すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果 作:ヤンデレすこすこ侍
記録庫を出た瞬間、昼の鐘が鳴った。
重い音が学院の石壁を伝い、回廊に散っていく。
昼休みだ。
つまり、人が最も動く時間でもある。
「殿下」
隣を歩くフィーネが、いつもの静かな声で言った。
「今です」
「何が」
「動線を洗うのに、一番都合の良い時間が」
「説明が足りない」
「人が多いほど、紛れる者も、紛れたい者も増えます」
「なるほど」
たしかに。
授業間の移動より、昼の方が余計な動きは隠しやすい。
俺は横目でセレナを見る。
「お前は?」
「私は学院側の通行記録と事務室の出入台帳を押さえます」
「早いな」
「相手が早いので」
最近この台詞、あちこちで聞くな。
ルシアンが穏やかに続けた。
「僕は表の顔を使います」
「嫌な言い方だな」
「感じの良い顔、と言い換えても?」
「余計に嫌だ」
ルシアンは肩をすくめる。
「クラウスは、殿下や編入生殿に見られていると分かれば警戒します。けれど、僕が偶然を装って近づく分にはまだ動けるでしょう」
「お前、ほんと便利だな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
フィーネがすっと俺の袖を引いた。
「殿下」
「なんだ」
「殿下には、殿下にしかできない役があります」
「嫌な予感しかしない」
「餌です」
「ひどくない?」
フィーネは真顔だった。
「最も効果的かと」
「否定できないのが腹立つな……」
セレナがそこで、珍しく少しだけ口元を上げた。
「適任ですね」
「お前まで乗るな」
「事実ですので」
「便利だな、その言葉」
だが、フィーネの考えは分かった。
正面から追えば消える。
なら、向こうから動かすしかない。
「で、俺は何を餌にすればいい」
「半分だけ安心させてください」
「半分?」
「はい。本宮側の調査が、学院内部までは深く入らないように見せます」
「嘘を流すのか」
「誤解しやすい真実を、都合よく置くだけです」
静かな声だった。
だが、その言い方はだいぶ怖かった。
「具体的には?」
「殿下が、適当に面倒くさそうに」
「それは得意だな」
「でしょうね」
「即答するな」
フィーネは少しだけ目を細めた。
「兄殿下が現地砦側の確認を優先し、学院側は後回しになりそうだ、という程度で十分です」
「それをクラウスに聞かせる」
「はい。そうすれば、安心するか、急ぐか、どちらかに振れます」
「どっちでも動くわけか」
「ええ」
なるほど。
性格が悪い。
だが効果的だ。
「よし」
俺は息を吐いた。
「面倒だが、やる」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。お前がやらせてるんだろ」
「対等ですので」
「便利だな、それも」
***
中央棟の回廊は、昼のざわめきで満ちていた。
昼食へ向かう学生。
談笑する貴族子弟。
噂を撒き散らすのに忙しい連中。
その全部の中に、クラウス・エーベルハルトはいた。
相変わらず感じの良い笑顔。
相変わらず人当たりの良い声。
だが今の俺には、その全部が薄っぺらく見える。
「では、殿下」
ルシアンが小さく会釈する。
「自然に」
「自然って何だ」
「いつものように、少しだけ不機嫌そうに」
「それが自然扱いなの、地味にひどいな」
「否定は難しいですね」
ひどい。
俺は歩幅を少し広げ、そのままクラウスたちの視界に入る位置まで出た。
向こうが気づく。
笑顔が一瞬だけ固まる。
だがすぐ戻る。
「レオンハルト殿下!」
案の定、向こうから寄ってきた。
早いな。
こういう時だけ。
「ご機嫌麗しく――」
「麗しくない」
俺はわざと面倒そうに言った。
「朝から紙ばかり見せられてる」
「は、はは……それは、その……」
「兄上も妙に細かいしな。砦側の確認だけで十分だと思うんだが」
「……砦側、ですか?」
食いついた。
分かりやすい。
俺は肩をすくめる。
「学院の事務なんぞ後回しでいいだろう。どうせ現地が混乱してただけだ」
「な、なるほど……」
クラウスの笑顔が、ほんのわずかに柔らかくなる。
安心したのだ。
もしくは、まだ間に合うと踏んだ。
「殿下もお疲れでしょうし、あまり面倒ごとは――」
「その通りだ」
俺はわざとらしくため息をついた。
「だから昼くらい静かに食わせろ」
「も、申し訳ありません」
クラウスは一礼して下がった。
その足取りは表向き変わらない。
だが。
「殿下」
フィーネがすぐ横で囁く。
「右手」
「ん?」
「袖の中で、二度、親指を折っています」
「それが?」
「癖です。緊張か、判断中かと」
「分かるのか」
「見ていましたので」
重い。
観察が重い。
だが、正しい。
クラウスは去り際、確かに指先を不自然に動かしていた。
「では」
ルシアンが自然な笑みのまま、クラウスの去った先へ視線を流す。
「僕はあちらへ」
「任せた」
セレナも反対側へ動く。
「私は北棟の事務へ。通行記録に不自然な空白があれば拾います」
「おう」
そして残ったのは、俺とフィーネだ。
「で?」
「私たちは少し遅れて追います」
「少し?」
「近すぎると消えます」
「お前、尾行うまそうだな」
「必要に迫られましたので」
「どんな人生だよ」
フィーネは少しだけ沈黙したあと、いつもの声で言った。
「殿下より前の人生です」
「……悪い」
「いえ。今は、役に立っています」
そう言われると、何とも返しづらい。
「行くか」
「はい」
***
クラウスは食堂へ向かわなかった。
そこが最初の違和感だった。
「昼食を抜く人間ではありません」
柱の陰から様子を見ながら、フィーネが言う。
「知ってるのか」
「学院初日で確認済みです」
「なんで」
「観察対象でしたので」
「俺以外にもいたんだな」
「殿下の周囲は全員です」
「怖いって」
だが、その観察は当たっていた。
クラウスはいつもなら人目の多い食堂へ行き、誰かしらと席を囲むタイプだ。
なのに今日は違う。
中央棟を抜け、人気の薄い東回廊へ向かっている。
「急いでるな」
「はい。ですが、走らない」
「焦ってる奴ほど、そこは理性が働く」
「ええ。隠すことに慣れている人間です」
東回廊の先は、旧講義棟と温室に繋がる一角だ。
今は使われていない教室も多く、昼に来る学生は少ない。
「趣味が悪いな」
「密談には向いています」
「詳しいな」
「学院地図を昨夜頭に入れました」
「やっぱり怖い」
クラウスは旧温室脇で一度立ち止まった。
周囲を見回す。
そして、何気ない仕草で窓枠の下へ手を入れた。
「……今の」
「置きましたね」
「何を」
「紙か、薄い札かと」
クラウスはそのまま何事もなかったように踵を返し、今度こそ食堂の方へ歩き始めた。
遅れて昼へ向かうつもりらしい。
ずいぶん露骨だ。
「追うか?」
「いえ」
フィーネは即答した。
「今は置き場です」
「回収役を待つ?」
「はい」
俺たちは温室の裏手へ回った。
割れたガラス窓。
伸びすぎた蔦。
今は使われていない花壇。
埃っぽい空気の中で、フィーネはしゃがみ込み、さっきクラウスが手を入れた辺りを見た。
「取るなよ」
「取りません」
彼女は窓枠の影を指した。
「薄い木札です」
「札?」
「紙は湿気で傷みますので」
「……慣れてる相手だな」
「ええ」
その一言で、空気が少し冷えた。
学院の噂話や、思いつきの隠蔽じゃない。
連絡手段として、ある程度手慣れている。
「殿下」
「なんだ」
「待ちましょう」
「どれくらい」
「十分から二十分」
長いな。
そう思ったが口には出さない。
出したところでフィーネが「必要ですので」と返すだけだからだ。
温室裏の石積みに腰を下ろす。
昼の鐘の余韻は消え、遠くの喧騒だけが薄く届く。
こんな時、暇なら退屈するはずなのに、今はむしろ妙に研ぎ澄まされていた。
「殿下」
「なんだ」
「先ほどの演技、お上手でした」
「褒めてるのか?」
「半分ほど」
「半分か」
「残り半分は、ほぼ素でしたので」
「……」
「特に『紙ばかり見せられてる』あたり」
「やめろ、そこは完全に本音だ」
フィーネの口元が少しだけ和らぐ。
「ですが、効果は十分でした」
「ならいい」
「はい」
その時だった。
足音。
軽い。
学生じゃない。
俺とフィーネは同時に身を低くする。
現れたのは、学院の下働きらしい少年だった。
年は十二、三か。
雑務用の灰色の上着。手には掃除道具の籠。
「……あいつか」
「おそらく回収役です」
少年は周囲を気にする様子もなく窓枠へ寄り、慣れた手つきで木札を抜いた。
それを籠の底へ滑らせる。
「行くぞ」
「少し間を」
「分かってる」
少年は東庭を抜け、給仕用の細い通路へ入った。
食堂裏。
洗い場脇。
荷運びの出入口。
人目は少ないが、完全には切れない。
うまい道だ。
「学院内で渡すのか?」
「いえ」
フィーネの声が低くなる。
「この動線は北門側です」
「外へ出す?」
「その可能性が高いかと」
やはり、学院の中だけじゃ済まない。
少年はそのまま北門近くの荷捌き場へ向かった。
そこには野菜や小麦袋を積んだ荷車が並び、出入り業者が行き交っている。
学院へ物を運ぶ商人たちだ。
「見失うぞ」
「まだです」
フィーネは視線だけで追っている。
怖いくらいぶれない。
少年は荷車の一台へ近づいた。
御者台に座っていた男へ、何気ない動作で籠を渡す。
掃除道具ごと、だ。
「おい」
「ええ」
フィーネの目が細くなる。
「受け取りましたね」
「籠ごと?」
「箱より自然です」
荷車の御者は四十前後の男だった。
日に焼けた顔。
商人然とした服。
だが、その受け取り方が妙に無駄がない。
「業者名は」
「見えますか」
「待て」
俺は目を凝らす。
荷車の側面、褪せかけた塗装の紋。
鳥だ。
翼を広げた黒い鳥。
「……黒鴉商会?」
「聞き覚えは」
「ある」
良くない方でな。
「北区の運送屋だ。安い、早い、でも裏が汚いって噂の」
「噂だけですか」
「表向きはな」
フィーネが小さく息を吐く。
「学院の雑務係と、北区の運送屋」
「だいぶ学院の外だな」
「ええ」
その時、荷車が動き出した。
「追えるか?」
「殿下の護衛を」
ああ、そうか。
影だ。
俺は視線をわずかに横へ流した。
気配が動く。
影の護衛にだけ通じる合図だ。
「二人つけます」
「助かる」
「でも殿下」
フィーネが言う。
「ここで終わると、少し足りません」
「何が」
「学院側の接点です」
その言葉の意味を考えるより早く、背後から声が飛んだ。
「殿下」
セレナだった。
歩幅は速いが、乱れていない。
手には薄い帳面が一冊。
「見つけました」
「何を」
「北門の荷役記録。今日の昼、黒鴉商会の荷車が一台追加で入っています」
「追加?」
「定期納入ではないわ。しかも依頼名義が個人」
セレナは帳面を開く。
「クラウス・エーベルハルト」
「……」
「……」
静かに嫌だな。
「隠す気あるのかそいつ」
「表の依頼内容は、書籍箱一つの搬出です」
「書籍箱」
「ええ。けれど」
セレナの声が冷える。
「学院図書印が使われているのに、図書室側の搬出票が存在しない」
偽装だ。
しかも雑ではなく、急いだ雑さだ。
「ルシアンは?」
「こちらです」
感じの良い顔が、柱の向こうから現れた。
その笑顔はいつも通りだが、目は笑っていない。
「クラウスと少し話しました」
「どうだった」
「安心した顔をしていましたよ。殿下の話を、きれいに信じたようです」
「そりゃどうも」
ルシアンは続ける。
「それと、彼は昼食の席で一度だけ席を外しています。理由は『少し気分が悪い』と」
「温室か」
「でしょうね」
四つの線が繋がった。
クラウスが焦る。
偽の安心を与える。
温室で連絡を置く。
学院の雑務少年が拾う。
黒鴉商会が持ち出す。
綺麗すぎるくらい綺麗だ。
綺麗すぎるから、逆に腹が立つ。
「殿下」
フィーネが静かに言った。
「次を」
「今からか」
「今です」
セレナが帳面を閉じる。
「荷車は追わせているのですね」
「ああ」
「なら、学院側は私が押さえます。あの少年も、後で確保できる」
「目立つなよ」
「誰に言っているんですか」
「ごもっとも」
ルシアンが俺たちを見る。
「北区へ行くなら、表ではなく裏から入った方が良さそうです」
「場所は」
「黒鴉商会の中継倉庫。北区三番街の裏通りです」
「なんで知ってる」
「商会情報は家で多少」
「感じの良い顔で怖いこと言うな、二回目だぞ」
だが助かる。
本当に。
「殿下」
フィーネが半歩近づいた。
「今夜です」
「だろうな」
「荷が動く前に」
「分かってる」
「無茶はなさらず」
「お前が言うのか、それ」
「私も守りますので」
「そこは信用してる」
すると、フィーネが一瞬だけ黙った。
灰銀の目が、ほんのわずかに揺れる。
「……そういうことを、さらっと仰るのは」
「ん?」
「心臓に悪いので、お控えください」
「お前でもそうなるのか」
「なります」
「へえ」
「嬉しそうですね」
「少しな」
その時だった。
北門の方で、短い悲鳴が上がった。
全員の視線が走る。
荷車があった辺りだ。
次の瞬間、俺の影の一人が無音で現れ、片膝をついた。
「殿下」
「早いな。何があった」
「荷車を追跡中、積荷の一部が投棄されました」
「投棄?」
「はい。こちらを」
差し出されたのは、割れた木箱の破片。
そして、その中に紛れていた、半分焦げた薄木札。
「燃やしたのか」
「おそらく、追跡に気づいての処分かと」
「中身は」
「一部のみ判読できます」
俺は受け取る。
焦げ跡の間に、乱れた字が残っていた。
『……夜……三番倉……処分……』
『……皇……編……確認済……』
ぞくり、と背中が冷えた。
「皇」
「皇族、か」
「あるいは皇都、ですが」
フィーネが札をのぞき込み、低く言う。
「続く『編』は、おそらく編入生の編」
「……お前か」
「もしくは別件ですが、この流れでは薄いでしょう」
セレナの目が細くなる。
「確認済、ね」
「何を」
「殿下とフィーネを」
「……」
ルシアンが、感じの良い顔のまま言った。
「向こうも、こちらを見ていたということでしょう」
気分が悪いな。
だが、分かりやすくもなった。
相手はただ証拠を消したいだけじゃない。
こっちの動きも測っている。
「殿下」
フィーネの声は、妙に静かだった。
「三番倉へ」
「行く」
「即答ですね」
「ここまで来て、行かない理由がない」
「……はい」
彼女は、ほんの少しだけ息を整えた。
その目はもう完全に冷えている。
「では今夜、相手の続きも掘れます」
「楽しそうに言うな」
「少しだけ」
「少しか?」
「かなり」
「正直だな」
だが、俺も同じだった。
面倒だ。
面倒だが、ここで手を止めれば全部逃がす。
学院の内側にいる手。
外へ繋ぐ足。
そして、その先で俺とフィーネを確認した誰か。
「よし」
俺は焦げた木札を握りつぶす。
「今夜、北区三番倉だ」
「はい」
「ただし」
「はい」
「お前、絶対に俺の前へ出るなよ」
「殿下が無茶をなさらないなら」
「またそれか」
「非常に有効ですので」
セレナが小さく息を吐き、ルシアンが苦笑する。
その空気のまま、俺は北門の外へ目を向けた。
学院の外。
北区。
三番倉。
どうやら、本当に繋がっていたらしい。
しかも思っていたより、ずっと近く。
ずっと汚く。
ずっと面倒な形で。
――やっぱり、全然退屈じゃない。