すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果 作:ヤンデレすこすこ侍
令状が出るまで、半刻とかからなかった。
早い。
早すぎる。
本宮の小会議室に通された俺は、卓上に置かれた黒い封筒を見下ろしていた。
封蝋は赤。
刻まれているのは皇帝印。
つまり父上の直命である。
「……父上、仕事が早いな」
「この件で遅い方が困るだろう」
兄上が平然と返す。
その手元には、すでに写しが三通並んでいた。
黒鴉商会本店。
北区三番街中継倉庫。
学院出入り荷役記録に関わる関連事業所。
全部を同時に押さえるらしい。
手際が良すぎる。
敵に回したくない。
「殿下」
隣のフィーネが静かに言った。
「顔に出ています」
「どの顔だ」
「父帝陛下まで動くと面倒だな、という顔です」
「正確だな」
「そろそろ隠す努力を」
「今さらか?」
「今さらでも、です」
兄上が小さく息を吐いた。
「レオン。君の名も入っている」
「見た」
令状の下部。
執行責任者として、第一皇子エドゥアルト・アズヴォルデ。
その隣に、第三皇子レオンハルト・アズヴォルデ。
俺の名が並んでいた。
「兄上」
「何だ」
「俺は名前を貸すだけの認識だったんだが」
「貸した名には責任が伴う」
「急に重い」
「皇族の名とはそういうものだ」
「普段からもう少し軽く扱ってくれ」
「断る」
即答だった。
ひどい。
フィーネが令状の文面を確認している。
視線が速い。
寝不足のはずなのに、目だけが完全に働いていた。
「殿下」
「何だ」
「本店への突入は本宮兵が正面から。裏口と地下搬入口は影の護衛。中継倉庫は既に監視下。荷車は止めず、出た瞬間に押さえる方がよろしいかと」
「お前、読む前から組んでなかったか?」
「先に仮案を」
「早い」
「遅いです」
「遅くはない」
兄上がフィーネを見る。
「君も同行するつもりか」
「はい」
「危険だ」
「承知しております」
「それでも?」
「帳簿の読み分けが必要です。商会側が焼くべき帳簿と、残して誤魔化す帳簿を分ける可能性がありますので」
「……」
兄上は黙った。
反論を探している顔だった。
だが、見つからなかったらしい。
「レオン」
「何だ」
「止める気は?」
「ある」
「珍しいな」
「ただ、止めても無駄だとも分かってる」
「ご理解いただけて幸いです」
「褒めてない」
フィーネは平然としていた。
怖いと言った。
辛いものが出る可能性も承知していると言った。
それでも、退かない。
なら、俺がやることは一つだ。
「俺も行く」
「だろうね」
兄上は諦めたように頷いた。
「ただし、前に出すぎるな」
「俺に言うな」
「君に言っている」
「フィーネにも言え」
「フィーネ殿」
「はい」
「前に出すぎないように」
「殿下が出なければ」
「お前、それ万能の条件だと思ってないか」
「かなり有効かと」
兄上が額に手を当てた。
「……本当に、二人まとめて扱いに困るな」
失礼な。
少しだけ事実だが。
***
黒鴉商会本店は、北区でも表側にあった。
三番街の裏通りにある中継倉庫とは違い、本店はそれなりに立派だ。
黒塗りの扉。
鳥の意匠を使った看板。
出入りする荷車。
帳場の奥から漂う紙と油と香料の匂い。
表向きは、普通の運送商会だった。
だが、普通の運送商会に本宮兵が二十人も押し寄せることはない。
「帝室令状である」
先頭の本宮兵が扉を開け、低く告げた。
店内の空気が一瞬で凍る。
「黒鴉商会および関連倉庫、帳簿、荷役記録、契約書類、封緘済み貨物の一切を押収する」
帳場にいた男たちが固まった。
客のふりをしていた連中も動きを止める。
誰かが奥へ走ろうとした瞬間、影の護衛が肩を掴んだ。
「早いな」
「殿下ほどではございません」
隣に現れた影の護衛が、何食わぬ顔で答えた。
最近、みんなその返しを使いすぎでは?
商会の年配職員が、震える声で言った。
「お、お待ちください。商会長に確認を――」
「商会長はどこだ」
兄上の声は静かだった。
静かすぎて、店内の誰もが余計に固まる。
「そ、それは……今朝より所用で」
「逃げたな」
俺が言うと、職員の顔が真っ白になった。
「逃げたのか」
「い、いえ、そうではなく」
「なら行き先を言え」
「……」
言えない。
つまり逃げた。
「殿下」
フィーネが小さく声を落とす。
「奥から焦げ臭い匂いがします」
「どの奥だ」
「右奥。帳場裏の小部屋です」
「燃やしてるか」
「はい」
俺は兄上を見る。
兄上はすでに本宮兵へ合図していた。
「押さえろ」
短い命令で、兵が動く。
俺も続こうとしたが、フィーネが先に動いた。
「フィーネ」
「紙はすぐ燃えます」
「お前もすぐ動くな」
言いながら俺も走る。
結局、同じだ。
右奥の扉は内側から閉じられていた。
煙が隙間から漏れている。
本宮兵が開錠具を取り出すより早く、俺は扉を蹴り抜いた。
「殿下」
「時間短縮だ」
「証拠品の破損を」
「扉は証拠品じゃないだろ」
「扉裏に印があれば証拠品です」
「先に言え」
小部屋の中では、若い職員が火鉢へ紙束を突っ込もうとしていた。
その手首を影の護衛が押さえる。
同時に、フィーネの魔力が走った。
風が止まる。
火が潰れる。
煙だけが薄く渦を巻き、天井近くへ逃がされる。
「……綺麗だな」
「褒めている場合ではありません」
フィーネは焦げかけた紙束を拾い上げる。
端が黒くなっていたが、文字は残っていた。
「荷役記録。学院行き、砦行き、第三皇子宮行きが混ざっています」
「燃やすにはちょうどいいな」
「はい。燃やしてはいけないものです」
若い職員は青ざめて震えていた。
クラウスと似ている。
末端の顔だ。
「誰に命じられた」
兄上が問う。
職員は唇を震わせる。
「ば、番頭のロルフ様に……」
「ロルフは」
「裏口から……」
言い終える前に、外から短い笛の音がした。
影の合図だ。
ガレスが静かに入ってくる。
「番頭ロルフ、確保いたしました」
「早い」
「逃げる方が遅うございました」
「お前、最近少し辛辣だな」
「周囲の影響かと」
「誰だ」
「殿下とフィーネ様でございます」
「半々にするな」
フィーネが焦げた紙束を机に置き、奥の棚へ目を向けた。
「殿下」
「また何か見つけた顔だな」
「棚の埃が不自然です」
「埃?」
「表の帳簿棚はよく使われています。ですが、右下の列だけ、最近動かした跡があります」
「隠し棚か」
俺が近づこうとすると、フィーネが手で止めた。
「罠の可能性が」
「商会の棚に?」
「折れ羽根が絡んでいるなら、棚でも箱でも罠です」
「嫌な世の中だな」
エルヴィナが背後から現れた。
「魔術罠なら私が見ます」
「いつ来た」
「あなた方が扉を壊した頃です」
「壊してない。蹴っただけだ」
「結果は同じです」
エルヴィナは棚の前に立ち、指先を軽くかざす。
金の目が細くなる。
「簡単な燃焼式です。こじ開けると中身が燃える」
「やっぱりか」
「雑ですが実用的」
「解除できるか」
「誰に聞いています?」
エルヴィナは鼻で笑い、細い魔力糸を棚の隙間へ通した。
一瞬、赤い光が走る。
次に、ぱきりと小さな音がした。
「終わりです」
「便利だな」
「褒め言葉として受け取ります」
「珍しいな」
「事実ですので」
みんなその言葉を使うな。
棚の板を外すと、奥に鉄箱があった。
黒い箱だ。
鍵穴には黒鴉の意匠。
さらに、端には小さく折れた羽根の印。
店内の空気が変わった。
「開けるぞ」
俺が言うと、フィーネが首を横に振った。
「鍵で開けます」
「鍵は」
「番頭が持っているかと」
ガレスが後ろの兵へ合図する。
捕らえられた番頭ロルフが連れてこられた。
中年の男だ。
脂ぎった顔。
だが、目だけはやけに冷静だった。
「これは何だ」
兄上が問う。
ロルフは口を閉じた。
「黙るか」
「……商会の、重要帳簿です」
「鍵は」
「商会長が」
「嘘ですね」
フィーネが即答した。
ロルフの目がわずかに動く。
「なぜ」
「あなたの腰帯の内側。金属音が二度しました」
「……」
「それと、商会長が逃げた後に燃やすよう命じられた帳簿を、番頭が開けられないはずがありません」
「お前、怖いな」
「必要ですので」
ロルフはしばらく黙っていたが、影の護衛が腰帯を探ると、薄い鍵束が出てきた。
「ほら」
「ほら、ではありません。殿下ももう少し観察を」
「お前の観察基準が高すぎるんだよ」
鍵が差し込まれる。
鉄箱が開く。
中には帳簿があった。
黒い革表紙。
年ごとに番号が振られている。
一冊、二冊、三冊――十二冊。
表紙には、商会帳簿らしい項目名はない。
ただ、細い文字でこう書かれていた。
『観測記録』
***
押収品の一次確認は、本店二階の応接室で行われた。
本来なら商談に使う部屋だろう。
壁には安っぽい風景画。
卓上には冷えた茶。
窓の外では、本宮兵が商会の看板へ封鎖布をかけている。
黒鴉商会は、終わった。
少なくとも表向きの商会としては、もう動けない。
荷車は止められ、帳簿は押収され、職員は拘束され、関連倉庫にも同時に手が入っている。
だが、終わった気がしない。
むしろ、ようやく箱を開けただけだ。
「十二年分」
兄上が低く呟く。
「黒鴉が折れ羽根に関わっていた期間か、それ以前からの観測か」
「表紙だけでは分かりません」
フィーネは一冊目ではなく、一番新しい帳簿を選んだ。
「新しいものから見ます」
「なぜ」
「古いものから見れば全体像は分かります。ですが今必要なのは、現在動いている線です」
「なるほど」
彼女は帳簿を開いた。
紙の匂いがした。
古い紙ではない。
最近、何度も開かれた紙の匂いだ。
フィーネの指が、行を追う。
俺は隣から覗き込む。
荷の移動。
金の流れ。
学院周辺の出入り。
貴族家への少額送金。
薬種商オルド薬房。
北方旧街道。
誘引香基材。
知っている単語が次々に並んでいた。
嫌な確認だった。
思っていた通りだった、という嫌さである。
「クラウス様への支払いがあります」
「金額は」
「小さいです。ですが継続的」
「小物を飼う金額だな」
「はい」
フィーネは淡々と頁をめくる。
「ヨナス様の名もあります。こちらは金銭ではなく、父親の治療費肩代わり」
「弱みか」
「弱みです」
次の頁。
さらに次。
そして、フィーネの手が止まった。
「……」
止まった。
完全に。
「フィーネ?」
俺が呼ぶ。
返事がない。
彼女の灰銀の目は、帳簿の一箇所に固定されていた。
俺もそこを見る。
そこには、見慣れた名があった。
『観測対象一号:第三皇子レオンハルト・アズヴォルデ』
その下。
『観測対象二号――灰銀の編入生』
さらに続く。
『接触地点:皇都南区奴隷市』
『接触日:冬月十二日』
『観測開始:翌日』
『初期同期反応:予測値を超過』
『継続観測を推奨』
部屋が、妙に静かになった。
帳簿の文字は小さい。
淡々としている。
人の人生を記録しているくせに、まるで荷物の重さを書いているみたいだった。
「奴隷市の翌日……」
フィーネが小さく呟いた。
その声は、普段よりほんの少しだけ薄かった。
「つまり」
「フィーネ」
俺は先に呼んだ。
彼女は帳簿から目を離さない。
「私は、選ばれて拾われたのではなく、もしや――」
「俺が選んだ」
俺は言った。
考えるより先に、言葉が出た。
フィーネの目がこちらに向く。
「殿下」
「俺が選んだ。それは事実だ」
「……」
「お前が奴隷市にいた理由に、こいつらが関わっているかどうかは分からない」
「はい」
「お前の家が潰れたことに、こいつらが噛んでいるかもしれない。それも分からない」
「はい」
「だが、あの日、檻の前で、お前を見て、こいつは面白そうだと思ったのは俺だ」
「……」
「お前の目が死んでなくて、俺に『寂しいんですね』とか抜かしたから、俺が勝手に決めた」
「……抜かした」
「抜かしただろ」
「申し上げました」
「上品にするな」
フィーネの瞳がわずかに揺れた。
揺れて、少しだけ戻った。
「俺は命じられてない。誘導もされてない。誰かの紙切れで、お前を拾ったわけじゃない」
「……」
「俺が選んだ。それだけは、誰にも渡すな」
言ってから、少しだけ気まずくなった。
重い。
これは俺も重い。
フィーネはしばらく黙っていた。
そして、静かに息を吸った。
「殿下」
「何だ」
「今の発言は、記録しても?」
「するな」
「重要です」
「するな」
「私個人の記録に」
「余計にするな」
「では、覚えておきます」
「それは止めようがないな」
フィーネは小さく頷いた。
顔色はまだ白い。
だが、目の焦点は戻っていた。
「ありがとうございます」
「礼を言うことか」
「はい」
「そうか」
「はい」
兄上が静かに息を吐いた。
「レオン」
「何だ」
「今のは、私でも少し感心した」
「やめろ。兄上に褒められると落ち着かない」
「褒めている」
「だから落ち着かないんだよ」
ガレスが背後で咳払いした。
笑ったな、この爺。
「殿下」
「何だ、ガレス」
「本日は、殿下のお顔が気持ち悪うございません」
「珍しく褒めたと思えば、その言い方か」
「最大級の評価でございます」
「減俸だ」
「本日は受け入れましょう」
「受け入れるな」
フィーネがほんの少しだけ口元を緩めた。
ほんの少し。
だが、それで十分だった。
彼女は再び帳簿へ向き直る。
「続けます」
「休むか?」
「休みません」
「だろうな」
「ですが」
「ん?」
「後で、少しだけ手を貸してください」
「何の」
「揺れた分を戻すのに」
「……」
急に重い。
だが、逃げる気にはならなかった。
「分かった」
「ありがとうございます」
「今度こそ礼を言うな」
「対等ですので」
「便利すぎるだろ、その言葉」
フィーネは帳簿の頁をめくった。
今度は速い。
いつもの彼女の速度だ。
「観測対象は、殿下と私だけではありません」
「他にもいるのか」
「はい。過去十二年分、複数名。死亡、行方不明、対象外、移送済み……記載形式が分かれています」
「移送済み?」
「嫌な単語です」
「嫌だな」
エルヴィナが横から帳簿を覗き込み、表情を険しくした。
「これは、研究記録の形式に近いですね」
「商会帳簿じゃないのか」
「金銭記録の中に研究記録を混ぜている。けれど、分類の仕方が商人ではなく魔術師寄りです」
「折れ羽根か」
「でしょうね」
兄上が本宮兵へ指示を出す。
「全冊を封緘しろ。写しは本宮で取る。ここでは開きすぎるな」
「はい」
フィーネが首を横に振った。
「一つだけ」
「何かな」
「この頁は、今ここで写しを取るべきです」
「理由は」
「殿下と私に関する記録です。後で改竄された場合、原本だけでは争点になります」
「本宮保管でも?」
「本宮内部に協力者がいる可能性があります」
「……」
兄上の目が細くなった。
「そこまで言うか」
「昨日の偽命令書は、本宮手続きの知識がなければ作れません」
「そうだな」
「なら、本宮という場所を信用するのではなく、手続きと複数保管で縛るべきです」
「君は本当に容赦がないな」
「必要ですので」
兄上は少しだけ笑った。
「分かった。レオン、君の保管分も作る」
「面倒だな」
「今の話を聞いて、その返しができるのは君くらいだ」
「褒めるな」
「褒めていない」
フィーネが写しを取り始める。
筆が速い。
文字が乱れない。
いつもの彼女だ。
だが、俺はその横顔を見る。
さっきの一瞬。
あの薄い声を、たぶん忘れない。
選ばれて拾われたのではなく、もしや。
もし、こいつの人生の底に、誰かが最初から手を入れていたなら。
家が潰れたことも。
奴隷市にいたことも。
俺と出会ったことも。
全部、誰かの計算に入っていたなら。
それは、かなり腹が立つ。
俺の退屈しのぎを利用した?
俺の気まぐれを観測した?
俺とフィーネの関係を、反応だの同期だのと呼んだ?
「……面倒だな」
呟くと、フィーネが筆を止めずに言った。
「怒っておられますね」
「怒ってる」
「机は」
「叩かない」
「扉は」
「さっき蹴った」
「今後は控えてください」
「善処する」
「信用できません」
「お前に言われたくない」
そのやり取りで、部屋の空気が少しだけ戻った。
外では、黒鴉商会の看板が下ろされていた。
黒い鳥の意匠が、布に包まれていく。
商会は解体される。
帳簿は押さえた。
番頭も捕まえた。
職員も、倉庫も、荷も、学院との繋がりも、これから全部洗われる。
だが、商会長は逃げた。
薬種商オルド薬房は、今頃もう空かもしれない。
そして、十二年分の観測記録は、黒鴉商会がただの入口でしかないことを示していた。
「兄上」
「何だ」
「これ、黒鴉を潰して終わりじゃないな」
「当然だ」
「分かってた顔だな」
「願望としては、ここで終わってほしかったよ」
「珍しく弱音だ」
「君の前だからね」
「俺の前でそれを言うな」
「少しは兄に頼る気になったか?」
「ならない」
「即答か」
兄上は苦笑した。
だが、その目は笑っていない。
「父上へ即時報告する」
「また父上か」
「今回は直接呼ばれるだろう」
「今から?」
「おそらく」
その時、階下から本宮兵が上がってきた。
深く一礼する。
「第一皇子殿下、第三皇子殿下」
「報告を」
「黒鴉商会関連三箇所、封鎖完了。中継倉庫より誘引香基材と思われる触媒、封緘済み木箱七、黒羽印の裏帳簿を押収。商会長の所在は不明。今朝未明、北門方面へ出た可能性があります」
「追跡は」
「影が続いております」
「分かった」
兄上が頷く。
兵は続けた。
「それと、本宮より伝令が」
「父上か」
「はい。陛下が、両殿下およびフィーネ・エレノアス様を本宮へ召されるとのこと」
来た。
俺は深く息を吐いた。
「早いな」
「遅いくらいだろう」
兄上が言う。
フィーネは写し終えた紙を丁寧に重ね、封蝋の準備をしていた。
「殿下」
「何だ」
「行きましょう」
「怖くないか」
「怖いです」
「そうか」
「ですが、今はそれより腹が立っています」
「珍しいな」
「ええ」
フィーネは帳簿を見る。
そこにはまだ、俺たちの名が残っている。
「私たちを記録した方々に、訂正を入れる必要があります」
「訂正?」
「はい」
彼女は静かに言った。
「私たちは、観測対象ではありません」
その声は低く、よく通った。
「殿下が選び、私が選び返した関係です」
「……」
「そこを間違えられるのは、不愉快ですので」
重い。
だが、今回は俺も同感だった。
「そうだな」
俺は立ち上がる。
黒鴉商会は潰れた。
けれど、その奥にある折れ羽根はまだ燃えている。
なら、消すしかない。
今度こそ、流れごと。
「行くか」
「はい、殿下」
封鎖された黒鴉商会の窓から、北区の空が見えた。
昼過ぎだというのに、雲が厚い。
面倒は、さらに本宮へ戻る。
父上の前で、また何か重い話をされるのだろう。
退屈が恋しい。
わりと本気で。
だが、隣を見ると、フィーネが帳簿の写しを胸に抱えていた。
灰銀の目は、もう揺れていない。
ならまあ。
もう少しだけ、この面倒に付き合ってやる。