すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果   作:ヤンデレすこすこ侍

14 / 25
第十四話

 本宮での一件のあと、周囲は分かりやすく変わった。

 そのせいで、俺たちの生活も徐々に変わっていった。

 特にフィーネの生活は。

 

 露骨に媚びてくる者。

 逆に距離を取る者。

 腫れ物に触るような目でフィーネを見る者。

 面白がって噂を膨らませる者。

 

 要するに明確に忙しくなったのだ。

 やることが山のように積もっていく。

 

 それ自体は問題ではない。

 覚悟していたことだ。

 

 問題は違うところにあった。

 

 一番の問題は、当の本人がそれをまるで苦にしていない――ように見えることだった。

 

「殿下。本日の授業後、礼法教師との追加面談を半刻」

「多い」

「剣術の基礎確認を四半刻」

「多い」

「夜は本宮側近一覧の整理と、学院内の勢力図の更新」

「怖い」

「睡眠は三刻確保しております」

「その確保の仕方が怖いんだよ」

 

 俺が食堂の卓に突っ伏すと、フィーネはいつもの静かな顔で予定表を差し出してきた。

 

 学院へ通い始めてからも、こいつの勢いは一切落ちていない。

 むしろ加速している。

 名を得たことで遠慮が減り、手に入れた立場を足場に、さらに高く跳ぶ気でいるのだろう。

 

 それ自体はいい。

 問題は――

 

「お前、昨日いつ寝た」

「一刻半頃です」

「今なんと?」

「一刻半頃」

「起床は?」

「三刻前です」

「寝てないじゃないか」

「一刻半は寝ています」

「それは寝たうちに入らん」

 

 フィーネはわずかに首を傾げた。

 

「ですが、作業は終わりました」

「終わればいいってもんじゃない」

「効率は悪くありません」

「身体への効率が最悪だ」

 

 俺が言うと、フィーネは少しだけ目を伏せた。

 だが、すぐにいつもの顔へ戻る。

 

「ご心配なく。問題ありません」

「その台詞、信用できない」

「なぜ」

「お前がそれを言う時、大体問題があるからだ」

 

 フィーネが沈黙した。

 図星だな、これ。

 

 だが、俺だって最近は人のことを言えない。

 本宮からの呼び出しは増え、学院では妙に視線が多い。

 兄上たちは面白がっているし、姉上は姉上で何か企んでる気配がする。

 要するに面倒が一気に増えた。

 

 増えたのだが――それを、こいつに言うのも妙に癪である。

 心配されるのは別に嫌じゃない。

 嫌じゃないが、なんとなく、だ。

 

「殿下」

 

 フィーネが、ふと俺の顔を覗き込んだ。

 

「何だ」

「そのまま三十秒、動きませんでした」

「人を死にかけみたいに言うな」

「疲れておられますね」

「……そうか?」

「ええ」

 

 静かな声だった。

 いつもの重さとは少し違う。

 観察の結果を述べるような、淡々とした声音。

 

「目の下が少し濃いです」

「よく見てるな」

「見るに決まっております」

「重い」

「承知しております」

 

 はいはい、いつものやつだ。

 俺はため息をついた。

 

「……お互い様だな」

「はい?」

「お前も寝不足。俺も寝不足。なのに二人して平気な顔してる」

「私は平気です」

「俺も平気だ」

「嘘ですね」

「お前もだろ」

 

 ぴたり、と会話が止まった。

 

 先に目を逸らしたのは、珍しくフィーネの方だった。

 

「……授業に遅れます」

「一限、サボるぞ」

「はい?」

「サボる」

「殿下」

「命令だ」

「先ほど、対等に平気な顔をしているのはよくないという話をされたばかりですが」

「ぐっ」

 

 痛いところを突くなこいつ。

 

「じゃあ提案だ」

「何でしょう」

「一限は休む。お前も俺も」

「却下で」

「即答するな」

「授業は重要です」

「お前の睡眠も重要だ」

「殿下の休息も」

「だから両方だと言ってるだろうが」

 

 少し強めに言ったら、フィーネが黙った。

 その沈黙が、妙に引っかかった。

 

 怒った、というのとも違う。

 言葉を選んでいる顔だ。

 

「……フィーネ?」

「殿下は」

 

 彼女は予定表を見たまま、静かに言った。

 

「私が休むのがお嫌ですか」

「は?」

「私が遅れるのが」

「何言ってる」

「殿下の隣へ行く速度が落ちるのが」

 

 ああ、そっちか。

 そういう解釈をするのか。

 

 胸の奥に、少しだけ鈍い苛立ちが湧いた。

 こいつに向けた怒りじゃない。

 たぶん、こいつにそんなふうに思わせてしまった状況への苛立ちだ。

 

「嫌なわけあるか」

「ですが」

「俺は、お前が倒れる方が嫌だ」

 

 言ってから、ロビーが妙に静かなことに気づいた。

 近くの席にいた貴族子弟たちが、そっと目を逸らしている。

 やべえ、ちょっと聞かれたか。

 

 だが、フィーネはそんなことを気にする様子もなく、ただ俺を見ていた。

 

「……本気で仰っていますか」

「本気だ」

「それは」

 

 彼女がわずかに息を止める。

 

「かなり、困ります」

「なんでだ」

「嬉しいので」

「困る要素どこだよ」

「嬉しいと、予定が乱れます」

 

 何だそれ。

 意味が分からない。

 だが、少しだけ頬が熱くなったので、それ以上追及しないことにした。

 

「とにかく」

 

 俺は立ち上がる。

 

「来い」

「どこへ」

「静かなところだ」

「授業は」

「サボる」

「殿下」

「お前、今日だけで何回俺の名を咎める気だ」

「必要回数だけ」

 

 それでもフィーネはついてきた。

 半歩後ろではなく、半歩横。

 その位置が、妙に自然になってきたのが少しだけ可笑しい。

 

 

   ***

 

 

 連れてきたのは、学院の北塔裏にある小さな温室だった。

 

 花や薬草を育てるための場所らしいが、朝のこの時間はほとんど人がいない。

 ガラス越しの光は柔らかく、外より少し暖かい。

 静かで、匂いも穏やかで、余計な視線がない。

 

「ここなら誰も来ない」

「サボり場所に詳しいのですね」

「皇族には必要な知識だ」

「最低ですね」

「今さらだろ」

 

 温室の奥にある木椅子へ腰を下ろす。

 フィーネは少し迷ってから、その向かいに座った。

 

 しばらく沈黙が落ちた。

 だが嫌な沈黙ではない。

 こういうふうに黙っていても、前より息苦しくない。

 それ自体が、少し不思議だった。

 

「……で」

 

 先に口を開いたのは俺だった。

 

「聞くぞ」

「何をでしょう」

「何をでしょうじゃない。お前、無茶しすぎだ」

「必要ですので」

「必要なら倒れていいのか」

「倒れません」

「その言い方が信用ならん」

 

 フィーネは少しだけ視線を落とした。

 

「殿下の隣に立つと、決めました」

「知ってる」

「決めた以上、速く進みたいのです」

「それも知ってる」

「でしたら」

「だからって、自分を削るな」

 

 言葉が少しきつくなった。

 フィーネの肩が、ほんのわずかに揺れる。

 

「……削ってなど」

「削ってる」

「私は」

「削ってる」

 

 遮ると、彼女は黙った。

 俺は自分の膝に肘をつき、深く息を吐く。

 

「お前な。勘違いしてる」

 

 フィーネが顔を上げる。

 

「俺は、お前が有能だから傍に置いてるわけじゃない」

「ですが、私はまだ」

「有能だよ。十分すぎるくらいにな」

「……」

「でも、そういうことじゃない」

 

 うまく言葉がまとまらない。

 こういうのは苦手だ。

 剣で切るみたいに、すぱっと言える話じゃない。

 

 それでも、言わなきゃ駄目だと思った。

 

「お前が倒れたら嫌なんだよ」

「……」

「寝不足でふらついてるのも嫌だし、無理して平気な顔してるのも嫌だ」

「殿下」

「成果が出るとか出ないとかじゃない」

「……」

「お前自身が、大事だ」

 

 言ってしまった。

 ああもう、言ってしまった。

 

 穴があったら入りたい。

 だがフィーネは、茶化しもしなかった。

 ただ、ひどく静かな顔で俺を見ていた。

 

「……それは」

 

 彼女が、やっとのように声を出す。

 

「かなり、危険です」

「何が」

「私にとって」

「なんでだ」

「嬉しすぎるので」

 

 その返答に、今度こそ言葉を失った。

 

 ずるい。

 そんな顔でそんなことを言われたら、こっちの調子が狂う。

 

「……お前な」

「はい」

「最近、そういうの分かってて投げてくるだろ」

「学習しましたので」

「やっぱりな」

 

 だが、すぐに笑う気にはなれなかった。

 フィーネの目が、ほんの少しだけ揺れていたからだ。

 

 いつもの凪いだ灰銀じゃない。

 もう少し柔らかくて、もう少し脆い色。

 

「殿下」

 

 彼女は両手を膝の上で組み、少しだけ息を整えてから言った。

 

「私は、怖いのです」

「……何が」

「止まることが」

 

 意外だった。

 いや、意外ではないのかもしれない。

 ただ、今の今まで、それを本人の口から聞いたことがなかった。

 

「止まれば、置いていかれる気がします」

「誰に」

「全部に、です」

 

 フィーネの声は静かだった。

 静かなのに、一言一言が妙に深く落ちる。

 

「せっかく手に入れた名も」

「……」

「立場も」

「……」

「殿下の隣という場所も」

「……」

「少しでも緩めたら、ふっと消える気がして」

 

 俺は何も言えなかった。

 そんなふうに思っていたのか。

 

 父上が名を返し、立場を認めた。

 だから少しは安心したのだと思っていた。

 実際は逆だったのかもしれない。

 手に入ったからこそ、失う怖さが増したのだ。

 

「馬鹿だな、お前」

「ええ。自覚はございます」

「そこは否定しろ」

「難しいですね」

 

 少しだけ笑ってから、彼女は続けた。

 

「私は、殿下に与えていただいてばかりでしたから」

「今さらだな」

「ですので、返せなくなるのが怖いのです」

「返すとか返さないとか、まだ言ってるのか」

「私にとっては重要です」

「重い」

「承知しております」

 

 いつものやり取りなのに、今日は妙に胸へ刺さった。

 

 俺は椅子の背にもたれ、天井のガラス越しに薄い空を見た。

 

「……じゃあ今度は俺が聞く」

「はい」

「お前、俺が何も考えずに、お前を隣へ置いてると思うか?」

「思いません」

「なら、少しは信じろ」

「殿下を?」

「ああ」

「……」

「お前が少し休んだくらいで、なくなるような場所なら、最初からそんなもの守る価値ないだろ」

 

 フィーネが目を見開いた。

 たぶん、思っていたより強い言い方になった。

 

「俺は、お前をそんな危うい場所へ立たせるつもりはない」

「殿下」

「お前が進むのを止めるつもりもない」

「……はい」

「でも、無茶して壊れるくらいなら、俺が引きずってでも休ませる」

「横暴ですね」

「皇族だからな」

「その返し、便利ですね」

「今覚えた」

 

 そこでようやく、フィーネが少しだけ笑った。

 ほんの少しだ。

 だが、その笑みを見て、張っていたものが少しほどけた気がした。

 

「……分かりました」

「本当か?」

「半分ほど」

「少ない」

「残り半分は、時間をください」

「そこは素直だな」

「苦手分野ですので」

 

 そして彼女は、一度だけ深く息を吸って、今度は俺をまっすぐ見た。

 

「ですが、殿下」

「何だ」

「同じことを、私からも申し上げます」

「……何?」

「殿下も、無茶をなさらないでください」

 

 あ。

 来ると思った。

 

「俺は平気だ」

「嘘ですね」

「お前な」

「昨夜、本宮から戻られたあと、書類を一刻以上」

「見てたのか」

「当然です」

「怖い」

「それに、今朝は一限をサボる提案をされる程度には疲れておられた」

「観察が細かい」

「殿下に関しては、常に」

 

 重い。

 本当に重い。

 だが、嫌ではない。

 

「殿下は、私に、嫌なら嫌だと言えと仰いました」

「……言ったな」

「でしたら、私も申し上げます」

「何を」

「殿下が平気な顔で抱え込まれるのは、嫌です」

 

 静かな声だった。

 でも、その静かさの奥にあるものは、昨日までよりずっと分かりやすい。

 

 心配だ。

 不安だ。

 放っておけない。

 

 たぶん、そういう類のものだ。

 

「お前」

「はい」

「そういうの、心臓に悪い」

「承知しております」

「絶対分かっててやってるだろ」

「学習しましたので」

「便利だな、その返し」

「本日二度目です」

 

 参った。

 完全に参った。

 

 俺は顔を覆い、それから諦めて笑った。

 

「……分かったよ」

「はい」

「俺も無茶しないようにする」

「ように、ではなく」

「断言は無理だ」

「では減点です」

「厳しいな」

「殿下が先でした」

 

 それはまあ、そうなのだが。

 

 しばらくして、フィーネがぽつりと呟いた。

 

「互いに、ですね」

「何が」

「無茶をしそうになったら、止めるのは」

「……ああ」

 

 それは妙に、しっくり来た。

 主と従ではなく。

 施す側と返す側でもなく。

 少なくとも今この瞬間は、もっと単純な形だった。

 

 心配だから止める。

 大事だから無理をさせたくない。

 それだけだ。

 

「それでいい」

 

 俺が言うと、フィーネは小さく頷いた。

 

「はい」

「あと」

「何でしょう」

「お前、ちゃんと寝ろ」

「殿下も」

「分かった」

「食事も抜かないでください」

「お前もな」

「はい」

「あと、嫌なことは言え」

「殿下も」

「……分かったよ」

 

 言質を取られた気がする。

 だが、不思議と悪い気分じゃなかった。

 

 フィーネは少しだけ迷ってから、静かに言った。

 

「殿下」

「何だ」

「私、先ほど申し上げたことは、本当です」

「どれだ」

「止まるのが怖い、というのも」

「うん」

「殿下が無茶をされるのが嫌だ、というのも」

「……」

「どちらも、本当です」

 

 分かってる。

 分かってるのだが、こうして改めて言われると、妙に胸の奥へ来る。

 

「俺も本当だよ」

「……何がでしょう」

「お前が倒れるのが嫌だって話」

「……」

「お前自身が大事だって話も」

 

 今度こそ、フィーネは完全に黙った。

 灰銀の瞳が見開かれ、そのままふっと揺れる。

 

 やがて、彼女は本当に小さな声で言った。

 

「それは、ずるいです」

「なんでだ」

「嬉しすぎて、しばらく動けません」

「じゃあ休めてちょうどいいだろ」

「……はい」

 

 その返事が、少しだけ震えていた。

 

 俺は立ち上がり、温室の棚から勝手に置いてあった薬草茶のポットを取った。

 たぶん先生用か何かだろうが、あとで金でも置いておけば問題あるまい。

 

「飲むか」

「いただきます」

「苦いぞ」

「殿下が淹れてくださるなら」

「そういうのはやめろ」

「本心です」

「やめろって」

 

 それでもフィーネは、少しだけ笑っていた。

 さっきまでの硬さが、ほんの少しだけ取れている。

 

 湯気の立つ茶を二つのカップに注ぐ。

 向かい合って座り、しばらく無言で飲んだ。

 

 沈黙は穏やかだった。

 無理に言葉を探さなくてもいい。

 ただそこにいても、変に飢えたりはしない。

 

 ああ。

 これかもしれない、と少し思った。

 

 欲しかったのは、たぶんこういう時間だ。

 正面から本音をぶつけられて、

 こちらも返して、

 そのあと同じ場所で黙っていられること。

 

「殿下」

「ん?」

「本日の予定、組み直します」

「ようやくか」

「一限は休みます」

「よし」

「ですが二限からは出ます」

「早い」

「半分は譲りました」

「本当に半分だな」

「その代わり、今夜は殿下も早く寝てください」

「うわ、条件付きか」

「当然です」

「対等だから?」

「ええ。大切ですので」

 

 また、そういうことを平然と言う。

 だが今度は、そこまで心臓に悪くなかった。

 

「……俺もだよ」

「はい?」

「お前のこと、大切だって言ってる」

「……」

 

 フィーネが、今度こそ完全に固まった。

 数秒後、ものすごく静かな声が落ちる。

 

「殿下」

「何だ」

「本日は、もう勉強が手につかないかもしれません」

「自業自得だろ」

「ええ」

「俺も少し同じだ」

「……では」

「何だ」

「おあいこ、ということで」

「そうだな」

 

 そうして、俺たちは少しだけ笑った。

 

 温室のガラス越しに、朝の光が差している。

 外では授業開始の鐘が鳴っていたが、今だけはどうでもよかった。

 

 たぶん、今日確認できたのだと思う。

 

 こいつは本気で俺を気にしていて、

 俺も本気でこいつを気にしている。

 

 重い。

 相変わらず重い。

 でも――悪くない。

 

 むしろ、かなりいい。

 

 さて、問題はここからだ。

 今日このやり取りを経てなお、こいつが予定表を軽くするとはとても思えない。

 思えないのだが。

 

「フィーネ」

「はい」

「今夜の予定表、睡眠時間を増やせ」

「殿下の分もですか」

「当然だ」

「……承知しました」

 

 そう言って微笑んだ彼女の顔は、

 少しだけ安心したように見えた。

 

 それを見て、俺も少しだけ安心する。

 

 ああ、たぶん。

 こういうふうに、何度でも確認していくのだろう。

 

 お前は一人じゃないと。

 お前もそうだろうと。

 

 面倒で、重くて、手がかかる。

 だがそれでも、もう手放す気にはなれなかった。




第一部・完
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。