ダンジョンマスター系の短編、中編集   作:合歓木あやめ

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第四話「わたしの迷宮」

 リゼは三日で立ち上がった。

 

 美夜の体感で三日。実際の時間はもっと短いかもしれないし、長いかもしれない。ただ、シロの糸による縫合は人間の医療を遥かに凌いでいたらしく、リゼの傷は驚くべき速さで塞がった。迷宮内の空気そのものに、微弱な回復効果があるのではないかとシロは推測していた。

 

「迷宮の空気に回復効果?」

 

「花と苔が放つ魔力が、迷宮内の生物に良い影響を与えている可能性があります。美夜さまの性質が環境に反映された結果かと」

 

「……わたしの迷宮、癒やしの空間になってない?」

 

「なっていますね」

 

 迷宮としてどうなのか。侵入者が元気になってどうする。ただリゼに関しては素直にありがたかった。

 

 傷が塞がり始めた頃から、リゼはじっとしていられない性質を全開にした。寝台に横たわったまま天井を見つめている時間が退屈で仕方なかったらしく、美夜が様子を見に来るたびに質問を浴びせてきた。

 

「ねえ、この糸ってどれくらい強いの」

 

「シロに聞いて」

 

「シロ怖い」

 

「怖くないよ」

 

「いや怖い。すごい目で見てくるもん」

 

「あれは観察してるだけ」

 

「観察って言い方がもう怖いんだって」

 

 リゼはよく喋る子だった。明るく、率直で、感情がそのまま顔に出る。美夜とは正反対の気質。だからこそ、一緒にいると気が楽になった。

 

 二日目にはリゼは寝台から起き上がって壁に寄りかかり、美夜が持ってきたルリの濾過水を飲みながら、自分のことを少しずつ話してくれた。

 

 孤児だったこと。冒険者ギルドに拾われて、見習いから叩き上げたこと。仲間は二人いたが、迷宮の外で魔獣に襲われてはぐれたこと。生きているかどうかも分からないこと。

 

「——探さなきゃいけないんだけどね。この傷じゃ動けないし」

 

 リゼの翠色の目が、一瞬だけ曇った。すぐにいつもの明るい表情に戻したが、美夜はその影を見逃さなかった。

 

「傷が治ったら、すぐ出て大丈夫なの?」

 

「大丈夫。あたし頑丈だから」

 

「頑丈な人は瀕死で迷宮に転がり込んだりしない」

 

「…………ごもっとも」

 

 リゼが苦笑した。

 

 三日目。リゼは完全に立ち上がった。胸の傷跡はシロの糸の痕が薄く残っているが、痛みはほとんどないらしい。試しに軽く身体を動かしてみせた。腕を回し、屈伸し、腰を捻る。

 

「うん、大丈夫。動ける」

 

「無理しないで」

 

「無理はしないよ。でも——そろそろ、行かないと」

 

 その言葉に、美夜は小さく息を吸った。

 

 分かっていた。リゼはここの住人ではない。外の世界に仲間がいて、生活がある。迷宮の中に留まる理由はない。

 

「——うん。気をつけてね」

 

 あっさり言えたのは、泣きそうな顔を見せたくなかったからだ。たった三日。前世の感覚で言えば、知り合って三日の相手だ。こんなに名残惜しいのはおかしい。でも——この暗い洞窟で、初めて「人間の話し相手」ができたのだ。それが、どれほど大きかったか。

 

 リゼが剣を腰に戻し、破れた胸当てを身につけた。入口への通路に向かう。美夜はコアの部屋から、コアを通じてその背中を見送る。外には近づけない。ここから見送ることしかできない。

 

 リゼが通路の途中で足を止めた。

 

「——美夜」

 

「うん」

 

「また来る。約束する」

 

「来なくてもいいよ。危ないし」

 

「来るって。話し相手、必要でしょ」

 

 美夜は唇を噛んだ。否定できなかった。

 

「……あとさ」

 

 リゼの声が、少しだけ小さくなった。通路の反響が声を運んでくる。

 

「あたしも——あんたと話すの、楽しかったから。だから来るの。あんたのためだけじゃないよ」

 

 それだけ言って、リゼは歩き出した。足音が遠ざかり、外気の気配と共に消えていく。

 

 美夜はコアの前で、しばらく動けなかった。

 

 ぷるん。

 

 足元のルリが、慰めるように光った。

 

 リゼが去った後、迷宮は静かだった。

 

 静かだったが、寂しくはなかった。正確に言えば——寂しいけれど、前ほどではなかった。また来ると言ってくれた人がいる。それだけで、暗闇の質が少し変わった気がした。

 

 美夜は拡張作業に没頭した。

 

 通路を太くし、部屋を増やし、構造を複雑にする。そしてついに——地下二階層目の掘削に着手した。

 

 一階層目の最奥——コアの部屋の真下に向かって、垂直に穴を掘る。螺旋状の通路を刻みながら、ゆっくりと深く、深く。地下に潜るほどに岩盤は硬く、消費する魔力も増えたが、流入量が拡張に追いついている限り、作業は続行できた。

 

 二階層目の最初の部屋を掘り終えたとき、美夜はコアをそこに移した。

 

 コアの移動は、想像以上に身体に堪えた。心臓を引き抜いて別の場所に据え直すようなもので、移動中は全身の感覚が途切れ、迷宮との繋がりが一瞬だけ消失する。その刹那の孤立感は、目覚めたときの暗闇を思い出させた。

 

 だが——据え直した瞬間、繋がりが太く戻った。以前より深い場所にコアがある分、迷宮全体の魔力循環が安定した感触がある。心臓が胸の奥に収まったような安心感。

 

「入口からコアまでの距離が倍以上になりました」

 

 シロが報告した。

 

「一階層目を突破しなければコアに辿り着けない。防衛の観点からは大きな進歩です」

 

「うん……でも」

 

 美夜は新しいコアの部屋の壁を見回した。掘ったばかりの岩肌は無骨で、苔も花もまだ生えていない。

 

「ここもそのうち花が咲くかな」

 

「間違いなく」

 

 シロが断言した。その確信の強さに、美夜は少し笑った。

 

「——ここに来たとき、花なんて気にする余裕なかったのにね」

 

「人は環境に慣れ、慣れた後に環境を選ぶものです」

 

「シロって時々、すごくいいこと言うよね」

 

「お褒めに預かり光栄です」

 

 事務的な口調なのに、紫の瞳がわずかに温んでいた。最近、シロの表情が豊かになってきている。生まれたばかりの頃は能面のように整った顔が動かなかったのに、今では微笑みの気配くらいは読み取れるようになった。美夜と過ごす時間が、シロの中の何かを育てているのだとしたら——それは嬉しいことだと思った。

 

 五回目のガチャを引いたのは、二階層目の基本構造が完成した後だった。

 

 五回目のコスト。四回目の倍。水瓶の底が抜けるかと思うほどの消耗。意識が白く飛びかけて、シロとヨルに両側から支えられてどうにか持ちこたえた。

 

「美夜さまっ」

 

「みや、だいじょぶ——」

 

「だ、大丈夫——もう少し——」

 

 光が収束する。形を成す。

 

 今回生まれたのは——小さかった。

 

 掌に載るほどの、小さな生き物。丸い身体に透き通った四枚の羽根。ぽわぽわと宙に浮いて、頼りなく明滅する金色の光を放っている。

 

 妖精。

 

 花の妖精、あるいは光の精霊に近い存在。戦闘力は——おそらく皆無。ルリのスライムですら体当たりくらいはできるが、この妖精に攻撃手段があるようには見えない。

 

「……かわいい」

 

 それが美夜の最初の感想だった。二回続けてか、と思わないでもなかったが。

 

 妖精は美夜の周りをくるくると飛び回り、銀色の鈴のような声で何かを囀った。言葉にはなっていない。ただ、嬉しそうなのは伝わった。

 

「この子は何ができるんだろう」

 

「照明にはなりますね」

 

 シロが身も蓋もないことを言った。確かに妖精の放つ金色の光は、苔の微光よりもずっと明るい。

 

「——あと」

 

 ヨルが、壁際からぼそりと口を開いた。

 

「はな、げんきになってる」

 

「え?」

 

 美夜は壁を見た。妖精が近づいた壁面の苔と花が、明らかに活性化していた。菫の花弁が大きく開き、蔦が伸び、苔が鮮やかさを増している。妖精が飛んだ軌跡に沿って、植物が元気になっている。

 

「迷宮環境を活性化する能力……」

 

 シロが目を細めた。

 

「美夜さまの迷宮の性質に合致しています。この子が迷宮内を巡回すれば、花と苔の成長が促進され、それに伴う回復効果や魔力循環も向上するかもしれません」

 

 直接的な戦闘力はない。だが迷宮そのものを強くする——いわば支援型の存在。

 

「——ヒカリ」

 

 妖精がぴたりと美夜の鼻先で止まった。金色の光が明るくなる。

 

「あなたの名前。ヒカリ」

 

 りりん。

 

 鈴の声が響いた。嬉しいのだ。名前を貰って、嬉しいのだ。妖精は美夜の頭の上にちょこんと着地して、髪の中に潜り込んだ。暖かい光が頭頂部からぽわぽわと漏れる。

 

「……髪に住みつかれた」

 

「お似合いです」

 

「褒めてないでしょ、シロ」

 

「褒めております。心から」

 

 嘘か本当か分からない表情で、シロは言った。

 

 ヒカリが来てから、迷宮は目に見えて変わった。

 

 妖精が通路を飛び回るたびに、壁面の植物が活性化する。菫だけでなく、新しい花が次々に芽吹いた。白い百合に似た大きな花。赤い蔦に咲く小さな星形の花。天井から垂れ下がる藤のような花房。淡い光を放つそれらが通路を彩り、迷宮全体が一つの巨大な地下庭園のような様相を呈し始めた。

 

 そして——花が増えるにつれて、迷宮内の空気が変わった。

 

 以前から感じていた穏やかな気配が、さらに濃密になった。通路を歩くだけで身体の疲れが和らぐ。傷の治りが早くなる。魔物たちの動きが活発になる。迷宮そのものが、生きている庭園のように呼吸している。

 

「魔力循環が三割は改善しています」

 

 シロが新しいコアの部屋で報告した。

 

「ヒカリの巡回効果に加えて、植物そのものが魔力の媒介として機能し始めています。通路の血管としての効率が上がっている」

 

「じゃあ——ヒカリは大当たりだったんだ」

 

「この迷宮においては、間違いなく。他の迷宮では意味のない存在でしょうが——美夜さまの迷宮だからこそ、最大の効果を発揮している」

 

 主の性質がモンスターに影響し、モンスターが迷宮に影響し、迷宮が主に還元される。循環。全てが繋がっている。

 

 美夜は結晶に手を当てた。脈動が穏やかに掌に伝わる。最初に触れたときよりも、ずっと力強い鼓動。

 

 ——わたしの迷宮は、こういう場所になるんだ。

 

 毒沼でも溶岩でもなく。花が咲いて、光が灯って、空気が穏やかで。

 

 それでいい、と思った。それがいい。

 

 リゼが戻ってきたのは、美夜の体感で一週間後のことだった。

 

 クロが尾を振った。二つの頭が同時にぶんぶんと揺れる。入口の番犬がこの反応をするのは、リゼだけだ。

 

 赤毛の少女が通路に入ってきた。前回とは違い、新しい革鎧を身につけ、腰には手入れの行き届いた剣を提げている。背中には大きな荷袋。

 

「——うわ」

 

 リゼが足を止めた。口が半開きになっている。

 

「なにこれ。前と全然違うじゃん」

 

 壁一面の花。天井から垂れ下がる藤の花房。通路を照らす柔らかな光。一週間前の簡素な洞窟とは別世界だった。

 

「すごい……きれい……」

 

 リゼは花に見とれながら通路を進んできた。クロがその横をとことこと着いて歩く。いつの間にか二つの頭のうち右の頭がリゼの手に鼻面を押しつけており、リゼはそれを自然に撫でていた。

 

「美夜! 来たよ!」

 

 二階層目への螺旋通路を降りて、新しいコアの部屋にリゼが顔を出した。翠色の目が美夜を見つけて、ぱっと輝く。

 

「——え、階が増えてる。すごいね、一週間でここまで……」

 

「リゼ、荷物多くない?」

 

「ああ、これ。お礼」

 

 リゼが荷袋を下ろして開いた。中から出てきたのは、干し肉、パン、果物、水袋、それから——数冊の本。

 

「食べ物はいらないって言ってたけど、一応。で、こっちが本題」

 

 リゼが本を取り出した。古びた革表紙。

 

「街の古本屋で見つけた。迷宮に関する文献。あんたの役に立つかと思って」

 

 美夜は受け取って、表紙を撫でた。文字が読める。この世界の言語は、なぜかコアに触れたときから理解できていた。

 

「——『迷宮生態論』」

 

「マニアックな本でさ。店主も価値分かってなくて、銅貨三枚で買えた」

 

「リゼ、これ——」

 

 ぱらぱらとページを捲る。迷宮の成長過程。魔力循環の仕組み。階層構造の最適化。コアの防衛戦略。知りたかったことが、断片的ではあるが記されている。

 

「すごい。すごいよこれ。ありがとう——」

 

 美夜は本を胸に抱いた。目の奥が熱くなる。泣くほどのことではないはずなのに、嬉しさがこみ上げてきて抑えられなかった。

 

「そんな喜ぶと思わなかった」

 

 リゼが照れたように頭を掻いた。

 

「あんた外に出られないから——外のもの、持ってきたかったんだ。本なら場所も取らないし」

 

 この人は、と美夜は思った。自分にはできないことを、さらりとやってくれる。外の世界と、この暗い地下を繋いでくれる。

 

「リゼ」

 

「ん?」

 

「仲間は見つかった?」

 

 リゼの表情が一瞬だけ翳った。すぐに笑顔を作ったが、作り物だと分かる笑顔だった。

 

「……一人は見つかった。もう一人は——まだ」

 

「そう」

 

「でも、生きてると思う。あいつ、あたしより頑丈だから」

 

 その言い方が強がりなのか本心なのか、美夜には判別できなかった。ただ——リゼが笑顔の裏に抱えているものがあることは分かった。

 

「美夜はどう? 何か困ってることとかある?」

 

 話題を変えたいのだろうと思ったが、美夜はそれに乗ることにした。

 

「困ってることだらけだよ。まず——前に来た変な人のこと、覚えてる? フードを被った」

 

「直接は会ってないけど、シロから聞いた。強い術者がいたって」

 

「その人がまた来るかもしれない。あと、最初に来た盗賊みたいなのも。迷宮が育つほど狙われるから」

 

「……それって、あたしがギルドに報告したら、余計に人が来ちゃうかな」

 

 美夜は首を振った。

 

「逆。ギルドに報告してほしい——この迷宮のこと」

 

「え?」

 

「正式に登録された迷宮は、ギルドの管理下に入るんでしょ?」

 

 リゼが持ってきてくれた本に書いてあったのだ。数時間かけて読み込んだ知識が、ここで活きる。

 

「登録迷宮には、ギルドの保護規定が適用される。無許可のコア抜きは犯罪になる。完全な安全は保証されないけど——野良の迷宮でいるよりはずっとまし」

 

「あんた、もうそこまで読んだの?」

 

「読むしかやることないからね、ここ」

 

 リゼが目を丸くして、それから感心したように唇を尖らせた。

 

「分かった。ギルドに話してみる。ただ——ダンジョンマスターが協力的だっていう前例、あんまりないと思う」

 

「だろうね。でも、やってみる価値はあるでしょ」

 

「——あんた、意外と肝座ってるね」

 

「肝が座ってるんじゃなくて、他に選択肢がないだけ」

 

 リゼが笑った。今度は本物の笑顔だった。

 

 リゼはその日、コアの部屋に泊まった。

 

 美夜の寝台の隣に、シロが急ごしらえの糸の寝床を編んだ。リゼは蜘蛛の糸の寝心地に最初こそ抵抗を示したものの、横になった瞬間「なにこれめちゃくちゃいい」と呟いて、三分で寝落ちした。

 

 美夜は隣で横になりながら、リゼの寝顔を見ていた。

 

 赤い髪が顔にかかっている。寝息は規則正しく、穏やかだ。起きているときの活発さが嘘のように、無防備な顔をしている。

 

 ——この子は、わたしを信用してくれてるんだ。

 

 迷宮の中で、モンスターに囲まれて、平気で眠れるということは、そういうことだ。

 

 壁の高い位置で、ヨルが翼に顔を埋めて丸くなっている。赤い目がちらりとこちらを見て、すぐに閉じた。

 

 入口にはクロ。二つの頭が交互に眠り、交互に見張る。

 

 通路のどこかを、ヒカリがぽわぽわと飛んでいる。金色の光の軌跡が、壁の花を優しく揺らしている。

 

 シロがコアの部屋の入口に立っていた。銀の髪が苔の光を受けて仄かに光る。紫の瞳が美夜を見下ろしている。

 

「眠れませんか」

 

「……ちょっとだけ」

 

「何か気がかりでも」

 

「ううん。逆。なんか——嬉しくて」

 

 シロが首を傾げた。

 

「嬉しい」

 

「ここに来たとき、真っ暗で、一人で、何もなくて。怖くて泣いた。覚えてるでしょ——シロはまだいなかったけど」

 

「コアに刻まれた記録として、断片的には」

 

「今は——こう。花が咲いて、みんながいて、リゼまで来てくれて。なんか、信じられない」

 

 シロが黙って聞いていた。

 

「まだ全然安全じゃないし、あのフードの人は怖いし、これからもっと大変になるって分かってるんだけど——今この瞬間は、悪くないなって」

 

「……美夜さま」

 

「うん?」

 

「わたくしは——美夜さまの迷宮に生まれてよかったと思っています」

 

 美夜は瞬きをした。

 

 シロの口調はいつもと変わらなかった。事実を述べるような、静かな声。けれど紫の瞳に浮かんでいるものは、いつもの冷静さとは少しだけ違っていた。

 

「毒沼や溶岩の迷宮ではなく、花の咲く迷宮に。戦うだけの主ではなく、泣いたり笑ったりする主の元に。それがコアの采配なのか偶然なのかは分かりませんが——わたくしにとっては、幸運でした」

 

「シロ——」

 

「おやすみなさい、美夜さま。明日も、花を咲かせましょう」

 

 それだけ言って、シロは入口に向き直った。銀の髪が揺れて、蜘蛛の脚が静かに床を打つ。

 

 美夜は天井を見上げた。桃色の苔。薄紫の菫。金色のヒカリの光の残滓。全部が、自分の迷宮の一部。自分自身の延長。

 

 ——ここが、わたしの場所なんだ。

 

 目を閉じた。コアの脈動が身体に染み込んでくる。隣でリゼが寝返りを打って、無意識に美夜の方に寄ってきた。肩が触れる。人間の体温。温かい。

 

 足元でルリがぷるぷると光っている。いつもの淡い青緑。

 

 穏やかな夜だった。地の底の、暗がりの中の——けれど確かに穏やかな夜だった。

 

 翌朝——美夜の体感で翌朝——リゼは出発の準備を整えた。

 

「ギルドに話してくるから。たぶん時間かかると思うけど」

 

「うん。待ってる」

 

「あと——これ」

 

 リゼが腰の袋から何かを取り出した。小さな金属片。磨かれた銅でできた、メダルのようなもの。表面に紋様が刻まれている。

 

「あたしの冒険者証。ブロンズ等級の身分証明。預けとく」

 

「え——大事なものじゃないの」

 

「大事だよ。だから預けるの。取りに来る理由ができるでしょ」

 

 美夜は呆気に取られた。それからリゼの翠色の目を見て——ああ、この人は本気だ、と思った。また来るための口実を、わざわざ作っているのだ。

 

「……ばか」

 

「なんで!」

 

「理由なんかなくても来てよ。約束したでしょ」

 

 リゼが目を丸くして、次の瞬間——耳まで赤くなった。赤毛だから余計に目立つ。

 

「っ——あんたさぁ、そういうこと平気で言うよね!」

 

「え、何か変なこと言った?」

 

「変っていうか——もういい! 行ってくる!」

 

 リゼは荷袋を背負い、足早に通路を駆けていった。その背中が赤いのは、髪の色だけではないように見えた。

 

 美夜は手の中の冒険者証を見下ろした。銅のメダル。温かい。リゼの体温が、まだ残っている。

 

「……大事にしよう」

 

 ぷるん、とルリが足元で同意した。

 

 リゼが去った後、美夜はいつものようにコアの前に立った。

 

 両手を結晶に載せる。脈動が掌に伝わる。迷宮全体が心の中に広がる。

 

 一階層目の広大な通路網。壁面を彩る花々。クロが見張る入口。ヨルが潜む暗い通路。ヒカリが飛び回る天井。シロが巡回する中層部。二階層目の新しい部屋と通路。そして最奥のここ——コアの部屋。

 

 全部が自分の身体で、全部が自分の居場所。

 

 美夜は目を閉じて、迷宮の声に耳を澄ませた。

 

 壁を流れる魔力の音。花が光を放つ微かな音。水が滴る音。クロの寝息。ヨルの翼が壁に触れる音。ヒカリの鈴の声。シロの蜘蛛の脚が通路を歩く音。ルリがぷるぷると揺れる音。

 

 全部聞こえる。全部、わたしの迷宮の音だ。

 

 ——まだ何も終わっていない。

 

 あのフードの術者は再び来るかもしれない。もっと強い敵が現れるかもしれない。ギルドとの交渉がうまくいく保証もない。この先に待っているのは、きっと今よりずっと厳しい現実だ。

 

 でも——

 

 美夜は目を開けた。

 

 コアの光が、虹色に揺らめいている。最初に見たときと同じ光。けれど今は、その光の中に自分が映っている。

 

「さて——やることやろう」

 

 声に出して言った。自分に聞かせるために。そしてこの迷宮の全員に聞かせるために。

 

 壁の向こうから、シロの声が静かに返ってきた。

 

「何をなさいますか、美夜さま」

 

「通路を広げる。ヨルが飛べるくらいに天井を高くしたいの。あと、二階層目にもっと部屋を増やす。それから——」

 

 美夜は少し考えて、笑った。

 

「もっと花を咲かせる。この迷宮に来た人が、きれいだって思ってくれるくらいに」

 

 沈黙があった。

 

 それからシロが——確かに、笑った。声ではなく気配で。紫の瞳が細められる気配が、コアを通じて伝わってきた。

 

「——承知いたしました」

 

 暗がりの奥で、花が光っていた。

 

 小さな迷宮の、小さな物語は——まだ始まったばかりだ。

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