すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果 作:ヤンデレすこすこ侍
翌日。
学院へ着く前から、嫌な予感しかしなかった。
「殿下」
「なんだ」
「本日は、昨日よりも視線が多いかと」
「見れば分かる」
「はい」
「分かってるなら、そんな静かに報告するな」
「現状共有です」
馬車の窓越しにも、門前のざわめきが見えた。
正確には、見えたというより、あからさまにこちらを見ていた。
そりゃそうだ。
昨日のうちに本宮から通達が回ったのだろう。
フィーネ・エレノアスの名の暫定復称。
第三皇子付被後見人。
保護対象であり、同時に観察対象。
字面だけなら大層だ。
実際、大層面倒くさい。
「降りた瞬間から話しかけられると思われます」
「だろうな」
「私が処理いたします」
「俺もいるぞ」
「存じております」
「その返事、たまに俺を戦力外通告してる感じがあるんだよな」
「いいえ」
「否定が早い」
「殿下には別の役割がございますので」
「何だよ」
「隣にいてくださいませ」
「……」
朝から心臓に悪い。
「それだけで、十分ですので」
「そういうのを平然と言うな」
「事実です」
「便利だな、その」
「本日は使用頻度が高くなりそうです」
馬車が止まる。
扉が開く。
先に降りた俺が振り返ると、フィーネは淡い灰青の学院用ドレスで、いつものように迷いなく手を取った。
だが、降りた瞬間。
「フィーネ様!」
「先日の討論、見事でした」
「本宮からの通達、拝見しましたわ」
「ぜひ一度、お話を――」
来た。
しかも多い。
多すぎる。
生徒たちが、昨日までより一歩近い。
単なる好奇心ではない。
打算と、探りと、値踏みが混ざった目だ。
俺が一歩前へ出ようとした、その前に。
「ありがとうございます」
フィーネが、柔らかく微笑んだ。
「ですが、通学直後ですので」
「後ほど、お時間を」
「本日の予定が詰まっておりますので、個別の面会は難しいかと」
「では、せめてご挨拶だけでも」
「お気持ちだけ、ありがたく」
短い。
丁寧。
そして隙がない。
すごい。
すごいが、やっぱり腹が立つ。
「殿下」
「なんだ」
「少し左へ」
「……なんで」
「接触回避です」
「俺を壁扱いするな」
「最も信頼できる壁ですので」
「それ褒めてるか?」
「かなり」
さらっと言われて、結局そのまま左へ寄ってしまう。
すると自然に、フィーネの肩先へ伸びかけていた誰かの距離が切れた。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「では、感謝だけしておきます」
「同じだろ」
だが、彼女の横顔はどこか楽しそうだった。
***
一限目の前。
掲示板前は、ひどい人だかりだった。
「うわ」
「予想以上ですね」
大理石の壁に貼り出された通達には、見慣れた帝国印。
そして、簡潔な文面。
『フィーネ・エレノアスの名の使用を認める』
『帝国学院在籍中、第三皇子付被後見人として扱う』
『必要な礼節をもって接すること』
最後の一行が効いていた。
ざわつきの質が、昨日までと違う。
「これで露骨に雑な態度は減るでしょう」
「増えるものもあるだろ」
「はい。打診、勧誘、探り、牽制」
「分かってるなら嫌そうな顔しろ」
「殿下がしてくださっておりますので」
「俺に押しつけるな」
その時。
「まあ、フィーネ様」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、ミレイユが数人を連れて立っていた。
今日も完璧に整った笑み。
だが目だけは、少しも笑っていない。
「改めまして、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「お名前も立場も戻られて、これからはますますお忙しくなりそうですわね」
「ええ、おそらく」
「でも、安心いたしました」
ミレイユはわざとらしく扇を閉じる。
「これでようやく、ご自分にふさわしい進路も選べますもの」
「進路?」
「ええ。どなたの下へ付くのが最も有利か、あるいはどちらのお家と縁を結ぶのが賢明か」
周囲の空気が、少しだけ冷えた。
言外にあるのは明白だ。
暫定とはいえ家名を取り戻した以上、フィーネは
誰の陣営に入るか。
どこの家とつながるか。
そこまで含めて見られるようになる。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
「なるほど」
フィーネは一歩も引かずに答えた。
「ご心配、ありがとうございます」
「心配ではなく助言ですわ」
「では、なおさら感謝を」
「それで、お考えは?」
「ございます」
「まあ」
ミレイユの笑みが、わずかに深くなる。
「ぜひ伺いたいですわ」
「簡単です」
フィーネは静かに言った。
「私の進路は、最初から変わっておりません」
「……」
「殿下の隣ですので」
ざわ、と周囲が揺れた。
俺も揺れた。
主に心臓が。
「まあ」
「有利不利や見映えで入れ替えるには、少々長く積み上げすぎました」
「それはまた、随分と」
「重いでしょうか」
「ご自覚はおありなのね」
「ございます」
言い切った。
この場で。
微笑み付きで。
「ですが」
フィーネは淡く続ける。
「私がこれまで受け取ってきたものを、都合で軽く扱う方が不実ですので」
「……」
「私は、そういう形で自分を安くするつもりはございません」
ミレイユが黙った。
きれいに言われたが、要するに「値踏みの都合では動きません」という宣言だ。
隣で俺が口を開く前に、フィーネがさらに畳みかける。
「ですので、ご安心ください」
「何をかしら」
「私がどなたかへ鞍替えする心配は不要です」
「……」
「殿下の人生へ、すでにかなり食い込んでおりますので」
待て。
「フィーネ」
「はい」
「最後の一言、必要だったか?」
「事実確認です」
「便利だなその言い回し!」
周囲に小さな笑いが漏れる。
だがミレイユは笑わなかった。
「なるほど。では、そういう意味での忠誠なのですね」
「忠誠」
「あるいは執着」
「否定はいたしません」
空気がまた揺れた。
お前ほんとに。
ほんとにその辺、隠す気ないな。
「ただ」
フィーネはほんの少しだけ首を傾げる。
「執着と申しましても、見苦しく取り乱すつもりはございません」
「そう」
「静かに、長く、深く参りますので」
「フィーネ」
「はい」
「お前、たまに宣戦布告みたいな言い方するよな」
「違います」
「何が」
「方針説明です」
怖い。
非常に怖い。
ミレイユは数秒こちらを見ていたが、やがて扇を開いた。
「……ええ、よく分かりましたわ」
「それは何よりです」
「本当に」
「はい」
「よく、分かりました」
そのまま彼女は去っていく。
取り巻きたちも続いた。
見送ってから、俺は深く息を吐く。
「お前な」
「はい」
「朝から重すぎる」
「本日は控えめですが」
「どこが!?」
「まだ宣言段階ですので」
「まだって何だ」
***
昼休み。
逃げるように図書塔の奥へ入った俺たちは、ようやく人目の少ない窓辺に辿り着いた。
ガレスが少し離れた位置に立ち、無言で周囲を払っている。
「……疲れた」
「お疲れさまです」
「お前は疲れてないのか」
「疲れております」
「見えん」
「見せませんので」
「便利だな」
「実用的です」
もう聞き飽きたはずなのに、こいつが言うと毎回少し笑ってしまうのが悔しい。
俺は窓枠にもたれて、フィーネを見る。
「さっきの、あれだが」
「はい」
「進路が最初から変わってないとか、俺の人生に食い込んでるとか」
「はい」
「……人前で言うか、普通」
「普通ではないかと」
「認めるな」
フィーネは手にしていた本を閉じた。
「ですが、今後は曖昧にする方が危険です」
「何が」
「私の立ち位置です」
「……」
「殿下の隣を目指していると、最初から分かっていた方が」
「うん」
「横から入り込もうとする方々も、計算がしやすいかと」
「怖いことを静かに言うな」
「現実的な話です」
それから、ほんの少しだけ目を伏せる。
「それに」
「それに?」
「私は、もう隠す段階を過ぎたと思っております」
「……」
胸の奥が、変なふうに跳ねた。
「隠すって、何を」
「優先順位を、です」
「優先順位」
「はい」
フィーネは顔を上げる。
「家名を戻していただきました」
「父上がな」
「殿下が、隣に置く前提で戦ってくださった結果です」
「……」
「ですので、これから得るものは」
「うん」
「全部、殿下の隣へ届くために使います」
静かな声だった。
いつも通り、よく通るのに、熱を表へこぼしすぎない声。
なのに今日は、その静けさ自体が重い。
「名も」
「……」
「立場も」
「うん」
「学びも、評価も、人脈も」
「……」
「増えた分だけ、殿下の人生へ届く距離を詰めるために使います」
喉が少し乾いた。
「それはまた」
「重いでしょうか」
「聞くな。分かってて言ってるだろ」
「はい」
「素直だな……」
フィーネは一歩だけ、こちらに寄る。
「殿下」
「なんだ」
「私はもう、殿下からいただいたものを、殿下と無関係なところへ流すつもりはございません」
「……」
「増えた私の分は、全部そちらへ返します」
「返す、って」
「食い込ませる、と言い換えても」
「言い換えなくていい」
「本日はどちらがお好みでしょう」
「選択肢が嫌すぎる」
ガレスの肩が、遠くで小さく震えた。
笑ってるな、あいつ。
「具体的に何をするつもりだ」
「そうですね」
フィーネは考えるように指先を顎へ当てる。
「殿下の予定を、今まで以上に把握いたします」
「もうだいぶ把握されてるが」
「まだ甘いです」
「甘いのかよ」
「食事の傾向、睡眠の深さ、機嫌の揺れ方、癖、手が止まる書類の傾向、言い淀む話題」
「待て」
「誰と話した後に少し不機嫌になるか」
「待て待て」
「どなたの名前に反応が鈍るか」
「そこまで行くの!?」
「必要かと」
「何に!」
「殿下を取りこぼさないために」
「……」
あまりに真顔で言うから、言葉が止まった。
「私は」
フィーネは、いつになくゆっくり言った。
「殿下の人生で、私の知らない部分を減らしていきたいのです」
「……」
「全部は無理でも」
「うん」
「無関心なままの場所を、作りたくない」
重い。
重いのだが。
嫌じゃない。
むしろ、たぶんかなり嬉しい。
それが一番どうしようもない。
「お前」
「はい」
「それ、普通はちょっと引かれるやつだぞ」
「存じております」
「存じててやるな」
「止められませんので」
そこでフィーネは、ほんの少しだけ目を細めた。
「たぶん私は」
「……」
「殿下に関してだけは、少々、際限がないのです」
図書塔の静寂が、その一言だけをやけにはっきり残した。
「少々?」
「やや控えめに表現しました」
「控えめでそれか」
「はい」
「本音は」
「かなり」
「聞かなきゃよかった」
フィーネが小さく笑う。
だが、すぐにその笑みは消えた。
「殿下」
「なんだ」
「ひとつだけ、お願いがございます」
「珍しいな」
「珍しくもありません。いつも申し上げております」
「圧が強い形でな」
「今回はもう少し静かに」
そう言って、彼女は真っ直ぐ俺を見た。
「今後、殿下宛に来る縁談や打診や接触の類」
「……」
「私にも見せてくださいませ」
「は?」
「全部」
「全部!?」
「はい」
「なんで」
「把握したいからです」
「いや、それは分かるが」
「殿下の人生へ入り込もうとするものを、見落としたくないので」
「言い方」
「それと」
「まだあるのか」
「私がどれほど嫌か、きちんと自覚しておきたいので」
「……」
今度は、本当に言葉が出なかった。
フィーネは淡々としている。
だがその淡々さが、逆にごまかしのなさを強めていた。
「笑って処理はできます」
「うん」
「礼儀も保てます」
「そうだろうな」
「ですが、平気なふりをして、自分で自分を誤魔化すのは嫌です」
「……」
「嫌なものは嫌だと、把握した上で耐えます」
ずるい。
その言い方はずるい。
「だから」
「……」
「殿下の隣に入ろうとするものを、私にも見せてください」
静かだった。
静かなのに、ものすごく重い。
俺はしばらく黙ったあと、ようやく口を開く。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「自分で勝手に抱え込みすぎるな」
「難しいご命令です」
「命令だ」
「承知しました」
「あと」
「はい」
「嫌だと思ったら、ちゃんと言え」
「はい」
「平気な顔で処理して、あとから内側で煮詰めるな」
「……」
「分かったか」
「はい」
フィーネが、ほんの少しだけ息を呑む。
それから、珍しく目を伏せた。
「それは」
「なんだ」
「かなり、甘いです」
「悪いか」
「悪くはありません」
「なら文句言うな」
「ですが」
そこで彼女は、また困ったように微笑んだ。
「その甘さで許されると、私はたぶん、もっと欲張ります」
「……もう十分欲張りだろ」
「まだ足りません」
「即答するな」
「殿下に関しては」
「……」
「足りたことがございませんので」
駄目だ。
この女、本当に際限がない。
***
放課後。
寮へ戻る途中、ガレスが一通の封書を差し出してきた。
「殿下」
「なんだ」
「本宮経由です」
「嫌な響きだな」
受け取って封を見れば、公爵家の紋章。
しかも覚えがある。
以前から何度か、遠回しな打診を寄越してきた家だ。
「……開けなくても内容が分かる」
「開けますか」
「一応な」
中身を確認して、思わず顔をしかめた。
『春季夜会にて、ぜひご令嬢との歓談の機会を』
『将来的なご縁も視野に』
うわ。
面倒くさい。
非常に面倒くさい。
「燃やしたい」
「ご自由に」
隣から、妙に静かな声がした。
見るとフィーネが、手紙を見ていた。
顔色は変わらない。
目も静かだ。
だが静かすぎる。
「フィーネ」
「はい」
「さっき言ったばかりだろ。嫌なら嫌だと言え」
「嫌です」
「即答だな」
「かなり」
「……そうか」
彼女は一歩だけ近づく。
「ですが、必要性も理解しております」
「うん」
「殿下のお立場上、こうしたお話が来ることも」
「うん」
「私一人の感情で消えるものではないことも」
「そうだな」
「承知しております」
承知している。
しているのに。
「それでも」
フィーネは封書を見つめたまま言った。
「とても嫌です」
「……」
「殿下の未来へ、当然の顔で別の誰かが入り込む前提が」
「……」
「不快です」
重い。
だが今日はもう、その重さに驚くより先に、胸の奥が妙に熱くなる。
「殿下」
「なんだ」
「私、たぶん」
「……」
「こういうものが増えるたびに、笑って処理するのでしょう」
「うん」
「でも、そのたびに」
「……」
「ちゃんと嫌って、覚えていきます」
そこでフィーネは、ようやく俺を見た。
「忘れません」
「……」
「殿下の隣へ入りたがった名前も」
「うん」
「その時の私の気持ちも」
「……」
「全部、積もります」
ぞくりとした。
「それはまた」
「重いでしょうか」
「今さら聞くな」
「では、宣言に留めます」
「便利だな、その」
「本日は特に」
そう言って、フィーネは手紙から視線を外した。
だがその横顔は、いつもより少しだけ硬い。
俺は封書をたたみ、ひとつ息を吐く。
「返事は断りでいい」
「よろしいのですか」
「俺が決める」
「……はい」
「誰と話すかも、誰を近づけるかも」
「はい」
「そういうのは俺の権利だ」
「はい」
「だから」
そこで、少しだけ声が低くなったのが自分でも分かった。
「勝手に、当然みたいに決められるのは俺も嫌いだ」
「……」
「俺の隣は俺が選ぶ」
フィーネの目が、ゆっくり見開く。
「殿下」
「なんだ」
「今のお言葉」
「うん」
「かなり」
「言うな」
「嬉しいです」
「……そうか」
「はい」
彼女は胸元へ手を当てる。
まるで、今の一言をそのまましまい込むみたいに。
「それでは」
「なんだ」
「断りのお返事の文面、私が整えても?」
「お前、そこまでやるのか」
「礼儀は尽くした上で、余地を残さぬ形に」
「こわ」
「必要ですので」
「最近その言葉で全部通してるな」
「だいたい通ります」
***
夜。
寮の自室で書類を片づけていると、控えめなノックがした。
「入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのはフィーネだった。
もう就寝前だというのに、髪も服もきちんとしている。
だが表情だけが、少し違った。
「何かあったか」
「確認に参りました」
「何の」
「本日の件です」
昼の手紙のことだと、すぐ分かった。
「断りの文面なら、見たぞ」
「そちらではなく」
「じゃあ何だ」
「殿下ご自身のお考えを」
フィーネは扉の前ではなく、いつもより近い位置まで来て止まった。
「殿下は、本当に」
「……」
「こうした縁談や打診を、煩わしいとお思いで?」
「思ってる」
「私が嫌がるから、ではなく?」
「それもある」
「……」
正直に言うと、彼女の睫毛がわずかに震えた。
「でも、それだけじゃない」
「はい」
「俺は」
「……」
「勝手に人生の配置を決められるのが昔から嫌いだ」
「……」
「それが政略でも善意でも、面倒だと思う」
「はい」
「だから、お前が嫌がる前から嫌いだ」
沈黙。
短いのに、妙に濃い沈黙だった。
「ですが」
フィーネが、静かに問う。
「いつか必要になる可能性は」
「ゼロじゃない」
「……」
「立場上な」
言葉を選ぶ。
だが、選びながらも曖昧にはしたくなかった。
「でも」
「……」
「少なくとも、俺が自分で選ぶ前に」
「はい」
「他人に並べられた候補で納得する気はない」
フィーネの目が、また少しだけ揺れる。
「殿下」
「なんだ」
「そうお聞きすると」
「うん」
「安心と同時に」
「……」
「期待してしまいます」
心臓がうるさい。
「期待?」
「はい」
「何を」
「どこまで欲張ってよいのかを」
もう駄目だ。
こいつは本当に、夜だと余計に重くなる。
「欲張るなとは言わない」
「……」
「でも、自分で制御しろ」
「努力いたします」
「信用できない返事だな」
「本日は特に」
フィーネは一歩、また一歩と近づく。
気づけば、机を挟まない距離だった。
「殿下」
「なんだ」
「昼に申し上げた通り」
「うん」
「私は、殿下へ入り込もうとするものを覚えていきます」
「……」
「嫌だった気持ちも、全部、積もります」
「そうか」
「はい」
彼女は静かに息を吐いた。
「でも」
「……」
「本当は、それ以上に積もっているものがございます」
「何だ」
「殿下がくださったものです」
その声は、ひどく柔らかかった。
「拾ってくださったこと」
「……」
「客人と言ってくださったこと」
「うん」
「学院へ入れてくださったこと」
「……」
「名を軽く扱わなかったこと」
「……」
「今日も、嫌なら嫌だと言えと仰ってくださったこと」
ひとつずつ。
数えるように。
逃がさないように。
「私は、全部覚えております」
「……」
「忘れる気もございません」
「うん」
「だから、たぶん」
フィーネは、そこでほんの少しだけ笑った。
きれいなのに、妙に危うい笑みだった。
「愛情が重くなるのは、当然なのです」
「……」
明言した。
ついに明言しやがった。
「フィーネ」
「はい」
「今」
「はい」
「愛情って言ったか」
「申し上げました」
「……軽く言うな」
「軽くはございません」
知ってる。
知ってるから困る。
「私は」
フィーネは、目を逸らさなかった。
「殿下から受け取った分だけ、殿下を大事にしたくなります」
「……」
「受け取るたびに、他へ渡したくなくなります」
「……」
「知るたびに、知らないままの誰かに触れられたくなくなります」
喉が、からからになる。
「それでも、見苦しく奪うつもりはございません」
「うん」
「殿下がご自身で選ぶ方であれば、私はきっと最後まで礼を尽くします」
「……」
「ですが」
そこで、彼女はひどく静かに言った。
「選ばれる努力だけは、絶対にやめません」
「……」
「殿下の生活に」
「うん」
「殿下の判断に」
「……」
「殿下の感情に」
「……」
「私がいるのが当たり前になるまで、入ります」
ぞっとした。
そして同時に、どうしようもなく嬉しかった。
「怖いな」
「はい」
「自覚あるのか」
「かなり」
「聞かなきゃよかった」
「ですが」
「……」
「殿下は、嫌ではないのでしょう?」
その問いが、やけにまっすぐ胸へ入った。
誤魔化せない。
たぶん、もう無理だ。
「……嫌じゃない」
「はい」
「むしろ」
「……」
「かなり、効いてる」
「……っ」
フィーネが息を呑む。
そこで初めて、彼女の方が言葉を失った。
「だから」
「……」
「お前も、もう少し覚悟しろ」
「何を、でしょう」
「そうやって入ってくるなら」
「はい」
「俺だって、簡単には外へ出さん」
「――」
言ってしまった。
完全に。
だが、撤回する気は起きなかった。
「殿下」
「なんだ」
「それは」
「……」
「かなり、危険です」
「何が」
「私が、非常に都合よく解釈いたします」
「もうしてる顔だな」
「はい」
「早い」
「待てませんので」
フィーネは、胸の前でそっと手を組む。
押さえ込んでいるのに、押さえきれていない熱が見えた。
「では」
「なんだ」
「ひとつだけ、許可を」
「内容による」
「殿下を欲しがることを」
「……」
「もう少し、隠さずにいてもよろしいでしょうか」
静かだった。
けれど、その言葉は今日一番重かった。
欲しがる。
そう言ったのだ、この女は。
「お前」
「はい」
「それ、かなり大概だぞ」
「存じております」
「止めろとは言わんが」
「はい」
「加減はしろ」
「努力はいたします」
「また信用できない返事だな」
「殿下に関してだけは、難しいので」
俺は額を押さえた。
駄目だ。
完全に押されている。
だが、押されているのに不快じゃない。
むしろ、心地いいとすら思っている自分がいる。
「……好きにしろ」
「……っ」
「ただし」
「はい」
「人前では少し薄めろ」
「殿下の前では」
「今まで通り、いや今まで以上に駄目な予感しかしない」
「善処いたします」
「信用ならん」
するとフィーネは、今夜初めてはっきりと笑った。
「ありがとうございます、殿下」
「礼を言われる内容か?」
「はい」
そして彼女は、ひどく大事なものに触れるみたいな声で続ける。
「では、遠慮なく」
「何を」
「殿下の毎日に、もっと入ってまいります」
「宣言するな」
「今夜は許可をいただきましたので」
「便利だな、その理屈」
「実用的かと」
もう何度目か分からないその返しに、俺はとうとう笑ってしまった。
「……ほんと、重いな」
「はい」
「もっと重くなる気か」
「はい」
「即答か」
「止まりませんので」
言い切って。
フィーネは一礼する。
「おやすみなさいませ、殿下」
「ああ」
「よい夢を」
「それは無理そうだな」
「なぜでしょう」
「お前のせいで」
「光栄です」
そうして部屋を出ていく背中を見送りながら、俺は深く息を吐いた。
愛情が重くなるのは当然。
受け取った分だけ、大事にしたくなる。
他へ渡したくなくなる。
生活にも、判断にも、感情にも、
当たり前になるまで入ってくる。
ひどい告白だ。
静かで、理性的で、逃げ場がない。
けれど。
扉が閉まったあとも、胸の奥は妙に熱いままだった。
たぶん、問題はもうひとつある。
あいつの愛情が重くなっているのと同じ速度で。
――俺の方も、たぶん。
とっくに、軽くはなくなっている。