すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果 作:ヤンデレすこすこ侍
夜の北区は、昼間よりずっと性格が悪い。
昼は商人と荷車と怒鳴り声で満ちている通りが、夜になると途端に口を閉ざす。
店の看板は半分だけ灯りを落とし、路地裏には酒と油と湿った木の匂いが溜まる。
遠くで犬が吠え、すぐに黙った。
いい街ではない。
だが、悪党が何かを隠すにはちょうどいい。
「殿下」
隣を歩くフィーネが、灰色の外套のフードを深く被ったまま言った。
「足音が少し目立ちます」
「これでも抑えてる」
「抑えて、その程度ですか」
「お前、最近俺への遠慮が本当に減ったな」
「対等ですので」
「便利だな、それ」
俺たちは学院の制服ではなく、北区の商家の若者に見える程度の地味な服を着ていた。
俺、フィーネ、少し後ろにルシアン。
影の護衛が三名、さらに離れて二名。
セレナは学院側に残った。
雑務少年と北門の台帳を押さえるためだ。
あいつはあいつで、こういう時に表の権限を使うのが上手い。
「それにしても」
ルシアンが穏やかな顔で、だが声だけを落として言う。
「殿下が夜の北区に出歩かれるとは、なかなか刺激的ですね」
「言い方を選べ」
「では、不適切」
「もっと悪い」
ルシアンはいつも通り感じの良い笑みを浮かべている。
だが、その服装は俺たちよりさらに馴染んでいた。
黒っぽい上着に、安物に見えるが動きやすい靴。
どこからどう見ても、夜の商人の息子である。
「お前、慣れてるな」
「家の仕事で、こういう場所に来ることもありますので」
「公爵家の子息が?」
「公爵家だから、です」
「感じの良い顔で怖いこと言うの、今日何回目だ」
「数えておりません」
「数えろ」
「次回から」
絶対数えないやつだ。
フィーネが前方へ視線を向けた。
「北区三番街、裏通り」
「あれか」
通りの先。
川沿いに並ぶ倉庫群の一角に、黒い鳥の印が見えた。
翼を広げた黒鴉。
昼に見た荷車の紋と同じだ。
黒鴉商会、中継倉庫。
三番倉。
表向きは運送屋。
裏では、持ち込まれたものを見なかったことにして運ぶ連中。
「思ったより静かだな」
俺が呟くと、フィーネは即答した。
「静かすぎます」
「やっぱりか」
「はい。荷を処分するなら、もう少し人の出入りがあります」
「中に人がいない?」
「いえ」
フィーネの目が細くなる。
「人がいないように見せたい、です」
嫌な言い方だ。
だが、この女がそう言う時はだいたい当たる。
「正面から入るか?」
「却下です」
「即答だな」
「殿下は餌としては優秀ですが、毎回噛まれに行く必要はありません」
「俺は何なんだ」
「大事な餌です」
「大事をつければいいと思うな」
ルシアンが小さく咳払いした。
笑いを誤魔化したな。
「裏へ回りましょう」
フィーネは言った。
「倉庫裏に水路があります。搬入口があるはずです」
「学院地図だけじゃなく北区の地図も頭に入れたのか」
「必要でしたので」
「怖いって」
「承知しております」
もう否定もしない。
***
倉庫裏の水路は、ひどい臭いがした。
濁った水。
腐った藁。
捨てられた木箱。
壁にこびりついた黒い染み。
「うわ」
「殿下、声が大きいです」
「この臭いで平気な顔してるお前が怖い」
「平気ではありません」
「そう見えない」
「見せても臭いは消えませんので」
「初対面の時みたいなこと言うな」
フィーネは倉庫の壁に手を当て、少しだけ目を伏せた。
魔力を流している。
複雑な術式ではない。
だが、細い糸みたいな魔力が壁の内側へ沈んでいくのが分かった。
「結界は?」
「簡易です。侵入感知と、火除け」
「火除け?」
「中で燃やす気があるか、燃やしたあとに延焼させたくないか」
「どっちにしろ嫌だな」
フィーネは頷く。
「ただ、術式が粗いです」
「破れるか」
「破れますが、破ると気づかれます」
「じゃあ?」
「通ります」
何を言ってるんだこいつ。
そう思った次の瞬間、フィーネの指先が壁の一点を押さえた。
薄い光が、ほんの一瞬だけ浮かぶ。
結界の流れが、わずかに緩んだ。
「今です」
「おう」
影の護衛が、音もなく錠を外す。
搬入口の扉が、きしみも立てずに開いた。
「お前、今何した」
「結界に、私たちを通行済みとして誤認させました」
「初学者がやることか?」
「エルヴィナ様なら叱ると思います」
「だろうな」
俺たちは中へ入った。
倉庫内は暗い。
だが、完全な闇ではない。
奥の方で、燭台の火が一本だけ揺れている。
木箱。
麻袋。
古い帳簿棚。
天井から下がる鉤。
そして中央に、ひとつだけ新しい木箱が置かれていた。
「書籍箱一つ、か」
俺が呟く。
昼の台帳にあった名目。
学院図書印を偽装した箱。
近づこうとした瞬間、フィーネが俺の袖を掴んだ。
「止まってください」
「何だ」
「床です」
足元を見る。
何の変哲もない木床――に見えた。
「踏むと?」
「音が鳴ります」
「罠か」
「はい。かなり雑ですが」
「雑なら雑で腹が立つな」
フィーネはしゃがみ込み、床板の隙間に指先を滑らせた。
小さな金属音。
糸が一本、切れる。
「進めます」
「お前、これも慣れてるのか」
「必要に迫られましたので」
「その返し、たまに重いからやめろ」
「承知しております」
やめる気はない顔だ。
木箱の蓋を開ける。
中に入っていたのは本ではなかった。
半分ほど焼けた紙束。
割れた薄木札。
小瓶。
そして、布に包まれた小さな金属印。
「……これは」
ルシアンが布を開いた。
中から出てきたのは、印章だった。
エーベルハルト伯爵家の印。
ただし、正規のものではない。
彫りが浅い。
紋の羽根の数が違う。
複製品だ。
「偽造印か」
「ええ」
ルシアンの笑顔が薄くなる。
「雑ではありません。ですが、本物を知っている者なら気づく程度です」
「つまり、知らない相手に見せるためのもの」
「あるいは、あとで偽物だと気づかせるためのもの」
フィーネが静かに言った。
俺は小瓶を手に取る。
封は割れている。
中身はほとんど残っていないが、鼻に近づけた瞬間、喉の奥に嫌な甘さが刺さった。
「殿下」
フィーネの声が鋭くなる。
「嗅がないでください」
「もう嗅いだ」
「殿下」
「すまん」
即座に瓶を戻す。
フィーネは俺の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。
「めまいは?」
「ない」
「吐き気は」
「ない」
「魔力の乱れは」
「ない」
「本当に?」
「本当だ」
「……なら、よろしいです」
圧が強い。
だが、心配しているのは分かる。
「これは何だ」
俺が聞くと、フィーネは小瓶を布越しに見た。
「誘引香の基材かと」
「魔物の?」
「はい。遠征先の痕跡と繋がる可能性があります」
「黒だな」
「黒く見えるように置かれている可能性もあります」
冷静だ。
こういう時、こいつは本当に頼りになる。
俺なら、怒りでそのまま踏み込んでいたかもしれない。
だがフィーネは、怒っていても線を切らない。
燃えているのに、刃先だけは冷たい。
「殿下」
フィーネが焼け残った紙束を一枚ずつ見ていく。
「これ、筆跡が混ざっています」
「クラウスのか」
「おそらく一部は。ですが、命令文らしき部分は別人です」
「内容は」
「断片だけです」
彼女は紙片を並べた。
『……殿下の動向……』
『……編入生、接触後も同行……』
『……北方誘引、失敗ではなく観測……』
『……処分は今夜……』
『……伯爵家子息を経由……』
倉庫の中の空気が、さらに冷えた。
「失敗ではなく、観測?」
ルシアンが低く呟く。
「遠征の襲撃を、結果としてではなく、実験として見ていた?」
「可能性はあります」
フィーネの声が、静かすぎるほど静かだった。
「殿下と、私の動きを」
「……」
俺は紙片を見下ろした。
地竜。
砦。
魔物の誘引。
学院遠征。
そして、俺とフィーネ。
ただの事故じゃない。
クラウスが焦って記録を消しただけでもない。
誰かが、俺たちを見ていた。
試していた。
腹の底が、静かに熱くなった。
「殿下」
フィーネが俺を見る。
「怒っておられますね」
「まあな」
「ここでは抑えてください」
「分かってる」
「本当に?」
「お前がいるからな」
言ってから、しまったと思った。
フィーネが一瞬だけ黙った。
ほんの一瞬だ。
だが、目が揺れた。
「……そういうことを」
「悪い」
「いえ」
彼女は小さく息を吐く。
「嬉しいので、後で詳しく伺います」
「今の流れで詳しくするな」
「必要ですので」
「必要じゃない」
ルシアンが遠くを見る顔をした。
聞こえないふりをしている。
賢い。
その時だった。
倉庫の上階で、板が軋んだ。
全員が同時に動く。
影の護衛が天井へ視線を走らせる。
俺はフィーネを後ろへ下げ――ようとして、逆に袖を掴まれた。
「殿下、右」
「分かってる」
倉庫の左右の戸が、同時に開いた。
男が五人。
いや、梁の上に二人。
奥に一人。
合計八人。
黒い外套。
顔を布で覆い、手には短剣と弩。
商会の人間ではない。
明らかに荒事専門だ。
「ずいぶん歓迎が手厚いな」
俺が言うと、先頭の男が短く笑った。
「第三皇子殿下が来るとはな」
「招待状は貰ってないが」
「来ると思っていたさ」
その言葉で分かった。
やはり罠だ。
ここに残された証拠も、半分は餌。
「フィーネ」
「はい」
「後ろへ」
「殿下が前へ出すぎなければ」
「今それを返すな」
「非常に有効ですので」
男の一人が弩を上げた。
次の瞬間、俺は床を蹴った。
矢が放たれる。
遅い。
風の魔力で軌道を逸らし、同時に正面の男の短剣を弾く。
手加減はする。
殺すつもりはない。
だが、無傷で済ませる気もない。
「がっ――!」
鳩尾へ拳を入れ、一人沈める。
横から来た刃を避け、手首を掴んで床へ叩きつける。
梁の上から二本目の矢。
その前に、フィーネの魔力が細く走った。
矢は空中で軌道を失い、木箱へ突き刺さる。
「お前、前に出るなって言ったよな」
「出ておりません」
「魔力は出てる」
「身体は後ろです」
「屁理屈!」
だが助かった。
正直助かった。
フィーネは俺の後方で、複数の術式を同時に維持していた。
足元の罠を封じ、弩の軌道を乱し、影の護衛の動きを通す。
攻撃ではない。
だが、盤面が明らかにこちらへ傾いている。
「厄介だな、編入生」
奥の男が吐き捨てる。
その言葉に、俺の中で何かが冷えた。
「おい」
「――っ」
男がこちらを見る。
俺は笑った。
「今、誰を見て言った?」
踏み込む。
男が短剣を構える。
遅い。
足場を崩し、肘を打ち込み、壁へ叩きつける。
「殿下」
フィーネの声。
「殺してはいけません」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって」
信用が低い。
まあ、今は仕方ない。
戦闘はすぐ終わった。
影の護衛が二人。
ルシアンが逃げ道を塞ぎ、俺が前を潰し、フィーネが全体を狂わせた。
八人のうち六人は拘束。
二人は逃げたが、影が追っている。
「お前、意外と動けるな」
俺がルシアンを見ると、彼は乱れた袖を直しながら微笑んだ。
「嗜み程度です」
「その嗜み、普通の貴族子弟の範囲じゃないぞ」
「公爵家ですので」
「便利だな、その家」
フィーネは拘束された男の一人の前にしゃがみ込んだ。
「所属は」
「……」
「黒鴉商会ではありませんね」
「……」
「北区の雇われでもない」
「……」
「では、誰の指示ですか」
男は黙っていた。
だが、黙り方が悪い。
恐怖ではない。
訓練された沈黙だ。
フィーネは数秒だけ男を見て、それから俺へ振り向いた。
「殿下」
「何だ」
「この方々、捕まる前提です」
「……は?」
男の目がわずかに動いた。
フィーネは淡々と続ける。
「口を割らない訓練を受けている、というより、割るための情報を持たされていない顔です」
「つまり」
「使い捨てです」
「嫌な言葉だな」
「嫌な状況ですので」
フィーネは男の袖口をめくった。
そこには小さな刺青があった。
黒鴉ではない。
細い輪。
その内側に、折れた羽根のような印。
「見覚えは?」
俺がルシアンへ聞くと、彼は珍しく笑みを消した。
「あります」
「あるのか」
「北区の運び屋ではなく、南方の傭兵崩れが使う印です。金で動く連中ですが、最近は姿を消していました」
「誰かがまとめて雇った?」
「おそらく。……ですが、妙ですね。古い魔術派閥の印にも似ています」
面倒が増えた。
また増えた。
「黒鴉商会は?」
「倉庫を貸しただけか、脅されたか、買われたか」
「全部嫌だな」
その時、拘束された男の一人が喉の奥で笑った。
「……もう遅い」
「あ?」
俺が振り向く。
男は血の混じった唾を吐き、笑った。
「ここは終わりだ。お前らが来る頃には、もう――」
言葉が途切れた。
男の首元に、黒い筋が走る。
毒。
歯に仕込んでいたのか。
「止めろ!」
俺が叫ぶより早く、フィーネの魔力が走った。
男の顎を固定し、喉の動きを止める。
影の護衛が即座に薬を噛ませた。
男は痙攣し、気を失った。
「……間に合ったか」
「分かりません」
フィーネの顔は硬い。
「ですが、少なくとも死んではいません」
「よく止めた」
「殿下が叫ぶ前に、顎の動きが不自然でしたので」
「見てたのか」
「当然です」
本当に当然みたいに言う。
俺は深く息を吐いた。
「今の『もう遅い』ってのは」
「この倉庫のことではないでしょうね」
フィーネが立ち上がる。
「本命は別にある」
「学院か」
「あるいは、クラウス様」
その名前が出た瞬間、倉庫の外から影の護衛が戻った。
「殿下」
「何だ」
「逃走した二名のうち一名を確保。もう一名は追跡中です」
「報告は」
「確保した者が、これを所持しておりました」
差し出されたのは、小さな封筒だった。
封はされていない。
中には薄い紙が一枚。
そこに書かれていた文字を見て、俺は眉を寄せた。
『クラウス・エーベルハルトは、今夜までに処分』
空気が止まった。
「……処分対象は、証拠じゃなく」
「人、ですね」
フィーネの声が冷えた。
ルシアンが低く言う。
「まずいですね。彼は今、学院内で泳がせている状態です」
「セレナが押さえてるはずだが」
「それでも、完全ではありません」
俺は奥歯を噛んだ。
クラウスが黒幕だと思っていた。
少なくとも、かなり近いところにいると。
だが違う。
いや、違うとは限らない。
ただ、今この瞬間、誰かにとってクラウスは消すべき駒になった。
「殿下」
フィーネが俺を見る。
「戻りましょう」
「ああ」
「ただし」
「何だ」
「焦りすぎないでください」
「無理を言うな」
「殿下が焦ると、周囲が焦ります」
「……」
「私も、少し焦ります」
最後だけ、声が小さかった。
ずるい。
こんな時に、それを言うな。
「分かった」
俺は息を吐く。
「焦らない。急ぐ」
「はい」
「お前も前に出るな」
「殿下が無茶をなさらないなら」
「またそれか」
「非常に有効ですので」
いつもの返し。
いつもの声。
だが、灰銀の目は完全に戦う色をしていた。
俺たちは倉庫を出る。
外の夜気は冷たく、北区の路地は相変わらず黙っている。
黒鴉商会。
偽造印。
誘引香。
捕まる前提の襲撃者。
そして、クラウスの処分命令。
繋がっている。
だが、まだ線の先が見えない。
面倒だ。
本当に面倒だ。
しかも、放っておけば誰かが死ぬ類の面倒だ。
「フィーネ」
「はい」
「走るぞ」
「はい」
「無理は」
「しません」
「本当だな」
「殿下も」
「分かった」
俺たちは夜の北区を駆け出した。
学院へ。
クラウスのもとへ。
そして、こちらを見ている誰かの次の手へ。
退屈など、もうどこにもなかった。
ただひとつ問題があるとすれば。
俺が望んだ対等な相手は、
こういう時、俺と同じ速度で危険へ踏み込んでくるということだ。
「……本当に、拾う相手を間違えたかもしれん」
「今さら返品は不可です」
「聞こえてたのか」
「当然です」
隣で、フィーネがほんの少しだけ笑った。
「最後まで責任を持ってくださいね、殿下」
「重い」
「承知しております」
その重さが、今は妙に頼もしかった。