ダンジョンマスター系の短編、中編集   作:合歓木あやめ

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第三話「花が咲く場所」

 フードの人物が去ってから、美夜は長いことコアの部屋で座り込んでいた。

 

 膝を抱えて、背中を壁に預けて、天井の苔を見つめていた。桃色の光が淡く揺れている。あの人物の言葉が耳の奥にこびりついて離れない。

 

 ——抜く価値のないコアを荒らす趣味はない。今のところは、だが。

 

 今のところは。

 

 裏を返せば、価値が出れば話は変わるということだ。迷宮を育てなければ生き残れない。でも育てれば育てるほど、狙われる。どちらに転んでも詰んでいるように思えて、喉の奥が苦くなった。

 

「美夜さま」

 

 シロの声が静かに響いた。蜘蛛の脚の音がゆっくり近づいてきて、美夜の横に止まる。壁と天井の角に器用に身体を収め、上半身だけを美夜の方に向けた。

 

「クロの意識が戻りました。外傷はありません」

 

「……よかった」

 

「美夜さまこそ、お休みになるべきです」

 

「眠れないよ」

 

「でしょうね」

 

 シロはそれ以上何も言わなかった。黙って美夜の隣にいた。沈黙が重くなかったのは、シロの存在そのものが静かだからだ。八本の脚が壁と床に張りついている微かな音と、銀の髪が揺れる気配。

 

「……シロ」

 

「はい」

 

「あの人、何者だと思う?」

 

「断言はできません。ただ——あれは術者です。魔法を行使していました。それも、高位の」

 

「わたしの糸を粉砕し、八本の脚を同時に縫い止めた」とは言わなかったが、シロの声の底に硬いものがあった。自分が為す術もなかったことへの——苛立ちとも、悔しさともつかないもの。

 

「人間?」

 

「分かりません。あの目の色は人間にも稀に見られますが……」

 

 琥珀色の、暗闇で光る目。人間の目は暗闘で光らない。少なくとも、美夜の知る限りでは。

 

「もう一つ気になることがあります」

 

「なに」

 

「あの者は、この迷宮の構造を正確に把握していました。分岐を一切迷わなかった。魔力の流れを読んでいた可能性が高い」

 

「つまり——迷路としての意味がない?」

 

「あの者に対しては。ですが、一般的な侵入者であれば有効です。問題は、あのような者が再び来た場合の対処です」

 

 美夜は膝に顔を埋めた。考えることが多すぎる。一つ問題を片付ける前に、次の問題が積み上がっていく。

 

 ぷるん。

 

 膝の横に、ルリが寄ってきた。透明な体が美夜のふくらはぎに密着して、淡い青緑の光がぽわぽわと明滅している。

 

 不意に、くすっと笑いが漏れた。

 

「ルリは平和だね」

 

 ぷるるん。

 

「……わたしも平和がいいなぁ」

 

 独り言のように言って、美夜は立ち上がった。膝の砂を払う。

 

「寝よう。考えるのは起きてからにする」

 

「賢明です」

 

 コアの部屋の壁際に、シロが糸で作った簡素な寝床がある。蜘蛛の糸を何重にも編んだもので、見た目に反して柔らかく、仄かに温かい。最初は抵抗があったが、今ではここ以外で眠る気になれなかった。

 

 横になると、天井の桃色の苔が視界いっぱいに広がった。薄紫の菫の花が、壁の隙間からいくつか顔を覗かせている。暗い洞窟なのに、このコアの部屋だけは不思議と安らぎがあった。

 

 ——わたしの性質が反映されてる、って言ってたっけ。

 

 こんな場所で花を咲かせるなんて、迷宮の主としては致命的に向いていないんじゃないかと思う。でも——嫌いじゃなかった。

 

 目を閉じると、コアの脈動がゆっくりと身体に染みてくる。どくん、どくん。自分の心臓と重なるリズム。ルリが足元に丸くなり、シロが入口に立って見張りについている気配を最後に感じて——美夜は眠りに落ちた。

 

 目が覚めたとき、頭は驚くほど澄んでいた。

 

 どれくらい眠ったのかは分からない。時計がないこの世界では、体感だけが頼りだ。たっぷり眠った感覚がある。身体の芯に溜まっていた重さが抜けて、指先まで感覚が行き渡っていた。

 

 コアに触れる。水瓶の水位を確認。

 

「——増えてる」

 

 眠っている間にも魔力は流入し続けていた。拡張した通路が着実に働いている。今の蓄えなら——四回目のガチャが引ける。ぎりぎりだが、足りる。

 

 四回目。三回目の倍のコスト。

 

 怖い。引き終わった後、魔力がほぼ空になるだろう。回復するまでの間は拡張もできないし、迷宮操作も制限される。無防備な時間が生まれる。

 

 でも——あのフードの人物と同等とまでは言わなくても、それに近い相手が来る可能性を考えれば、戦力は一つでも多い方がいい。

 

「シロ」

 

「お目覚めですか」

 

 シロは入口近くの壁に張りついていた。一晩中——美夜の体感で一晩——見張りを続けていたらしい。

 

「疲れてない?」

 

「迷宮内にいる限り、コアから魔力を受けて体力が維持されます。休息は必要ですが、人間ほどの頻度では」

 

「でも、ずっと見張りは——」

 

「お気遣いなく。これがわたくしの役割です」

 

 その言い方が少しだけ引っかかった。けれど今は別の話をしなければならない。

 

「四回目、引こうと思う」

 

 シロの紫の瞳がわずかに見開かれた。

 

「……魔力は足りますか」

 

「ぎりぎり。引いた後はしばらく何もできなくなる。だからシロに聞きたい。今引くべきか、もう少し貯めてからにするべきか」

 

 シロは数秒黙った。考えているのか、美夜に判断を委ねるべきか迷っているのか。

 

「……率直に申し上げます」

 

「うん」

 

「引くべきかと。あの術者が偵察に来たということは、この迷宮の存在が知られているということです。時間は味方ではありません」

 

「同じこと考えてた」

 

 美夜はコアの前に立った。両手を結晶の表面に置く。脈動が掌に伝わる。深呼吸を三回。

 

「——いくよ」

 

 魔力を注ぎ込んだ。

 

 四回目の消耗は、想像を超えていた。

 

 身体中の血管から何かを引き抜かれるような感覚。視界が白く飛び、耳鳴りがして、膝が震えた。歯を食い縛って堪える。水瓶の水位が急落していく。底が見えた。底を擦った。

 

 ——もう少し。あと少しだけ。

 

 手のひらの下で結晶が烈しく光った。光の粒子がコアから噴出し、床の上に渦を巻く。三回目よりも遥かに濃密な、膨大な量の光。それが形を取り始め——

 

 長い時間がかかった。一分か、二分か。美夜はコアにしがみつくようにして立っていた。シロが背後から支えてくれなければ倒れていただろう。

 

 光が収束した。

 

 美夜は目を細めて、生まれたものを見た。

 

 人型だった。シロと同じくらいの背丈。だが——シロのような混成体ではなく、頭の先からつま先まで人間の形をしている。

 

 ただし、人間ではなかった。

 

 肌の色が、薄い青灰色だった。光の加減ではなく、肌そのものがその色をしている。短く切り揃えられた髪は深い藍色。目を閉じたまま、床の上に横たわっている。華奢な体躯だが、四肢に薄く筋肉がついていて、指先の爪がわずかに尖っていた。耳が——長い。人間の倍はある尖った耳が、藍色の髪の間から覗いている。

 

 そして、背中に——翼があった。

 

 蝙蝠のそれに似た、膜状の翼。畳まれた状態でも、広げれば相当な翼幅になるだろうと分かる大きさ。翼の色は身体と同じ青灰色で、薄い膜の部分がかすかに透けて、血管のような紫の筋が走っている。

 

「……何、この子」

 

 シロが美夜の肩越しに覗き込んだ。

 

「ガーゴイルの亜種、あるいは——夜魔に近い種かもしれません。翼と耳の形状からすると」

 

「夜魔」

 

「夜に力を増す魔族の一種です。飛行能力と、優れた暗視を持つとされています」

 

 横たわった少女——少女に見える——がゆっくりと目を開けた。

 

 瞳の色は赤かった。深い、暗い赤。血の色よりも沈んだ、ガーネットのような瞳。その赤い目が天井を映し、それからゆっくりと焦点を動かして——美夜を捉えた。

 

 数秒の沈黙。

 

 少女が口を開いた。

 

「…………だれ」

 

 かすれた声だった。シロのように流暢ではない。言葉を探すように、一音一音を確かめながら発している。

 

「わたしは美夜。この迷宮の主」

 

「……みや」

 

 少女は身体を起こそうとして、うまくいかず、肘をついてどうにか上半身だけ持ち上げた。畳まれた翼がばさりと片方だけ開いて、壁にぶつかった。狭い。

 

「ここ——くらい」

 

「うん。洞窟の中だから」

 

「くらいの——すき」

 

 美夜は瞬きをした。

 

「暗いのが好き?」

 

 こくり。少女が小さく頷いた。赤い目が部屋を見回す。壁の苔を見て、天井の菫を見て、コアの光を見て——それから、もう一度美夜を見た。

 

「——ここ、いい」

 

 ぽつりと、少女は言った。まるで巣穴を見つけた小動物のように、身体の緊張がふっと解けるのが見えた。翼が畳まれ、尖った耳がわずかに垂れる。

 

 美夜は少女の前にしゃがみ込んだ。

 

「名前、つけてもいい?」

 

 赤い目が美夜を見上げた。

 

「なまえ」

 

「うん。あなたの名前」

 

 藍色の髪。青灰色の肌。暗闇を好む夜の翼。

 

「——ヨル」

 

 少女が——ヨルが、名前を受け取った瞬間、コアとの繋がりが結ばれるのを感じた。シロのときと同じ。ただ、流れ込んでくる感情の色合いが違う。シロが透き通った水だとすれば、ヨルは深い夜の空気。静かで、暗くて、けれど穏やかな。

 

「ヨル」

 

 少女が自分の名前を復唱した。噛み締めるように、もう一度。

 

「——ヨル。うん」

 

 そして、ほんの微かに——笑った。口角がわずかに上がっただけの、控えめな笑み。それでも確かに、笑った。

 

 ヨルは、寡黙だった。

 

 必要最低限のことしか喋らない。質問には答えるが、自分から話しかけることはほとんどない。シロの流暢さとは対照的で、言葉の一つ一つを慎重に選んで、短く区切って口にする。

 

 ただし——戦闘能力は高かった。

 

 美夜が迷宮の拡張作業に取りかかった合間に、シロが簡易的な模擬戦を提案した。中部屋でシロとヨルが向かい合う。

 

「参りますよ」

 

 シロが糸を射出した。ヨルは翼を半開きにして跳んだ。天井の低い洞窟の中では飛行はできないが、翼を使った跳躍は常識外れの機動力を生み出した。糸をかわし、壁を蹴り、シロの側面に回り込む。尖った爪が空を切り——シロが蜘蛛の脚で受け止めた。

 

 金属がぶつかるような硬い音がした。

 

「……爪が硬い」

 

 シロが感心したように言った。

 

「うん」

 

 ヨルは短く答えて、距離を取った。

 

「暗闘での戦闘に優れていますね。目が見えている」

 

「くらいの、すきだから。よくみえる」

 

「飛行は?」

 

「ひろければ、とべる」

 

 今の迷宮は天井が低くて飛べない。だが通路や部屋を広げていけば、いずれ飛行が可能になるかもしれない。

 

 美夜は模擬戦を見ながら、顎に手を当てた。

 

 シロは糸による拘束と蜘蛛の機動力を活かした近接戦闘型。クロは正面からの突撃と番犬としての警戒型。ヨルは暗所での高速戦闘と空中機動型。それぞれの得意分野が異なる。

 

 ——配置を考えないと。

 

 入口にクロ。最初の防衛線として侵入者を足止めする。中間部にヨル。暗い通路を利用した奇襲と撹乱。最奥の守りにシロ。最後の壁として、コアと美夜を守る。

 

 三段構えの防衛ライン。完璧とは言えないが、最初の頃よりは遥かにましだ。

 

 魔力の回復を待ちながら、美夜は迷宮をさらに拡張していった。

 

 四回目のガチャで魔力を使い果たしたが、通路の拡張が効いて、流入速度は以前の比ではない。回復にかかる時間が短くなっている。

 

 部屋は十二に増えた。通路は二十本を超えた。階層こそまだ一つだが、平面的な広がりは相当なものになっている。分岐は七箇所。行き止まりが四つ。正解ルートも一本道ではなく、迂回路を含む複雑な構造。

 

 そして——迷宮全体の雰囲気が、明らかに変わっていた。

 

 壁面には桃色の苔が広がり、至るところに薄紫の菫が咲いている。天井からは細い蔦が垂れ下がり、小さな白い花を点々と咲かせていた。足元には柔らかな緑の苔が絨毯のように敷き詰められた場所もある。

 

 迷宮の空気そのものが変わった。かつての冷たく湿った洞窟の空気が、今は穏やかな——森の奥のような、清浄な気配を帯びている。

 

「迷宮とは思えませんね」

 

 シロがぽつりと言った。

 

「……やっぱりダメかな。こんなの」

 

「いいえ。ダメだとは申しておりません。ただ——わたくしが知る限り、花の咲く迷宮というのは前例がないかと」

 

「前例がないって——シロ、他の迷宮のこと知ってるの?」

 

「コアに刻まれた一般知識として。実際に見たことはありませんが。迷宮は通常、主の性質に応じて暗く陰惨な環境になることが多いそうです。毒沼、溶岩、腐敗した森——そういったものが」

 

「わたしの性質だと、花……」

 

「美夜さまが穏やかな方だからでしょう」

 

 穏やかなのではなく臆病なだけだと美夜は思ったが、口にはしなかった。

 

「ヨル」

 

 呼びかけると、壁の高いところに張りついていたヨルが、ひょいと降りてきた。翼を畳んで美夜の隣に着地する。

 

「この花——ヨルはどう思う?」

 

「きれい」

 

 短い感想だった。だが、赤い目が壁面の菫をじっと見つめている。尖った指先がそっと花弁に触れた。

 

「——まえは、はなとか、なかった」

 

「ヨルが来る前は、もっと地味だったよ。どんどん増えてるんだ」

 

「ヨルのとこにも、はやして」

 

「え?」

 

「ヨルのへや。はな、ほしい」

 

 美夜は目を丸くした。ヨルが何かを「欲しい」と言ったのは、これが初めてだった。

 

「——うん。もちろん」

 

 ヨルの耳がぴくりと動いた。垂れ気味だった長い耳が、ほんの少しだけ立った。

 

 ヨルの部屋——入口から数えて三番目の部屋——の壁に、意識を集中して花を咲かせた。菫だけでなく、新しい種類の花も生えてきた。小さな鈴のような形をした白い花。触れると仄かに光る。

 

「……きれい」

 

 ヨルが壁の花を見上げて、二度目の同じ感想を言った。今度は少しだけ声が弾んでいた。翼がわずかに広がったのは、嬉しいときの癖らしい。

 

「ヨルちゃんは花が好きなんですねぇ」

 

 いつの間にか後ろに来ていたシロが、どこか面白がるような声で言った。ヨルが振り返り、むっとしたように眉を寄せた。

 

「……ちゃん、つけないで」

 

「あら、年下でしょう。生まれた順で言えば」

 

「それ、かんけいない」

 

「わたくしが長女で、ヨルちゃんは末っ子——」

 

「ちがう」

 

 ヨルの尖った耳が真横に倒れた。怒っているのか恥ずかしいのか、青灰色の肌がかすかに色を変えている。

 

 美夜は二人のやり取りを見ながら、不思議な気持ちになっていた。数日前——自分の体感で——この洞窟で一人きりで泣いていたことが、遠い昔のように感じる。今はシロがいて、ルリがいて、クロがいて、ヨルがいる。一人じゃない。

 

 それだけで、こんなにも違う。

 

「ねえ、二人とも」

 

 シロとヨルが同時に美夜を見た。紫の瞳と赤い瞳。

 

「——ありがとう。ここにいてくれて」

 

 シロが一瞬、虚を突かれたような顔をした。それからいつもの穏やかな表情に戻る。

 

「わたくしはここにいることしかできませんので」

 

「ヨルも」

 

「二人のそういうところが好き。素直に受け取ってくれればいいのに」

 

「受け取っておりますよ。ただ、主さまに感謝されるようなことは何も」

 

「美夜さまって呼んでって言ったでしょ」

 

「……失礼いたしました。美夜さま」

 

 ヨルが美夜の袖をちょいちょいと引っ張った。振り返ると、赤い目がまっすぐにこちらを見ている。

 

「みや」

 

「うん?」

 

「——うれしい。ヨルも」

 

 小さな声だった。けれど確かに、そう言った。

 

 その日の夜——美夜の体内時計で——事態は動いた。

 

 クロが吠えた。短く、鋭く。警戒の咆哮。前回のような切迫した敵意ではなく、困惑を含んだ声。

 

 美夜はコアに手を当てた。入口に——何かがいる。

 

 人間。一人。しかし前回の盗賊や術者とは様子が違う。足取りが不安定だ。壁にぶつかり、よろめき、這うように通路を進もうとしている。

 

「シロ」

 

「確認しております。武装は——軽い。冒険者の装備ではありますが、損傷が激しい。血の匂いがします」

 

「血?」

 

「この者自身の血です。負傷しています」

 

 美夜は迷った。

 

 侵入者であることに変わりはない。罠かもしれない。弱った振りをして入り込む手口は、前世の小説でもよくあった。けれど——

 

 コアを通して、入口付近の映像を感じ取る。通路の壁にもたれかかっている人影。松明もなく、暗闇の中を手探りで進んでいる。呼吸が浅く速い。かなりの出血。このまま放っておけば——

 

「——見に行こう」

 

「美夜さま」

 

 シロの声に制止の色が混じった。

 

「危険です。わたくしが行きます」

 

「シロの顔見たら怯えるでしょ。ごめん、悪い意味じゃなくて——蜘蛛の下半身は、相手が人間なら驚くと思うから」

 

 シロは口を開きかけて、閉じた。反論はあるのだろうが、美夜の言い分にも理があると認めたらしい。

 

「せめて——ヨルを」

 

「うん。ヨル、ついてきて」

 

 壁の高い位置からヨルが降りてきた。翼を畳み、美夜の斜め後ろに影のように寄り添う。暗闘の中では青灰色の肌が闇に溶けて、ほとんど見えない。

 

 美夜は通路を進んだ。外に近づくにつれて、微かな圧迫感を感じる。完全な衰弱が始まる境界まではまだ距離があるが、外気の気配が肌を刺す。

 

 入口から三番目の部屋に、それはいた。

 

 少女だった。

 

 クロが低く唸りながら距離を取っている。二つの頭が交互に少女を見張り、金色の目が警戒に光っている。

 

 少女は壁にもたれかかって座り込んでいた。革の胸当てと、膝丈のブーツ。腰に短い剣。冒険者の装備だが、胸当ての右側が大きく裂けていて、そこから血が滲んでいる。赤毛の髪が汗と血で額に張りついて、顔色は蒼白だった。

 

「——だ、れ」

 

 かすれた声で少女が顔を上げた。美夜を見て——目を見開いた。

 

「人……? こんなとこに……」

 

「あなたこそ。怪我してるじゃない、何があったの」

 

「迷宮の、外で——魔獣に……仲間とはぐれて……ここに逃げ込んで——」

 

 言葉が途切れた。少女の目が焦点を失いかけている。出血が多い。

 

 美夜は振り返った。ヨルが闇の中から目だけを光らせている。

 

「ヨル、シロを呼んで。それと——ルリも。水が要る」

 

 ヨルが頷いて、音もなく駆け去った。

 

 美夜は少女の側にしゃがみ込んだ。胸当ての裂け目を確認する。深い切傷。筋肉まで達しているが、内臓には届いていないように見えた。出血さえ止めれば——

 

「ちょっと触るよ。いい?」

 

「あ、あんた何者——ここ迷宮じゃ——」

 

「迷宮だよ。わたしはここの主」

 

 少女が目を丸くした。それからまた意識が揺らぎ、頭ががくりと傾いた。

 

 シロが来た。蜘蛛の脚音が通路に響く。少女の視界にシロの蜘蛛の下半身が入り、悲鳴——を上げる体力すら残っていなかったらしい。ひゅっと喉が鳴っただけだった。

 

「あ、ら、くね——」

 

「安心なさい。食べません」

 

 シロは至極真面目にそう言った。安心できる要素が一つもない台詞だと美夜は思ったが、今はそれどころではない。

 

「シロ、糸で止血できる?」

 

「試してみましょう。極細の糸であれば、傷口を縫合することも可能です」

 

 シロが少女の傷口に手を伸ばした。指先から極細の糸が伸びる。先ほどの模擬戦で使った拘束用の太い糸とは全く違う、髪の毛よりも細い繊維。それが手際よく傷口を塞いでいく。

 

 少女は半分意識を失いながらも、蜘蛛の腕に縫合される自分の傷口を呆然と見つめていた。

 

「……夢だ。夢に違いない」

 

「夢じゃないよ。ほら、ルリ——水」

 

 ルリが転がるようにやってきた。透明な体内に、吸収した水が溜まっている。美夜がルリの体をそっと傾けると、清浄な水がとくとくと流れ出して、少女の口元に注がれた。

 

 少女が水を嚥下する。何度か喉を動かして、それから大きく息を吐いた。

 

「…………あり、がとう」

 

「お礼はいいから。ちゃんと意識保って」

 

「あんた——本当に迷宮の主なの。こんな、女の子が」

 

「女の子で悪かったね」

 

 少女がかすかに笑った。血の気のない唇が、わずかに持ち上がる。

 

「悪いなんて——助けてくれたのに。わたしはリゼ。リゼ・カルノー。冒険者ギルドの……ブロンズ等級」

 

「リゼ。わたしは美夜。ここの主で——まあ、いろいろ事情があるんだけど、今は休んで。話は後でいいから」

 

 リゼの目がゆっくりと閉じた。気を失ったのか、眠ったのか。呼吸は安定している。シロの縫合が効いて、出血も止まっていた。

 

 美夜はリゼの寝顔を見下ろした。赤い髪。日に焼けた肌。年齢は自分と同じくらいに見える。こんな若い子が冒険者をやっているのか。

 

「美夜さま」

 

 シロが糸を巻き取りながら言った。

 

「この者をどうなさいますか」

 

「どうって——傷が治るまでは、ここにいてもらうしかないでしょ」

 

「迷宮内に人間を保護するということは、この迷宮の内部構造を知られるということです」

 

「……分かってる」

 

「分かった上で、お助けになったのですね」

 

 美夜はシロを見た。紫の瞳が、責めるでもなく、諫めるでもなく、ただ美夜の答えを待っている。

 

「——死にそうな人を見捨てるのは、やっぱり無理だよ。わたしには」

 

 シロは静かに頷いた。

 

「承知いたしました」

 

 その声に、微かな温かさが混じっていたように——美夜には聞こえた。

 

 リゼが目を覚ましたのは、それからかなり経ってからだった。

 

 中部屋の壁際にシロの糸で作った臨時の寝台に横たえておいたリゼが、身じろぎをして目を開けた。

 

「……ここは」

 

「迷宮の中。覚えてる?」

 

 美夜がすぐ側に座っていた。リゼが目を覚ましたら水を飲ませなければと思い、コアの部屋からこちらに移っていたのだ。

 

「——覚えてる。信じられないけど」

 

 リゼが上半身を起こした。胸の傷に触れ、蜘蛛の糸で縫合された跡を確認して、複雑な顔をした。

 

「蜘蛛女に縫ってもらったんだっけ」

 

「シロに。名前で呼んであげて」

 

「……シロ。ああ、うん。ありがとう、シロ」

 

 壁の高い位置からシロが見下ろしている。紫の瞳が冷静にリゼを観察していた。

 

「感謝は結構ですが、完治までは動かないことです」

 

「あー……はい」

 

 リゼは素直に頷いた。それからあらためて部屋を見回して、息を呑んだ。

 

「——なにこれ。花が咲いてる。迷宮の中なのに」

 

「わたしの迷宮は、こうなの。理由は自分でもよく分からないけど」

 

「すごいきれい……迷宮に来て『きれい』なんて思ったの初めてだよ」

 

 リゼの翠色の目が、壁面の菫と白い鈴の花を見つめていた。純粋な驚きと感嘆。その表情が、美夜の胸のどこかを温かくした。

 

「ねえ——美夜、だっけ。聞いてもいい?」

 

「何を」

 

「あんた、なんで迷宮の主なんかやってるの。見たところ普通の女の子じゃん。あたしと歳も変わらないでしょ」

 

 普通の女の子。その言葉が胸に刺さった。嫌な刺さり方ではない。ただ、遠い場所にあるものを指さされたような——そんな切なさ。

 

「長い話になるよ」

 

「こっちは動けないから。聞くくらいしかできないし」

 

 美夜は少し迷って、話すことにした。全てではない。前世のことは伏せた。ただ、目を覚ましたらここにいたこと、コアと繋がっていること、外に出られないこと——それだけを話した。

 

 リゼは黙って聞いていた。途中で何度か口を開きかけたが、結局最後まで遮らなかった。

 

「——大変なんだね」

 

 聞き終えたリゼの最初の言葉は、それだった。

 

「大変だねって——もうちょっとなんかないの」

 

「いや、だって。出られないんでしょ? ずっとここにいるんでしょ? それって——すごく、きつくない?」

 

 美夜は言葉に詰まった。

 

 きつい。きついに決まっている。でもそれを認めたら崩れそうで、ずっと見ないふりをしていた。シロの前でもヨルの前でも、平気な顔をしていた。

 

「……きついよ」

 

 口にしたら、また泣きそうになった。ここに来て二度目。美夜は慌てて目元を拭った。

 

「あんた、すごいよ」

 

「どこが」

 

「あたしだったら無理。地下に閉じ込められて、モンスター作って、侵入者と戦って——それを一人でやってるんでしょ」

 

「一人じゃないよ。シロがいるし、ヨルもクロもルリもいる」

 

「でも——人間は、あんた一人だ」

 

 美夜は黙った。

 

 リゼがまっすぐにこちらを見ていた。翠色の目に、嘘のない感情が浮かんでいる。

 

「あたし、怪我が治ったらここを出るけど——また来てもいい?」

 

「え?」

 

「話し相手。あんたには必要でしょ。人間の」

 

 美夜は瞬きをした。それからもう一度瞬きをして——三度目に、笑った。

 

「——うん。来て」

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