すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果   作:ヤンデレすこすこ侍

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第十八話

 記録庫を出た瞬間、昼の鐘が鳴った。

 

 重い音が学院の石壁を伝い、回廊に散っていく。

 昼休みだ。

 つまり、人が最も動く時間でもある。

 

「殿下」

 

 隣を歩くフィーネが、いつもの静かな声で言った。

 

「今です」

「何が」

「動線を洗うのに、一番都合の良い時間が」

「説明が足りない」

「人が多いほど、紛れる者も、紛れたい者も増えます」

「なるほど」

 

 たしかに。

 授業間の移動より、昼の方が余計な動きは隠しやすい。

 

 俺は横目でセレナを見る。

 

「お前は?」

「私は学院側の通行記録と事務室の出入台帳を押さえます」

「早いな」

「相手が早いので」

 

 最近この台詞、あちこちで聞くな。

 

 ルシアンが穏やかに続けた。

 

「僕は表の顔を使います」

「嫌な言い方だな」

「感じの良い顔、と言い換えても?」

「余計に嫌だ」

 

 ルシアンは肩をすくめる。

 

「クラウスは、殿下や編入生殿に見られていると分かれば警戒します。けれど、僕が偶然を装って近づく分にはまだ動けるでしょう」

「お前、ほんと便利だな」

「ありがとうございます」

「褒めてない」

 

 フィーネがすっと俺の袖を引いた。

 

「殿下」

「なんだ」

「殿下には、殿下にしかできない役があります」

「嫌な予感しかしない」

「餌です」

「ひどくない?」

 

 フィーネは真顔だった。

 

「最も効果的かと」

「否定できないのが腹立つな……」

 

 セレナがそこで、珍しく少しだけ口元を上げた。

 

「適任ですね」

「お前まで乗るな」

「事実ですので」

「便利だな、その言葉」

 

 だが、フィーネの考えは分かった。

 正面から追えば消える。

 なら、向こうから動かすしかない。

 

「で、俺は何を餌にすればいい」

「半分だけ安心させてください」

「半分?」

「はい。本宮側の調査が、学院内部までは深く入らないように見せます」

「嘘を流すのか」

「誤解しやすい真実を、都合よく置くだけです」

 

 静かな声だった。

 だが、その言い方はだいぶ怖かった。

 

「具体的には?」

「殿下が、適当に面倒くさそうに」

「それは得意だな」

「でしょうね」

「即答するな」

 

 フィーネは少しだけ目を細めた。

 

「兄殿下が現地砦側の確認を優先し、学院側は後回しになりそうだ、という程度で十分です」

「それをクラウスに聞かせる」

「はい。そうすれば、安心するか、急ぐか、どちらかに振れます」

「どっちでも動くわけか」

「ええ」

 

 なるほど。

 性格が悪い。

 だが効果的だ。

 

「よし」

 

 俺は息を吐いた。

 

「面倒だが、やる」

「ありがとうございます」

「礼を言うな。お前がやらせてるんだろ」

「対等ですので」

「便利だな、それも」

 

 

   ***

 

 

 中央棟の回廊は、昼のざわめきで満ちていた。

 

 昼食へ向かう学生。

 談笑する貴族子弟。

 噂を撒き散らすのに忙しい連中。

 その全部の中に、クラウス・エーベルハルトはいた。

 

 相変わらず感じの良い笑顔。

 相変わらず人当たりの良い声。

 だが今の俺には、その全部が薄っぺらく見える。

 

「では、殿下」

 

 ルシアンが小さく会釈する。

 

「自然に」

「自然って何だ」

「いつものように、少しだけ不機嫌そうに」

「それが自然扱いなの、地味にひどいな」

「否定は難しいですね」

 

 ひどい。

 

 俺は歩幅を少し広げ、そのままクラウスたちの視界に入る位置まで出た。

 向こうが気づく。

 笑顔が一瞬だけ固まる。

 だがすぐ戻る。

 

「レオンハルト殿下!」

 

 案の定、向こうから寄ってきた。

 早いな。

 こういう時だけ。

 

「ご機嫌麗しく――」

「麗しくない」

 

 俺はわざと面倒そうに言った。

 

「朝から紙ばかり見せられてる」

「は、はは……それは、その……」

「兄上も妙に細かいしな。砦側の確認だけで十分だと思うんだが」

「……砦側、ですか?」

 

 食いついた。

 分かりやすい。

 

 俺は肩をすくめる。

 

「学院の事務なんぞ後回しでいいだろう。どうせ現地が混乱してただけだ」

「な、なるほど……」

 

 クラウスの笑顔が、ほんのわずかに柔らかくなる。

 安心したのだ。

 もしくは、まだ間に合うと踏んだ。

 

「殿下もお疲れでしょうし、あまり面倒ごとは――」

「その通りだ」

 

 俺はわざとらしくため息をついた。

 

「だから昼くらい静かに食わせろ」

「も、申し訳ありません」

 

 クラウスは一礼して下がった。

 その足取りは表向き変わらない。

 だが。

 

「殿下」

 

 フィーネがすぐ横で囁く。

 

「右手」

「ん?」

「袖の中で、二度、親指を折っています」

「それが?」

「癖です。緊張か、判断中かと」

「分かるのか」

「見ていましたので」

 

 重い。

 観察が重い。

 

 だが、正しい。

 クラウスは去り際、確かに指先を不自然に動かしていた。

 

「では」

 

 ルシアンが自然な笑みのまま、クラウスの去った先へ視線を流す。

 

「僕はあちらへ」

「任せた」

 

 セレナも反対側へ動く。

 

「私は北棟の事務へ。通行記録に不自然な空白があれば拾います」

「おう」

 

 そして残ったのは、俺とフィーネだ。

 

「で?」

「私たちは少し遅れて追います」

「少し?」

「近すぎると消えます」

「お前、尾行うまそうだな」

「必要に迫られましたので」

「どんな人生だよ」

 

 フィーネは少しだけ沈黙したあと、いつもの声で言った。

 

「殿下より前の人生です」

「……悪い」

「いえ。今は、役に立っています」

 

 そう言われると、何とも返しづらい。

 

「行くか」

「はい」

 

 

   ***

 

 

 クラウスは食堂へ向かわなかった。

 

 そこが最初の違和感だった。

 

「昼食を抜く人間ではありません」

 

 柱の陰から様子を見ながら、フィーネが言う。

 

「知ってるのか」

「学院初日で確認済みです」

「なんで」

「観察対象でしたので」

「俺以外にもいたんだな」

「殿下の周囲は全員です」

「怖いって」

 

 だが、その観察は当たっていた。

 クラウスはいつもなら人目の多い食堂へ行き、誰かしらと席を囲むタイプだ。

 なのに今日は違う。

 中央棟を抜け、人気の薄い東回廊へ向かっている。

 

「急いでるな」

「はい。ですが、走らない」

「焦ってる奴ほど、そこは理性が働く」

「ええ。隠すことに慣れている人間です」

 

 東回廊の先は、旧講義棟と温室に繋がる一角だ。

 今は使われていない教室も多く、昼に来る学生は少ない。

 

「趣味が悪いな」

「密談には向いています」

「詳しいな」

「学院地図を昨夜頭に入れました」

「やっぱり怖い」

 

 クラウスは旧温室脇で一度立ち止まった。

 周囲を見回す。

 そして、何気ない仕草で窓枠の下へ手を入れた。

 

「……今の」

「置きましたね」

「何を」

「紙か、薄い札かと」

 

 クラウスはそのまま何事もなかったように踵を返し、今度こそ食堂の方へ歩き始めた。

 遅れて昼へ向かうつもりらしい。

 ずいぶん露骨だ。

 

「追うか?」

「いえ」

 

 フィーネは即答した。

 

「今は置き場です」

「回収役を待つ?」

「はい」

 

 俺たちは温室の裏手へ回った。

 割れたガラス窓。

 伸びすぎた蔦。

 今は使われていない花壇。

 埃っぽい空気の中で、フィーネはしゃがみ込み、さっきクラウスが手を入れた辺りを見た。

 

「取るなよ」

「取りません」

 

 彼女は窓枠の影を指した。

 

「薄い木札です」

「札?」

「紙は湿気で傷みますので」

「……慣れてる相手だな」

「ええ」

 

 その一言で、空気が少し冷えた。

 

 学院の噂話や、思いつきの隠蔽じゃない。

 連絡手段として、ある程度手慣れている。

 

「殿下」

「なんだ」

「待ちましょう」

「どれくらい」

「十分から二十分」

 

 長いな。

 そう思ったが口には出さない。

 出したところでフィーネが「必要ですので」と返すだけだからだ。

 

 温室裏の石積みに腰を下ろす。

 昼の鐘の余韻は消え、遠くの喧騒だけが薄く届く。

 こんな時、暇なら退屈するはずなのに、今はむしろ妙に研ぎ澄まされていた。

 

「殿下」

「なんだ」

「先ほどの演技、お上手でした」

「褒めてるのか?」

「半分ほど」

「半分か」

「残り半分は、ほぼ素でしたので」

「……」

「特に『紙ばかり見せられてる』あたり」

「やめろ、そこは完全に本音だ」

 

 フィーネの口元が少しだけ和らぐ。

 

「ですが、効果は十分でした」

「ならいい」

「はい」

 

 その時だった。

 

 足音。

 軽い。

 学生じゃない。

 

 俺とフィーネは同時に身を低くする。

 現れたのは、学院の下働きらしい少年だった。

 年は十二、三か。

 雑務用の灰色の上着。手には掃除道具の籠。

 

「……あいつか」

「おそらく回収役です」

 

 少年は周囲を気にする様子もなく窓枠へ寄り、慣れた手つきで木札を抜いた。

 それを籠の底へ滑らせる。

 

「行くぞ」

「少し間を」

「分かってる」

 

 少年は東庭を抜け、給仕用の細い通路へ入った。

 食堂裏。

 洗い場脇。

 荷運びの出入口。

 

 人目は少ないが、完全には切れない。

 うまい道だ。

 

「学院内で渡すのか?」

「いえ」

 

 フィーネの声が低くなる。

 

「この動線は北門側です」

「外へ出す?」

「その可能性が高いかと」

 

 やはり、学院の中だけじゃ済まない。

 

 少年はそのまま北門近くの荷捌き場へ向かった。

 そこには野菜や小麦袋を積んだ荷車が並び、出入り業者が行き交っている。

 学院へ物を運ぶ商人たちだ。

 

「見失うぞ」

「まだです」

 

 フィーネは視線だけで追っている。

 怖いくらいぶれない。

 

 少年は荷車の一台へ近づいた。

 御者台に座っていた男へ、何気ない動作で籠を渡す。

 掃除道具ごと、だ。

 

「おい」

「ええ」

 

 フィーネの目が細くなる。

 

「受け取りましたね」

「籠ごと?」

「箱より自然です」

 

 荷車の御者は四十前後の男だった。

 日に焼けた顔。

 商人然とした服。

 だが、その受け取り方が妙に無駄がない。

 

「業者名は」

「見えますか」

「待て」

 

 俺は目を凝らす。

 荷車の側面、褪せかけた塗装の紋。

 鳥だ。

 翼を広げた黒い鳥。

 

「……黒鴉商会?」

「聞き覚えは」

「ある」

 

 良くない方でな。

 

「北区の運送屋だ。安い、早い、でも裏が汚いって噂の」

「噂だけですか」

「表向きはな」

 

 フィーネが小さく息を吐く。

 

「学院の雑務係と、北区の運送屋」

「だいぶ学院の外だな」

「ええ」

 

 その時、荷車が動き出した。

 

「追えるか?」

「殿下の護衛を」

 

 ああ、そうか。

 影だ。

 

 俺は視線をわずかに横へ流した。

 気配が動く。

 影の護衛にだけ通じる合図だ。

 

「二人つけます」

「助かる」

「でも殿下」

 

 フィーネが言う。

 

「ここで終わると、少し足りません」

「何が」

「学院側の接点です」

 

 その言葉の意味を考えるより早く、背後から声が飛んだ。

 

「殿下」

 

 セレナだった。

 歩幅は速いが、乱れていない。

 手には薄い帳面が一冊。

 

「見つけました」

「何を」

「北門の荷役記録。今日の昼、黒鴉商会の荷車が一台追加で入っています」

「追加?」

「定期納入ではないわ。しかも依頼名義が個人」

 

 セレナは帳面を開く。

 

「クラウス・エーベルハルト」

「……」

「……」

 

 静かに嫌だな。

 

「隠す気あるのかそいつ」

「表の依頼内容は、書籍箱一つの搬出です」

「書籍箱」

「ええ。けれど」

 

 セレナの声が冷える。

 

「学院図書印が使われているのに、図書室側の搬出票が存在しない」

 

 偽装だ。

 しかも雑ではなく、急いだ雑さだ。

 

「ルシアンは?」

「こちらです」

 

 感じの良い顔が、柱の向こうから現れた。

 その笑顔はいつも通りだが、目は笑っていない。

 

「クラウスと少し話しました」

「どうだった」

「安心した顔をしていましたよ。殿下の話を、きれいに信じたようです」

「そりゃどうも」

 

 ルシアンは続ける。

 

「それと、彼は昼食の席で一度だけ席を外しています。理由は『少し気分が悪い』と」

「温室か」

「でしょうね」

 

 四つの線が繋がった。

 

 クラウスが焦る。

 偽の安心を与える。

 温室で連絡を置く。

 学院の雑務少年が拾う。

 黒鴉商会が持ち出す。

 

 綺麗すぎるくらい綺麗だ。

 綺麗すぎるから、逆に腹が立つ。

 

「殿下」

 

 フィーネが静かに言った。

 

「次を」

「今からか」

「今です」

 

 セレナが帳面を閉じる。

 

「荷車は追わせているのですね」

「ああ」

「なら、学院側は私が押さえます。あの少年も、後で確保できる」

「目立つなよ」

「誰に言っているんですか」

「ごもっとも」

 

 ルシアンが俺たちを見る。

 

「北区へ行くなら、表ではなく裏から入った方が良さそうです」

「場所は」

「黒鴉商会の中継倉庫。北区三番街の裏通りです」

「なんで知ってる」

「商会情報は家で多少」

「感じの良い顔で怖いこと言うな、二回目だぞ」

 

 だが助かる。

 本当に。

 

「殿下」

 

 フィーネが半歩近づいた。

 

「今夜です」

「だろうな」

「荷が動く前に」

「分かってる」

「無茶はなさらず」

「お前が言うのか、それ」

「私も守りますので」

「そこは信用してる」

 

 すると、フィーネが一瞬だけ黙った。

 灰銀の目が、ほんのわずかに揺れる。

 

「……そういうことを、さらっと仰るのは」

「ん?」

「心臓に悪いので、お控えください」

「お前でもそうなるのか」

「なります」

「へえ」

「嬉しそうですね」

「少しな」

 

 その時だった。

 

 北門の方で、短い悲鳴が上がった。

 

 全員の視線が走る。

 荷車があった辺りだ。

 次の瞬間、俺の影の一人が無音で現れ、片膝をついた。

 

「殿下」

「早いな。何があった」

「荷車を追跡中、積荷の一部が投棄されました」

「投棄?」

「はい。こちらを」

 

 差し出されたのは、割れた木箱の破片。

 そして、その中に紛れていた、半分焦げた薄木札。

 

「燃やしたのか」

「おそらく、追跡に気づいての処分かと」

「中身は」

「一部のみ判読できます」

 

 俺は受け取る。

 焦げ跡の間に、乱れた字が残っていた。

 

『……夜……三番倉……処分……』

『……皇……編……確認済……』

 

 ぞくり、と背中が冷えた。

 

「皇」

「皇族、か」

「あるいは皇都、ですが」

 

 フィーネが札をのぞき込み、低く言う。

 

「続く『編』は、おそらく編入生の編」

「……お前か」

「もしくは別件ですが、この流れでは薄いでしょう」

 

 セレナの目が細くなる。

 

「確認済、ね」

「何を」

「殿下とフィーネを」

「……」

 

 ルシアンが、感じの良い顔のまま言った。

 

「向こうも、こちらを見ていたということでしょう」

 

 気分が悪いな。

 だが、分かりやすくもなった。

 

 相手はただ証拠を消したいだけじゃない。

 こっちの動きも測っている。

 

「殿下」

 

 フィーネの声は、妙に静かだった。

 

「三番倉へ」

「行く」

「即答ですね」

「ここまで来て、行かない理由がない」

「……はい」

 

 彼女は、ほんの少しだけ息を整えた。

 その目はもう完全に冷えている。

 

「では今夜、相手の続きも掘れます」

「楽しそうに言うな」

「少しだけ」

「少しか?」

「かなり」

「正直だな」

 

 だが、俺も同じだった。

 

 面倒だ。

 面倒だが、ここで手を止めれば全部逃がす。

 学院の内側にいる手。

 外へ繋ぐ足。

 そして、その先で俺とフィーネを確認した誰か。

 

「よし」

 

 俺は焦げた木札を握りつぶす。

 

「今夜、北区三番倉だ」

「はい」

「ただし」

「はい」

「お前、絶対に俺の前へ出るなよ」

「殿下が無茶をなさらないなら」

「またそれか」

「非常に有効ですので」

 

 セレナが小さく息を吐き、ルシアンが苦笑する。

 その空気のまま、俺は北門の外へ目を向けた。

 

 学院の外。

 北区。

 三番倉。

 

 どうやら、本当に繋がっていたらしい。

 

 しかも思っていたより、ずっと近く。

 ずっと汚く。

 ずっと面倒な形で。

 

 ――やっぱり、全然退屈じゃない。

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