発したみたいに逆立った。
「ごごごごめんなさい!!」
慌てて背を向けた。顔が燃えている。
「み、見てない! 何も見てない!」
「見ただろ!!」
「見てない!!」
「尻尾の付け根まで見てただろ!!」
「見てないって言ってるでしょ!!」
その日、シノは半日ほど口をきいてくれなかった。ルゥに事情を説明したら「りん、えっちー」と言われて、ミラには「凛さんも思春期ですね」と笑われて、私は迷宮の一番奥の行き止まりで一人反省会をした。
夕方——コアの明滅が暗くなり始めた頃——コアの部屋で設計図を練っていたら、後ろから気配がした。
「…………」
振り返らなくてもわかる。シノだ。
「……凛」
「……はい」
「……あれは——その——気にしてない」
嘘だ。声が裏返っている。
「ごめんなさい。本当に不注意だった」
「……いい。忘れろ」
「うん」
「…………」
「…………」
沈黙が痛い。
「——次は声をかけろ。入る前に」
「……うん」
「……約束だぞ」
「約束する」
シノが私の隣に——いつもの位置に座った。肩と肩の間の距離は、最初の頃より近い。でも今日は微妙に遠い。三センチくらい。
その三センチが居心地悪くて——でも自業自得だから何も言えなくて——黙ってコアの光を見つめた。
しばらくして。
三センチが縮まった。シノの肩が、いつもの位置に戻ってきた。
何も言わなかった。お互いに。
ただ心臓がうるさかった。シノにも聞こえていたかもしれない。耳がいいから。
迷宮は日に日に大きくなった。
五層目を掘り、六層目に着手した。天然の洞窟と人工の通路が入り組んで、立体的な迷路が地下に広がっていく。ルゥの天井裏通路は迷宮全体を網羅するようになり、小スライムたちも数が増えて——マル、ポチ、タマに加えて、ハナ、ソラ、ユキの三体が新しく生まれた。名前はルゥが全部つけた。
ミラは迷宮の要所に結界石を設置する作業を進めてくれた。彼女の結界術は繊細で強固で、一度設置すれば半永久的に機能する。入り口の結界は侵入者を感知して警報を発し、コアの部屋の結界は物理・魔法の両方を遮断する。
「凛さん、ここの結界と迷宮の壁を連動させられますか? 侵入者を検知したら自動で通路構造が変わるように」
「やってみます。コアの自動応答機能を使えば——たぶんできる」
「素晴らしい。さすがです」
「ミラさんの結界技術あってこそですよ」
「ふふ。お互い様ですね」
ミラと話していると、自然と距離が近くなる。彼女は人の懐に入るのが上手かった。穏やかな物腰で、でも芯は強くて、知識は膨大で。話していて楽しい、と思える相手は前世にもほとんどいなかった。
「凛さんは前の世界でも、こういう——設計とか、構造を考えるのが好きだったんですか?」
「んー……ゲームではよくやってました。建築ゲームとか、タワーディフェンスとか」
「げーむ」
「こっちの世界にはない——かな。遊びの一種です」
「遊びの中で培った知識が、今こうして活きているんですね。素敵なことだと思います」
「引きこもりの経験が活きてるだけですよ……」
「引きこもり?」
「前の世界で——あまり外に出なかったんです。部屋にこもって、一人で」
言ってから、少し後悔した。暗い話を聞かせてしまった。
でもミラは笑わなかった。
「今は——四人ですね」
「……はい」
「一人じゃないですよ。もう」
ミラの手が、そっと私の手に重なった。温かい。ルゥの冷たさでも、シノの熱さでもない、穏やかな温度。お湯が冷めていくときの——いつまでも浸かっていたくなるような、優しい温かさ。
「——あ」
何かが胸の奥で弾けた。小さな気泡みたいに。
「凛さん?」
「い、いえ。何でもないです」
「顔、赤いですよ?」
「何でもないです!」
ミラが首を傾げて、ふふ、と笑った。何でもないわけがないことは——たぶん、バレている。
この人は鋭い。優しいけれど鋭い。
ルゥにもシノにも感じる、この胸の奥の——じんわりと温かくて、少し苦しい感覚。それがミラにも。三人分のそれが胸の中でぐるぐると回っていて、もう手に負えない。
前世では一度も恋をしたことがなかった。恋愛漫画は読んだけれど、自分ごととしてはまるで実感がなくて。人を好きになるという感情が、ずっとフィクションの中の出来事だった。
でも今——これは。
「……考えるのやめよう」
呟いて、コアの設計に逃げ込んだ。ミラが不思議そうにこちらを見ている視線を背中に感じながら。
ある夜のこと。
みんなが寝静まった後——コアの明滅が最も暗くなる時間帯——私は一人で四層目の広間にいた。
あの戦いの後、「何に使うか決めてない」と言った部屋。本当は少し考えていたことがあった。
コアに手を当てて、魔力を流す。
広間の天井を——ゆっくりと彫っていった。
星の形。丸い光の粒が浮かぶように。コアの魔力を天井の岩に染み込ませて、苔とは違う——自発的な輝きを持つ結晶の粒を散りばめた。
何時間かかっただろう。
完成したとき——天井一面に、青白い光の粒が散らばっていた。
星空だった。
本物の空ではない。岩の天井に埋め込まれた小さな結晶の群れ。でも目を凝らせば——ちゃんと星が瞬いているように見える。
外には出られない。空は見えない。夜空を見上げることは——この体では、一生できない。
だから——作った。
自分だけの空を。
「……我ながらバカだな」
呟いて、でも少しだけ嬉しかった。
「りん」
びくっとした。振り返ると——入り口にルゥが立っていた。半透明の体が、天井の偽物の星を映してきらきら光っている。
「いつからいたの?」
「さっき。りんがいないからさがしてたら——」
ルゥが天井を見上げた。
青い目が、見開かれた。
「——きれい」
「……そう?」
「きれいー! なにこれ、ほし? ほしなの?」
「偽物だけどね。本物の空は見たことないから、適当に——」
「すごい! すごいすごい! りんすごい!」
ルゥが飛び跳ねながら天井を見上げている。跳ぶたびに星の光が体の中で反射して、ルゥ自身が宝石みたいに輝いた。
「シノとミラにもみせなきゃ!」
「え、ちょっ——いいよ、恥ずかしい——」
「シノー! ミラー! おきてー! きてきてきてー!」
止められなかった。
数分後、寝ぼけ眼のシノと、髪を下ろしたミラが広間に現れた。
「何だ……こんな時間に騒いで——」
シノが天井を見上げて、言葉が止まった。
「……これ」
「凛さんが……作ったんですか?」
ミラが両手で口を覆っていた。黒い瞳に、星の光が映り込んでいる。
「……うん。外に出られないから——空だけでも、と思って」
恥ずかしさで消えたかった。何やってるんだ私は。こんなの自己満足の——
「凛」
シノが近づいてきた。天井を見上げたまま。灰色の瞳に星が散っている。
「——覚えてる。この光」
「え?」
「集落にいた頃——夜、母さんと外に出て、空を見た。こういう——光だった」
シノの声が震えていた。でも、泣いてはいなかった。
「……ありがとう」
短い言葉。でもその一言に、どれだけの重さがあるのか——声の震えが教えてくれた。
「りん、ルゥもすき。このほし」
ルゥが私の左腕にしがみついた。
「ルゥ、そとのそら知らないけど——りんがつくったそらなら、いちばんすき」
「凛さん」
ミラが私の右手を取った。
「ここに来てよかった。心から、そう思います」
三人に囲まれて、偽物の星空の下で。
目頭が熱くなった。こらえようとしたけれど、こらえきれなかった。
「……ちょっと、三人とも近い」
「近くていいの!」
「距離感というものを——」
「……いいだろ、べつに」
「ふふ。観念してください、凛さん」
泣いているのを見られたくなくて俯いたけれど、ルゥが下から覗き込んでくるし、シノは横から肩を寄せてくるし、ミラは後ろからそっと髪を撫でてくるし。
逃げ場がない。ダンジョンマスターなのに。
「……ありがとう」
声が震えた。涙声だった。恥ずかしかった。でも——
「ここにいてくれて。——私の迷宮に」
四人で天井の星を見上げた。
肩が触れ合って、体温が混じり合って、誰かの心臓の音が聞こえる。自分のなのか、隣の子のなのか、もうわからない。
陽の届かない地の底。でもここには星がある。
偽物の星だけれど——本物の温もりがある。
「ねえ、りん」
「なに?」
「ルゥ、ずっとここにいるよ」
「……うん」
「シノもー?」
「……うるさい。——いる」
「ミラもー?」
「もちろん。どこにも行きません」
ルゥが満足そうに笑って、私の腕をぎゅっと抱きしめた。
「じゃあ、ずっといっしょだね」
ずっと。
前世の私には想像もできなかった言葉だ。誰かと「ずっと」なんて——怖くて口にすることさえできなかった。
でも今は。
「——うん。ずっと一緒」
言えた。
暗い地の底で、四つの影が寄り添っている。
偽物の星が照らす小さな広間。外の世界は遠くて、太陽は届かなくて、風も吹かない。
でもここには——笑い声がある。体温がある。名前を呼ぶ声がある。
陽の届かぬ庭で、花は咲く。
地の底で根を張り、暗闇の中で芽吹いて、誰に見せるでもなく——ただ、ここに咲いている。
それでいい。
それがいい。
ここが——私の世界だから。