すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果   作:ヤンデレすこすこ侍

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第十二話

 翌朝。

 目が覚めた瞬間から、嫌な予感しかしなかった。

 

「殿下、お時間です」

「知ってる」

「本日は返答が早くて助かります」

「誰のせいで目覚ましみたいな緊張感が続いてると思ってる」

 

 寝台から半身を起こす。

 部屋の窓はすでに開けられていて、淡い朝光が差し込んでいた。

 そしてその光の中に、今日も今日とてフィーネがいる。

 

 だが、今日は少し違った。

 

 いつもの学院用の制服ではない。

 落ち着いた灰青のドレス。過度な装飾はないが、布地と仕立ての良さで分かる。

 髪もきっちりと結い上げられ、灰銀の色が冷たく整って見えた。

 飾り気はないのに、妙に目を引く。

 

「……お前」

「はい」

「気合いが服に出てるぞ」

「本宮へ伺うのですから」

「そこは否定しないのな」

「否定してどうなさるのです」

 

 ガレスが横から一枚の紙を差し出してきた。

 嫌な予感が増した。

 

「何だ、これ」

「本日の確認事項でございます」

「嫌な予感しかしない」

「四十七項目です」

「多い!」

 

 思わず声が出た。

 フィーネはまったく動じない。

 

「想定問答、入室手順、陛下から直接ご下問があった場合の返答優先順位、同席者がいた場合の視線配分、礼の深さの調整」

「待て待て待て」

「それから、殿下が途中で感情的になられた場合の補助対応」

「なんでそこまである」

「必要かと」

「必要だろうな……」

 

 否定できないのが悔しい。

 

 俺が紙をめくると、達筆でびっしりと書き込まれていた。

 想定質問の欄にはこうある。

 

『あなたは第三皇子に何を求めるのか』

『何者として立ちたいのか』

『元の名をどう扱うのか』

『第一皇子配下への転属を命じられたら』

『第二皇女付きとして宮中へ入る提案があれば』

『第三皇子との距離を問われたら』

 

「最後、妙に具体的だな」

「高確率かと」

「嫌すぎる」

「私も少々」

「少々で済むのか」

「殿下が隣にいてくださるので」

 

 さらっと言われて、紙を持つ手が止まった。

 

「……お前」

「はい」

「本番前にそういうの入れるな」

「励ましですが」

「心臓に悪い方向のな」

 

 フィーネはほんの少しだけ首を傾げた。

 

「殿下は、本日とても緊張しておいでですね」

「してるに決まってるだろ」

「それは少し安心しました」

「何でだ」

「私だけではないので」

 

 その返しに、少しだけ肩の力が抜けた。

 悔しいが、助かる。

 

 

   ***

 

 

 本宮へ向かう馬車の中は、妙に静かだった。

 

 いつもの学院への道とは違う。

 石畳の響きも、門をくぐる回数も、兵の装備も、空気の重さも全部違う。

 窓の外を眺める余裕は、今日は俺にもあまりなかった。

 

「殿下」

「なんだ」

「ひとつだけ」

「聞く」

 

 フィーネは正面に座ったまま、静かにこちらを見る。

 

「もし、陛下が私を殿下から切り離す判断をなさったら」

「……」

 

 来た。

 考えないようにしていた部分を、真正面から切り込んできやがった。

 

「その時は」

 

 俺は短く答える。

 

「俺が止める」

「止まらない場合は」

「……」

「最悪の想定です」

 

 理屈としては正しい。

 正しいから、腹立たしい。

 

「お前は」

 

 俺は聞き返した。

 

「その時、どうするつもりだ」

「従います」

「……」

 

 その一言に、胸の奥が少し冷えた。

 だがフィーネは、次で平然とそれをひっくり返した。

 

「ただし」

「ただし?」

「諦めはしません」

 

 灰銀の瞳が、まっすぐこちらを捉える。

 

「陛下のご判断には従います。ですが、それで殿下の隣へ向かう意思まで終えるつもりはございません」

「……」

「離されたなら、戻れるだけの立場と力を得ます」

「お前な」

「禁じられたなら、禁じられない形を探します」

「怖いことを静かに言うな」

「事実確認です」

「便利だな、その言い回し」

 

 フィーネは目を伏せずに続けた。

 

「私は、殿下に拾われただけのままで終わりたくありません」

「うん」

「そして」

「……」

「殿下に拾われたことを、終わったことにする気もありません」

 

 言葉が出なかった。

 

 馬車の小さな揺れの中で、その一言だけが妙に重く胸へ沈む。

 

「殿下」

「なんだ」

「私は、自分の名で立ちたいです」

「知ってる」

「でも、向かう先まで変えるつもりはないのです」

「……」

 

 反則だろ、朝からずっと。

 なんでこいつは、こういう時に一番効く言い方を選ぶんだ。

 

「だから」

 

 フィーネはほんの少しだけ声をやわらげた。

 

「どうか本日は、私を手放す前提ではなく」

「……」

「隣に置く前提で、戦ってくださいませ」

 

 もう駄目だ。

 完全に腹が据わった。

 

「分かった」

「はい」

「父上が何を言おうが、俺は最初からそのつもりで行く」

「はい」

「お前も、変に引くな」

「承知しました」

「ただし」

「はい」

「重すぎることを口走るのは少し加減しろ」

「善処いたします」

「その返事は信用ならん」

「本日は六割ほどで」

「十分重いな」

 

 

   ***

 

 

 本宮、謁見の間――ではなく、その手前にある小謁見室だった。

 

 助かった、と最初に思った。

 大広間で正式にやられたら、ほぼ公開処刑みたいなものだ。

 小部屋ということは、少なくとも今日は()()の場なのだろう。

 

 だが、入室してその考えは半分引っ込んだ。

 

 父上がいた。

 当然だ。

 

 その右手側に、兄上。

 左手側に、姉上。

 

 おい。

 何だこの家族会議みたいな配置は。

 嫌すぎる。

 

 父上――皇帝陛下は、肘掛けに片肘を置いたまま、俺たちを見ていた。

 感情の読みにくい目だ。

 兄上の穏やかさとも、姉上の柔らかさとも違う。

 何を見ても、それをすぐ表へ出さない人の目。

 

「第三皇子レオンハルト」

 

 低い声が落ちる。

 

「参りました」

「フィーネ・エレノアスにございます」

 

 俺の隣で、フィーネが淀みなく礼を取った。

 ……エレノアス。

 自分で先に名乗ったか。

 

 父上の目が、ごくわずかに細くなる。

 

「ほう」

「……」

 

 兄上は相変わらず静かだ。

 姉上は微笑んでいる。

 楽しむな。

 

「面を上げよ」

 

 父上の許しで顔を上げる。

 そのまま数秒、沈黙があった。

 

 先に口を開いたのは父上だった。

 

「事情は聞いている」

「どこまで」

「市場で拾ったところから、学院で騒ぎを起こしたところまでだ」

「拾ったは言い方が悪い」

「本質は変わらん」

 

 即死だった。

 兄上の口元が、ほんの少しだけ動く。

 笑うな。

 

「では、確認する」

 

 父上は俺を見る。

 

「お前は、この娘を何者として置くつもりだ」

「……客人ではもう弱いと承知している」

「答えになっていない」

「将来的には、俺の隣で判断を預けられる人間にしたい」

「側近候補か」

 

 父上の言葉にフィーネが間髪入れず口を挟んだ。

 

「候補で終えるつもりはありません」

「ほう」

 

 父上の視線が少しだけ深くなる。

 そして、フィーネへ向く。

 

「お前は、何を望む」

「自分の名で立つこと」

「それだけか」

「それだけではございません」

 

 フィーネの声は落ち着いていた。

 緊張はあるのだろう。だが、揺れてはいない。

 

「殿下の隣に立てるだけの価値を持つことを望みます」

「……」

「借り物の庇護だけで終わらず、私自身の輪郭で」

「ふむ」

 

 父上は少しだけ身を乗り出した。

 

「その願いは、恩義によるものか」

「始まりはそうです」

「忠義か」

「それだけではございません」

「執着か」

「否定はいたしません」

「恋慕は」

「父上」

 

 反射で口を挟んだ。

 姉上が扇の向こうで笑っている気配がする。

 最悪だ。

 

「うるさい、レオン」

「うるさくなるだろ今のは」

「確認だ」

「何のだ」

「娘本人の認識の」

 

 父上は平然と言った。

 おい、やめろ。ほんとにやめろ。

 

 だが、俺が止めるより先にフィーネが口を開いた。

 

「まだ、その感情に軽々しく名づけるつもりはございません」

「……」

「ですが」

 

 そこでほんの一拍。

 フィーネは迷わなかった。

 

「殿下が誰かに雑に扱われることを思うと、不快です」

「っ」

 

 兄上が、今度ははっきりと目を細めた。

 姉上は楽しそうだ。

 父上だけが無表情に近い。

 

「殿下がご自身を雑に扱われることは、なおさら嫌です」

「……」

「殿下が軽く与えてしまうものを、軽く受け取る者が増えるのも嫌です」

「ほう」

「ですので、私は重くなります」

「言い切るのか」

「はい」

 

 そこ、言い切るのかよ。

 この場で。

 父上の前で。

 

「殿下がくださったものを、軽かったことにしないために」

「……」

「私の意思として、重く受け取ります」

「……」

 

 小謁見室が妙に静かになった。

 

 やめろ。

 この空気、俺にとって一番きついやつだ。

 兄上も姉上も、何か言いたそうにしてるじゃないか。

 姉上なんか絶対あとで弄る気満々だろ。

 

 父上はしばらくフィーネを見ていたが、やがて低く言った。

 

「面白い娘だ」

「褒め言葉として受け取ってよろしいでしょうか」

「好きにしろ」

 

 その返しで兄上が完全に笑った。

 お前、今笑うな。

 

「では、さらに聞こう」

 

 父上は続ける。

 

「第一皇子の下へ付けると言えば」

「お断りいたします」

「早いな」

「判断が容易ですので」

「理由は」

「第一皇子殿下は優秀で、正しく、国家全体を見ておられる方と存じます」

「うん」

 

 兄上が静かに頷いた。

 お前はそこで納得するな。

 

「ですが、私が最初から見て、学び、判断の軸を定めてきたのは第三皇子殿下です」

「……」

「ここで対象を取り替えれば、私の言う継続性そのものが崩れます」

「国家にとって有益でもか」

「短期ではそう見えるかもしれません」

「長期では?」

「私個人の一貫性を欠いた補佐は、いずれ誰に対しても弱くなります」

 

 いい。

 すごくいい。

 今のはたぶん正解だ。

 

 父上の視線がさらに鋭くなる。

 

「では、第二皇女付きとするなら」

「学べることは多いでしょう」

「断るか」

「お受けいたしかねます」

「なぜ」

「同じです。私は殿下の隣へ向かう前提で積み上げておりますので」

 

 姉上が、ほとんど聞こえないくらい小さく息をついた。

 感心したのか、面白がったのかは分からん。

 

「では」

 

 父上は最後に問う。

 

「私が、お前をレオンから切り離すと決めたら」

 

 部屋の空気が、ぴたりと張った。

 

 兄上も姉上も、今度はさすがに笑わない。

 俺は無意識に拳を握っていた。

 フィーネは一度だけ、ほんの一瞬だけ、俺を見た。

 それから、父上へ向き直る。

 

「従います」

「……」

 

 胸の奥がひやりとする。

 だが。

 

「しかし」

 

 来る。

 分かっていた。

 

「そこで終わるつもりはございません」

「ほう」

「陛下のご判断には従います。ですが、諦めはいたしません」

「どうする」

「戻れるだけの価値を、より早く積みます」

「禁じられてもか」

「禁じられない形を探します」

「……」

「それでも届かぬなら、届く位置まで上がります」

 

 父上の目が、初めてはっきり変わった。

 面白がっているのとも、怒っているのとも少し違う。

 値踏みだ。

 たぶん、本気で見ている。

 

「それは忠義か」

「私の意思です」

「執着では」

「否定いたしません」

「面倒だな」

「承知しております」

 

 兄上がとうとう視線を伏せた。

 笑いを堪えてやがる。

 姉上はもう隠す気がない。

 

 俺はたまらず口を開いた。

 

「父上」

「なんだ」

「確認は済んだだろ」

「まだ半分だ」

「多い」

「お前が厄介な拾い物をしたからだ」

「だから拾い物って言い方は」

「レオン」

 

 今度は兄上が静かに入った。

 

「そこはもう、否定してもたぶん無駄だ」

「兄上まで」

「事実の切り口としては分かりやすいからね」

「ひどい兄だな」

「自覚はある」

 

 姉上がくすりと笑う。

 

「でも、たしかに見えたわ」

「何が」

「この子が、誰の下でもよかったわけではないってこと」

 

 父上は肘掛けに指先を打ちつけた。

 一度。

 二度。

 短い沈黙のあと、低く告げる。

 

「結論を出す」

 

 背筋が伸びる。

 フィーネも隣で息を止めたのが分かった。

 

「フィーネ・エレノアス」

 

 父上はその名をはっきり呼んだ。

 

「元の家名の復称を、暫定で認める」

「……っ」

「ただし、過去の家格の復活ではない。現在の身分保証と、記録上の独立のためだ」

「はい」

「加えて、帝国学院在籍中に限り、第三皇子付被後見人として宮中および学院へ通達する」

「……」

「これは保護であり、同時に観察でもある」

「承知しております」

「正式な位置づけを得たければ、自分で立て」

「はい」

 

 フィーネの声が、わずかに深くなった。

 初めてだ。

 こいつが、本当に感情を押さえ込んでいる声を聞いたのは。

 

「期限は一年」

「一年」

「その間に、自分の名で立てなければ、その時は私が使い道を決める」

「……承知いたしました」

「異論は」

 

 父上の視線が、今度は俺に来る。

 

「ありますと言っても聞かないだろ」

「一応聞く」

「じゃあ半分だけある」

「半分」

「観察はいらん」

「必要だ」

「だろうな」

「他は」

「一年で十分だ」

「ほう」

 

 父上が少しだけ口元を緩めた。

 

「言うようになったな」

「最初から言ってる」

「そうか」

 

 そこで、ようやく空気が少し緩んだ。

 

 だが父上は最後に、ひどく静かな声で付け足した。

 

「レオン」

「なんだ」

「隣へ置くと言葉にした以上、半端にするな」

「……」

「娘の方は、どうやら最初からそのつもりらしい」

「父上」

「違うか、フィーネ・エレノアス」

「違いません」

 

 即答しやがった。

 

「私は、半端にするつもりはございません」

「だろうな」

「はい」

「重いな」

「承知しております」

 

 もう駄目だ。

 この部屋の全員、完全に面白がってるだろ。

 

「本日は以上だ」

 

 父上が手を振る。

 

「下がれ」

「はっ」

 

 礼をして、部屋を辞す。

 扉が閉まるまで、変な汗が止まらなかった。

 

 

   ***

 

 

 廊下へ出た瞬間、どっと疲れが来た。

 

「……生きた」

「お疲れさまでした、殿下」

「お前、平然としすぎだろ」

「平然としている方が余計な情報を」

「もういい、その理屈は聞き飽きた」

 

 だがフィーネの声も、よく聞けばほんの少しだけ浅い。

 緊張はしていたのだ。

 そりゃそうだ。

 父上相手にあれだけ言って、平常心の方がおかしい。

 

 人気のない回廊まで来たところで、俺は立ち止まった。

 

「フィーネ」

「はい」

「……お前、さっき」

「どちらでしょう」

「どれも問題だが、一番は」

「はい」

「切り離されたら戻る、禁じられたら禁じられない形を探す、届かなければ届く位置まで上がる、の辺りだ」

「問題でしょうか」

「問題だろ」

「事実ですが」

「便利だな、その」

「本日は多用しております」

 

 俺は額を押さえた。

 

「父上の前であそこまで言うか、普通」

「普通ではなかったかと」

「認めるな」

「ですが、嘘ではありません」

「……」

 

 それで黙るしかなくなるのが、本当にずるい。

 

「殿下」

 

 フィーネが一歩だけ近づいた。

 この女、距離の詰め方が本当に自然なんだよな。

 

「私は、本日、とても嬉しいです」

「……そうだな」

「名を戻せたからだけではなく」

「うん」

「殿下が、私を隣に置く前提で話してくださったから」

「当たり前だろ」

「はい」

 

 そこで彼女は、初めて少しだけ息を吐いた。

 張り詰めていたものが、ようやくほどけるみたいに。

 

「ですが、ひとつだけ」

「なんだ」

「先ほど、切り離される前提のお話をした時」

「……」

「殿下のお顔が、思っていた以上に嫌そうで」

「嫌だからな」

「はい」

「それがどうした」

「少しだけ」

「うん」

「安心しました」

 

 心臓に悪い。

 ほんとに悪い。

 

「私だけではなかったので」

「朝もそれ言ったな」

「本日は有効ですので」

「便利な言葉だな」

 

 フィーネは俺を見上げた。

 その灰銀の瞳は、さっき父上へ向けていた時よりずっと柔らかい。

 だが、奥の熱は消えていなかった。

 

「殿下」

「なんだ」

「本日、陛下の前で申し上げたことは」

「うん」

「その場しのぎではございません」

「分かってる」

「ありがとうございます」

「礼を言うところか?」

「はい。軽く聞き流されない方が、私は嬉しいので」

「お前はそういうやつだよな」

 

 軽く流したら駄目なのだ。

 ちゃんと受け止めないと、こいつの言葉はたぶん意味を変える。

 俺が与えたものを軽くしないために、こいつは重くなると言った。

 だったら、こっちも半端に受け取るのは失礼だ。

 

「フィーネ・エレノアス」

「……はい」

 

 名を呼ぶと、彼女の目が少しだけ揺れた。

 まだ慣れていないのだろう。

 今日、戻ったばかりの名だ。

 

「改めて言う」

「はい」

「一年で十分だ」

「……」

「父上が決めた期限が一年でも、俺はもっと早くお前をそこまで上げる」

「殿下」

「ただし」

「はい」

「自分の輪郭で立つことはやめるな」

「はい」

「俺の隣へ来るなら、俺越しじゃなく、お前自身で来い」

「……はい」

 

 今度こそ、フィーネははっきり息を呑んだ。

 

「その代わり」

「……」

「来たら、もう空けるな」

「――」

 

 言ってから、自分で少しだけ後悔した。

 何を口走ってるんだ俺は。

 だが撤回する間もなく、フィーネがとんでもなく静かな顔で微笑んだ。

 

「はい」

「……」

「そのお言葉」

「うん」

「かなり、重く受け取ってよろしいでしょうか」

「そこは軽く受け取れ」

「無理です」

「早いな」

「殿下が仰ったので」

 

 やめろ。

 そうやって嬉しそうにするな。

 俺まで妙に嬉しくなるだろうが。

 

「では」

 

 フィーネは胸に手を当て、けれど今度は礼ではなく、ただ確かめるように言った。

 

「名は自分で立て直します」

「ああ」

「輪郭も、自分で作ります」

「うん」

「それでも」

「……」

「向かう先は、殿下の隣のままでおります」

 

 風が吹いた。

 本宮の高い窓の外、旗が揺れる音がした。

 

 俺は少しだけ笑う。

 

「知ってる」

「はい」

「で、そこまで言うなら」

「はい」

「今日から予定表を少し緩めろ」

「それはできません」

「なんでだ」

「一年しかないので」

「今の流れで即答するのか」

「最短で参ります」

「重い」

「承知しております」

 

 そう言って、フィーネは俺の半歩横に並んだ。

 もう半歩後ろじゃない。

 自然に、当然のように。

 

 ああ、そうか。

 今日ので、少し変わったのだ。

 

 名が戻った。

 立場もついた。

 まだ暫定で、まだ観察付きで、まだ不安定だ。

 それでも彼女はもう、ただ拾われた少女ではない。

 

 フィーネ・エレノアス。

 自分の名を取り戻し、

 それでも俺の隣へ来ると、皇帝の前で言い切った女。

 

 面倒だ。

 本当に面倒だ。

 だが――

 

「殿下」

「なんだ」

「本日のお顔、少しだけ」

「言うな」

「……」

「言うなよ」

「とても、うれしそうです」

「言ったな!?」

「観測結果です」

「その観測器、今すぐ壊したい」

「壊される前に記録しておきます」

「やめろ!」

 

 回廊に、フィーネの小さな笑い声が落ちた。

 

 珍しい。

 本当に珍しい、声のある笑いだった。

 

 その横顔を見た瞬間、妙に思った。

 

 一年もいらないかもしれない。

 こいつはたぶん、俺が思っているよりずっと速く来る。

 

 自分の名で立ち、

 自分の輪郭を持ち、

 それでも重いまま、まっすぐに。

 

 そしてたぶん、その時にはもう。

 俺の方も、今さら逃げられないところまで来ている。

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