すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果   作:ヤンデレすこすこ侍

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第一部
第一話


 転生した。

 しかも、ただの転生じゃない。

 大国アズヴォルデ帝国、第三皇子。

 

 皇帝の血。

 莫大な財。

 生まれついての地位。

 将来を約束された権力。

 おまけに魔力まで規格外。

 赤ん坊の頃の俺は、揺り籠の中で笑った。

 

(ふ――ははははっ!)

 

 勝った。

 人生に、勝った。

 前世では平凡だった。

 いや、平凡という言葉に失礼かもしれない。特に才能もなく、金もなく、運もなく、ただ社会の歯車の隙間でじわじわ削られていくタイプの人生だった。

 

 そんな俺が、次の人生では最初から全部持っていた。

 これで好き放題できる。

 やりたいことをやる。

 食いたいものを食い、見たいものを見て、欲しいものを手に入れ、世界を遊び倒す。

 幼い俺は、未来に胸を躍らせていた。

 

 ――そうして十五年が経った。

 

「……つまらん」

 

 俺は、豪奢な長椅子にふんぞり返ったまま、心の底からそう呟いた。

 窓の外には皇都。

 磨き抜かれた石畳、整然と並ぶ白亜の建物、遠くに見える帝城の尖塔。今日も今日とて、絵に描いたような栄華である。

 

 だが、俺の心はちっとも躍らない。

 茶会に呼ばれれば、貴族子弟は揃いも揃って愛想笑いだ。

 

『さすがは殿下です!』

『殿下ほど剣の才に恵まれた方はおりません!』

『殿下のご慧眼には恐れ入るばかりで――』

 

 うるさい。

 剣術大会に出れば、決勝まで誰も本気を出さない。

 学問の席では教師まで俺の顔色を窺う。

 侍女も従者も、俺の機嫌を損ねないことが第一。

 同世代の貴族たちは友人面をしながら、腹の中では第三皇子と繋がりを作りたい、しか考えていない。

 

 大人もそうだ。

 下手を打てば皇族への不敬、上手く転べば出世の糸口。

 そんなものを背負って俺と話す人間が、対等であるはずがない。

 俺が咳払いひとつすれば空気が張りつめ、冗談を言えば全員が笑う。

 面白いかどうかは関係ない。

 俺が言ったから笑うのだ。

 

 ……はっきり言って、地獄である。

 持っていなかった頃は、持っている人間が羨ましかった。

 だが、何もかも持っていると、今度は手に入れる過程そのものが存在しない。

 

 欲しいものは命じれば出てくる。

 勝負は始まる前から終わっている。

 人は最初から膝をついている。

 これのどこが楽しい。

 

「殿下。お加減でも悪うございますか?」

 

 執事のガレスが、必要以上に柔らかい声音で問うてくる。

 

「悪い。とても悪い。人生が退屈で死にそうだ」

「左様でございますか」

「そこで真顔になるな。少しは取り乱せ」

 

 ガレスは白髪混じりの眉ひとつ動かさない。

 

「殿下がそのようなご冗談を仰るのは、平素どおりでございます」

「冗談ではないのだが?」

「なおのこと、私の手には負えません」

 

 この男、俺に長年仕えているせいで、皇族への畏怖がだいぶ摩耗している。

 それ自体は貴重だが、こいつは爺だ。対等な友人にはなれない。

 俺は天井を見上げ、大きく息を吐いた。

 

「なあガレス」

「はい」

「俺に必要なのは何だと思う?」

「慎みかと」

「違う」

「では自制心で」

「違う」

「きっと忍耐でしょう」

「お前、今すぐ減俸されたいのか?」

 

 ガレスは深々と一礼した。

 

「殿下に必要なのは、殿下を殿下として扱わぬ相手かと」

「……」

 

 俺はゆっくり身を起こした。

 

「今なんと?」

「殿下を、第三皇子として恐れず、媚びず、打算なく接する相手でございます」

「それだ!」

 

 思わず立ち上がった拍子に、卓上の茶器が跳ねた。

 ガレスが無言で受け止める。

 

「それだ! それだよ! まさにそれだ!」

「ようございました」

「なぜもっと早く言わなかった!」

「申し上げても、殿下は、そんなものどこにいると仰るかと」

「……言いそうだな」

 

 実際その通りである。

 皇族に対等に接する人間など、いるはずがない。

 少なくとも最初からは。

 

 だが――最初からでなければ?

 先入観がなければ?

 俺の地位も財も力も知らない相手なら?

 あるいは、それらを全部()()()()与えてしまえば?

 

 そこまで考えた瞬間、稲妻のように閃いた。

 

「ガレス」

「はい」

「近々、大きな奴隷市が開かれるらしいな」

「……あまり褒められた趣味ではございませんな」

「違う違う。そういうんじゃない」

 

 俺は指を鳴らした。

 

「同年代の人間を一人買う」

「はい」

「買った上で、奴隷身分から解放する」

「はい」

「さらに金も地位も教育も権限も与える」

「はい」

「俺と同じ高さまで引き上げる」

「はい」

「そうすれば、対等に話せる相手が出来る!」

 

 しばし沈黙。

 ガレスは初めて、ほんのわずかに目を細めた。

 

「正気で?」

「今さらそこを疑うな」

 

 ガレスは口元に手を当てた。

 

「……理屈は分かります」

「だろう?」

「ですが、殿下。人は物ではありません。与えれば望む形になるとは限らない」

「もちろんだ。だが、試す価値はある」

「もし相手が殿下に心酔したら?」

「するわけないだろう。むしろ警戒されるに決まってる」

 

 俺は鼻で笑った。

 

「突然買われて、解放されて、教育も財も権力もやると言われてみろ。普通は裏があると思う。だからこそいい。遠慮なく疑い、遠慮なく噛みついてくるはずだ」

「なるほど」

「そういう相手が欲しいんだよ」

 

 俺は拳を握る。

 

「媚びない」

「はい」

「怯えない」

「はい」

「俺の言葉に、正面から言い返してくる」

「はい」

「最高じゃないか」

 

 ガレスは、ひどく気の毒そうな目をした。

 

「殿下が望まれるのは、概ね友人というやつでは」

「そうとも言う」

 

 

   ***

 

 

 翌日。

 俺は変装して皇都南区の大市場に来ていた。

 

 もちろん、護衛はいる。

 影に二人。距離を置いてさらに三人。

 第三皇子がのこのこ奴隷市に一人で来るわけがない。そんなことをしたら、父上より先に兄上たちに説教される。

 とはいえ、表向きはただの裕福な貴族の坊ちゃんだ。

 髪色を隠し、皇族章も外し、服も地味にした。……地味といっても仕立ての良さは隠せないが。

 

 市場は喧騒に満ちていた。

 

 獣人の毛並みを売り物のように撫でる商人。

 腕力を誇示する用心棒上がりの男。

 下働き向けに並べられた子供たち。

 借金のかたに連れてこられた農民。

 罪人崩れ。

 

 胸糞の悪い光景だ、と素直に思う。

 前世の倫理観があるからかもしれない。

 

 だがこの世界では珍しいものでもない。表で認められている以上、消したければ制度から壊すしかない話だ。今日はそこをやる日ではない。

 

「殿下、お気に召す品は?」

 

 隣を歩く案内役の商人が、ねっとりとした声で擦り寄ってきた。

 

「口を慎め。ここでその呼び方をしたら首を飛ばすぞ」

「ひぃっ……! も、申し訳ございません、お客様!」

 

 ……あっ、これだ。

 こうなるんだよな。

 ため息を飲み込みつつ、俺は視線を巡らせる。

 

 必要なのは容姿ではない。

 従順さでもない。

 健康で、頭が回って、俺に媚びない奴。

 できれば同年代。

 俺が十五だから、その前後。

 

 何人か見た。

 だが駄目だ。

 怯え切った子は、まず心を立て直すところからになる。

 目だけギラついている奴は、権力を渡した瞬間に自滅しそうだ。

 諦めきった無気力な子も違う。

 

「おや?」

 

 通りの端。

 他より少し粗末な天幕の前で、ひとつの檻が目に留まった。

 そこにいたのは、少女だった。

 年は俺と同じくらいか、一つ下。

 痩せてはいるが、不健康なほどではない。

 灰銀の髪は肩口で切りそろえられ、服は質素を通り越してぼろい。

 

 だが、妙に姿勢がいい。

 そして何より、目が死んでいなかった。

 

 奴隷市に並べられた人間の目ではない。

 獲物を待つ獣でも、助けを乞う弱者でもなく、

 ただ静かに、冷たく、周囲を観察している目だった。

 

「……あれは?」

「ああ、あれは少し訳ありでして」

 

 商人が声を潜める。

 

「自分から身売りしてきた娘で」

「自分から?」

「はい。家が潰れ、親もおらず、下の兄弟を食わせるためにと。身元は一応きれいですが、可愛げがなくて。買い手に媚びもしないので、少々残っておりまして」

「名前は」

「フィーネ、と」

 

 フィーネ。

 

 俺は檻の前まで歩み寄った。

 少女は俺を見上げた。

 他の連中のように慌てて頭を下げるでもなく、愛想笑いを浮かべるでもない。

 ただ、値踏みするように俺を見た。

 

 いい。

 実にいい。

 

「お前、俺が怖くないのか?」

 

 俺が言うと、少女は瞬きをひとつした。

 

「怖いですよ」

「そうは見えない」

「見せても値段は上がりませんので」

 

 思わず、口元が緩んだ。

 商人が青ざめる。

 

「こ、この娘! お客様に向かって――」

「黙れ。今いいところだ」

 

 俺はしゃがみ込み、檻越しに少女と目を合わせた。

 

「お前、自分でここに来たのか?」

「そうです」

「兄弟を食わせるため?」

「それ以外に、わざわざ自分を売る理由が?」

 

 抑揚の薄い声だった。

 だが、棘はある。

 相手が誰であろうと、必要以上にへりくだるつもりがない声だ。

 

 俺は続けた。

 

「家は?」

「父が商いに失敗して借財を作りました。返せず、病で死にました。母も後を追うように。残ったのは家財の差し押さえと、腹を空かせた弟と妹です」

 

 あっさりした口調のまま、少女は言う。

 

「働き口を探しましたが、子供に払う金など知れています。なら、一番高く売れるものを売るしかない。私の身体は、私のものですから」

「……」

 

 なかなか言える台詞じゃない。

 気丈、というより、どこか乾いていた。

 泣いてどうにかなる段階を、とっくに通り過ぎているのだろう。

 

「買われた先でどうなるか、考えなかったのか?」

「考えました」

「それでも来た?」

「弟と妹が明日を迎えられるなら、私は何でもよかった」

 

 少女はそこで、初めて少しだけ目を伏せた。

 

「そういう計算です」

 

 その一言に、俺は奇妙な感心を覚えた。

 自己犠牲ではない。

 博愛でも悲劇のヒロインぶりでもない。

 ちゃんと勘定して、損得で、自分を切り売りしに来たのだ。

 だからこそ、強い。

 

「面白いな」

「最悪の口説き文句ですね」

「口説いているつもりはない」

「では、慰めですか?」

「違う」

「なら何です」

 

 問われて、俺は少しだけ笑った。

 

「スカウトだ」

「……は?」

 

 フィーネの眉が、初めてぴくりと動いた。

 

「お前を買う」

「はい」

「買って、奴隷身分から外す」

「はい?」

「金も渡す。住む場所も用意する。教育も受けさせる。礼儀作法も学問も政治も剣も魔術も、望むなら全部だ」

「…………は?」

 

 おお。

 いい反応だ。

 ようやく理解の外にあるものを見た顔をした。

 そのまま警戒心が一気に跳ね上がるのも分かる。

 

「目的はひとつ」

 

 俺は胸を張った。

 

「俺と対等に話せる相手を作ることだ」

「狂人でしたか」

「失礼な」

「違うのですか?」

「多少は認める」

 

 フィーネは数秒黙り、やがて低く尋ねた。

 

「……なぜ、そんなことを私に?」

「お前が一番まともそうだったからだ」

「褒めています?」

「大いに」

「この市場で、ですか」

「この市場でだ」

 

 俺は指先で檻の鉄格子を叩いた。

 

「媚びない。怯えない。諦めてもいない。自分の値打ちを、自分で計算できる。最高じゃないか」

「最低の選定理由に聞こえますが」

「そうか? 俺はかなり本気だぞ」

 

 少女は、しばらく俺を見ていた。

 俺の瞳の奥まで覗き込むように。

 

「……裏は」

「ない」

「ある、ではなく?」

「ない」

「あなたは、何を求めるのです」

「会話」

「は?」

「まともな会話だ。俺が何か言ったら、ちゃんと考えて返してくる相手。俺の立場や金にびびらず、必要なら否定する相手。俺はそういうのが欲しい」

 

 自分で言っていて、ずいぶん切実だなと思った。

 だが実際、切実なのだ。

 フィーネはわずかに目を細めた。

 

「……あなた、寂しいんですね」

「ぶっ」

 

 変な声が出た。

 後ろで商人が息を呑む気配。

 影に潜んでいる護衛の殺気が一瞬揺れる。

 こいつ、すごいな。

 俺の正体を知らないとはいえ、この台詞を初対面で真正面から投げるか。

 

「寂しくはない」

「では、飢えている」

「…………」

「似たようなものです」

 

 俺は数秒、何も言えなかった。

 言い返そうとして、出来なかった。

 正確だったからだ。

 

 ああ、そうか。

 俺は退屈していたんじゃない。

 飢えていたのか。

 欲しかったのは刺激ではない。

 他人の本音。

 自分にぶつかってくる意志。

 皇子だの天才だの全部抜きにして、ただの俺に向けられる言葉。

 

 なるほど。

 それを言い当てるか。

 

「……決めた」

 

 俺は立ち上がった。

 

「お前にする」

 

 商人へ振り向く。

 

「この娘を買う。言い値でいい」

「ま、まことにありがとうございます!」

「ただし条件がある」

「条件、でしょうか?」

「今この場で奴隷契約の証文を俺に渡せ。以後、お前たちはこの娘にも、その家族にも一切関わるな」

「は、ははっ、もちろんで――」

「あと、弟と妹の所在を洗え。保護して住まいを手配しろ。今日中にだ」

「きょ、今日中!?」

 

 商人が悲鳴じみた声を上げる。

 俺は懐から金貨袋を二つ、三つ、四つと放り投げた。

 

「足りないか?」

「い、いえ! 十分! 十分でございます!」

 

 金の音が鳴るたび、周囲の視線が集まった。

 ざわめきが広がる。

 フィーネだけが、無言で俺を見ていた。

 

「さて」

 

 俺は檻の前に戻る。

 

「選べ、フィーネ」

「……選ぶ?」

「そうだ。買われるか、買われないかじゃない。俺の提案を受けるかどうかだ」

 

 商人が慌てて口を挟もうとしたが、俺が一瞥すると黙った。

 

「お前は今日、この檻から出る。これは決定だ」

「……」

「その後、お前に二つの道をやる。ひとつは十分な金を持って家族のもとに帰る道。もうひとつは俺のもとに来て、学び、力をつけ、俺と同じ場所まで上がる道だ」

「……同じ場所?」

「そうだ」

 

 俺は笑った。

 

「金が欲しいならやる。地位が欲しいなら用意する。力が欲しいなら身につけさせる。名前が要るなら与える。必要なら戸籍も身分も、全部だ」

「なぜ、そこまで」

「だから言っただろう」

 

 俺は、心からそう思って言った。

 

「俺は、対等に話せる相手が欲しい」

 

 少女はしばらく黙り込んだ。

 天幕の外の喧騒が遠くなる。

 市場の汚れた空気の中で、彼女だけが妙に静かだった。

 

 やがて、商人が鍵を持ってきて檻を開けた。

 フィーネは立ち上がる。

 痩せてはいたが、足取りはふらつかない。

 

 外に出た彼女は、俺の前に立った。

 背丈は俺より少し低い。

 近くで見ると、顔立ちは整っていた。

 だが華奢だとか儚いだとか、そんな印象より先に、芯の硬さが目につく。

 

「質問しても?」

「許可する」

「……その喋り方、腹立ちますね」

「初対面でそこまで言うか?」

「対等をご希望なのでしょう」

 

 俺は吹き出した。

 

「よし、合格」

「まだ質問を言っていません」

「今のでだいぶ気に入った」

 

 フィーネはため息を吐いた。

 

「では質問です。あなたは、私に金も地位も力も与えると言った」

「言った」

「それで私があなたを見限ったら?」

「いいんじゃないか」

「……いい?」

「その時はその時だ。俺の見る目がなかっただけだろう」

 

 嘘ではない。

 もちろん惜しいとは思うだろうが、縛る気はない。

 縛った時点で対等じゃない。

 

「私があなたを裏切ったら?」

「裏切られるほど信じてから考える」

「私があなたより強くなったら?」

「それは楽しそうだ」

「私が、あなたの喉元に刃を突きつけるかもしれない」

「その時は、そうなる前に仲良くしておくべきだったと反省する」

 

 フィーネは、初めてはっきりと目を見開いた。

 

「……馬鹿なのですか」

「よく言われる」

「いえ、ここまでとは」

「褒め言葉として受け取っておく」

 

 少しの沈黙。

 次の瞬間、彼女はすっと膝をついた。

 あ、これ違う。

 そうじゃない。

 俺が止めるより先に、彼女は片手を胸に当てて頭を垂れた。

 

「フィーネ・エレ――いえ、ただのフィーネは、あなたの提案を受けます」

「待て、膝はつくな。対等って言っただろ」

「まだ対等ではありません」

「これからそうするんだ」

「なら」

 

 少女は顔を上げた。

 その灰銀の瞳が、まっすぐに俺を射抜く。

 

「あなたが私に、金も、立場も、力も、すべてを与えるのなら」

「ああ」

「私は、そのすべてを使って、あなたの望みに応えます」

 

 妙に、声音が柔らかかった。

 市場のざわめきの中で、その言葉だけが妙にはっきり耳に残る。

 

「あなたが飢えているなら、満たします」

「……お、おう?」

「あなたが退屈なら、二度と退屈など言えないほどに」

「いや、そこまでしなくていいが」

「あなたが対等を望むなら、誰よりも近くで、誰よりも深く、あなたを理解してみせます」

「なんかちょっと圧が強くないか?」

「ええ。全力で」

 

 そう言って、フィーネは微笑んだ。

 それは奴隷市で初めて見せた笑顔だった。

 淡くて綺麗で――なのに、妙に逃げ道のない笑みだった。

 

「ですので、どうか最後まで責任を持ってくださいね」

「責任?」

「はい。私を選んだ責任です」

 

 ぞくり、と背筋が粟立った。

 怖いわけではない。

 だが本能が告げていた。

 

 あ、これ。

 思ってたのとちょっと違うぞ、と。

 

「……まあ、うん。もちろん持つが」

「よかった」

 

 彼女はゆっくり立ち上がる。

 そして当然のように、俺の半歩後ろへ下がった。

 

「ではまず、あなたのお名前を伺っても?」

「ん? ああ、そういえばまだ名乗ってなかったな」

 

 俺は少しだけ迷ってから、どうせすぐ分かると判断して肩をすくめた。

 

「レオンハルト」

「姓は」

「アズヴォルデ」

「……」

 

 止まった。

 完全に止まった。

 表情が凍り、数秒遅れて、ものすごく静かな声が落ちる。

 

「……皇族?」

「第三皇子だ」

「……」

「ちなみに、今の話は全部本気だぞ」

「……」

 

 フィーネは黙ったまま、もう一度だけ、俺をじっと見た。

 

 そして。

 

 先ほどより、ずっと深く。

 ずっと綺麗に。

 ずっと危うく。

 

 微笑んだ。

 

「なるほど」

 

 その声には、先ほどまでなかった熱が混じっていた。

 

「でしたら、なおさら」

「なおさら?」

「はい、殿下」

 

 彼女はとても静かに告げた。

 

「あなたを、絶対に一人にはいたしません」

「……」

 

 なんだろう。

 市場の空気は相変わらず悪いし、周囲は騒がしいし、影の護衛もいる。

 なのに、その一言だけで、妙に逃げ場がなくなった気がした。

 

 俺はまだ知らない。

 この日、気まぐれと退屈しのぎ半分で拾った少女が、

 数年後には帝国中を震え上がらせるほど、俺を中心に世界を組み替え始めることを。

 

 ただその時の俺は、少しばかり嫌な予感を覚えながらも、

 ようやく見つけたまともに会話できる相手に、ほんの少し浮かれていた。

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