すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果 作:ヤンデレすこすこ侍
その夜、フィーネは眠らなかった。
離宮の客室。
窓の外はまだ暗く、庭園の木々は夜風に揺れている。
廊下にはいつもより多くの足音があった。
本宮兵。
近衛。
第三皇子付きの護衛。
それぞれの歩き方は違うが、どれも警戒を含んでいる。
当然だった。
礼拝堂で黒外套の男を捕らえた。
クラウス・エーベルハルトは生かした。
偽命令書と自白書を押収した。
そして、細い輪と折れた羽根の印が見つかった。
十年前に潰されたはずの魔術研究派閥。
折れ羽根。
その名を、第一皇子エドゥアルトは知っていた。
皇族の血筋への異常な執着。
人と魔物の誘引。
魔力反応の観測。
そこまで聞いた時、フィーネは理解してしまった。
あれは、殿下だけを狙ったものではない。
自分も、見られていた。
「……」
机の上には、一枚の紙が置かれている。
本物ではない。
本物はエドゥアルトが本宮兵に預けた。
これは、フィーネが記憶から書き写したものだ。
『観測対象一号――第三皇子レオンハルト』
『観測対象二号――灰銀の編入生』
『同期率、予測以上』
『継続観測を推奨』
何度見ても、不快だった。
奴隷市では、商品として見られた。
宮廷では、異物として見られた。
学院では、編入生として見られた。
それらは不愉快でも、まだ人の目だった。
欲、警戒、嫉妬、好奇心、打算。
どれも人間らしいものだ。
だが、観測対象という言葉には、それがない。
人ではなく、現象。
意思ではなく、反応。
感情ではなく、数値。
殿下をそう見た。
自分をそう見た。
だから、フィーネは怒っていた。
けれど、怒りだけではなかった。
「観測対象二号……」
声に出すと、冷たく響いた。
灰銀の編入生。
それだけなら、まだ分かる。
奴隷市で拾われ、第三皇子の隣へ立ち、学院で目立ちすぎた。
見張られる理由はある。
だが、同期率。
その言葉だけが、異様だった。
同期。
何と何が。
誰と誰が。
考えるまでもない。
レオンハルトと、フィーネ。
殿下の規格外の魔力。
フィーネの補助と制御。
それらが噛み合うことを、彼らは観測していた。
なら、自分はいつから見られていたのか。
学院に入ってからか。
宮廷で名が広まってからか。
奴隷市で殿下に拾われてからか。
それとも。
「……もっと前から」
小さく呟いた瞬間、古い記憶が浮かんだ。
まだ家が潰れる前。
父が生きていた頃。
母がまだ、穏やかに笑っていた頃。
幼いフィーネは、父の帳場の隅で遊んでいた。
帳簿。
香料の瓶。
荷札。
秤。
商人たちの声。
乾いた紙の匂い。
その中で、フィーネは一度だけ、母をひどく怯えさせたことがある。
『お母さま』
自分は何を言ったのだったか。
『あの人の手のところ、線が曲がっています』
商談に来ていた客の指先。
そこに流れる、薄い光の筋。
今なら分かる。
魔力の流れだ。
未熟で、乱れていて、術式を扱えば暴発しそうな流れ。
幼いフィーネには、それがただ見えていた。
見えるものを見えると言っただけだった。
父は意味が分からない顔をした。
客は笑った。
だが、母だけが笑わなかった。
母はフィーネを別室へ連れていき、両肩を掴んだ。
痛いほどではない。
だが、幼い子供が驚くには十分な強さだった。
『フィーネ』
母の声は、震えていた。
『あなたは普通の子よ』
『でも』
『普通の子よ』
『お母さま、でも私』
『いいえ』
母は笑おうとしていた。
でも目が笑っていなかった。
『あなたは普通の子。いいですね』
その言葉は、それから何度も繰り返された。
魔術の授業を正式に受けていないのに、屋敷の暖炉の火の揺れを見て燃え方の違いを言い当てた時。
父の帳簿に混じった妙な符号を見て、これだけ気持ちが悪いと指摘した時。
母が熱を出した夜、薬湯の香りに混じる苦い成分を嫌だと言った時。
そのたび母は言った。
『フィーネ、あなたは普通の子よ』
あの時は、慰めだと思っていた。
あるいは、母の願いだと。
だが今なら分かる。
あれは、隠すための言葉だったのかもしれない。
フィーネは机の上の紙へ視線を落とした。
「普通……」
その言葉が、今になってこんなに遠くなるとは思わなかった。
普通ではない。
そう言われることは怖くない。
むしろ、殿下の隣に立つには、普通で済む方が困る。
だが。
もし、自分の普通ではなさが、殿下を狙う者たちと繋がっているのなら。
もし、自分が殿下の隣にいることで、殿下への危険が増しているのなら。
「……」
フィーネは紙を折った。
丁寧に、角を揃えて。
それから、別の紙を取り出す。
書くべきことは多い。
父の名。
母の旧姓。
商会の名。
借財の発生時期。
差し押さえに関わった商人。
奴隷市へ至るまでに接触した者。
弟と妹が覚えていること。
そして、母が繰り返した言葉。
フィーネは羽根ペンを取った。
眠れないなら、眠らなければいい。
怖いなら、怖いまま進めばいい。
殿下の隣に立つと決めた。
なら、自分の過去がそこに影を落とすなら、その影ごと見なければならない。
逃げたくない。
逃げれば、殿下の隣から一歩下がることになる。
それだけは、嫌だった。
***
翌朝。
俺は一睡もしていなかった。
「殿下」
書斎の扉を開けたガレスが、無表情でこちらを見る。
「顔色が悪うございます」
「珍しくまともな報告だな」
「普段の報告もまともでございます」
「俺の顔が気持ち悪いとか言うくせに」
「事実報告でございますので」
この爺、本当にぶれない。
礼拝堂から戻った後、俺たちは離宮へ帰された。
いや、正確には帰されたというより、兄上が本宮兵を離宮へ差し向けるという条件で、俺が押し切った。
本宮の保護下に入れ。
嫌だ。
では離宮へ本宮兵を置く。
邪魔だ。
なら父上に報告する。
分かった、置け。
そういう交渉である。
俺が負けたように見えるが、実際わりと負けた。
「寝ていない理由をお聞きしても?」
「聞かなくても分かってるだろ」
「折れ羽根」
「ああ」
「観測対象」
「ああ」
「フィーネ様」
「ああ」
「分かりやすうございますな」
「うるさい」
ガレスは茶を置いた。
濃いめだ。
寝不足の時の俺用である。
「クラウスは?」
「本宮の拘束室へ。第一皇子殿下の管理下です」
「黒外套は」
「同じく」
「口は割ると思うか」
「簡単には」
「だよな」
あの男の目は、クラウスとは違った。
追い詰められた小物ではない。
捕まることすら想定に入れて動く人間の目だった。
面倒だ。
本当に面倒だ。
「殿下」
ガレスが言う。
「本日は学院を休まれても」
「無理だな」
「でしょうな」
「分かってるなら言うな」
「一応、執事らしい進言をしておく必要がございました」
「執事らしいな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
そんなやり取りをしていると、扉が叩かれた。
「入れ」
入ってきたのは、フィーネだった。
いつも通り身支度は整っている。
灰銀の髪も乱れていない。
服装もきちんとしている。
立ち姿も真っ直ぐだ。
だが、目元で分かった。
「お前、寝てないな」
「少し目を閉じました」
「それは睡眠じゃない」
「殿下もでは?」
「俺は皇族だからいい」
「理屈になっておりません」
「最近お前、俺への反論が速いな」
「対等ですので」
出た。
便利なやつ。
フィーネは一礼し、俺の前へ進んだ。
その手には数枚の紙がある。
「殿下」
「なんだ」
「お願いがあります」
「珍しいな」
フィーネが何かを要求する時は、たいてい最短距離だの必要ですだのと言って押し切る。
お願い、という形で来るのは少ない。
「私の家系について、調査を入れてください」
書斎の空気が、少しだけ変わった。
ガレスの視線が紙へ向く。
俺は茶杯を置いた。
「家系?」
「はい」
「父親の商いの失敗と借金の件か」
「それも含めて」
「含めて、ということは」
「母方も」
フィーネの声は静かだった。
だが、普段の静けさとは少し違う。
何かを抑え込んだ静けさだ。
「理由を聞いてもいいか」
「昨夜の紙片です」
フィーネは一枚目の紙を差し出した。
そこには、俺もよく覚えている文字が写されていた。
『観測対象二号――灰銀の編入生』
「記憶で書いたのか」
「はい」
「お前、こういう時の精度が怖いな」
「必要でしたので」
「だろうな」
俺は紙を眺める。
観測対象一号。
観測対象二号。
同期率。
改めて見ると、腹の奥が熱くなる。
怒りだ。
俺は自分が見られることには慣れている。
皇族だからな。
品定め、値踏み、期待、警戒。
そういうものは生まれた時から浴びてきた。
だが、これは違う。
フィーネまで同じ紙に並べられているのが、どうにも気に食わない。
「殿下」
「なんだ」
「怒っておられますね」
「怒ってる」
「ここでは抑えてください」
「昨日も聞いたな、それ」
「昨日より近くに花瓶がございますので」
「俺を何だと思ってる」
「投げそうな方です」
「信用が低い」
「高いから先に止めています」
言い返せないのが腹立つ。
フィーネは続けた。
「折れ羽根は、殿下の血筋と魔力に執着している」
「ああ」
「それは分かります」
「分かりたくはないがな」
「ですが、私まで観測対象にした理由が曖昧です」
「お前が目立ったからじゃないのか」
「それだけなら、同期率という言葉は使わないかと」
その通りだ。
「私の能力が、殿下の魔力と組み合わさることを見ている」
「……」
「なら、彼らは私の能力そのものにも関心がある」
「だろうな」
「そして、その関心が学院に入ってから生まれたものとは限りません」
俺はフィーネを見た。
「心当たりがあるのか」
「心当たり、というほど確かなものではありません」
フィーネは少しだけ目を伏せた。
「幼い頃、母が何度も言っていました」
「何を」
「フィーネ、あなたは普通の子よ、と」
普通の子。
その言葉だけなら、母親が娘に言うにはおかしくない。
だが、今の流れで出てくると、途端に嫌な響きになる。
「どういう時に?」
「私が、他人の魔力の流れや、触媒の違和感を口にした時です」
「……」
「当時は、母が私を安心させているのだと思っていました」
「今は?」
「隠していたのかもしれません」
フィーネの声は、淡々としていた。
だが、指先がほんの少しだけ紙を握り込んでいる。
「父は商いに失敗して借財を作った。私はそう理解していました」
「ああ」
「ですが、あの時期のことを思い返すと、不自然な点があります」
「例えば」
「母が、父の取引先の名を私たち子供の前で口にしなくなったこと」
「……」
「帳簿の一部を、夜に燃やしていたこと」
「……」
「父が亡くなる少し前、母が私に、絶対に人前で見えるものを言ってはいけないと言ったこと」
重い話だった。
そして俺は、今さら気づく。
俺はフィーネに多くを与えた。
身分。
財産。
教育。
居場所。
未来。
そんな大きなものを与えた気になっていた。
だが、フィーネが失ったものの輪郭を、俺はほとんど知らない。
父がどんな人間だったか。
母が何を恐れていたか。
彼女が何を見て育ったか。
家が潰れる時、何が起きたか。
俺が知っているのは、奴隷市で聞いた要約だけだ。
借金。
両親の死。
弟妹を食わせるための身売り。
それだけだった。
「殿下」
フィーネはまっすぐ俺を見た。
「私の過去を調べれば、殿下を巻き込むかもしれません」
「もう巻き込まれてるだろ。俺、一号だぞ」
「番号で呼ぶのは不快です」
「言ったの俺なんだが?」
「殿下もお控えください」
「はい」
反射で返事をしてしまった。
最近、俺の扱いが明らかに変わってきている。
「続けろ」
「はい」
フィーネは息を整えた。
「私の家に何かがあったとして、それが折れ羽根に関係しているなら、殿下の隣にいる私は危険を運んでいる可能性があります」
「……」
「ですので」
「離れるとか言うなよ」
先に言った。
フィーネが目を見開く。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「言いません」
「言わないのか」
「はい」
「そこは言わないんだな」
「離れる選択肢はありませんので」
「それはそれで重い」
「承知しております」
即答。
安心したのに、重い。
この女、本当に加減が難しい。
「ただ」
フィーネは紙を胸元へ引き寄せた。
「私は、殿下の隣にいるために、自分が何者なのか知る必要があります」
「……」
「殿下を巻き込むかもしれません。それでも、知る必要があります」
「怖いか」
「怖いです」
「隠さないんだな」
「殿下には、隠しても無駄ですので」
「そうか」
「はい」
俺はしばらく黙った。
怖いと言いながら、フィーネは退かない。
不安を見せながら、離れない。
危険を自覚しているのに、調べると言う。
それは、俺が欲しかった対等に近いものだった。
従うだけなら、俺の判断を待てばいい。
守られるだけなら、黙って俺の庇護の中にいればいい。
だがフィーネはそうしない。
自分の不安を、自分で差し出してくる。
その上で、俺に選ばせる。
ずるいな、と思った。
こんなの、断れるわけがない。
「ガレス」
「はい」
「エレノアス家について洗え」
「エレノアス、でございますか」
「フィーネの実家だ」
フィーネが頷く。
「父はヴェネル・エレノアス。商会は香料を主に扱っていました」
「香料」
「はい。ただ、父の帳簿には触媒に近い品目も混じっていた記憶があります」
「触媒……」
嫌な単語だ。
昨夜の誘引香。
黒鴉商会。
魔物。
折れ羽根。
全部が薄い糸で繋がり始めている気がする。
「母の旧姓は?」
「……正確には、分かりません」
「分からない?」
「母は、ほとんど語りませんでした。父も」
「隠していた可能性があるな」
「はい」
ガレスが静かに一礼した。
「商務院の記録、戸籍、債務処理、差し押さえに関わった商会。確認いたします」
「急げ」
「いつもより急ぎで?」
「最短で」
「最近、客人殿に似てこられましたな」
「やめろ」
「光栄です」
「お前も乗るな、フィーネ」
フィーネは真顔だった。
たぶん本当に光栄だと思っている。
重い。
「それと」
俺は続けた。
「兄上にも話を通す」
「よろしいのですか」
「折れ羽根絡みなら、俺だけで抱えるより早い」
「殿下が、最初から共有を」
「何だその目」
「成長を感じました」
「お前、俺をいくつだと思ってる」
「十五歳です」
「正論で刺すな」
ガレスが咳払いで笑いを誤魔化した。
絶対楽しんでるな、この爺。
***
その日の午前、俺たちは本宮の小謁見室にいた。
寝不足の俺。
寝不足のフィーネ。
なぜか顔色ひとつ変えないガレス。
そして、明らかに寝ていないのに穏やかな顔をしている兄上。
皇族って怖いな。
俺も皇族だが。
「一晩で来るとは思っていたよ」
兄上が言った。
「なら先に呼べ」
「呼べば逃げるだろう」
「逃げない」
「学院へ行くと言い張る」
「それは逃げではない」
「言い換えただけだな」
兄上は穏やかに笑っている。
だが目は笑っていなかった。
昨夜の折れ羽根の件で、相当苛立っているのだろう。
「それで、用件は」
「フィーネの実家を調べる」
「理由は」
「折れ羽根がこいつを観測対象二号と呼んだ」
「……」
「同期率なんて言葉まで使っている。俺との組み合わせを見ているなら、フィーネ側にも理由があるかもしれない」
兄上の視線がフィーネへ移る。
「君自身は、それを望むのか」
「はい」
フィーネは一歩も退かず答えた。
「私の過去が殿下に危険を運ぶなら、知らないままでいる方が危険です」
「知った結果、君自身が傷つく可能性もある」
「承知しております」
「弟妹にも影響が及ぶ」
「それも、承知しています」
兄上はしばらくフィーネを見ていた。
人の内側を測るような、穏やかで厄介な目だ。
「レオン」
「何だ」
「君は止めないのか」
「止めたら意味がない」
「……」
「こいつが自分で知ると決めたなら、俺がやるのは止めることじゃない。調べられるようにすることだろ」
言ってから、少しだけ気まずくなった。
なんか真面目なことを言った気がする。
フィーネがこちらを見ていた。
「何だ」
「いえ」
「何か言いたそうな顔だ」
「殿下が、私の選択を当然のように扱ってくださるので」
「おう」
「少し、困ります」
「なんでだ」
「嬉しいので」
「朝から重い」
「はい」
兄上が額に手を当てた。
「本当に、君たちは……」
「何だ」
「いや。続きを」
兄上は諦めたように息を吐いた。
「商務院、戸籍院、債務裁定所の記録は手配できる。問題は、十年前の折れ羽根解体記録だ」
「封じられてるのか」
「父上直轄案件だ。私の権限でも全ては開かない」
「面倒だな」
「面倒で済ませるな」
その時、小謁見室の脇扉が開いた。
「面倒で済ませるから、あなたはいつも怒られるのよ」
入ってきたのはアリサ姉上だった。
第二皇女アリサ・アズヴォルデ。
穏やかな顔のまま、核心に指を突っ込んでくる女。
宮中の情報網という意味では、兄上より怖い時がある。
「姉上」
「夜中に礼拝堂を蹴破った弟がいると聞いて、様子を見に来たわ」
「蹴破ったのは扉だ」
「誇るところではないわね」
「はい」
つい返事をしてしまった。
姉上は満足そうに微笑み、フィーネを見る。
「フィーネさん、足は大丈夫?」
「……はい」
「走る靴ではなかったのでしょう」
「なぜそれを」
「レオンが騒いでいたから」
「殿下」
「俺のせいか?」
「殿下のせいですね」
「ひどい」
だが、フィーネの表情がほんの少し緩んだ。
姉上はそれを見てから、兄上の隣へ立つ。
「エレノアス家の記録なら、商務院より先に社交記録を当たった方が早いかもしれないわ」
「社交記録?」
「商家でも、上流貴族との取引があったなら招待状や紹介状が残る。香料商なら特に」
「なるほど」
「それに、婚姻時の旧姓が正式戸籍から薄められていても、招待名簿には残ることがある」
「姉上、なんでそういうことに詳しいんだ」
「女の社交は、帝国で一番丁寧な諜報よ」
「怖いことを綺麗に言うな」
フィーネは真剣に頷いていた。
いや、学ぶな。
それ以上怖くなるな。
「ありがとうございます、アリサ殿下」
「いいのよ。ただし」
姉上の声が、少しだけ柔らかくなる。
「自分の過去を掘るのは、書類を掘るのとは違うわ。出てきたものが、あなたの望む形をしているとは限らない」
「はい」
「それでも?」
「それでも、知ります」
フィーネは言った。
「知らないまま殿下の隣に立つ方が、怖いので」
姉上は数秒黙った。
それから、俺を見た。
「レオン」
「何だ」
「あなた、本当に大変な子を拾ったわね」
「最近そればっかり言われる」
「事実だもの」
「本人の前で」
「本人が一番分かっているでしょう?」
「はい」
フィーネが即答した。
「返品は不可ですので」
「昨日からそれ、流行らせる気か?」
「必要事項です」
「何にだよ」
「殿下の認識に」
「重い」
兄上と姉上が、同時に小さく笑った。
皇族二人に笑われるのは、なかなか腹立たしい。
***
最初の報告が来たのは、その日の夕刻だった。
早すぎる。
そう思ったが、ガレスとアリサ姉上が同時に動いたなら、まあそうなるのだろう。
帝国の書類というのは、権限を持つ者が正しい場所を叩くと、驚くほど早く出てくる。
離宮の書斎。
俺とフィーネ、ガレス。
さらに、なぜかエルヴィナまでいた。
「なぜいる」
「あなた方が朝から私の研究室に、触媒だの折れ羽根だのと書いた紙を投げ込んだからです」
「投げ込んではいない」
「実質同じです」
「実質で罪を増やすな」
エルヴィナは銀縁眼鏡を押し上げ、机の上の資料を見た。
「エレノアス商会。中堅香料商。扱いは南方香料、乾燥薬草、保存用樹脂、少量の魔術触媒」
「触媒を扱っていたのは普通なのか?」
「香料商ならありえます。香りと触媒は原料が重なることがある」
「なるほど」
「ただし」
エルヴィナの声が冷える。
「倒産の直接原因が妙です」
「妙?」
「商いの失敗、というより、禁制品混入による信用失墜です」
「……」
フィーネの指が、膝の上でわずかに強く組まれた。
「禁制品」
「指定外触媒。しかも、かなり厄介な系統です」
「どんな」
「魔物誘引香の基材に近い」
部屋の空気が止まった。
魔物誘引。
北方遠征。
クラウス。
黒鴉商会。
折れ羽根。
また一本、糸が繋がった。
「父は」
フィーネの声は、静かだった。
「父は、そのようなものを扱う人ではありませんでした」
「分かっている」
俺は即答した。
フィーネがこちらを見る。
「殿下は、父をご存じではありません」
「知らない」
「でしたら」
「だが、お前が今そう言った」
俺は資料を見たまま言う。
「なら、まずはそこから始める」
フィーネが黙った。
珍しく、言葉を探しているようだった。
「……殿下は」
「なんだ」
「時々、驚くほど雑に人を信じますね」
「今それか?」
「はい」
「呆れてる?」
「少し」
「ひどい」
「でも」
フィーネは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「救われます」
「……」
そういうのを、不意打ちで入れるな。
エルヴィナが咳払いした。
「続けますよ」
「頼む」
「混入事件の後、エレノアス商会は取引停止。債務整理。家財差し押さえ。関連書類の一部が、妙に綺麗に処理されています」
「綺麗?」
「汚れがなさすぎる。誰かが、後から見ても破綻しないよう整えた形跡があります」
「つまり?」
「嵌められた可能性があります」
フィーネは目を閉じた。
怒りではない。
悲しみでもない。
少なくとも、表には出ていない。
ただ、何かを内側へ沈めるような顔だった。
「もう一つ」
ガレスが別の紙を差し出した。
「アリサ殿下より、婚姻関係の社交記録の写しが届いております」
「早いな、姉上」
「恐ろしく早うございます」
ガレスに言わせるほどか。
「フィーネ様の母君に関する記録ですが」
「はい」
フィーネの声が少しだけ低くなる。
「エレノアス家へ嫁いだ際の名は記録されています。ですが」
ガレスは紙を机に置いた。
古い招待名簿の写し。
そこには、父ヴェネル・エレノアスの名。
隣に母の名。
そして、本来なら旧姓が記されているはずの欄。
その部分だけが、不自然に空いていた。
いや、空いているのではない。
削られていた。
写し越しでも分かる。
紙の繊維が乱れ、文字があった部分だけが薄く剥がされている。
「……」
フィーネは、その欄をじっと見ていた。
「母は」
小さく呟く。
「何を、隠していたのでしょう」
俺は何も言えなかった。
昨日まで、これは俺とフィーネを観測対象と呼ぶ連中の問題だった。
クラウスを唆し、遠征に魔物を寄せ、礼拝堂で口封じをしようとした敵の問題だった。
だが、今。
その影は、フィーネの家にまで伸びていた。
父の商い。
母の旧姓。
幼い頃の言葉。
普通の子よ、という祈りのような嘘。
フィーネは紙から目を離さない。
その横顔は静かで、危うくて、けれど折れてはいなかった。
「殿下」
「なんだ」
「私は、知ります」
「ああ」
「知った上で、殿下の隣に立ちます」
「ああ」
「もし、私の過去が重いものでも」
「今さらだろ」
「……」
「お前自体が十分重い」
「そういう意味では」
「分かってる」
俺は紙の削られた欄を見る。
「でもまあ、今さらだ」
フィーネがゆっくりこちらを見る。
「今さら、何が出てきたくらいで、お前を返品できると思うなよ」
「……殿下」
「できないんだろ、返品」
「はい」
フィーネは、ほんの少しだけ笑った。
「不可です」
「本人が嬉しそうに言うな」
だが、その笑みを見て、俺は思った。
退屈ではない。
ああ、本当に退屈ではない。
ただし、少しばかり重すぎる。
事件も、過去も、隣にいる女も。
それでも。
俺は机の上の紙を手に取った。
「ガレス」
「はい」
「明日から、エレノアス商会の取引記録を全部洗う」
「承知しました」
「エルヴィナ」
「嫌な予感しかしません」
「触媒の照合を頼む」
「もう始めています」
「早いな」
「あなた方に巻き込まれると、後手に回るだけ損ですので」
「みんな適応してきたな」
最後に、俺はフィーネを見る。
「お前は」
「はい」
「今日は寝ろ」
「ですが」
「寝ろ」
「調査の整理が」
「寝ろ」
「殿下も」
「俺も寝る」
「本当に?」
「たぶんな」
「では私も善処します」
「寝ろって言ってるだろ!」
フィーネは少しだけ目を細めた。
その顔には、疲れがあった。
不安もあった。
けれど、ほんのわずかに安堵もあった。
「殿下」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
「では、先払いです」
「商人の娘だな」
「はい」
フィーネは削られた旧姓欄の写しを、丁寧に畳んだ。
「ですので、必ず回収します」
何を、とは聞かなかった。
過去か。
名前か。
真実か。
母の言葉の意味か。
たぶん、その全部だ。
そして俺はもう、分かっていた。
この女は、一度そう決めたら止まらない。
俺の隣に来るために、学院も宮廷も踏み越えてきた。
なら今度は、自分の過去すら踏み越えてくる。
しかも俺を巻き込みながら。
「……やっぱり、拾う相手を間違えたな」
「返品は不可です」
「言うと思った」
フィーネが静かに微笑む。
その笑みは、奴隷市で初めて見たものより少しだけ柔らかく、
けれど、逃げ道のなさだけは相変わらずだった。
机の上には、削られた旧姓欄。
折れ羽根の影。
父の商いの記録。
夜はまた深くなっていく。
事件は終わらない。
むしろ、ここから始まるのだろう。
俺は茶杯を取り、すっかり冷めた茶を飲んだ。
「まずい」
「殿下。寝不足で味覚が鈍っておられるのでは」
「茶が冷めてるんだよ」
「では、淹れ直します」
「お前は寝ろ」
「殿下が寝るなら」
「条件付きかよ」
重い。
本当に重い。
だが、フィーネが隣にいるなら。
たとえ過去がどれだけ重くても。
俺は、もう退屈だとは思わないのだろう。