すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果 作:ヤンデレすこすこ侍
翌朝、学院に入った瞬間から、視線が多かった。
昨日までと同じ校舎。
同じ石畳。
同じように朝の鐘は鳴っている。
なのに空気だけが違う。
『あれが……』
『昨日、本宮に呼ばれたって』
『遠征の件、やっぱりただ事じゃ――』
うるさい。
聞こえてる。
俺は朝の回廊を歩きながら、露骨に顔をしかめた。
「殿下」
「分かってる。顔に出すな、だろ」
「いえ」
「違うのか」
「もう少しだけ、隠す努力をされた方がよろしいかと」
「同じ意味だろ」
隣のフィーネは、いつもの静かな顔で歩いている。
昨日、本宮であれだけ言われたあとだというのに、妙に平常運転だった。
だが、平気なわけではない。
最近は分かる。
肩の力の入り方と、視線の置き方で。
「お前」
「はい」
「見られてるな」
「ええ」
「平気か」
「問題ありません」
「信用できないな」
「今回は本当に」
「その台詞が一番怪しい」
フィーネがほんの少しだけ目を伏せた。
だが、すぐに前を向く。
「……少しだけ、息苦しくはあります」
「そうか」
「ですが、避ける理由にはなりません」
「立派だな」
「殿下が隣にいてくださるので」
「朝一番にそれを入れるな」
「事実ですが」
「便利だな、その言葉」
「最近は特に」
重い。
だが、まあ。
こういう時に平気な顔で嘘をつかれるよりは、ずっといい。
今日の目的地は学院中央棟ではなく、北棟の一角にある記録庫だった。
本宮の記録官と、学院側の記録を突き合わせる。
兄上が昨夜言っていた件である。
俺は正直、朝から紙の山を見る気分ではなかった。
だが、フィーネを一人で行かせるのも違う。
「殿下」
「なんだ」
「本当にご同行なさるのですか」
「何だその確認」
「記録の照合は地味です」
「お前、俺をなんだと思ってる」
「派手なものを好まれる方かと」
「否定しづらいな……」
フィーネは少しだけ笑った。
「ですので、退屈されるかと」
「退屈ならお前を眺めてる」
「それはそれで困ります」
「なんでだ」
「集中が削がれます」
「そんなにか?」
「かなり」
「嬉しいような困るようなことを言うな」
そんなことを言っているうちに、記録庫前へ着いた。
入口には本宮の紋章入りの封蝋。
守衛が二名。
そして、俺たちより先に来ている人影が二つ。
「やはりいらっしゃいましたか、殿下」
セレナだった。
その隣には、いつも通り感じの良い顔をしたルシアンがいる。
「お前らもか」
「学院側の記録に関わる以上、同席は当然でしょう」
「当然ですか」
「当然です」
セレナはきっぱり言った。
「学生会長として、学院の管理体制に問題がある可能性を無視はできません」
「僕も同意見です」
ルシアンが穏やかに頷く。
「公爵家側にも、すでに幾つか照会が来ています。遅かれ早かれ、学院外の目も入るでしょう」
「面倒だな」
「ええ、大変に」
「その同意、相変わらず嬉しくない」
すると、セレナの視線がフィーネへ移った。
「お顔色はよろしいですね」
「睡眠を確保しましたので」
「何刻ほど?」
「三刻です」
その言葉、信用ならんな。
俺は問いただす。
「本当か?」
「殿下」
「なんだ」
「なぜ真っ先に疑われるのです」
「前科があるからだ」
ルシアンが吹き出しかけて、上品に誤魔化した。
セレナもわずかに口元を緩める。
くそ。
最近こいつらまで、妙に空気を読んでくる。
「では」
セレナが扉へ向き直る。
「入りましょう。見られるのは外だけで十分です」
その一言は、妙に的確だった。
***
記録庫の中は、紙と革と乾いたインクの匂いがした。
高い棚。
番号付きの箱。
鍵付きの書架。
窓は狭く、光は少ない。
中央の長机には、すでに書類がいくつも積まれている。
その向こうに立っていたのは、痩せた中年男だった。
学院の記録官ではなく、本宮側の人間らしい。黒の外套に銀縁眼鏡。愛想は薄い。
「お待ちしておりました。私は本宮記録官補佐、ハインベルクと申します」
「硬いな」
「仕事ですので」
「だろうな」
兄上に近い人間だ。
よく分かる。
空気が全体的に無駄なく固い。
ハインベルクは一礼し、それから机上の書類を示した。
「本件で照合対象となるのは三系統です。学院遠征計画書、現地砦への事前通達、そして本宮側へ提出された遠征参加報告」
「要するに」
「どこで、何が、どこまで漏れたかを見る、ということです」
「分かりやすいな」
「殿下にも伝わるよう整えました」
「地味に失礼だな?」
だが、フィーネはすでに机へ歩み寄っていた。
視線が速い。
紙の束を前にした時だけ、こいつは妙に静かな熱を帯びる。
「閲覧順は」
「左から時系列です」
「写しの作成者名は」
「裏面に」
「封緘の開封履歴は?」
「こちらの台帳へ」
質問が速い。
返答も速い。
俺がまだ椅子へ座るかどうか考えている間に、もう始まっていた。
「殿下」
「はい」
「ぼんやりしている間に椅子へ」
「なんで分かる」
「一分ほど止まっておられました」
「管理が細かい」
言われるまま腰を下ろす。
セレナとルシアンも机を挟んで向かいに立った。
フィーネが最初に見たのは、学院側の遠征計画書だった。
綺麗な筆跡。
提出印。
参加予定者一覧。
行程表。
宿泊と補給の概算。
「……殿下」
「なんだ」
「まず一点」
「早いな」
「学院側計画書では、参加者最終確定は出発前日夕刻になっています」
「そうだろうな」
「ですが、補給数の確定印は二日前です」
「……あ?」
俺は身を起こした。
「二日前?」
「はい」
フィーネは書類をずらし、補給票と見比べる。
「食糧、寝具、水袋、治療薬。いずれも人数ぴったりで算出されています。予備ではありません」
「つまり」
ルシアンが静かに口を開いた。
「参加人数は、前日夕刻より前に、ほぼ固まっていた」
「ええ」
フィーネが頷く。
「少なくとも、物資を動かした側は把握しています」
「学院内部の話だな」
「はい」
セレナが眉を寄せた。
「物資調達は学院事務と倉庫係を通ります。学生会側では最終人数までは持ちません」
「お前でもか」
「全部を握るほど、私は暇ではありません」
「そういう台詞をお前が言うと怖いな」
だが、たしかにそうだ。
学生会長といえど、倉庫の伝票全部を追っているわけじゃない。
フィーネは次の束へ手を伸ばした。
「次に、現地砦への通達です」
蝋封の記録。
送付日時。
受領印。
「こちらは予定通り。ですが、経路変更の追記があります」
「経路変更?」
「はい。旧街道北側の崩落を避けるため、二日目朝に西寄りの林縁路へ迂回」
「……ああ」
思い出した。
出発直前、教師がそんなことを言っていた。
現地の小崩れで、当初の巡回経路を少し変えたのだ。
「問題は」
フィーネが紙を指先で押さえる。
「この追記が、誰に共有されたかです」
「砦には送られてる」
「はい。ですが」
彼女は本宮側報告書を開いた。
「本宮側の事前写しには、この変更がありません」
「つまり?」
「本宮へ出た情報より、現地と学院側で動いた情報の方が新しい」
ハインベルクが小さく頷いた。
「本宮でも同じ見立てです。襲撃側が迂回後の位置を踏まえていたなら、漏洩は出発直前、学院側に近い」
「学院か、現地か、ってことか」
「はい」
俺は腕を組んだ。
面倒だ。
しかも嫌な方向に。
「殿下」
フィーネが呼ぶ。
「なんだ」
「まだあります」
「もう?」
「はい」
彼女は補給票の下から一枚、薄い紙を抜いた。
「この紙だけ、綴じ順が逆です」
「逆?」
「本来、物資計算の後ろに入るべき宿営配置表が、前に差し込まれています」
「それが何だ」
俺が問いただすも、セレナが先に反応した。
「差し替えた、ということ?」
「可能性はあります」
「理由は」
「見られたくない順番を隠すためかと」
フィーネは淡々と言う。
「雑な隠蔽ですが、急いだなら説明はつきます」
「……」
空気が少し変わった。
記録庫の静けさが、さっきまでと別の意味を持ち始める。
ただの確認じゃない。
誰かが、すでに記録へ触った可能性がある。
「ハインベルク」
「はい」
「この部屋、今朝まで封鎖じゃなかったのか」
「昨夜までは学院側管理です」
「おい」
「ですので、今朝からこちらで押さえました」
「遅い」
「承知しております」
言い返さない辺り、本当に分かってるらしい。
フィーネは机に置かれた台帳へ視線を落とした。
「閲覧記録を」
「こちらに」
差し出された台帳を開く。
フィーネの指が、一行ずつ静かに追っていく。
昨日。
今朝。
その前日。
「……殿下」
「またか」
「今度はかなり嫌です」
「嫌の質を分けるな」
だが、彼女の目はもう笑っていなかった。
「昨夜、閲覧申請が一件あります」
「誰だ」
「学院事務補佐名義」
「補佐?」
「ですが、目的欄が空欄です」
「そんなの通るのか」
「通してはいけません」
答えたのはセレナだった。
声が少し低い。
「少なくとも学院の正式手続き上は」
「じゃあ違反か」
「ええ。かなり」
ルシアンが台帳を覗き込み、わずかに目を細めた。
「筆跡が、申請欄と許可欄で違いますね」
「……よく見えるな」
「家業柄、書類は多少」
「感じの良い顔で怖いこと言うな」
フィーネは無言で台帳を机へ戻した。
今度は綴じ糸の端を見ている。
「切られています」
「何が」
「台帳の最後の糸が新しい。今朝、閉じ直されています」
「は?」
俺は椅子から立ち上がった。
「おいおい。つまりどういうことだ」
「ページが抜かれたか、差し替えられたか」
「どっちだ」
「現時点では断定できません」
「でも嫌なんだな」
「非常に」
その時だった。
記録庫の奥で、かすかに音がした。
紙の擦れる音。
誰かが息を呑んだような、短い気配。
全員の視線が一斉にそちらへ向く。
「誰だ」
俺が低く言うと、棚の陰から若い事務官が一人、青い顔で出てきた。
二十歳そこそこ。
学院職員章をつけている。
手には書類箱。
「し、失礼いたしました……! 整理を……」
「今?」
セレナの声が冷える。
「封鎖中の記録庫で?」
「そ、それは、その……」
事務官の額に汗が浮く。
分かりやすい。
分かりやすすぎる。
だが、ここで脅しても本命じゃない気がした。
末端だ。
こういう顔はだいたいそうだ。
「名前」
フィーネが先に聞いた。
「え……」
「名前を」
「ヨ、ヨナスと申します」
「ヨナス」
フィーネは静かなまま問う。
「昨夜、この記録へ触れましたか」
「い、いいえ! 私はただ、補佐として」
「誰の補佐です」
詰め方が静かで怖い。
ヨナスの喉が鳴った。
視線が泳ぐ。
俺、セレナ、ルシアン、ハインベルク。
逃げ場がない。
「……ク、クラウス様に」
「……は?」
思わず声が漏れた。
セレナの眉がぴくりと動く。
ルシアンだけが、やけに静かだった。
「クラウス?」
俺が確認する。
「クラウス・エーベルハルトか?」
「は、はい……」
やっぱりお前かよ。
いや、まだ確定じゃない。
だが、嫌な名前が出る速度としては満点だ。
「何を命じられた」
ハインベルクが低く問う。
さっきまでの事務的な硬さとは違う、詰問の声だった。
ヨナスは肩を震わせる。
「え、閲覧申請の代筆を……」
「理由は」
「遠征参加者の確認だと……」
「誰のために」
「そ、それは……」
言い淀んだ、その時。
フィーネがふっと箱の中を見た。
「殿下」
「なんだ」
「これ」
「ん?」
彼女が箱から一枚の紙片を取り出す。
半分ほど破れた、台帳の端。
許可欄だけが残っている。
「閲覧許可印の片割れです」
「片割れ?」
「台帳から切られた頁の一部かと」
紙片には、うっすらと赤い蝋の跡。
そして、雑だが見覚えのある紋が押されていた。
伯爵家の私印。
エーベルハルトの。
記録庫が、しん、と静まる。
「……面倒だな」
俺が呟くと、セレナが珍しく即答しなかった。
代わりに、ルシアンが小さく息を吐く。
「ええ」
その声音から、感じの良さが少しだけ消えていた。
「思っていたより、近いところにいましたね」
フィーネは破れた紙片をじっと見ていた。
その灰銀の目が、いつもより冷たい。
「殿下」
「何だ」
「まだ決めつけるのは早いです」
「珍しいな。お前が先に抑えるの」
「必要ですので」
「だろうな」
「ですが」
彼女は静かに紙片を机へ置いた。
「これで少なくとも、誰かが今朝になって記録を削ろうとしたことは確定です」
「……」
「つまり」
「つまり?」
フィーネはまっすぐ前を見たまま言った。
「相手は、こちらが気づく前提で動き始めています」
ぞくり、とした。
嫌な意味で、空気が繋がったのだ。
遠征先の誘引痕。
学院側の不自然な補給票。
出発直前の経路変更。
そして、帰還した翌朝に記録の差し替え。
偶然で済む段階は、もうとっくに過ぎている。
「殿下」
セレナがこちらを向く。
表情はいつものまま整っているが、目は冷えていた。
「クラウス様への確認が必要です」
「だろうな」
「ただし、正面から問いただせば消されます」
「それもだろうな」
「ですので」
ルシアンが続ける。
「一度、泳がせるべきかと」
俺は机上の紙片を見る。
隣でフィーネが静かに立っている。
遠征前より近くなったその距離が、今は妙に頼もしかった。
「……よし」
俺は息を吐いた。
「面倒は嫌いだが」
「はい」
「ここまで来たら、掘るしかない」
「承知しました」
「ただし」
俺はフィーネを見る。
「お前、また睡眠を削るなよ」
「善処します」
「信用できない」
「では、殿下が見張っていてください」
「急に重くするな」
「効率的かと」
「その効率、たまに心臓へ悪いんだよ」
フィーネはほんの少しだけ口元を和らげた。
だが、その目はまだ冷えたままだった。
たぶん、こいつはもう止まらない。
俺が拾って。
俺が隣に立たせて。
俺が退屈しのぎ半分で望んだ相手は。
気づけばこうして、俺と一緒に、学院の記録庫で誰かの痕跡を追っている。
そして、その追跡の先にはきっと、
クラウス一人で済まない何かがある。
「殿下」
「ん?」
「次は、彼の動線を洗います」
「早いな」
「相手が早いので」
「……そうだな」
記録庫の狭い窓の向こうで、朝の光が少しだけ傾いていた。