すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果   作:ヤンデレすこすこ侍

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第十一話

 翌朝。

 

 机の上に、封筒が積まれていた。

 

「……なんだこれは」

「招待状と、面会希望と、挨拶状と、観測用の餌です」

「最後が物騒だな」

 

 俺が言うと、フィーネは紙の束を整えながら、いつもの静かな顔で頷いた。

 

「正確に分類しております」

「正確ならなお悪い」

 

 寮の部屋に朝日が差し込んでいる。

 窓際の卓上に置かれた封筒は十を越えていた。

 色も質もさまざまだ。

 上質紙に金の縁取りが入ったもの。

 学院の事務的な羊皮紙。

 妙に香の強い女物の便箋まである。

 

「一晩で増えすぎだろ」

「第一皇子殿下の茶会へ出た翌日ですので」

「やっぱりそこか」

「はい」

 

 フィーネは一通ずつ脇へ分けていく。

 

「こちらは純粋な興味」

「ふむ」

「こちらは値踏み」

「だろうな」

「こちらは敵意を包み紙で隠したもの」

「分かるのか?」

「香りがきついので」

「偏見では?」

「半分ほどは」

「半分もあるのかよ」

 

 俺は椅子に座り、ひとつ封筒を取った。

 伯爵家令嬢主催の読書会。

 別の一通は法学科上級生の研究会への誘い。

 さらに学生会経由の意見交換会。

 どれも文面は丁寧だが、要するに見に来ている。

 

「お前、人気者だな」

「不本意です」

「昨日も聞いた」

「本日も同意見です」

 

 そう言いながら、フィーネは一通の封を切った。

 そして、そこで初めて手が止まる。

 

「ん?」

「……これは」

「なんだ」

 

 差し出された羊皮紙には、学院事務局の印があった。

 やけに事務的な文面で、しかし内容は妙に重い。

 

 ――編入生フィーネ殿に関し、今後の学院記録および儀礼上の呼称統一のため、所属・身分上の立場・後見関係の明記を求む。

 

「……ああ」

「はい」

「来たか」

「来ましたね」

 

 俺は紙を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。

 

 分かっていた。

 いつかは来る。

 だが思ったより早い。

 

 今までのフィーネは、俺の客人で、俺の保護対象で、それで押し通せた。

 奴隷市から拾ってきたばかりの頃なら、それで十分だった。

 だが今は違う。

 討論会で勝ち、第一皇子の茶会へ呼ばれ、学院の中で名前を持ち始めている。

 

 そうなると次に問われるのは、本人の才でも忠誠でもない。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

「客人、では駄目か」

「学院内の日常だけなら通せます」

「だが?」

「儀礼と記録と、今後の接触が増える場では弱いかと」

 

 フィーネは淡々と答えた。

 

「殿下のご判断ひとつで位置づけが変わる者、という見え方になります」

「……」

「それは事実でもありますが、それだけでは足りません」

 

 俺は紙を机へ置いた。

 

「足りない、か」

「はい」

 

 フィーネは少しだけ間を置く。

 

「私が殿下の隣に立つなら、殿下を通した説明だけでは、いずれ限界が来ます」

「……そうだな」

 

 言われなくても分かる。

 分かるのだが、こうして言葉になると妙に重い。

 

 フィーネが才を見せれば見せるほど、

 周囲はそれを()()()()()()()()()()()()()()()として片づけたがる。

 そうすれば簡単だからだ。

 俺が拾い、俺が育て、俺が置いているだけ。

 そういう形に押し込めれば、本人の輪郭を無視できる。

 

 だが昨日、兄上は言った。

 いずれは彼女自身の輪郭で立つことになる、と。

 

 たぶん、これがその最初だ。

 

「殿下」

 

 フィーネが呼ぶ。

 

「ん?」

「お顔が少し怖いです」

「気のせいだ」

「観測結果が異なります」

「便利だな、その言い回し」

「本日も有効ですので」

 

 俺は額を押さえた。

 

「で、他は?」

「こちらが読書会」

「却下」

「まだ内容を見ておりません」

「香りが強いんだろ」

「偏見では?」

「今は必要な偏見だ」

「承知しました。暫定保留に回します」

 

 さらさらとメモまで取っている。

 完全に秘書の動きだが、本人に言うとたぶん訂正してくるので黙っておく。

 

「それから」

 

 フィーネが別の封筒を差し出した。

 

「第二皇女殿下より」

「姉上?」

「はい。昼休みにお時間をいただきたいと」

「早いな」

「はい」

「断る理由は」

「見当たりません」

「だよなあ……」

 

 俺は天井を仰いだ。

 本当に早い。

 昨日の今日でこれだ。

 兄上が見て、姉上が動き、学院事務局が書類を寄越す。

 いよいよ面倒の密度が増してきた。

 

「ひとつ聞く」

 

 俺はフィーネを見る。

 

「お前、嫌じゃないのか」

「何がでしょう」

「こういうのだよ。勝手に測られて、名前の置き場まで問われて」

「嫌です」

「即答だな」

「はい」

「でも平然としてる」

「平然としている方が、相手に余計な情報を与えませんので」

「便利だな、その理屈」

「実用的かと」

 

 やっぱり全部それで通す気だな、こいつ。

 

「ですが」

 

 フィーネは手元の紙を揃えながら言った。

 

「必要な段階だとも思っております」

「……」

「殿下の隣に立つと決めた時点で、避けては通れません」

「また重いことを」

「本日は事実しか申し上げておりません」

「それが一番重い」

 

 

   ***

 

 

 一限と二限の間の廊下は、普段よりざわついていた。

 

 俺が歩くと道が空く。

 そこまではいつも通りだ。

 だが今日はその後、視線が俺の横を追う。

 つまりフィーネを見ている。

 

「おはようございます、フィーネ様」

「先日の討論会、感服いたしました」

「今度ぜひ、統治論の件でお話を――」

 

 朝から容赦がない。

 しかも相手は、昨日まで声すらかけてこなかった連中だ。

 

「ありがとうございます」

「お時間が許せば、後日」

「今後の予定を確認の上で」

「また別の機会に」

 

 フィーネはすべて、柔らかく、短く、隙なく返していく。

 

 すごい。

 すごいが、なんだろう。

 妙に腹が立つ。

 

「殿下」

「なんだ」

「先ほどから少々歩幅が広いです」

「そうか?」

「はい。三割ほど」

「観測するな」

「接触圧を避けるためかと推察しました」

「……」

「ありがとうございます」

「礼を言われる筋合いはない」

「では、お気遣いだけ受け取っておきます」

「勝手に受け取るな」

 

 前方から、今度は男二人組が来た。

 上級貴族の子弟だ。

 どちらも俺に礼をしたあと、視線だけはまっすぐフィーネへ向ける。

 

「フィーネ嬢」

「はい」

「近々、上級生を交えた政策研究会がある。ぜひ参加を」

「お誘いありがとうございます」

「君ほどの見識があれば、きっと有意義な場になる」

「恐れ入ります」

「殿下のお力添えがあれば、なお――」

 

 そこまで聞いたところで、俺は立ち止まった。

 

「おい」

「は、はい?」

「今の言い方は気に入らんな」

「……っ」

 

 二人の顔色が変わる。

 あ、まずい。

 言ってから気がついた。

 これは俺が前に出すぎるやつだ。

 

 そう思った瞬間、横から静かな声が入った。

 

「殿下」

 

 フィーネだ。

 

「何だ」

「ここで殿下が怒られると、私がまた殿下越しにしか見えなくなります」

「……」

 

 ぴたり、と言葉が止まった。

 

 正しい。

 腹立つほど正しい。

 

 俺がここで圧をかければ、周囲はますます楽をする。

 フィーネをフィーネとして見ず、()()()()()()()()()として扱うだけで済むからだ。

 

「……分かった」

 

 俺は息を吐く。

 

「続けろ」

「はい」

 

 フィーネは二人へ向き直る。

 

「お誘い自体はありがたく存じます」

「……」

「ただ、私の見識が殿下のお力添えによるものか否かを確かめたいのであれば、なおのこと、殿下を枕詞のように添えないでいただけますか」

「……」

「その上で必要と判断されるなら、改めてお話を伺います」

 

 柔らかい。

 柔らかいのに痛い。

 二人は完全に言葉を失っていた。

 

「ご理解いただけましたか?」

「……あ、ああ」

「では、失礼いたします」

 

 フィーネは一礼し、何事もなかったように歩き出す。

 俺も慌てて後を追った。

 

「お前」

「はい」

「今の、だいぶ鋭かったな」

「事実確認です」

「便利だな、その言い方」

「本日は特に」

 

 俺はしばらく黙った。

 

「……助かった」

「はい」

「でも少し悔しい」

「なぜでしょう」

「俺が言おうとしたことを、お前がもっと上手く言ったからだ」

「それは」

 

 フィーネはほんの少しだけ目を細めた。

 

「光栄です」

「そこで嬉しそうにするな」

「出しておりません」

「分かるようになってきたんだよ」

「それは、かなり良い傾向かと」

「何の評価だ」

 

 

   ***

 

 

 昼休み。

 学院本館の中庭に面した小部屋で、姉上が待っていた。

 

 相変わらず、やわらかい色のドレスに、やわらかい微笑み。

 なのに話す内容はだいたいやわらかくない。

 

「来てくれてありがとう」

「断れない呼び方をするな」

「ええ、知っているわ」

 

 姉上は涼しい顔でそう言ってから、フィーネへ視線を移した。

 

「昨日はお疲れさま」

「ありがとうございます」

「兄上もずいぶん楽しそうだった」

「それは良かったですね」

「良くはないな」

 

 俺が挟むと、姉上はくすりと笑った。

 

「今日は忠告半分、確認半分よ」

「嫌な予感しかしない」

「当たっているわ」

 

 やっぱりか。

 

 姉上は机の上に一枚の紙を置いた。

 見覚えがある。

 学院事務局の問い合わせ文と、ほぼ同じ内容だ。

 

「やっぱりそっちにも来たのか」

「ええ。宮中側でも、もう整理が必要という判断ね」

「整理」

「フィーネさんを、何者として扱うかということ」

 

 フィーネは静かに紙を見た。

 表情は変わらない。

 だがたぶん、もう中身は分かっている。

 

「今のままでも、日常は回るわ」

 

 姉上が言う。

 

「でも、人が増えて、視線が増えて、意味づけが増えるほど、曖昧な立場は弱点になる」

「……」

「利用されやすくもなるし、切り捨てられやすくもなる」

 

 俺は腕を組んだ。

 

「分かってる」

「なら早い方がいいわ」

「方法は?」

「いくつかある」

 

 姉上は指を折る。

 

「皇族の正式な保護下にある被後見人」

「うん」

「学院内に限った特別研究員扱い」

「弱いな」

「ええ。それだけでは足りない」

「他は」

「新たな家名を与えるか、あるいは元の名を再び立てるか」

 

 そこで、空気が少しだけ変わった。

 

 元の名。

 

 俺は横目でフィーネを見た。

 彼女は視線を落としたまま、数秒だけ黙っていた。

 

「姉上」

「なに」

「それ、今ここで聞く必要あるか?」

「あるわ」

 

 姉上は穏やかな声のまま言った。

 

「兄上もたぶん、同じことを考えている」

「……」

「昨日の茶会で終わりではないのよ、レオン」

「知ってる」

「なら、なおさら」

 

 そして姉上は、今度はフィーネへまっすぐ向き直った。

 

「あなたは、どうしたいの?」

「……」

 

 短くない沈黙だった。

 窓の外では、中庭の噴水が静かに鳴っている。

 

 やがてフィーネが口を開く。

 

「私は」

「ええ」

「借り物の名だけで立ちたくはありません」

「……」

「殿下から与えられるものを拒むつもりはございません」

「うん」

「ですが、私自身が立つための輪郭まで、すべて借り物にしたくはありません」

 

 姉上が、ほんの少しだけ目を細めた。

 嬉しそうでもあり、納得したようでもある顔だ。

 

「なら、元の名は?」

「……」

 

 フィーネは今度こそ、はっきりと黙った。

 

 俺は思い出す。

 最初の日。

 奴隷市で彼女が名乗りかけて、途中で止めたことを。

 

 ――フィーネ・エレ――

 

 そこから先を、俺はまだ聞いていない。

 

「今すぐ答えなくていいわ」

 

 姉上がやさしく言う。

 

「でも、近いうちに決める必要はある」

「はい」

「少なくとも、ただのフィーネでは、もういられない」

 

 その言葉は静かだった。

 けれど、重かった。

 

 俺は無意識に手を握っていた。

 なんだろう。

 それが正しいと分かっているのに、少しだけ腹の奥がざわつく。

 

 フィーネがフィーネ自身の名で立つ。

 それはたぶん、俺が望んでいたことのはずだ。

 俺を通さなくても、彼女が彼女として見えるようになること。

 それはきっと必要で、正しくて、避けられない。

 

 なのに。

 

 なのに、少しだけ。

 自分の手の届かないところへ行くみたいで、落ち着かなかった。

 

「殿下」

 

 不意に、フィーネがこちらを見た。

 

「なんだ」

「お顔が少々」

「言うな」

「……はい」

「言うなと言っただろ」

「ですが」

「分かってる。怖い顔してるんだろ」

「少しだけ」

「少しか」

「いつもよりは」

「比較が雑だな」

 

 姉上が小さく笑った。

 

「レオン」

「なんだ」

「あなた、今わりと分かりやすいわよ」

「最悪だ」

「いいことでもあるのだけれど」

「どこが」

「ちゃんと大事に思っている顔だから」

 

 反射的に何か言い返そうとして、できなかった。

 図星だと腹が立つ。

 

「……姉上」

「なに?」

「今日は帰る」

「ええ、いいわ」

「お前も行くぞ、フィーネ」

「はい」

 

 立ち上がる。

 姉上は最後に、ひどく穏やかな声で言った。

 

「急ぎなさい」

「何を」

「決めることを、よ」

 

 その声音が妙に兄上に似ていて、少しだけ嫌だった。

 

 

   ***

 

 

 夕方。

 寮へ戻ってからも、俺は少し機嫌が悪かった。

 

 自覚はある。

 あるが、だからといってすぐ消えるものでもない。

 

「殿下」

 

 向かいの席で、フィーネが茶を差し出す。

 

「熱いので、お気をつけください」

「……おう」

「少し甘めです」

「俺が機嫌悪い時用か」

「三番目です」

「一番と二番は?」

「より悪い時用です」

「用意がいいな……」

 

 茶をひと口飲む。

 たしかに少し甘い。

 悔しいが、落ち着く。

 

「怒っておられますか」

 

 フィーネが聞いた。

 

「怒ってはない」

「では」

「落ち着かん」

「……」

「姉上の言うことが正しいからだ」

「はい」

「それでいて、正しいからですぐ気分よく受け入れられるほど、俺はできてない」

「はい」

 

 フィーネは、否定も慰めもしなかった。

 ただ、静かに聞いている。

 

 それが今はありがたかった。

 

「殿下」

「なんだ」

「ひとつ、お話ししてもよろしいですか」

「聞く」

 

 フィーネは膝の上で指を組んだ。

 珍しく、ほんの少しだけ言葉を探しているように見えた。

 

「私が、最初に名乗りかけたことを覚えておいでですか」

「……ああ」

「はい」

「フィーネ・エレ――だろ」

「はい」

 

 彼女は小さく頷いた。

 

「フィーネ・エレノアス」

「エレノアス」

「没落した商家の名です」

「商家、か」

「正確には、もとは地方の小さな記録官の家系だったそうです」

「へえ」

「祖父の代で商いに移り、父の代で失敗しました」

「……」

 

 なるほど。

 だから言葉や数字に強く、妙に文書仕事に慣れているのかもしれない。

 商家だけではなく、記録を扱う家の気質がある。

 

「ではなぜ、名乗らなかった」

 

 俺が聞くと、フィーネは少しだけ目を伏せた。

 

「その名では、誰も救えなかったからです」

「……」

「借財も、防げませんでした」

「そうだな」

「家も守れず、弟と妹も飢えさせた」

「それはお前一人の責任ではない」

「はい。ですが、私の感覚としては、そう簡単に切り分けられません」

 

 静かな声だった。

 泣いてはいない。

 だが軽くもなかった。

 

「ですので、あの日」

 

 フィーネは言う。

 

「私は途中で捨てました」

「……」

「ただのフィーネでいた方が、まだましだと思いました」

 

 俺は何も言えなかった。

 それは責める話でも、簡単に励ます話でもない。

 本人がそうやって切り離して生き延びてきたのだ。

 

「でも」

 

 そこでフィーネは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「今は、少し違います」

「どう違う」

「その名を、完全に死なせたままにするかどうかを、ようやく自分で選べると思っています」

「……」

 

 窓の外はもう薄暗くなっていた。

 部屋の灯りが、灰銀の髪を柔らかく照らしている。

 

「殿下」

「なんだ」

「私は、殿下から何かを与えられること自体を、恥だとは思っておりません」

「うん」

「救われましたので」

「……」

「ですが、そこで止まりたくはありません」

「知ってる」

「はい」

 

 フィーネは小さく頷いた。

 

「ですので、もし名を持つなら」

「うん」

「借りるだけではなく、自分で立てる形にしたいです」

「……そうか」

 

 それは、ひどく彼女らしい答えだった。

 重くて。

 真っ直ぐで。

 面倒くさくて。

 でも、好きだと思う。

 

「殿下」

「なんだ」

「先ほど、少しだけ落ち着かないと仰いましたね」

「言った」

「理由を、推測してもよろしいですか」

「やめろ」

「もうしております」

「怖いって」

 

 フィーネは、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「私が殿下を通さずに見られるようになること自体ではなく」

「……」

「それによって、私が殿下のお手元から遠く見えることが、少しだけ――」

「言うな」

「……はい」

 

 止めた。

 止めはしたが、否定はできなかった。

 

 最悪だ。

 そんなところまで読まれている。

 

「殿下」

「なんだよ」

「ご安心ください」

「何を」

「私は、自分の輪郭で立ちたいですが」

「うん」

「殿下の隣へ向かうことを、やめる気はありません」

「……」

「むしろ、そうでなければ意味がありませんので」

 

 また重い。

 だが今は、その重さが妙に心地よかった。

 

「……フィーネ」

「はい」

「お前、ほんとに逃がしてくれないな」

「最初から、そのつもりでおります」

「だろうな」

「はい」

 

 俺は茶を飲み干した。

 甘さが少し残る。

 

「分かった」

「何がでしょう」

「名の件だ」

「……」

「逃がさないなら、こっちも半端にはしない」

「殿下」

 

 俺は立ち上がる。

 

「ガレスを呼べ」

「はい」

「それと、学院事務局への返答は保留」

「承知しました」

「兄上にも姉上にも、まだ何も返すな」

「はい」

「先に父上へ行く」

「――」

 

 さすがのフィーネも、そこで一瞬だけ目を見開いた。

 

「陛下へ」

「ああ」

「……早くはございませんか」

「遅いよりはましだ」

「ですが」

「兄上も姉上も動いてる」

「……」

「なら、変に周りが整える前に、俺が決めた方がいい」

 

 口にした瞬間、妙に腹が据わった。

 そうだ。

 うだうだ考えているのは俺らしくない。

 俺はもともと、決めたら動く方だ。

 兄上に似ていると言われたのは癪だが、そこはたぶんそうなのだろう。

 

「殿下」

「なんだ」

「そのご判断は」

「うん」

「かなり、心臓に悪いです」

「お前が言うのか」

「はい」

「でも嫌ではないんだろ」

「……はい」

 

 その返事が来たところで、扉が叩かれた。

 

 ちょうどいい。

 ガレスかと思って、許可を出す。

 

「入れ」

 

 だが入ってきたのは、宮中付きの使者だった。

 離宮ではなく寮に直接来る時点で、軽い用ではない。

 濃紺の制服。

 胸元には、皇帝直属の印。

 

「第三皇子殿下」

 

 使者は深く頭を下げた。

 

「陛下より、急ぎのご伝言にございます」

「……言え」

 

 使者は封蝋つきの書簡を差し出した。

 見覚えのある印章。

 間違いなく父上のものだ。

 

 嫌な予感しかしない。

 

 封を切る。

 短い。

 そして、短いからこそ重い。

 

「何と」

 

 フィーネが静かに尋ねる。

 

 俺は紙から目を離さずに答えた。

 

「明日、本宮へ来いだと」

「……」

「俺と」

「はい」

「お前を連れて」

 

 部屋が静まり返る。

 

 ああ、やっぱりか。

 早い。

 思ったよりずっと早い。

 

 兄上か姉上か、あるいは両方か。

 何がどう回ったのかは知らないが、もう父上の耳に届いたらしい。

 

「……殿下」

 

 フィーネの声は、驚くほど落ち着いていた。

 

「はい」

「予定の組み直しが必要ですね」

「そこかよ」

「最優先事項かと」

「そうだな……」

 

 俺は笑った。

 笑うしかなかった。

 

 つい昨日まで、学院の中で認められるかどうかの話をしていたはずだ。

 それが今や、名の置き場と、父上への謁見である。

 

 面倒くさい。

 本当に、とんでもなく面倒くさい。

 

 だがたぶん。

 ここを越えないと、先へは行けない。

 

「フィーネ」

「はい」

「明日、父上に会う」

「はい」

「下手をすると、全部ひっくり返る」

「はい」

「怖くないか」

「少し」

「少しか」

「ですが」

 

 彼女はまっすぐ俺を見た。

 

「殿下が隣にいてくださるので」

 

 反則だろ、それ。

 そんな顔で、それを今言うか。

 

「……お前な」

「はい」

「そういうのは本当に心臓に悪い」

「存じております」

「やっぱり分かっててやってるな?」

「学習しましたので」

 

 困る。

 だが、もう今さらだ。

 

 俺は父上の書簡を畳み、卓上へ置いた。

 そして、妙に静かな夜気の向こうを見た。

 

 名。

 立場。

 輪郭。

 そして、父上。

 

 明日から、たぶんまた一段、面倒が増える。

 

 でも。

 隣にいるこの女は、たぶんその全部へ本気で向かう。

 自分の名を選び、

 自分の輪郭で立ち、

 それでも俺の隣へ来るつもりで。

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