すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果 作:ヤンデレすこすこ侍
三日後。
結論から言うと、非常に行きたくなかった。
「殿下、お顔が死んでおります」
「生きてる」
「目が半分ほど」
「仕様だ」
「本日はいつも以上にです」
「気のせいだ」
「観測結果が異なります」
「便利だな、その言い回し……」
寮の部屋で正装の襟を整えながら、俺は深く息を吐いた。
鏡の中には、いかにも皇子ですみたいな格好をした自分がいる。
白を基調にした礼装。
金糸の縁取り。
控えめだが、控えめな分だけごまかしが効かないやつだ。
こういう服は疲れる。
着るだけで、勝手に周囲が期待してくるからだ。
「似合っておいでです」
フィーネが言った。
今日は彼女も学院指定の正装に近い装いだった。
深い紺のドレスに、編入生用の簡素な徽章。
飾りは少ない。
だが少ないからこそ、姿勢の良さと、あの無駄のない佇まいが目立つ。
「お前もな」
「ありがとうございます」
「本当に堂々としてるよな」
「緊張しております」
「そうは見えん」
「見せても意味がありませんので」
「最近それで全部通してないか?」
「便利ですので」
「認めるのかよ」
だが実際、助かる。
少なくとも俺が無駄に緊張を増やさずに済む。
三日前、封書をもらったあのあと、姉上にも探りを入れた。
ついでにセレナにもさりげなく聞いた。
どちらも言うことは似ていた。
断るのは簡単だが、意味が重い。
行くのも面倒だが、見えるものがある。
そして兄上は、表向きは必ず完璧に礼を尽くす。
つまり、正面から行くしかない。
面倒くさいが。
「最後に確認だ」
俺は言った。
「兄上は、基本的に穏やかだ」
「はい」
「声を荒げない」
「はい」
「露骨に脅さない」
「はい」
「でもその分、こっちが勝手に答えたくなる形で詰めてくる」
「……はい」
「分からないことは、無理に埋めなくていい」
「承知しております」
「あと、困ったら俺を見る」
「殿下を」
「そうだ」
「見てよろしいのですか」
「なんだその確認」
「いえ」
フィーネはほんの少しだけ目を和らげた。
「そういたします」
「うん」
「殿下」
「なんだ」
「少しだけ、安心しました」
「ならよかった」
「はい」
「……俺も少しだけ安心した」
「ありがとうございます」
「そこは心強いですとかじゃないのか」
「それは重いので控えました」
「自覚あるんだな……」
第一皇子の茶会は、学院本館の奥、貴賓応接棟で開かれる。
普段の学生がそう簡単に足を踏み入れる場所ではない。
外観からして違う。
白い石の本館に対して、こちらは落ち着いた灰青の石造り。
装飾は少ないのに、ひと目で格が違うと分かる建物だ。
入口には侍従が控えていた。
学院内だというのに、もう半分宮廷である。
「第三皇子殿下、フィーネ様。お待ちしておりました」
通された先は、陽光のよく入る応接室だった。
広いが、広すぎない。
豪奢だが、豪奢さを見せつける感じでもない。
趣味がいい。
実に兄上らしい。
丸い卓がいくつか置かれ、すでに何人かが着席していた。
ルシアン・グラーツ。
見知った顔だ。
それに、学院上級生の有力貴族子弟が数名。
政治学で名の通った女子生徒。
礼法に強い伯爵令嬢。
軍学科の優等生までいる。
ああ、なるほど。
ただのお茶会じゃない。
兄上周辺の
「これはまた、賑やかだな」
俺が言うと、
「光栄です、殿下」
とルシアンが上品に笑った。
「本日は比較的、内輪でございます」
「比較的、でこれか」
「兄殿下のお気遣いですよ」
「そうかよ」
そこへ、奥の扉が開いた。
「待たせてしまったかな」
第一皇子、エドゥアルト・アズヴォルデ第一皇子。
兄上だ。
相変わらず、絵に描いたような人だった。
柔らかい金髪。
穏やかな青灰の目。
学院の正装を着ていても、妙に板についている。
立っているだけで正しい人に見えるのは、ある意味才能だろう。
「兄上」
「来てくれて嬉しいよ、レオン」
「招待されたからな」
「そうだね。だからこそ嬉しい」
この人はこういうことを自然に言う。
しかも、わざとらしくなく。
だから怖い。
兄上の視線がフィーネへ向いた。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬でかなり見ている。
「はじめまして、フィーネ嬢」
兄上は穏やかに微笑んだ。
「話はよく聞いている」
「お招きありがとうございます、第一皇子殿下」
フィーネは完璧な角度で礼をした。
「本日は貴重なお時間を賜り、光栄です」
「そんなにかしこまらなくていい。今日は学院の茶会だからね」
「はい」
「とはいえ、礼を失わないのは美点だ」
「恐れ入ります」
……うん。
今の数手だけで、もう十分に神経を使う。
疲れるな。
席につくと、茶と菓子が運ばれた。
会話はごく穏やかに始まる。
討論会の感想。
学院行事の話。
最近の講義内容。
どれも表面上は無害だ。
だが無害な会話ほど、兄上の本領が出る。
「昨日の政治史の講義では、ずいぶん話題になったそうだね」
兄上がフィーネへ向けて言った。
「教授も褒めていたと聞いた」
「身に余るお言葉です」
「身に余る、か」
兄上は柔らかく笑う。
「自分を軽く見積もりすぎるのは、良くない癖になる」
「……」
「評価をそのまま受け取ることも、ときには必要だよ」
「ご助言、ありがとうございます」
ほら来た。
優しい。
正しい。
だが、微妙に、どういう自己認識をしているかを見ている。
「フィーネ嬢は、もともと討論などに慣れていたのかな?」
別の上級生が尋ねる。
「いえ」
「そうは見えなかった」
「準備をいたしましたので」
「準備であそこまで?」
「必要でしたので」
「なるほど」
周囲が感心したように頷く。
うまくやってる。
必要以上に卑下せず、でも驕らない。
兄上は茶器を置きながら、何気ない調子で言った。
「準備は大切だ。特に、自分に足りないものを知っている人の準備は強い」
「……」
「逆に、最初から満ち足りていると思っている人は、案外脆い」
それに数人が苦笑した。
軽い自省を促す、いい言葉。
場も和む。
実際、立派な物言いだと思う。
ただし。
その足りないものを知っている人へ、兄上は視線を向けていた。
つまり、励ましの形でフィーネの自己認識を測っている。
「フィーネ嬢」
兄上が続ける。
「君は、自分に何が足りないと思っている?」
来た。
しかも、いかにも答えやすそうな形で。
周囲も静かになる。
これは単なる雑談ではない。
少なくともこの卓では。
フィーネはわずかに間を置いてから答えた。
「多くございます」
「たとえば?」
「学院内の実績」
「うん」
「貴族社会における慣習知」
「うん」
「長期的な信頼の蓄積」
「……」
「そして、自分がどこまでできるかという検証も、まだ十分ではありません」
きれいだ。
不足を認めている。
だが、自分を切り下げすぎてもいない。
兄上は満足そうに微笑んだ。
「誠実だね」
「恐れ入ります」
「では逆に、何を持っている?」
「……」
周囲がまた静かになる。
いい問いだ。
不足を認めるだけではない。
自分の価値を自分で言えるかどうか。
しかも、嫌味なくそれを引き出している。
フィーネは今度、ほんの少しだけ俺を見た。
ああ。
困った時は俺を見る。
ちゃんと覚えてたな。
俺はわずかに頷くだけにした。
それで十分だろう。
「私は」
フィーネが顔を上げる。
「選んだ後に、迷わず積み上げることはできます」
「……」
「足りないものを数えたまま止まるのではなく、埋めるために動けます」
「なるほど」
「それと」
「うん」
「軽く扱われたくないものを、軽く扱わないことはできます」
その言葉に、兄上の目がほんの少しだけ細くなった。
ああ。
気づいたな。
討論会の時の文脈を知ってる人間なら、分かる。
「良い答えだ」
兄上は静かに言った。
「とても」
周囲も穏やかに同意する。
だが俺には分かる。
今ので兄上は、ただ言葉が上手いだけではないと一段深く認識した。
会話はさらに続く。
政治学の推薦図書。
学院祭の運営。
学生会と皇族の距離感。
どれも普通だ。
普通だが、じわじわと人となりが出る話題ばかり。
やがて兄上は、ごく自然に本題へ寄せた。
「レオン」
「なんだ」
「君があそこまで明確に結果で人を置くと言ったのは、少し意外だったよ」
「そうか」
「うん。もっと曖昧に流すかと思っていた」
「ひどくない?」
「率直な感想だよ」
ひどいな。
だが、兄上がこういう時に率直なのは珍しくない。
「君は昔から、人を見る目はある」
「褒めてるのか?」
「褒めている」
「そうか」
「ただ、その目を公の場であそこまではっきり示すのは珍しい」
「……」
「だから気になった。君にとって彼女は、どの程度
卓の空気が、一段静かになった。
やっぱり来るよな。
ここだよな。
兄上が一番知りたいのは。
フィーネ個人の力量。
そして、俺がそれをどれだけ本気で見ているか。
「兄上」
俺は茶器を置いた。
「それ、今ここで聞くか?」
「だめかな」
「だめではないが」
「なら聞こう」
穏やかだなあ。
本当に穏やかだ。
逃げ道があるように見せて、ちゃんと聞く。
俺は少しだけ考えた。
ごまかすのは簡単だ。
だがたぶん、ごまかした瞬間に負ける。
兄上相手には特に。
「置く価値はある」
俺は言った。
「少なくとも、もう試す段階は越えてる」
数人が息を呑む気配がした。
「今は育てる段階だ」
「……」
「それで」
兄上が柔らかく聞く。
「育った先には?」
「俺の隣だろ」
言ってから、しまったと思った。
ちょっと言い切りすぎたかもしれない。
卓の空気が完全に止まった。
ルシアンですら、ほんの一瞬だけ微笑みを消した。
やばい。
これ、かなり重いぞ。
いや俺の発言が重いのか?
珍しいな。
「レオン」
兄上が言った。
声は変わらない。
「君は時々、驚くほど率直だね」
「自覚はある」
「そして、その率直さは嫌いじゃない」
兄上はそう言って笑った。
だが目は笑っていなかった。
いや、笑ってはいる。
笑ってはいるが、見ている。
かなり深く。
「フィーネ嬢」
「はい」
「今の言葉を、どう受け取る?」
げっ。
返すのか、そこ。
だがフィーネは静かだった。
「大きすぎる評価だと」
「うん」
「同時に、軽く扱ってはならない言葉だと受け取ります」
「……」
「ですので、相応しくあるよう努めます」
兄上は数秒、彼女を見ていた。
それからふっと表情を和らげる。
「なるほど」
「……」
「二人とも、思った以上に本気なんだね」
ぞくりとした。
兄上が本気で面白がった時の声音だった。
そのあと、茶会は表面上なごやかに続いた。
菓子の話。
学院図書館の閲覧制限。
上級生の研究課題。
笑い声もあった。
けれど俺には、ずっと薄い緊張が残っていた。
そして終盤。
退出前の、ほとんど何気ない瞬間に、兄上はフィーネへこう言った。
「今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「君のことが少し分かった気がする」
「恐れ入ります」
「ただ」
兄上は、ほんの少しだけ首を傾げた。
「まだ君は、レオンを通してしか見えていない部分がある」
「……」
「それは悪いことじゃない。最初はそういうものだ」
「……はい」
「でも、いずれは君自身の輪郭で立つことになる」
静かな声だった。
「その時に、今と同じ答えを選べるかどうか」
「……」
「私はそこに興味がある」
フィーネは一瞬だけ黙り、それから礼を崩さずに答えた。
「その時にも、選び直すつもりはございません」
「ほう」
「私が殿下の隣へ向かうことと、私自身の輪郭で立つことは、両立すると考えております」
「……」
「ですので、問題は選択ではなく、到達の速度かと」
うわ。
言った。
言い切った。
兄上の目が細くなる。
周囲もまた静まり返る。
だが次の瞬間、兄上は小さく笑った。
「参ったな」
「……」
「本当に面白い人を見つけたね、レオン」
「見つけたっていうか」
「うん?」
「向こうから来た」
「それはそれで、なお面白い」
茶会が終わり、ようやく部屋を出た時には、正直どっと疲れていた。
応接棟の廊下は静かで、外の夕光が長く差し込んでいる。
さっきまでの完璧に整った空気が、扉一枚隔てただけで少し遠い。
「……疲れた」
俺が言うと、
「はい」
フィーネが答えた。
「とても」
「だよな」
「はい」
「何を一番見られたと思う?」
「私自身の答え方もですが」
「うん」
「殿下が、どこまで私を明確に位置づけるかを」
「だよなあ……」
分かってる。
ちゃんと分かってる。
やっぱり強いな。
「殿下」
「なんだ」
「先ほど」
「うん?」
「俺の隣だろ、と仰いましたね」
「……」
「少々、心臓に悪うございました」
「お前もか」
「はい」
「自分では平然としてたくせに」
「外に出しても意味がありませんので」
「便利だなほんとに」
フィーネはそこで、ほんの少しだけ目を伏せた。
「ですが」
「うん」
「嬉しかったです」
「……そうか」
「はい」
それだけだった。
でも、それだけで十分重い。
いや重いというか、真っ直ぐすぎる。
「お前」
「はい」
「今日かなり頑張ったな」
「ありがとうございます」
「本当に」
「はい」
「だから、その」
「はい」
「今日は反省会、少しだけ後にしないか」
「なぜです」
「俺の脳が疲れてる」
「……なるほど」
フィーネは少し考えてから、こくりと頷いた。
「では本日は、先に休息を優先いたします」
「助かる」
「ただし」
「まだあるのか」
「本日の会話内容は、帰ったらすぐ記録します」
「やるとは思った」
「熱があるうちに」
「真面目だなあ……」
歩き出そうとした時、後ろから静かな足音がした。
「レオン」
振り向くと、兄上がひとりで立っていた。
侍従もつけず。
珍しい。
「兄上」
「少しだけいいかな」
「内容による」
「警戒しないでくれ。弟と話したいだけだよ」
「それが一番警戒するやつなんだが」
兄上は苦笑した。
本当に、苦笑まで似合う。
「フィーネ嬢、少しだけ弟を借りても?」
「はい」
フィーネは迷わず一礼した。
「先に玄関前でお待ちしております」
「ああ」
「はい、殿下」
彼女が少し離れたのを確認してから、兄上は俺へ向き直った。
「いい人だね」
「そうだな」
「君が隣に置きたがるのも分かる」
「……」
「ただ、少し羨ましいよ」
「は?」
「君がそこまで言い切る相手を、私はまだ見つけていない」
一瞬、言葉に詰まった。
それはたぶん、本音だった。
だから余計に返しづらい。
「兄上なら、選び放題だろ」
「そういう問題でもない」
「……」
「人は多い。優秀な者も多い。忠実な者もいる」
「うん」
「でも、
兄上は廊下の窓へ一度視線を流し、またこちらを見た。
「大切にしなさい」
「……」
「君が自分で見つけて、自分で言葉にした相手だ」
穏やかだ。
穏やかすぎる。
でも今のは、たぶん本気で言っていた。
「兄上」
「うん?」
「今日、何が分かった?」
「いろいろ」
「ざっくりしてるな」
「そうだね。ではひとつだけ」
兄上は、いつものように柔らかく微笑んだ。
「彼女は、思ったよりずっと君に似ている」
「……どこが?」
「選んだ後に、迷わないところ」
「それ、俺もか?」
「うん。君は普段は面倒くさがるけれど、本当に決めたところでは妙に動かない」
「不本意だな」
「褒めているよ」
「そうか」
「そして、だからこそ」
兄上の目が、ほんの少しだけ鋭くなった。
「君が彼女をどう育てるかで、いろいろ変わるだろうね」
「……」
「学院も。周囲も。たぶん、君自身も」
それだけ言うと、兄上はまたいつもの笑みに戻った。
「引き止めて悪かった」
「いや」
「気をつけて帰って」
「学院内だぞ」
「それでもだよ」
兄上は去っていった。
最後まで歩き方がきれいなのが腹立たしい。
玄関前へ行くと、フィーネが待っていた。
夕方の光の中で、静かに立っている。
派手なことは何もないのに、妙に目を引く。
「殿下」
「待たせた」
「いいえ」
「兄上と少し話した」
「はい」
「面倒だった」
「はい」
「でも、収穫はあった」
「どのような?」
「お前、俺に似てるらしい」
「……」
「なんだその顔」
「少々、意外でした」
「俺もだよ」
「ですが」
「うん?」
「少しだけ、嬉しいです」
「なんで?」
「殿下の隣に立つ者としては、悪くない評価かと」
「そこにつなげるの、やっぱりお前らしいな」
「ありがとうございます」
「褒めてはいる」
帰り道、学院の石畳は夕暮れで赤く染まっていた。
風は冷たいが、空気はどこか静かだった。
「今日ので、兄上はお前を覚えた」
俺が言う。
「たぶん、ちゃんと」
「はい」
「良くも悪くもだ」
「承知しております」
「怖くないか?」
「少し」
「少しか」
「ですが」
フィーネは前を見たまま言う。
「避けられないのであれば、怖がって止まる意味はないかと」
「相変わらず強いな」
「殿下ほどでは」
「その返し、最近便利に使いすぎだぞ」
「学習しましたので」
困る。
本当に困る。
でもまあ、少しだけ安心するのも事実だった。
今日、兄上は見た。
フィーネを。
そして俺も、あらためて見た気がする。
こいつはただ隣を望んでいるだけじゃない。
そこへ行くために、自分で輪郭を持って立とうとしている。
たとえ兄上相手でも。
たとえ穏やかな圧の中でも。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
けれど、たぶん。
この先もっと面倒になっても、こいつは進むのだろう。
俺の隣へ。
その先へ。
自分の輪郭を失わないまま。
そして――
そんなこいつを、俺はたぶん、もう。
思っていた以上に、手放す気がない。