三つの足音が、洞窟の入口で止まった。
美夜はコアに手を添えたまま、感覚を研ぎ澄ませた。目を閉じれば迷宮の全体が心の中に浮かび上がる。入口の手前に三つの人影。松明の光が通路の口から差し込んで、壁の苔を照らしている。
「——おい、見ろよ。苔が光ってやがる」
「若ぇ核だな。できたてだ。こりゃあ楽な仕事だぜ」
「罠は?」
「この規模じゃ仕掛ける余裕もねえだろ。さっさと入ろうぜ」
男たちの声は反響して歪んでいたが、内容は聞き取れた。心臓が喉の奥まで上がってきそうだった。
シロが通路の手前に陣取っている。外へ続く通路は幅が狭く、大人が二人並ぶのがやっとの太さだ。シロの蜘蛛の下半身が通路の壁ぎりぎりまで広がり、天然の壁のように道を塞いでいた。
「美夜さま」
シロが声を落とした。振り返らない。紫の瞳は通路の奥を見据えたまま。
「通路が狭いのは、こちらに有利です。一度に一人しか前に出られない」
「……うん」
「ですが三人を同時に相手取れば、いずれ押し込まれます。一人ずつ仕留めるのが肝要です」
一人ずつ仕留める。その言葉の意味を、美夜は噛み締めた。殺す、ということだ。人を。
——いや。今それを考えている余裕はない。
松明の光が近づいてくる。足音が通路に入った。壁に反射した橙の光が、中部屋の天井を不規則に揺らす。
シロの右手が持ち上がった。指の間から、半透明の糸が伸びているのが見えた。蜘蛛の糸。きらきらと微光を反射して、それ自体が薄く光っているようにも見える。
「——お?」
先頭の男が、中部屋の入口で足を止めた。松明を高く掲げる。火に照らされて、シロの銀髪と白い上半身が闇の中に浮かび上がった。紫の瞳が、炎を映して妖しく光る。
「アラクネだと——こんな若い迷宮に?」
男の声に驚きが混じった。後ろから別の声。
「一体だけだ。他に何もいねえ。いけるだろ」
「ああ——蜘蛛女一匹ならな」
先頭の男が短剣を抜いた。鈍い金属の光が松明に照らされる。
シロが動いた。
——速い。
美夜は目を見張った。蜘蛛の八本の脚が一斉に壁と天井を蹴り、シロの身体が低い天井すれすれを滑るように跳んだ。男が反応するより早く、右手から射出された糸が男の短剣を握る手首に絡みつく。
「ぐっ——」
シロが糸を引いた。男の手首がねじれ、短剣が弾かれて床に落ちる。同時にシロの蜘蛛の脚が天井を蹴って降下し、前脚の鋭い先端が男の肩を打った。鈍い音がして男が壁に叩きつけられ、崩れるように倒れた。
動き出してから二秒もかかっていない。
だが——シロの身体が通路を離れた隙に、残りの二人が中部屋に流れ込んだ。
「退け!」
二番目の男が剣を振り上げた。長剣だ。中部屋は天井が低いが、振り下ろすには十分な空間がある。シロの蜘蛛の胴体めがけて、刃が落ちた。
シロが脚を引いて後退する。刃が空を切り、床の石を砕いた。火花が散る。三番目の男——小柄な体格——が、反対側に回り込もうとしている。挟撃。
美夜の心臓が暴れていた。手のひらの下で、コアも激しく脈打っている。
——何かできないの。わたしに。この迷宮の主なんでしょう。
コアに意識を叩きつけるように集中した。迷宮の構造が心の中に浮かぶ。壁。床。天井。通路。全部が自分の身体の延長。だったら——
感覚を手繰った。迷宮を動かす。壁を。床を。指先に力を込めて、念じた。
中部屋の床が、ほんの僅かに——隆起した。
三番目の男の足元で、拳ほどの岩の突起が地面から突き出す。それだけだった。たったそれだけの変化。けれど駆けていた男の足がそれに引っかかり、体勢が崩れた。
「なっ——」
一瞬の隙。シロは逃さなかった。
糸が射出される。三番目の男の両足に巻きつき、引き倒す。男が背中から地面に叩きつけられ、呻き声を上げた。シロの前脚が男の胸を踏みつけ、動きを封じる。
残りは、長剣の男一人。
「化け物がっ——!」
男が切りかかった。今度はシロの上半身を狙った横薙ぎ。シロは上体を仰け反らせて躱したが——刃が銀の髪の一房を断ち切り、直後に蜘蛛の右前脚の関節を浅く切り裂いた。
シロの口から、微かな息が漏れた。
「シロっ!」
美夜が叫んだ。
シロの動きが一瞬だけ鈍った。傷口から、薄紫色の体液が滲む。男がそれを見て笑った。短い、余裕のない笑い。
「所詮は生まれたてだろうが——」
男が剣を振りかぶった。
美夜はコアを掴んだ。迷宮を感じた。壁を。天井を。全てが自分の身体なのだと、さっきよりも強く、切実に。
天井から、水が落ちた。
美夜が意図したのは、そんな大層なものではなかった。天井に染みている地下水を、ほんの少しだけ絞り出す。それだけ。水が男の目に入り、一瞬だけ視界を奪う。
その一瞬で、十分だった。
シロの糸が男の剣を握る手に絡みついた。引く。剣が手を離れ、壁にぶつかって甲高い音を立てた。蜘蛛の脚が男の膝裏を打ち、男がよろめいた。
倒れた男の上にシロが覆い被さった。蜘蛛の前脚が両腕を押さえ、糸が手首と足首を束ねていく。男は暴れたが、シロの重量と八本の脚の拘束力は圧倒的だった。
十数秒後、三人の男は全員が蜘蛛の糸で床に縛りつけられていた。
中部屋に静寂が戻る。
美夜はコアから手を離した。指先が氷のように冷たく、全身から力が抜けて、その場にへたり込んだ。呼吸が荒い。心臓がまだ暴れている。
足元でルリがぷるぷると震えていた。戦闘中ずっとここにいたらしい。美夜の側を離れなかったのだ。
「——美夜さま」
シロが振り返った。紫の瞳に、安堵のようなものが浮かんでいる。
「ご無事ですか」
「わたしは——わたしは何もしてない。シロこそ、怪我——」
視線が蜘蛛の右前脚に走る。浅い切傷から薄紫の体液が伝っていた。
「浅い傷です。この程度であれば、迷宮内にいる限り徐々に塞がります」
「……本当に?」
「はい」
シロの声は穏やかだったが、美夜は彼女の息がわずかに乱れているのを聞き逃さなかった。余裕があったわけではないのだ。
三人の男のうち、先頭の男が呻きながら首を持ち上げた。
「——くそ、ガキの迷宮だと思って舐めてた……」
美夜はその顔を見た。傷だらけの頬。荒んだ目。年齢は三十代半ばか。冒険者というよりは——ごろつき、という言葉が似合う風貌だった。
「どうしますか、美夜さま」
シロの問いは、簡潔だった。簡潔であるがゆえに重い。
どうする。殺すのか。逃がすのか。
美夜は唇を噛んだ。
「……この人たちを殺したら、どうなるの」
「魔力になります。命は魔力の塊です。迷宮内で死んだ者の魔力はコアに吸収されます」
男の顔が強張った。必死に身体を捩るが、糸はびくともしない。
「た、頼む——殺さねえでくれ。金目のもんは全部置いていく。二度と来ねぇ。誓うから——」
美夜は男の目を見た。
恐怖。純粋な、死への恐怖。自分が同じ目をしていたのは、ほんの数分前のことだ。あの横断歩道で、ヘッドライトが迫ってきたとき——
「逃がして」
「美夜さま」
「逃がしてください」
シロが沈黙した。数秒の間があった。紫の瞳が美夜の顔を読み取ろうとしている。
「……この者たちが仲間を連れて戻ってくる可能性は、少なくありません」
「分かってる。分かってるけど——」
美夜は自分の膝を見た。震えている。情けないほどに。
「——今のわたしには、人を殺す覚悟がない」
正直に言った。格好悪いと思った。でも嘘は言えなかった。
シロはしばらく美夜を見つめていた。それから、静かに頷いた。
「承知いたしました」
三人の男は、武器と荷物を残して追い出された。シロが糸で足だけを解放し、通路を這うようにして去っていくのを、美夜はコアを通した感覚で見送った。
入口から外気が流れ込む。彼らの足音が遠ざかり、やがて消えた。
中部屋に残されたのは、錆びた短剣一本、刃こぼれした長剣一本、粗末な革の鞄が三つ。鞄の中身は干し肉と水袋と、数枚の銅貨。
「これは……」
シロが革の鞄を調べながら、微かに眉をひそめた。
「碌な装備ではありません。冒険者ギルドに所属する者たちではないでしょう。流れの盗賊か、あるいは——コアを抜いて売り捌く専門の者」
コア抜き。その言葉に、背筋が冷えた。
「ここの場所が知られているなら、もっと来るよね」
「おそらく。若い迷宮は魔力の波動を隠す術を持ちません。勘の鋭い者であれば、相当な距離からでも察知できます」
「……どうしよう」
美夜は両手で顔を覆った。さっきの戦闘で精神力を使い果たしたように、頭が重い。
足元にぬるりとした感触があった。ルリが美夜の足に寄り添うように張りついている。冷たいはずのスライムの温度が、不思議と今は心地よかった。
「美夜さま」
シロが近づいてきた。蜘蛛の脚が石の床を叩く音が、規則正しく響く。美夜の正面にしゃがみ込むように——いや、蜘蛛の下半身を低く折り畳んで、視線の高さを合わせた。
「先ほどの戦闘で、美夜さまは迷宮を動かされました」
「……床をちょっと盛り上げたのと、天井から水を落としただけ」
「ただけ、ではありません。生まれたばかりの迷宮主が、戦闘の最中に即座に迷宮操作を行った。大したものです」
お世辞を言うような声色ではなかった。事実を述べているだけの、淡々とした口調。
「美夜さまの問いに答えます。何ができるか。迷宮を育てることです」
「育てる」
「通路を広げ、部屋を増やし、構造を複雑にする。それが迷宮の生存戦略です」
シロの紫の瞳が、通路の壁を示した。
「先ほどは狭い通路に助けられました。ですが敵が多くなれば、単純な狭さはいずれ突破されます。必要なのは深さです。階層を増やし、コアまでの道のりを遠くする。分岐を作り、侵入者を迷わせる。罠を仕掛け、消耗させる」
「でも通路を広げたら、もっと侵入しやすくなるんじゃ——」
「通路を太くするのは、魔力の吸収のためでもあります。迷宮の通路は外界から魔力を取り込むための血管。太く、長くするほど、流れ込む魔力が増えます」
美夜は頷いた。コアに触れたときに流れ込んだ知識。ただ、シロの口からあらためて聞くと、単なる情報ではなく戦略として像を結ぶ。
「侵入者が強くなったとしても、それ以上の速さで迷宮を深くしていけば——」
「追いつかれなければ、負けません。ですがそれは——」
シロが言い淀んだ。美夜は顔を上げた。
「それは?」
「……侵入者の一部は、迷宮の養分になるということです」
沈黙が落ちた。
迷宮内で死んだ者の魔力はコアに吸収される。さっきシロが言ったことだ。迷宮を育てるために通路を伸ばせば、冒険者や盗賊が入ってくる。その中の何割かは、罠や魔物に倒される。倒された者の魔力がコアに還元され、迷宮はさらに成長する。
それが——迷宮というものの生態だった。
美夜は膝の上で拳を握った。
「……今は、考えない。今は——まず、生き延びることだけ考える」
逃げている自覚はあった。けれど、全てを一度に受け入れるには、まだ心が追いついていない。
シロは何も言わなかった。ただ、微かに頷いた。
最初にしたことは、迷宮の構造を把握し直すことだった。
美夜はコアに手を当て、目を閉じた。心の地図が広がる。
最奥にコアの部屋。その手前に中部屋。中部屋から分岐して、外への通路と、行き止まりの袋小路。それだけ。
「ここを広げたい」
中部屋と外への通路を繋ぐ部分を意識した。壁に手を触れ、そこが自分の身体であるかのように力を込める。
最初は何も起きなかった。
数分、集中を続けた。額に汗が浮かぶ。コアの魔力が緩やかに消費されていくのを感じる。
壁が動いた。
本当にゆっくりと——粘土が押し広げられるように、岩の壁がずるりと後退した。通路の幅が拳一つ分だけ広がる。それだけで、美夜は肩で息をしていた。
「これ、すごく疲れる……」
「迷宮の拡張はコアの魔力を消費します。現在の保有量では、大きな拡張は難しいかと」
「うん……分かった。じゃあ少しずつやる。魔力が溜まったら、少しずつ」
美夜はコアの部屋に戻って壁にもたれかかった。体力的な疲労とはまた違う、頭の芯が絞られるような消耗。
「シロ」
「はい」
「さっき、侵入者の持ち物を調べてたよね。何か使えるものはあった?」
「武器は粗悪品ですが、ないよりはましです。食料はわたくしには不要ですが、美夜さまにはお体が——」
シロがそこで言葉を切った。何かに気づいたような顔をして、美夜をじっと見た。
「美夜さま。食事は必要ですか」
「え?」
言われて初めて気づいた。目が覚めてからそれなりの時間が経っているはずなのに、空腹を感じていない。喉も渇いていない。
「……感じない。お腹空いてない」
「迷宮主はコアから魔力を受けて生命を維持している可能性があります。食事が完全に不要かどうかは分かりませんが——」
「とりあえず今すぐ困ることはない、と」
「はい」
それは一つの安心材料だった。この洞窟に食料を持ち込む手段がない以上、食べなくても死なないのはありがたい。
美夜は天井を見上げた。発光する苔が青緑の光を放っている。時間の感覚がない。今が昼なのか夜なのかすら分からない。
「……ねえ、シロ」
「はい」
「シロは——生まれたとき、怖くなかった?」
唐突な質問だった。シロが少し間を置いてから答えた。
「怖い、という感情がどういうものかを、わたくしは正確には理解していないかもしれません。ただ——」
シロの紫の瞳が、コアの淡い光を映した。
「目を開けて、最初に美夜さまのお顔を見たとき。この方をお守りしなければ、と思いました。それ以外のことは何も考えませんでした」
「……それは、コアにそう刻まれてるから?」
意地悪な質問だと自分でも思った。でも聞かずにいられなかった。
シロは首を傾げた。銀の髪がさらりと揺れる。
「分かりません。わたくしの意思とコアの命令の境目が、わたくし自身には見えません」
正直な答えだった。
「ですが——美夜さまが先ほど、あの者たちを逃がすと仰ったとき」
「うん」
「わたくしは、反対意見を述べるべきだと思いました。戦略的には殺すべきだと。けれど——美夜さまの顔を見て、やめました」
「……どうして」
「あのお顔は、命令ではなくお願いでしたから」
美夜は言葉を失った。
シロは淡々と続けた。
「命令であれば、従うのみです。お願いであれば——叶えたいと思いました。これがコアに刻まれたものなのか、わたくし自身のものなのか、確かに分かりません。ですが——どちらでも、構わないと思っています」
美夜はしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
「お礼を言われるようなことは」
「言いたいから言うの」
シロが瞬きをした。その仕草が妙に人間くさくて、美夜は少しだけ笑った。ここに来て初めて笑ったかもしれない、と思った。
魔力の回復を待ちながら、美夜は迷宮の拡張を少しずつ進めた。
一度に大きく掘るのは無理だ。魔力が溜まっては壁を押し広げ、溜まっては通路を伸ばし、少しずつ、少しずつ。日時の感覚は早々に曖昧になった。コアの脈動のリズムだけが、唯一の時計代わりだった。
最初の数サイクルで中部屋を倍の広さにした。次に、外への通路を太く、長く引き伸ばした。幹線道路のような太い一本道が、ゆるやかにうねりながら外へ向かう。
通路を太くした直後から、変化が現れた。
流れ込んでくる魔力が、明らかに増えた。細い糸だった流入が、細い紐くらいにはなった。水瓶の水位が上がる速度が目に見えて上がる。
「効果あるね」
「ええ。血管が太くなれば、当然の帰結です」
シロは美夜の指示を受けて迷宮の巡回を行っていた。入口付近の見張り、壁の点検、生じた亀裂の報告。蜘蛛の脚は壁も天井も自在に移動できるため、偵察役として適任だった。
「美夜さま、一つご報告が」
「なに?」
「入口付近の壁面に、新しい苔が生え始めています。以前はなかった場所です」
「苔?」
「はい。それも——発光の色が違います。青緑ではなく、薄い桃色です」
美夜は首を傾げた。コアに手を当てて、該当箇所を感知する。確かに、入口近くの壁に新しい生命反応がある。淡い、温かい反応。
「迷宮が成長しているのでしょうか。あるいは——」
シロが美夜を見た。
「迷宮主の性質が、迷宮の環境に影響を及ぼしているのかもしれません」
「わたしの性質?」
「迷宮核から生まれるものは、主の本質に左右されると——そう、刻まれた知識にあります。わたくしが生まれたのも、ルリが生まれたのも、美夜さまという存在が核にあるからこそです」
美夜は自分の両手を見た。白い指。細い手首。前世の自分よりも華奢な、この身体。
「わたしの本質、か。自分のことなのに、よく分からない」
「追々、明らかになるかと。迷宮が育てば、主の性質もより色濃く反映されていくでしょう」
桃色の苔。それが自分の性質の反映だとしたら、何を意味するのだろう。
考えても分からないので、美夜は目の前の作業に戻ることにした。
拡張を続けるうちに、コツが分かってきた。
闇雲に広げるのではなく、流れを意識する。外界からコアへ至る道のりを、一直線ではなく、うねらせる。分岐を作る。行き止まりの袋小路を複数配置する。
美夜は前世で読んだダンジョンもの小説やゲームの知識を総動員した。とはいえ、知識と実践は違う。壁を一枚動かすだけで魔力を消費し、通路を一本追加するのに何サイクルもかかった。
数日——おそらく数日——が経った頃、迷宮は見違えるほどに変わっていた。
部屋は七つに増えた。通路は十二本。入口からコアまでの距離は元の四倍以上。分岐が三箇所あり、そのうち一つは行き止まりに繋がるダミーの道。完璧には程遠いが、最初の三部屋三通路とは比較にならない。
そして——魔力の流入も着実に増えていた。
「シロ。そろそろ、もう一回引けると思う」
「ガチャ、ですか」
いつの間にかシロもその呼び名を使うようになっていた。美夜が繰り返し口にしたせいだ。
「三回目だから——二回目の倍。かなり重いと思う。でも、今の魔力なら足りるはず」
水瓶の水位を確認する。通路を太く広げたおかげで、流入量は初期の何倍にもなっている。拡張に使った分を差し引いても、三回目のコストを賄えるだけの蓄えがあった。
「守りを増やしたい。シロ一人に全部背負わせるのは嫌だから」
「わたくしは構いませんが——ご判断にお任せします」
美夜はコアに両手を置いた。深呼吸をする。
三回目。
魔力が引き抜かれる感覚は、二回目を遥かに上回った。全身から血を抜かれているような消耗感。視界が暗くなる。歯を食い縛り、手を離さないよう必死に堪えた。
——長い。一回目、二回目よりずっと長い。
コアの光が膨れ上がった。部屋全体が白く染まる。光の粒子が集まり、渦を巻き——
形を成した。
光が消えたとき、美夜は目を疑った。
そこにいたのは——犬だった。
いや、犬と呼ぶには大きすぎる。四足で立った状態で美夜の腰の高さまである。漆黒の毛並みに覆われた獣。だが犬とも狼とも違う。顔が二つあった。一つの首から二つの頭が分岐し、それぞれに金色の目が四つ。二つの口から白い牙が覗いている。
双頭の黒犬。
生まれ落ちた獣は、二つの頭を同時にもたげて美夜を見た。四つの金色の目が、じっとこちらを見つめている。美夜が身構えるよりも早く——二つの頭が同時に尾を振った。
「……犬?」
ぶんぶんぶん。
尾の振り方が、完全に犬だった。嬉しそうに身体全体を揺すりながら、美夜に向かってのそのそと近づいてくる。右の頭が美夜の手を舐め、左の頭がくぅんと甘えた声を出した。
「ちょ、ちょっと——大きい、大きいから——」
押し倒されかけた美夜が尻餅をつくと、双頭の黒犬が膝の上に頭を——二つとも——載せてきた。重い。けれど温かい。シロとルリは体温が低かったが、この獣は確かな熱を持っていた。
「オルトロス……でしょうか」
シロが近づいてきて、双頭の犬を観察した。
「双頭の魔獣。知識にはありますが、実物は初めてです。もっとも、わたくしは生まれて間もないので、何もかもが初めてですが」
「戦えそう?」
「牙と爪を持つ肉体派の魔獣です。通路の守りに向いているかと。ただ——」
シロが軽く眉を上げた。
「随分と人懐こいですね」
双頭の黒犬は、美夜の膝から頭を上げようとしない。左の頭が目を細めて喉を鳴らし、右の頭が美夜の指を甘噛みしている。牙は鋭いのに、加減が完璧だった。
「名前——つけなきゃ」
美夜は二つの頭を交互に見た。金色の目が四つ、期待するようにこちらを見上げている。
二つの頭があるから——二つの名前? いや、一つの存在だから一つでいい。黒い毛並み。金の目。双つの頭。
「クロ」
四つの金の目が同時に輝いた。二つの尾がぶんぶんと振られる。名前を受け取った瞬間、コアを通じた繋がりが生まれるのが感じ取れた。
「シロにクロって——安直が過ぎませんか」
「うるさいなぁ……」
「……申し訳ございません」
「今、ちょっと笑ったでしょ」
「いいえ」
嘘だ。シロの口元がかすかに動いたのを、美夜は見逃さなかった。
迷宮の住人が四人——一人と三体——になったことで、生活に変化が生まれた。
クロは忠実な番犬だった。入口に近い部屋に配置すると、二つの頭が交互に眠ることで常に片方が見張りを続けた。鋭い嗅覚と聴覚で、通路に近づく気配をいち早く察知する。
シロは巡回と情報整理を担った。迷宮内の状況を定期的に報告し、拡張の方針について美夜と相談する。戦闘力も偵察能力も高く、美夜にとって最も頼りになる存在だった。
ルリは——ルリはルリだった。美夜の足元にいて、ぷるぷるしていた。
ただ一つ、ルリにしかできないことがあった。通路の掃除だ。スライムの体が通路を這うと、壁や床にこびりついた汚れや余計な堆積物が吸収されていく。通路が清潔に保たれることで、魔力の流れが僅かに改善されるのを美夜は感じ取っていた。
「ルリ、えらい」
ぷるるん。
美夜がルリの表面を撫でると、透明な体内の光の粒がぽわっと明るくなった。褒められると光る。可愛い生き物だった。
「美夜さま」
シロが通路の奥から戻ってきた。蜘蛛の脚が石の床を叩く規則的な音が、美夜にとっては聞き慣れたものになりつつある。
「入口付近の苔が広がっています。桃色の苔に加えて、小さな花のようなものが壁面に」
「花?」
「ごく小さな——菫に似た花です。発光しています。薄紫の光」
迷宮に花が咲いている。およそ迷宮らしからぬ光景だと思った。
「やっぱり、わたしの性質が影響してるのかな」
「おそらく。苔と花は迷宮の壁面を彩り、ある種の環境を形成しつつあります。暗い洞窟にしては——些か、穏やかに過ぎるかもしれません」
穏やか。暗い地下の洞窟が、穏やかな場所になっていく。それが自分の性質の反映なのだとしたら——
美夜は苦笑した。
「迷宮としてはどうなの、それ」
「侵入者が油断してくれるなら、それもまた武器です」
真面目な顔でシロが言うので、冗談なのかどうか判別できなかった。
その日——美夜の体内時計が「夜」だと判断した時間帯——のことだった。
クロが吠えた。
低い、腹に響く二重の咆哮。二つの頭が同時に通路の奥に向かって牙を剥いている。
美夜はコアに手を当てた。迷宮の入口——何かが近づいている。
前回のような複数の足音ではない。一つ。一人。ただし——
「シロ」
「はい。感じております。前回の者たちとは——気配の質が違います」
シロの声に、初めて緊張が滲んでいた。
ゆっくりとした足音が入口から通路に踏み込んできた。松明の光はない。暗闇の中を、一切の明かりなしに歩いている。
足音が一つ目の分岐点に差し掛かった。美夜が分岐の一方に仕掛けた行き止まりのダミー通路。侵入者は一秒も迷わずに正しい道を選んだ。
美夜の背筋に冷たいものが走った。
「——迷わなかった」
「迷宮の構造を読んでいます。あるいは、魔力の流れを辿っているのか」
足音は淡々と進んでくる。焦りもなく、警戒しつつも恐れはなく。クロが配置された部屋に差し掛かったとき、クロが飛び出した——
直後、短い金属音。
クロが弾き飛ばされた。壁に叩きつけられた黒い身体が、悲鳴のような声を上げる。
「クロっ!」
美夜は叫んだ。コアを通じてクロの状態を感じ取る。気絶。大きな傷はないが、意識を飛ばされている。一撃で。
「美夜さま、お下がりを」
シロが通路に出た。銀の髪が闇に溶ける。八本の脚が臨戦態勢で広がり、両手から糸が伸びる。
足音が止まった。
暗い通路の向こうに、人影が立っている。暗順応した美夜の目に、ゆっくりとその輪郭が見えてきた。
フードを深く被った、細身の体躯。美夜よりもずっと長身で、けれど男にしては華奢に見える。手には何も持っていない——少なくとも、目に見える武器は。
「——ほう」
低い声。だが——女の声だった。
「アラクネか。若い迷宮にしてはまた上等な引きだ」
フードの奥から覗く目が、暗闘の中で琥珀色に光った。
人間の目じゃない。
美夜がそう直感したのと同時に、シロが動いた。糸が射出される。だが——侵入者の指先がわずかに動いた。空気がビリビリと震える感覚が美夜の肌を刺した。シロの糸が、空中で凍りついたかのように停止し、ぱらぱらと粉砕されて散った。
「——っ」
シロの動きが止まった。次の糸を出そうとして、腕が途中で止まる。見えない力がシロを押さえつけているかのように、八本の脚が床に縫い止められた。
魔法。
前回の盗賊たちとは、根本的に次元が違う。
「やめて!」
美夜はコアの前に立ちはだかった。手を広げて、結晶を背に庇う。身体は震えている。だが、足は動かなかった。ここを退いたら、全部終わりだと分かっていたから。
フードの人物が、通路の奥に立ったまま動きを止めた。
「……ダンジョンマスターか」
琥珀の目が、美夜を映した。
「子供だな」
沈黙が落ちた。水の滴る音だけが響いている。
フードの人物は、しばらく美夜を見つめていた。それから——手を下ろした。シロの体を拘束していた見えない力が緩む。シロがよろめきながらも体勢を立て直し、すぐに美夜の前に割り込もうとした。
「待ちなさい、蜘蛛。敵意はない。もう少し早くそう言えばよかったが——君たちがすぐに飛びかかってきたのでね」
「……敵意がないなら、何しに来たの」
美夜の声は震えていた。けれど、目は逸らさなかった。
フードの人物が、口元だけ見えるように顔を少し上げた。形の良い唇が、薄く弧を描く。
「偵察だ。新しい迷宮ができたと聞いてね。どんな主がいるのか見に来た」
「偵察して——それから?」
「それは、主の出方次第だ」
琥珀の目が細められた。
「少なくとも——抜く価値のないコアを荒らす趣味はない。今のところは、だが」
踵を返すと、フードの人物は来た道を引き返し始めた。足音が遠ざかっていく。
通路の途中で、声だけが響いた。
「桃色の苔に菫の花。面白い迷宮だ。久しぶりに好奇心を刺激される」
足音が消えた。
美夜は、その場に崩れ落ちた。