すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果   作:ヤンデレすこすこ侍

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第二十八話

 翌朝、離宮は妙に静かだった。

 

 いや、静かなわけがない。

 廊下には護衛の足音がある。

 中庭には影がいる。

 門には本宮兵まで増えている。

 使用人たちは普段より早く動いているし、マリアなど朝から完璧な顔で客室棟を指揮していた。

 

 それなのに、静かに感じる。

 たぶん、全員が声を抑えているからだ。

 

 昨夜、子供が狙われた。

 その事実だけで、離宮の空気は一段重くなっていた。

 

「殿下」

 

 書斎の扉が開き、ガレスが入ってくる。

 

「顔色が悪うございます」

「寝た」

「一刻半を睡眠と呼ぶのでしたら」

「呼ぶ」

「では、睡眠の定義を宮廷医師へ確認いたしましょう」

「やめろ」

 

 この爺、朝から容赦がない。

 机の上には、昨夜の報告が置かれていた。

 

 襲撃者三名。

 全員生存。

 眠り香、縄、目隠し布、短剣。

 腕の内側に折れ羽根の刺青。

 

 ルークとミアに負傷なし。

 負傷なし。

 

 その一行だけ、何度も見た。

 

「捕縛者は?」

「本宮へ移送済みです。第一皇子殿下の管理下に」

「喋ったか」

「まだでございます」

「だろうな」

 

 あの乾いた目を思い出す。

 クラウスのような浅さはない。

 黒外套の男たちと同じ、役割を与えられた人間の目だった。

 

「眠り香は?」

「エルヴィナ様が確認中です」

「仕事が早いな」

「殿下方が騒ぎを起こす前提で動いておられますので」

「俺たちのせいか」

「主に」

「主に?」

「殿下でございます」

「フィーネもだろ」

「半々と申し上げるには、昨夜の殿下の魔力は少々荒すぎました」

「……悪かったよ」

 

 素直に言うと、ガレスが少しだけ目を細めた。

 

「謝罪先は私ではなく、馬でございます」

「馬にも謝ればいいのか」

「後ほど」

「本気か」

「本気でございます」

 

 朝から馬に謝る皇子。

 なかなか見ない光景だろう。

 

「フィーネは?」

「客室棟に。ミア様が離れなかったため、同室で休まれております」

「寝たか」

「寝台には入りました」

「その言い方」

「寝たとは申し上げておりません」

「やっぱりか」

 

 俺は額を押さえた。

 

「紙とペンは?」

「マリアが没収しました」

「さすがだ」

「ただし、フィーネ様は記憶だけで整理を始められました」

「怖い」

「マリアがミア様を起こしました」

「強い」

「ミア様が『おねえさま、寝ないの?』と」

「勝ったな」

「はい。フィーネ様は沈黙の後、お休みになりました」

「ミア、最強では?」

 

 ガレスは真顔で頷いた。

 

「現時点では、離宮内で最も有効な抑止力でございます」

「記録するなよ」

「既にマリアが」

「うちの使用人たち、本当に怖いな」

 

 だが、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 ミアがいる。

 ルークもいる。

 フィーネは、少なくとも寝台に入った。

 

 それだけで十分とは言えない。

 だが、昨夜よりはましだ。

 

 

   ***

 

 

 朝食の席は、いつもより人数が多かった。

 

 俺。

 フィーネ。

 ルーク。

 ミア。

 そしてなぜか、マリアがいつもより近い位置に立っている。

 

 視線が鋭い。

 俺とフィーネの皿の量を監視している。

 

「マリア」

「はい、殿下」

「圧が強い」

「お二方が食べ終えるまで下がりません」

「俺も対象か」

「当然です」

「当然が増えたな……」

 

 フィーネは隣で静かに匙を動かしている。

 顔色は悪くない。

 悪くないが、目の下が薄い。

 

「フィーネ」

「はい」

「寝たか」

「はい」

「何刻」

「……」

「フィーネ」

「一刻半ほど」

「俺と同じかよ」

「対等ですので」

「睡眠不足で対等になるな」

 

 ミアがパンを握ったまま、じっとフィーネを見上げた。

 

「おねえさま、もっと寝る?」

「後ほど」

「ほんと?」

「……はい」

「ほんとに?」

「はい」

「殿下も?」

「俺も?」

 

 急に飛び火した。

 ミアは真剣だった。

 

 大きな目でこちらを見ている。

 昨夜泣いたせいか、少し赤い。

 

「殿下も、寝る?」

「……寝る」

「ほんと?」

「本当だ」

「じゃあ、ミアも寝る」

 

 強い。

 これは強い。

 

 フィーネがわずかに口元を緩めた。

 

「ミア」

「なあに」

「ありがとうございます」

「いいの」

「いいのか」

「うん。おねえさまと殿下が寝たら、ミアも安心する」

 

 重い。

 小さいのに重い。

 

 血か。

 エレノアス家の血か。

 

 ルークは向かいで黙って食べていた。

 膝の横には、昨夜の木剣が立てかけられている。

 

「ルーク」

「はい」

「それ、食卓には似合わないな」

「すみません」

「責めてるわけじゃない」

「……はい」

 

 手が少し固い。

 当然だ。

 昨夜、窓の外に人影を見た。

 妹の前に立った。

 木剣を握った。

 朝になったからといって、恐怖が消えるわけがない。

 

「持っていてもいい」

「え?」

「落ち着くなら、しばらく持ってろ」

「……ありがとうございます」

 

 フィーネが俺を見る。

 

「殿下」

「何だ」

「甘いです」

「そうか?」

「はい」

「駄目か」

「駄目ではありません」

 

 フィーネはルークへ視線を向ける。

 

「ですが、木剣を持つなら、持つ理由も覚えておきなさい」

「理由?」

「怖いから握るのではなく、守るために握る」

「……はい」

「そして、守るためには、食べて、寝て、学ぶことも必要です」

「はい」

「ですので、朝食は残さないように」

「姉さま」

「何ですか」

「姉さまもです」

「……」

 

 今度はルークが勝った。

 俺は笑いそうになったが、こらえた。

 

 フィーネがこちらを見たからだ。

 見られたので、こらえきれなかった。

 

「殿下」

「悪い」

「笑っておられます」

「いや、良い弟だなと」

「はい」

 

 フィーネは小さく息を吐いた。

 それから、皿の上の残りをきちんと食べた。

 

 ルークとミアが見ている。

 マリアも見ている。

 

 逃げ場がない。

 

 これ、俺にも効くな。

 非常に嫌だ。

 

 

   ***

 

 

 朝食の後、客室棟の確認をした。

 ルークとミアの部屋は、フィーネの部屋の隣に用意されていた。

 扉は内側の連絡扉で繋がる。

 窓の外には中庭。

 外壁側ではなく、離宮の内側へ向いている。

 

「よく一晩でここまで整えたな」

 

 俺が言うと、マリアが一礼した。

 

「必要でしたので」

「みんなそれを言う」

「便利ですので」

「言い方まで広まっている」

 

 部屋には小さな机が二つ。

 寝台も二つ。

 ミアの寝台には、いつの間にか小さなぬいぐるみまで置かれていた。

 

「これは?」

「夜間に怖がられた時のために」

「誰の判断」

「女中たちです」

「優秀だな」

「当然です」

 

 当然。

 本当に増えた。

 

 ミアはぬいぐるみを抱きしめた。

 少しだけ安心した顔をする。

 それを見て、ルークも肩の力を抜いた。

 

「殿下」

 

 ルークが言った。

 

「何だ」

「本当に、ここにいていいんですか」

「ああ」

「俺たちは、その……身分も」

「関係ない」

「でも」

「俺が保護すると決めた」

 

 ルークは黙る。

 フィーネも、少しだけ黙った。

 

「正式な名義は今日中に通す」

「名義?」

「第三皇子宮の保護対象。ひとまずは客分扱いだ」

「客分……」

「その後、どうするかは相談する」

「相談、ですか」

「ああ。お前たちにも聞く」

 

 ルークは驚いたように俺を見た。

 

「俺たちに?」

「当たり前だろ」

「当たり前、ですか」

「お前たちの話だ」

 

 言ってから、ふと思う。

 俺は最近、こういうことを言うようになった。

 

 誰かに選ばせる。

 誰かの意思を聞く。

 昔の俺なら、たぶんもっと雑に決めた。

 いや、今も雑だが。

 

 少しはましになった、たぶん。

 フィーネがこちらを見ている。

 

「何だ」

「いえ」

「何か言いたそうだな」

「殿下が、また重いことを仰っていると思いまして」

「お前に言われたくない」

「ですが、嬉しいです」

「だからそういう顔で言うな」

 

 ルークがこちらとフィーネを交互に見た。

 ミアもぬいぐるみを抱いたまま見ている。

 

「姉さま」

「はい」

「殿下と姉さまは、いつもこうなんですか」

「こう、とは」

「重いことを言って、照れる」

「……」

「ルーク」

 

 俺が言うと、ルークは少しだけ背筋を伸ばした。

 

「はい」

「観察力があるな」

「ありがとうございます」

「褒めてはいないぞ」

「え」

 

 ミアがくすりと笑った。

 それだけで、部屋の空気が少し温かくなる。

 

 けれど、窓の外には護衛がいる。

 廊下には影がいる。

 扉の向こうにガレスがいる。

 

 守れている。

 だが、守らなければならない状況にある。

 

 その事実は消えない。

 

「ルーク」

「はい」

「護身の稽古は午後からだ」

「本当に?」

「ああ」

「お願いします」

 

 フィーネが横から口を挟む。

 

「まず休息です」

「分かってる」

「殿下も」

「なぜ俺まで」

「睡眠を約束されました」

「ミアにか」

「はい」

「それを持ち出すのは卑怯だろ」

「有効ですので」

 

 ミアがぬいぐるみを抱いたまま、真顔で頷く。

 

「殿下、寝る」

「……はい」

 

 負けた。

 完全に負けた。

 

 

   ***

 

 

 寝るつもりだった。

 本当だ。

 寝るつもりはあった。

 

 だが、寝室へ戻る前に、兄上が来た。

 第一皇子エドゥアルト・アズヴォルデ。

 朝から整った顔で離宮の応接室に入ってくる。

 整っているが、目が笑っていない。

 

「おはよう、レオン」

「この状況で爽やかに言うな」

「爽やかに見えるなら何よりだ」

「中身は?」

「怒っている」

「だろうな」

 

 兄上の後ろにはエルヴィナもいた。

 こちらはいつも通り眠そうな金の目をしている。

 だが、手には布包みを持っていた。

 

 昨夜の眠り香だろう。

 フィーネも同席している。

 寝ろと言ったはずなのに、当たり前のように座っている。

 

「フィーネ」

「はい」

「寝る話は?」

「報告の後に」

「その後が信用できない」

「ミアが確認しますので」

「最強の監視役を得たな」

 

 兄上が小さく息を吐いた。

 

「君たちは本当に、こういう時でも変わらないな」

「変わってるだろ」

「方向性は同じだ」

 

 それはそうかもしれない。

 兄上は席に着き、書類を一枚出した。

 

「まず、ルークとミアの扱いだ」

「ああ」

「父上の裁可は下りた」

「早すぎないか」

「昨夜の時点で、君がそうするだろうと報告しておいた」

「兄上」

「何だ」

「読まれてるな」

「読んでいるから兄をしている」

 

 兄というのはそんな仕事だったか。

 

「内容は?」

「第三皇子宮の一時保護対象。理由は、北方遠征関連調査における関係者保護。期間は暫定。居所は第三皇子離宮内客室棟」

「助かる」

「公的には、フィーネ殿の弟妹ではなく、調査関係者の保護だ」

「なぜ」

「君とフィーネ殿の弱点として公表する必要はない」

「なるほど」

「ただし、近い者は察する」

「だろうな」

 

 フィーネが静かに言う。

 

「ありがとうございます、第一皇子殿下」

「礼は父上へ」

「陛下にも、後ほど」

「それと」

 

 兄上は少しだけ目を細めた。

 

「父上から伝言だ」

「嫌な予感がする」

「レオンハルト、寝ろ」

「……」

「フィーネ・エレノアス、寝ろ」

「……」

「以上だ」

「父上、強いな」

「命令だ」

「はい」

「承知しました」

 

 俺とフィーネの返事が重なった。

 兄上が満足そうに頷く。

 

「よろしい」

「兄上、ここに来た主目的それじゃないだろうな」

「半分は」

「半分もかよ」

「残り半分はエルヴィナからだ」

 

 エルヴィナが布包みを机へ置いた。

 小瓶だ。

 昨夜、襲撃者が持っていた眠り香。

 

「解析は終わったのか」

「仮です」

「また仮か」

「フィーネさんほど便利な仮ではありません」

「どういう意味ですか」

 

 フィーネが真顔で聞く。

 エルヴィナは真顔で返した。

 

「あなたの仮整理は、普通の人間の完成版より細かい」

「まだ足りません」

「でしょうね」

 

 この二人、微妙に似ている。

 嫌な方向に。

 

 エルヴィナは小瓶を指で軽く叩いた。

 

「これはただの眠り香ではありません」

「だろうな」

「眠らせる効果はあります。ですが主目的は、睡眠ではなく反応の固定です」

「反応の固定?」

「恐怖、混乱、覚醒時の魔力揺れ。その痕跡を香の成分に吸わせる調整がされています」

「……つまり」

 

 フィーネの声が冷えた。

 

「室内へ投げ込まれれば、ルークとミアの反応を採取できた」

「そう見ています」

 

 部屋の空気が、また冷える。

 

「拉致だけじゃないのか」

「拉致できれば利用する。失敗しても反応を得る。そういう作りです」

「胸糞悪いな」

「同感です」

 

 エルヴィナが同感と言うのは珍しい。

 だが、無理もない。

 人を眠らせる香に、恐怖を吸わせる。

 子供の反応を採る。

 観測対象二号への揺さぶりだけでなく、その周辺まで記録する。

 

 本当に、人を何だと思っている。

 

「殿下」

 

 フィーネが呼ぶ。

 

「何だ」

「魔力が」

「悪い」

 

 また漏れたらしい。

 俺は息を吐いた。

 

「それで、出所は」

「基材は誘引香と近い。黒鴉商会から押収した触媒とも一致する部分があります」

「オルド薬房か」

「その可能性が高いです。ただし、瓶に別の痕跡がありました」

 

 エルヴィナは小さな紙片を出した。

 瓶を包んでいた内側の紙らしい。

 ほとんど焦げ、薬液で滲んでいる。

 

 だが、端に薄い印が残っていた。

 見た瞬間、フィーネの指が止まった。

 

「……エレノアス商会の旧印です」

 

 静かな声だった。

 静かすぎた。

 

「フィーネ」

「はい」

「本当にか」

「はい。父が使っていた出荷印です。簡略印ですが、間違いありません」

「なぜ、そんなものが」

「考えられるのは二つです」

 

 フィーネはすぐに言った。

 声は整っている。

 だが、指先に少し力が入っていた。

 

「一つ。エレノアス商会の残品が、黒鴉商会かオルド薬房に流れた」

「ああ」

「二つ。誰かが意図的に、私へ見せるために旧印の包みを使った」

「どっちだ」

「現時点では断定できません」

「でも嫌なんだな」

「非常に」

 

 その返しが、久しぶりに胸へ刺さった。

 兄上が紙片を見つめる。

 

「昨日の襲撃は、フィーネ殿の弟妹への揺さぶり。そして今朝、旧印が出る」

「偶然ではないな」

「偶然と見るには、相手が嫌に丁寧だ」

 

 兄上の声も冷えていた。

 

「もう一つあります」

 

 エルヴィナが言う。

 

「襲撃者の一人の靴底に、薄い木札が仕込まれていました。本人が知らない可能性もあります」

「また札か」

「ええ。折れ羽根は本当に紙と札が好きですね」

「嫌な好みだな」

 

 エルヴィナはその木札を机に置いた。

 薄く削られた木片。

 黒く焦がした文字が、かろうじて読める。

 

 フィーネが先に読んだ。

 

「……二号、保護対象への反応強」

「続きは?」

 

 俺が問う。

 フィーネは少しだけ息を吸い、読む。

 

「一号、防衛域拡大」

「……」

「拉致失敗時、内域移送の可能性」

「読まれていたか」

「予測、です」

 

 フィーネが言った。

 

「確定ではありません。相手は結果ではなく、分岐を用意していた」

「どちらにせよ腹が立つな」

「はい」

 

 さらに下に、短い一文。

 

『次段、家名へ移行』

 

 部屋が静まり返った。

 

「家名」

 

 兄上が呟く。

 

「エレノアス家か」

「おそらく」

 

 フィーネは木札を見つめていた。

 灰銀の目は揺れていない。

 揺れていないように見せている。

 

「フィーネ」

「はい」

「ここで無理をするなよ」

「無理はします」

「先に言うな」

「ですが、倒れません」

「信用できない」

「ミアがいますので」

「……それは少し信用できるな」

 

 フィーネはほんの少しだけ口元を動かした。

 笑ったというには弱い。

 でも、戻っている。

 

「殿下」

「何だ」

「相手が、私の家名を次の揺さぶりに使うつもりなら」

「ああ」

「先に、私たちで見ます」

「だろうな」

「エレノアス商会の破産記録、債務譲渡、差し押さえに関わった商人、奴隷市までの流れ。全部です」

「今から、とは言うなよ」

「今から」

「言ったな」

「必要ですので」

「寝ろ」

 

 即答した。

 フィーネが黙る。

 兄上もエルヴィナも、なぜか俺を見た。

 

「何だ」

「いや」

「何だ、兄上」

「君が即答で止めるのは珍しいと思って」

「昨夜、ルークとミアが狙われた」

「ああ」

「今フィーネが倒れたら、あの二人が余計に怯える」

「……」

「それに、俺も困る」

 

 言ってから、少しだけ気まずくなった。

 最後の一言は余計だったかもしれない。

 

 フィーネがこちらを見る。

 

「殿下」

「何だ」

「今の最後が、一番効きました」

「効くな」

「無理です」

「無理じゃない」

 

 エルヴィナが小さく咳払いした。

 

「私も同意見です。解析は私が続けます。戸籍院と債務裁定所の記録は、第一皇子殿下が押さえればよろしい」

「もう手配している」

 

 兄上が言う。

 早い。

 

「レオンとフィーネ殿は寝る」

「兄上」

「命令は父上からだ」

「強いな、本当に」

「便利だろう」

「便利に使うな」

 

 フィーネは木札を見つめたまま、しばらく黙っていた。

 そして、ゆっくり頷いた。

 

「承知しました」

「珍しく素直だな」

「倒れる方が非効率ですので」

「理由はそれか」

「それと」

「それと?」

「ミアに嘘をつきたくありません」

 

 その声は、少しだけ柔らかかった。

 

「なら寝ろ」

「はい」

「本当に」

「はい」

「紙を持ち込むな」

「……」

「フィーネ」

「はい」

 

 間があった。

 かなりあった。

 

 兄上が苦笑する。

 エルヴィナが呆れた顔をする。

 

 俺は深く息を吐いた。

 

「マリアを呼べ」

「既に扉の外におります」

 

 ガレスの声がした。

 いつの間に。

 扉が開き、マリアが完璧な礼をする。

 

「フィーネ様のお部屋に、紙と筆記具は置いておりません」

「有能」

「ただし、壁に指で書かれる可能性があります」

「そこまでか」

「念のため、ミア様に同室をお願いしております」

「最強だな」

 

 フィーネが小さく言う。

 

「ミアを利用するのは」

「あなたの健康管理です」

 

 マリアはにこりともせず言った。

 

「必要ですので」

「……」

 

 フィーネが負けた。

 珍しい。

 俺は思わず笑った。

 

「殿下」

「悪い」

「笑っておられます」

「お前が負けるのは珍しいからな」

「殿下もです」

「俺も?」

「はい。ミアに確認されます」

「……そうだった」

 

 負けた。

 俺も負けていた。

 

 

   ***

 

 

 寝た。

 本当に寝た。

 俺は二刻ほど。

 フィーネは、たぶん同じくらい。

 

 起きた時、離宮の空気は少しだけ変わっていた。

 朝の張り詰めた静けさではなく、動くための緊張に変わっている。

 廊下へ出ると、ルークが中庭にいた。

 ガレスの前で、木剣を構えている。

 

「早くないか」

 

 俺が言うと、ガレスがこちらを見ずに答えた。

 

「まだ稽古ではございません」

「じゃあ何だ」

「立ち方です」

「それ稽古だろ」

「準備でございます」

 

 ルークは真剣だった。

 

 足の幅。

 手の位置。

 目線。

 ガレスが一つ言うたびに、ぎこちなく直す。

 

 ミアは少し離れた椅子で見ていた。

 膝の上にはぬいぐるみ。

 その隣にフィーネが座っている。

 

 どうやら、起きたばかりらしい。

 髪が少しだけ柔らかく乱れていた。

 

「フィーネ」

「はい」

「寝たな」

「はい」

「よし」

「殿下も」

「寝た」

「では、記録しておきます」

「するな」

「重要です」

「何の重要情報だ」

 

 ミアがこちらを見る。

 

「殿下、寝た?」

「寝た」

「おねえさまも?」

「寝ました」

「よかった」

 

 この小さな一言が、やけに効く。

 ルークが木剣を下ろしかける。

 ガレスがすぐに言った。

 

「下ろさない」

「はい!」

 

 声が少し大きい。

 驚いたのだろう。

 

「腕で支えず、背で持ちなさい」

「背で?」

「木剣を持つ腕だけが剣ではございません」

「はい」

「怖い時ほど、足を見なさい。足が逃げていれば、身体も逃げます」

「はい」

 

 ルークは必死だ。

 十歳の子供が、必死に立とうとしている。

 それを見て、フィーネの目が少し揺れた。

 

「心配か」

「はい」

「止めるか」

「止めません」

「意外だな」

「殿下の言葉を思い出しました」

「俺、何か言ったか」

「怖い思いをした後に、何もできなかったと思わせる方がよくない、と」

「ああ」

「雑ですが、正しいと思います」

「雑は余計だ」

「殿下らしい褒め言葉です」

「俺が褒められてるのか、それ」

 

 フィーネは少しだけ笑った。

 

「ルークは、守ろうとしました」

「ああ」

「なら、その気持ちを否定したくありません」

「だろうな」

「ですが、無理はさせません」

「そこは任せる」

「はい」

 

 中庭の向こうで、ルークが姿勢を崩した。

 ガレスが木剣で足元を軽く叩く。

 ルークが慌てて直す。

 

「厳しくないか」

「ガレス様は優しいです」

「どこが」

「本当に厳しければ、今ので三度死んだと言われます」

「お前、何を教わってるんだ」

 

 フィーネは目を逸らした。

 

「必要なことを」

「怖い」

 

 ミアがぬいぐるみを抱いたまま言う。

 

「ルーク、がんばってる」

「ああ」

「ミアも、何かできる?」

「まず寝る」

「寝た」

「食べる」

「食べた」

「じゃあ、怖かったら怖いと言う」

「……それも、できること?」

「ああ。かなり大事だ」

 

 ミアは少し考えた。

 そして、フィーネの袖を握る。

 

「おねえさま」

「はい」

「ミア、まだちょっとこわい」

「はい」

 

 フィーネはすぐに膝を折り、ミアと目を合わせた。

 

「言ってくれてありがとうございます」

「うん」

「私も、まだ少し怖いです」

「おねえさまも?」

「はい」

「殿下も?」

「怒ってる」

「こわいは?」

「……少しな」

 

 認めるのは、少しだけ癪だった。

 だが、ミア相手に格好つけても仕方ない。

 

「でも、ここは守る」

「うん」

 

 ミアは頷いた。

 

「じゃあ、ミアも言う。こわいって」

「ああ」

「そしたら、おねえさまと殿下が来る?」

「来る」

「必ず」

「必ず」

 

 フィーネも頷いた。

 

「私も来ます」

 

 ミアは安心したように、ぬいぐるみを抱き直した。

 守るとは、こういうことなのだろう。

 

 敵を捕まえるだけではない。

 護衛を増やすだけでもない。

 

 怖いと言える場所を作る。

 怖いと言った時、誰かが来ると信じられるようにする。

 

 面倒だ。

 だが、悪くない。

 

 

   ***

 

 

 夕刻前、兄上から追加報告が届いた。

 場所は離宮の小応接室。

 俺とフィーネ、ガレス。

 そして報告を持ってきたのは、本宮記録官補佐ハインベルクだった。

 

 相変わらず硬い顔をしている。

 紙束を持つ手まで硬そうだ。

 

「第三皇子殿下、フィーネ様」

「ああ」

「お休みは取られましたか」

「開口一番それか」

「第一皇子殿下より確認事項として」

「兄上……」

「陛下からも」

「父上……」

 

 強い。

 外堀が強すぎる。

 

 フィーネが静かに答える。

 

「二刻、休息を取りました」

「記録いたします」

「しなくていい」

「必要ですので」

「記録官までそれか」

 

 ハインベルクは表情を変えず、紙を置いた。

 

「エレノアス商会関連の初期照会結果です」

「早いな」

「第一皇子殿下の優先命令です」

「兄上も無茶をする」

「必要ですので」

「もういい」

 

 フィーネの視線が紙束へ落ちる。

 指が、ほんの少しだけ止まった。

 

「読めるか」

「はい」

「無理なら俺が」

「読めます」

 

 即答。

 だが、今回は強がりではない。

 読むと決めた声だった。

 

 ハインベルクは一枚目を開いた。

 

「エレノアス商会の破産処理は、表向きには商務院の通常手続きで行われています」

「表向きは、か」

「はい。ですが、債務譲渡記録に不自然な空白があります」

「空白?」

「譲渡先が一度消され、後から別名義で書き直されています」

 

 フィーネの目が細くなる。

 

「別名義は」

「南区の小商会名義です。現在は存在しません」

「実態は」

「黒鴉商会の下請けと見られます」

「……」

 

 部屋の空気が静かに沈む。

 ハインベルクは続けた。

 

「さらに、差し押さえ対象品の一覧に、禁制触媒とは別の項目がありました」

「何だ」

「家族構成、魔力適性記録、年齢、健康状態」

「……商会の差し押さえに関係あるのか」

「通常はありません」

 

 フィーネの手が、机の縁に触れる。

 力が入っている。

 

「それは、誰の記録ですか」

「エレノアス家全員です。ただし、長女の項目のみ別紙扱い」

「別紙は」

「現時点で原本不明。写しのみ発見されました」

 

 ハインベルクは最後の紙を置いた。

 そこには短い文字が並んでいた。

 

 事務的な文字。

 冷たい文字。

 

『エレノアス家長女』

『灰銀髪』

『魔力反応、未精査』

『保持価値あり』

『観測候補』

 

 最後に、小さな印。

 

 細い輪。

 折れた羽根。

 

 フィーネは黙っていた。

 俺も黙った。

 怒りがまた、静かに腹の奥で形になる。

 

「フィーネ」

 

 呼ぶと、彼女はゆっくり顔を上げた。

 

「はい」

「怖いか」

「怖いです」

「腹は立つか」

「立ちます」

「そうか」

 

 フィーネは紙を見下ろし、静かに言った。

 

「殿下」

「何だ」

「訂正が増えました」

「何を」

「私は、観測候補でもありません」

 

 その声は震えていなかった。

 

「エレノアス家の長女です」

「ああ」

「ルークとミアの姉です」

「ああ」

「そして、殿下の隣に立つと決めた者です」

「ああ」

「その全部を、向こうの記録から取り戻します」

 

 重い。

 だが、今はその重さが頼もしかった。

 

「手伝う」

「はい」

「ただし」

「はい」

「今夜も寝ろ」

「……」

「フィーネ」

「承知しました」

「間がある」

「効率を考えました」

「寝ろ」

 

 ハインベルクが無表情のまま、記録紙に何かを書いた。

 

「何を書いた」

「第三皇子殿下より、フィーネ様へ睡眠指示」

「それは記録しなくていい」

「重要です」

「本宮記録官、本当に面倒だな」

 

 フィーネが少しだけ笑った。

 ほんの少し。

 だが、笑った。

 

 窓の外では、夕暮れの光が離宮の庭を赤く染めている。

 中庭では、ルークがまた木剣を構え、ミアがそれを見ている。

 マリアが毛布を持って立ち、ガレスが無言で姿勢を直している。

 

 守るべきものが増えた。

 守るために見るべき過去も増えた。

 折れ羽根は、俺たちの出会いだけでなく、フィーネの家にまで手を伸ばしていた。

 

 面倒だ。

 本当に面倒だ。

 だが、もう面倒で済ませる気はなかった。

 

「フィーネ」

「はい」

「次は、家名を取り戻すぞ」

「はい、殿下」

 

 その返答は静かだった。

 

 けれど、離宮へ来た時よりも。

 奴隷市で拾った時よりも。

 ずっと強く、はっきりしていた。

 

 折れ羽根は、人を記録する。

 なら、こちらは書き換える。

 

 観測候補ではなく。

 観測対象でもなく。

 

 フィーネ・エレノアス。

 

 その名で。

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