すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果 作:ヤンデレすこすこ侍
学院へ戻る道は、思ったより長かった。
北区から学院までは、馬車を使えば大した距離ではない。
だが今は夜。
しかも表通りを悠々と進むわけにはいかない。
俺たちは裏道を抜け、細い橋を渡り、夜番の兵が見張る通りを避けながら走っていた。
「殿下」
隣でフィーネが声を落とす。
「息は乱れておりませんか」
「お前、自分の心配をしろ」
「私は問題ありません」
「それが一番信用できない」
「では、少しだけ問題があります」
「あるのか」
「靴が走るのに向いていません」
「それは重大だな」
俺は足を止めかけた。
だがフィーネが先に言う。
「止まらないでください」
「でも」
「走れます」
「靴が向いてないんだろ」
「向いていないだけで、走れないとは言っておりません」
「お前、そういう理屈を危険な方向に使うな」
後ろからルシアンが息も乱さずついてくる。
「お二人とも、会話しながらこの速度で走れるのは十分おかしいですよ」
「お前もだろ」
「僕は嗜み程度ですので」
「その嗜み、もう禁止にしろ」
そんなやり取りをしていると、前方の屋根から影が一人降りた。
「殿下」
「報告」
「学院北門は通常通り閉鎖。外部からの侵入痕はなし。ただし、学院内で不審な動きあり」
「内容は」
「クラウス・エーベルハルトが、学生会室から移送されました」
「……は?」
足が止まりかける。
今度は止めなかった。
フィーネの横顔が、一気に冷える。
「誰が」
「本宮からの使者を名乗る者です。第一皇子殿下の命令書を提示。学生会長セレナ・ヴィルヘルミナ様は一度止めましたが、同行の本宮兵三名と学院警備二名が正式手続きだと主張」
「セレナは」
「無事です。現在、学生会室で足止めされた学院警備と押し問答を」
「押し問答」
容易に想像できた。
涼しい顔で、相手をじわじわ切り裂いているのだろう。
「クラウスはどこへ」
「東棟旧礼拝堂方面へ」
「なんでそんな場所に」
「本宮記録官による臨時聴取、との名目でした」
俺は舌打ちした。
「兄上がそんな回りくどいことをするか?」
「しません」
フィーネが即答する。
「断言が早いな」
「エドゥアルト殿下は、殿下が動いている件で、殿下抜きに対象者を移しません」
「理由は」
「殿下が怒るからです」
「正しい」
兄上はそういうところが妙に律儀だ。
俺を使う時は使うが、俺の顔を潰すような使い方はしない。
「偽物か」
「はい。ですが、セレナ様が一度は通さざるを得なかったなら、かなり精巧です」
フィーネの声が低くなる。
「本宮の手続きを知っている者が関わっています」
「また面倒が増えた」
「はい」
「もう嫌になってきた」
「退屈ではありませんね」
「今それを言うな」
俺たちは再び走り出した。
***
学院北門は、夜の石壁の下で静かに閉じていた。
門兵が俺たちを見て目を見開く。
当然だ。
第三皇子が夜中に、地味な服で、北区帰りの臭いをまとって走ってきたのだ。
不審者である。
ただし皇族の。
「開けろ」
「で、殿下!? しかし夜間規定が――」
「開けろ」
「は、はい!」
便利だな、皇族。
こういう時だけは少し感謝する。
門が開く。
俺たちは中へ滑り込んだ。
石畳の上を走る足音が、夜の学院にやけに大きく響く。
「殿下」
フィーネが言う。
「東棟へ直接向かう前に、学生会室へ」
「時間が惜しい」
「情報が惜しいです」
「……そういう言い方をされると弱い」
セレナの手元には偽命令書があるはずだ。
罠の場所だけでなく、相手の手癖が分かるかもしれない。
「三十秒だ」
「十分です」
「絶対嘘だろ」
***
学生会室の扉を開けた瞬間、空気が刺さった。
中ではセレナが立っていた。
机の前には学院警備の男が二人。
どちらも顔色が悪い。
たぶん、ここ数分でだいぶ削られたのだろう。
「レオンハルト殿下」
セレナはこちらを見るなり、わずかに眉を上げた。
「早かったですね」
「遅い方だ。状況」
「クラウス・エーベルハルトは十二分前に移送。命令書はこちら」
無駄がない。
さすがだ。
フィーネがすぐに紙を受け取った。
俺も横から覗き込む。
封蝋。
紋章。
署名。
文面。
一見、本物に見えた。
少なくとも俺なら流す。
いや、今の状況なら流さないが、普段なら面倒くさがって流すかもしれない。
「どうだ」
「かなり精巧です」
フィーネは紙面を見たまま言う。
「ただし偽物です」
「早いな」
「第一皇子殿下の命令書としては、文面が丁寧すぎます」
「丁寧すぎる?」
「はい。緊急時の文書なら、もっと短い。責任所在も明確にします。これは、読む側に『正式らしさ』を感じさせるための文章です」
「なるほど、俺には分からん」
「殿下は読まない可能性がありますので」
「ひどい」
「事実です」
「便利だな、その言葉」
フィーネはさらに封蝋を見た。
「封もおかしいですね」
「どこが」
「紋は正確ですが、蝋の割れ方が浅い。本宮で閉じたものを運んだのではなく、学院近くで押した可能性が高いです」
「それが分かるのか」
「ガレス様に教わりました」
「あの爺、何を仕込んでるんだ」
セレナが静かに口を開く。
「私も偽物だとは思いました。ですが、本宮兵を名乗る三名が正規の通行符を持っていた」
「通行符は本物か」
「おそらく」
「学院警備は?」
「こちらの二人が同行許可を出しました」
セレナの視線が警備二人へ向く。
二人は青ざめた。
「わ、我々は手続きに従っただけで……」
「後で聞く」
俺が言うと、二人とも背筋を伸ばした。
「東棟旧礼拝堂だな」
「ええ。ただし、正面から行けば遅い」
「近道は」
「あります」
セレナが壁の学院図を指差した。
「図書棟裏の渡り廊下から旧礼拝堂の控室へ抜けられます。普段は施錠されていますが」
「鍵は」
「ここに」
当然のように鍵束を出した。
怖いな学生会長。
「お前、何でも持ってるのか」
「必要なものだけです」
「みんなそれ言うな」
フィーネが鍵を受け取り、静かに頷いた。
「行きましょう」
「ああ」
「殿下」
「何だ」
「今度こそ、焦らないでください」
「急ぐだけだ」
「はい」
セレナが歩き出しながら言った。
「私も行きます」
「学生会室は」
「もう押さえるものは押さえました。あとは現場です」
「危ないぞ」
「今さらです」
「お前までそういうことを言うのか」
ルシアンが微笑む。
「では僕も」
「お前は最初から来る気だったろ」
「はい」
「返事が爽やかで腹立つな」
結局、全員で走ることになった。
夜の学院で、皇子と編入生と学生会長と公爵家子息が全力疾走。
噂になったら面倒だな。
いや。
もう今さらか。
***
旧礼拝堂は、学院の東端にある古い建物だった。
今は儀式には使われず、式典用の備品や古い記録を置く場所になっている。
石造りの壁。
細長い窓。
高い天井。
夜に見ると、妙に陰気だ。
控室側の扉へ回る。
フィーネが鍵を差し込もうとして、止まった。
「開いています」
「罠か」
「罠です」
即答。
もう嫌だな。
「種類は」
「扉を開けると、内側の鈴が鳴ります」
「雑だな」
「雑に見せて、こちらの対応を見るためかと」
「性格が悪い」
「はい」
フィーネは扉に指を添えた。
細い魔力が流れる。
内側で、小さく金属が震えた。
「今なら鳴りません」
「便利」
「便利扱いは少し複雑です」
「頼りになる」
「それなら受け取ります」
ほんの少しだけ、彼女の声が柔らかくなった。
こんな時に分かる俺も、だいぶ毒されている。
扉を開ける。
暗い廊下。
奥から、かすかに声が聞こえた。
「――ですから、署名を」
知らない男の声。
「これで終わりです。あなたの家も守られます」
「……本当に」
クラウスの声だった。
弱い。
昼間の嫌味な余裕はない。
「本当に、父上には」
「ええ。伯爵家には累は及びません。あなた一人が、すべてを認めれば」
俺の腹の奥が、静かに熱くなる。
フィーネが袖を引いた。
「殿下」
「分かってる」
「分かっていない顔です」
「分かってる」
「本当に?」
「……今は蹴破らない」
「今は、ですね」
信用が低い。
だが正しい。
俺たちは礼拝堂の側面から中を覗いた。
祭壇の前に、机が置かれている。
その前にクラウス。
両手は縛られていない。
だが、背後に二人の男が立っている。
逃げられる空気ではない。
机の向こうには、黒い外套の男。
本宮記録官のような格好をしているが、雰囲気が違う。
作り物の丁寧さ。
薄い笑み。
人間を紙のように扱う目。
「署名を」
男が羽根ペンを差し出す。
「北方遠征の魔物誘引は、クラウス・エーベルハルトの独断によるもの。黒鴉商会への証拠品搬出も同様。第三皇子殿下および編入生フィーネへの監視指示も、すべてあなたのもの」
「そんな……そこまでは、僕は」
「ええ。ですが、そう書くのです」
「……」
「大丈夫ですよ。あなたはすぐ楽になります」
その言葉で、空気が変わった。
フィーネが小さく息を止める。
俺も分かった。
署名させた後、殺す気だ。
自白書。
遺体。
クラウス一人に全部を背負わせて終わり。
雑ではない。
むしろ、貴族社会ではよくある終わらせ方だ。
死んだ者は反論しない。
家は守ると言えば、本人は縋る。
残った紙だけが真実になる。
「殿下」
フィーネの声が冷えた。
「もういいです」
「同感だ」
俺は扉を蹴った。
結局蹴った。
「なっ――!」
礼拝堂中の視線が一斉にこちらへ向く。
黒外套の男が目を見開いた。
「レオンハルト殿下」
「どうも。臨時聴取とやらの見学に来た」
「これは正式な――」
「その偽命令書、学生会長が持ってるぞ」
セレナが俺の後ろから涼しい顔で入ってくる。
「ええ。大変よくできた偽物でした」
「……」
男の表情が消えた。
切り替えが早い。
こいつは本職だ。
「クラウス」
俺は机の前の少年を見る。
「生きてるな」
「で、殿下……」
「ならいい。罪の話は後だ」
「……僕は」
「後だと言った」
クラウスは口を閉じた。
その顔は白い。
だが、まだ生きている。
フィーネが一歩前へ出た。
「その書面を離してください」
「編入生フィーネ」
黒外套の男が、初めて彼女をはっきり見た。
「やはり来ましたか」
「ええ」
「観測通り、殿下の隣から離れない」
「観測」
俺の声が低くなる。
「お前ら、何を見ている」
「さあ」
男は笑った。
「第三皇子殿下。あなたは強すぎる。強すぎるものは、測るだけでも価値がある」
「俺は物差しじゃない」
「ええ。だから面白い」
その目が、今度はフィーネへ向く。
「そして、彼女はもっと面白い」
「……」
空気が、一段冷えた。
俺の中で。
「今」
俺はゆっくり言った。
「誰を見て言った?」
「殿下」
フィーネが即座に言う。
「殺してはいけません」
「まだ何もしてない」
「今にもされそうです」
「信用がないな」
「あります。だから先に止めています」
そう言われると、少し弱い。
黒外套の男が指を鳴らした。
背後の二人が動く。
片方はクラウスへ。
もう片方は燭台へ。
「火か!」
ルシアンが低く叫ぶ。
燭台が倒される。
床に撒かれていた油へ火が走った。
同時に、クラウスの背後の男が短剣を抜く。
狙いは喉。
署名前に殺す気か、署名などもう不要と判断したか。
「遅い」
俺は床を蹴った。
風の魔力をまとわせ、一気に距離を詰める。
短剣がクラウスへ届く寸前、男の腕を掴んで捻った。
「ぐっ!」
骨が嫌な音を立てる。
殺してはいない。
殺してはいないが、痛いだろうな。
知らん。
火は広がる。
だが、広がりきる前にフィーネの魔力が床を走った。
冷気ではない。
水でもない。
空気の流れをずらし、火の舌を折る。
燃え上がろうとする油の上で、炎だけが不自然に薄くなった。
「消すのではなく、酸素を切ったか」
ルシアンが呟く。
「初学者の発想ではないですね」
「後でエルヴィナに叱られるやつだな」
「殿下、前」
フィーネの声。
黒外套の男が逃げる。
速い。
礼拝堂奥の扉へ一直線。
セレナが前に出る。
彼女の手元から細い鎖が飛んだ。
学生会長、そんなもの持ってるのか。
「逃がしません」
鎖が男の足首へ絡む。
男は体勢を崩した。
そこへルシアンが滑り込み、腕を押さえる。
「お見事」
「あなたも」
会話が上品だな。
やってることは拘束だが。
だが、男は笑った。
「遅い」
口元が動く。
また毒か。
そう思った瞬間、フィーネの魔力が男の顎を固定した。
「二度目は読めます」
男の喉が動かない。
顎も動かない。
舌も動かない。
だが、男の指が不自然に曲がった。
指輪。
内側に針。
「フィーネ!」
俺が叫ぶ。
彼女はすでに動いていた。
机上の羽根ペンを弾き、男の手首へ突き立てる。
針の向きが逸れ、毒は床へ一滴落ちた。
じゅっ、と石床が黒く焼ける。
「……危な」
「殿下」
フィーネが振り向く。
「今のは私が前に出た判定になりますか」
「なる」
「必要でした」
「だから怒りづらいんだよ」
「では後で」
「後で何だ」
「叱られます」
「自覚あるならやるな」
黒外套の男は顎を封じられたまま、目だけで笑っていた。
腹立つな。
影の護衛が飛び込み、男と取り巻きを拘束する。
火はほぼ消えた。
礼拝堂には焦げた油と紙の匂いだけが残る。
クラウスは椅子から崩れ落ちていた。
俺が近づくと、彼は震えながら顔を上げる。
「ぼ、僕は……」
「ああ」
「地竜が出るなんて、知らなかった」
「だろうな」
「魔物を寄せるだけだと。遠征を少し混乱させて、殿下の評判を落とせれば、それで……」
「誰に頼まれた」
「知らない」
「本当に?」
「本当です! 手紙と金だけで……父上の事業の穴を埋めるために、僕は……」
クラウスの声は途中で折れた。
「僕は、殿下が少し困ればいいと思っただけで……誰かを殺すつもりなんて」
「お前のつもりは、今はどうでもいい」
俺はしゃがみ、クラウスの目を見る。
「だが、生きて証言しろ」
「……」
「死んで楽になるな。自分で喋れ。自分で償え」
「……殿下」
フィーネが隣に立った。
彼女はクラウスを見下ろし、静かに言う。
「あなたのしたことは消えません」
「……分かっている」
「ですが、あなたが死ねば、あなた以外の罪まであなたのものになります」
「……」
「それは、逃げです」
きつい。
だが、必要な言葉だった。
クラウスは唇を噛み、涙をこぼした。
嫌味な伯爵家子息は、もうそこにいなかった。
ただ、怖くなって、縋って、失敗した十五、六の少年がいた。
「……話します」
「そうしろ」
その時、拘束された黒外套の男の袖から、小さな紙片が落ちた。
フィーネが拾う。
開く。
その目が、ほんのわずかに揺れた。
「何だ」
俺が聞く。
彼女は一瞬だけためらい、それから紙を俺に渡した。
そこには短い文字列があった。
『観測対象一号――第三皇子レオンハルト』
『観測対象二号――灰銀の編入生』
『同期率、予測以上』
『継続観測を推奨』
最後に、細い輪と折れた羽根の印。
倉庫で見た刺青と同じ印だ。
「……」
俺は紙片を握りしめた。
「殿下」
フィーネが呼ぶ。
「怒っておられますね」
「怒ってる」
「ここでは抑えてください」
「分かってる」
「本当に?」
「お前がいるからな」
今度は、しまったとは思わなかった。
フィーネが少しだけ黙る。
そして、小さく頷いた。
「では、私も抑えます」
「お前も怒ってるのか」
「はい」
「珍しいな」
「殿下を、物のように見ています」
「お前もだぞ」
「それも怒っています」
静かな声だった。
だが、その奥にある熱は、俺よりずっと深い場所で燃えている気がした。
セレナが偽命令書と自白書を回収する。
ルシアンが黒外套の男の指輪を布で包む。
影の護衛がクラウスを立たせる。
ようやく終わった。
少なくとも、今夜の処分は止めた。
そう思った瞬間、礼拝堂の正面扉が開いた。
「間に合ったようだな」
兄上だった。
第一皇子エドゥアルト・アズヴォルデ。
本物の本宮兵を連れて、静かに礼拝堂へ入ってくる。
「兄上」
「レオン。説明は後で聞く」
「今回は俺、割と説明できるぞ」
「それは珍しい」
「失礼だな」
兄上の視線が、拘束された黒外套の男へ移る。
そして、その袖口の印を見た瞬間、目が細くなった。
「……折れ羽根か」
「知ってるのか」
「知っている」
兄上の声が、冷えた。
「十年前に潰したはずの連中だ」
「十年前?」
「帝国の魔術研究派閥のひとつだ。人と魔物の誘引、魔力反応の観測、皇族の血筋への異常な執着。あまりに危険で、父上が直々に解体させた」
「……復活したと?」
「あるいは、残り火が消えていなかったか」
面倒。
あまりにも面倒。
俺は思わず天井を見上げた。
「フィーネ」
「はい」
「退屈ではなくなったな」
「はい」
「ちょっとなりすぎじゃないか?」
「その点は同意します」
珍しく同意された。
嬉しくない。
兄上が俺たちを見た。
「レオン」
「何だ」
「お前たちは、しばらく本宮の保護下に入れ」
「嫌だ」
「即答か」
「本宮に閉じ込められるくらいなら、学院で動く」
「狙われている自覚は?」
「ある」
俺は握った紙片を見た。
「だからこそ、動く」
「……」
兄上は溜息をついた。
そして、フィーネを見る。
「フィーネ殿。君は止めないのか」
「止めます」
「おお」
俺は少し驚いた。
「止めるのか」
「はい。殿下が一人で動こうとした場合は」
「……」
「私も同行するなら、止めません」
「それ止めるって言わないだろ」
兄上が額に手を当てた。
「なるほど。レオンがこうなった理由がよく分かる」
「俺のせいか?」
「半分は」
「もう半分は?」
「拾った相手だ」
フィーネは静かに一礼した。
「返品は不可です」
「本人が言うな」
だが、俺は笑ってしまった。
礼拝堂は焦げ臭い。
クラウスは震えている。
黒外套の男は捕まり、兄上は顔を険しくしている。
折れた羽根の印。
十年前の研究派閥。
俺とフィーネを観測対象と呼ぶ連中。
状況は最悪に近い。
けれど。
隣にはフィーネがいる。
セレナも、ルシアンも、兄上もいる。
少なくとも今夜、クラウスは死ななかった。
それだけで、次へ進める。
「殿下」
フィーネが俺を見る。
「何だ」
「最後まで責任を持ってくださいね」
「またそれか」
「はい」
「重い」
「承知しております」
彼女はいつも通り静かに言った。
「ですが、今夜の重さは、私だけのものではありません」
「……そうだな」
俺は紙片を兄上へ渡し、礼拝堂の外を見た。
夜はまだ深い。
事件も、まだ終わらない。
それでも俺は、もう退屈だとは思わなかった。
ただし。
「フィーネ」
「はい」
「次からは、走る前に靴を替えよう」
「……はい」
「珍しく素直だな」
「足が痛いので」
「やっぱり痛かったんじゃないか!」
俺が叫ぶと、フィーネは少しだけ目を逸らした。
「殿下」
「何だ」
「焦らないでください」
「今それを言うな!」
礼拝堂の重い空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
そして俺は思った。
本当に、拾う相手を間違えたかもしれない。
だがもう、間違えたままでいい。
どうせ返品は不可なのだから。