すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果   作:ヤンデレすこすこ侍

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第二十九話

 翌朝、俺は敗北していた。

 

 何に負けたか。

 ミアである。

 

「殿下、寝た?」

 

 朝食の席で、小さな灰色のぬいぐるみを抱いたミアが、真正面から俺を見上げてきた。

 その目は強かった。

 昨日より少し赤い。

 昨夜の恐怖はまだ抜けていない。

 なのに、姉と俺の睡眠時間を確認する意志だけは、やたら強い。

 

「寝た」

「ほんと?」

「本当だ」

「何刻?」

「……」

 

 なぜそこまで踏み込む。

 俺が黙ると、隣のフィーネが静かに言った。

 

「殿下」

「お前まで責めるな」

「数字で」

「お前が言うな。お前も数字で言え」

「……」

「フィーネ」

「二刻半ほど」

「同じだな」

「対等ですので」

「睡眠不足で対等になるなと昨日も言っただろ」

 

 ミアがじっとフィーネを見る。

 

「おねえさま、もっと寝る?」

「本日は予定がありますので」

「でも、寝る?」

「……夜に」

「ほんと?」

「はい」

 

 強い。

 やはり強い。

 

 マリアが背後で満足そうに――いや、顔は完璧に無表情だが、空気が満足している。

 

「マリア」

「はい、殿下」

「お前、ミアを使うのは反則では?」

「健康管理です」

「反則では?」

「必要ですので」

「もういい」

 

 最近、みんなその言葉を盾にする。

 ルークは向かいでパンを食べながら、俺たちのやり取りを見ていた。

 

 昨日より顔色はましだ。

 ただ、膝の横にはまだ木剣がある。

 

「ルーク」

「はい」

「木剣を持ってると安心するか」

「……はい」

「なら、しばらく持ってろ」

「ありがとうございます」

 

 フィーネが少しだけ眉を動かす。

 

「殿下」

「甘いか?」

「はい」

「駄目か?」

「いいえ」

 

 フィーネはルークへ視線を移した。

 

「ただし、持つなら理由を忘れないように」

「はい」

「怖いから握るのではなく、守るために握る」

「はい」

「そして守るためには、食事と睡眠と稽古が必要です」

「はい」

「ですので、残さないように」

「姉さまもです」

「……」

 

 また勝った。

 エレノアス家、強いな。

 俺が笑うと、フィーネがこちらを見た。

 

「殿下」

「悪い」

「笑っておられます」

「良い弟妹だなと思って」

「はい」

 

 そこでフィーネは、ほんの少しだけ目を伏せた。

 

 嬉しいのか。

 痛いのか。

 たぶん両方だ。

 

 今日、俺たちは本宮戸籍院へ行く。

 昨日の初期照会で、エレノアス商会の破産処理には不自然な空白があることが分かった。

 長女であるフィーネの項目には、折れ羽根の印とともに観測候補などという胸糞の悪い文字が残されていた。

 

 だから次は、向こうが勝手に書いた記録ではなく、こちらから正式に開く。

 

 フィーネ・エレノアス。

 その家名を、本人の名で照会する。

 

 面倒だ。

 紙も手続きも、たぶん山ほどある。

 

 だが、もう面倒で済ませる気はなかった。

 

 

   ***

 

 

 本宮戸籍院は、本宮の中でも特に空気が乾いている場所だった。

 

 石造りの廊下。

 古い木扉。

 細長い窓。

 そして、どこまでも紙の匂い。

 

 人の出生。

 婚姻。

 養子。

 死亡。

 家名。

 身分。

 債務に伴う戸籍移動。

 人生の面倒な部分を全部紙にして積み上げたような場所である。

 

 近づくだけで肩が凝る。

 

「殿下」

 

 フィーネが隣で呼ぶ。

 

「何だ」

「顔に出ています」

「どの顔だ」

「紙が多い、という顔です」

「正確だな」

「隠す努力を」

「戸籍院で笑顔の皇子も嫌だろ」

「確かに」

 

 認めるな。

 俺たちを案内したのは、昨日も来た本宮記録官補佐ハインベルクだった。

 

 相変わらず硬い。

 服の皺まで規則正しい。

 

「第三皇子殿下。フィーネ様。こちらへ」

「朝から硬いな」

「職務ですので」

「だろうな」

 

 長卓のある閲覧室へ通される。

 壁一面が書架。

 棚には金属札のついた分厚い記録簿が並んでいる。

 

 中央には、すでにいくつかの箱が置かれていた。

 その横に、ガレスが立っていた。

 

「お前、先に来ていたのか」

「下準備でございます」

「早いな」

「必要でしたので」

「はいはい」

 

 ガレスはいつものように一礼し、それからフィーネへ視線を向けた。

 

「フィーネ様」

「はい」

「本日は、昨日のような初期照会ではございません」

「はい」

「正式照会です。記録院側が探して差し出すだけではなく、フィーネ様ご自身が、エレノアス家直系として照会を申請する形になります」

「承知しております」

 

 フィーネの声は静かだった。

 だが、指先が一瞬だけ止まっている。

 

 俺には分かった。

 怖いのだ。

 

 戸籍院の記録は、人を紙にする。

 

 父と母の生きた時間も。

 自分が失った家も。

 弟妹の名前も。

 全部、乾いた文字になる。

 

 それを自分から開くのは、たぶん怖い。

 

「正式に調べる権利が、今の客人殿にはあります」

 

 ガレスが言った。

 フィーネがわずかに目を上げる。

 

「ガレス様」

「はい」

「私はもう、客人ではありません」

「左様でございますな」

 

 ガレスは表情を変えずに頷いた。

 

「ですが、私には少々、癖が残っております」

「癖」

「殿下が奴隷市から連れ帰られた日、最初にそうお呼びしましたので」

「……」

 

 フィーネは少しだけ黙った。

 それから、ほんのわずかに口元を緩める。

 

「では、本日は客人ではなく、エレノアス家の長女として申請いたします」

「それがよろしいかと」

 

 ガレスが深く一礼した。

 その礼は、執事の礼というより、どこか昔の商家に向ける礼に近かった。

 

 フィーネは申請用紙の前に立つ。

 

 照会者名。

 フィーネ・エレノアス。

 照会対象。

 エレノアス家戸籍、商会登録、婚姻記録、出生記録、債務裁定記録。

 照会理由。

 

 そこで、筆が止まった。

 

「フィーネ」

 

 俺が呼ぶと、彼女は紙を見下ろしたまま言った。

 

「私は、過去を埋めるためにここにいるのではありません」

「ああ」

「過去に戻るためでもありません」

「そうだな」

「私は今、殿下の隣に立つためにここにいます」

「ああ」

 

 だからこそ、怖いのだろう。

 過去は過去で、もう終わったものだと切り捨てることもできた。

 

 父も母も亡くなった。

 家も潰れた。

 弟妹は保護した。

 フィーネ自身は身分を得て、仮とはいえ爵位まで得た。

 

 普通なら、前だけを見てもいい。

 けれど、折れ羽根はそれを許さなかった。

 過去を札にし、家名を揺さぶりに使い、彼女を観測候補などと呼んだ。

 なら、こちらから取り戻すしかない。

 

「埋めなくていい」

 

 俺は言った。

 

「だが、知らないままで隣に立たれるのも俺は嫌だ」

「……殿下」

「お前が怖いなら、俺も見る。お前が腹を立てるなら、俺も腹を立てる」

「はい」

「それだけだ」

 

 フィーネは少しだけ目を伏せた。

 

「そういうことを、当然のように仰るのは」

「重いか?」

「いいえ」

 

 彼女は筆を持ち直した。

 

「救われます」

 

 やめろ。

 ここでそういうのを入れるな。

 

 ハインベルクが無表情のまま記録紙へ何かを書いた。

 

「何を書いた」

「第三皇子殿下、照会同行理由を表明」

「それは記録しなくていい」

「重要です」

「本宮記録官、本当に油断ならないな」

 

 フィーネは、照会理由欄へ静かに書き込んだ。

 

『家名復称および弟妹戸籍整備、ならびに折れ羽根関連調査に伴う本人確認のため』

 

 文字は乱れていなかった。

 

 

   ***

 

 

 正式照会は、面倒だった。

 まず、戸籍官が出てきた。

 年配の男で、白い眉がやたら重そうな人物だ。

 彼は俺に深く礼をし、フィーネにも礼をした。

 

 礼の深さは少し違う。

 だが、無視ではない。

 フィーネ・エレノアス準男爵相当。

 仮叙任とはいえ、効果はもう出ているらしい。

 

「照会対象、皇都南区旧商家エレノアス家。商会登録番号、南香第三二八」

「南香?」

 

 俺が聞くと、戸籍官が答えた。

 

「南区香料商組合所属を示す略号です」

「なるほど」

「商会主、ヴェネル・エレノアス。妻、ノエラ。長女、フィーネ。長男、ルーク。次女、ミア」

 

 名前が並ぶ。

 ただそれだけで、フィーネの肩がほんの少し揺れた。

 

 父。

 母。

 自分。

 弟。

 妹。

 

 たった五つの名。

 だが、彼女にとっては世界の半分だったものだ。

 

「続けて」

 

 フィーネが言う。

 戸籍官は頷き、古い婚姻記録を開いた。

 

「ヴェネル・エレノアスとノエラの婚姻記録。保証人は二名。一名は皇都西区薬種商マクスヴェル。もう一名は……判読困難」

「マクスヴェル」

 

 フィーネが小さく繰り返した。

 

「知っているのか」

「父の友人です。幼い頃、何度か店に来られました」

「生きているか」

「分かりません」

 

 ハインベルクが別紙を確認する。

 

「皇都西区に同名の薬種商が現存します。年齢六十代後半。照会可能です」

「早いな」

「第一皇子殿下より、関連名義は即時照合するよう命じられております」

「兄上も怖いな」

「職務ですので」

「みんな職務で怖いことをする」

 

 フィーネの視線は、婚姻記録の母の名に留まっていた。

 ノエラ。

 その横。

 旧姓欄。

 そこには、やはり何もなかった。

 いや、何もないように見えた。

 

 だが紙をよく見ると、ほんのわずかに繊維が荒れている。

 

「削られていますね」

 

 フィーネが先に言った。

 戸籍官の白い眉がわずかに動く。

 

「お分かりになりますか」

「紙の厚みが違います」

「その通りです」

 

 戸籍官は重々しく頷いた。

 

「通常、婚姻記録の旧姓欄は空欄で提出されることもあります。ですが、この記録は空欄ではありません。書かれていたものが削られている」

「いつ」

「少なくとも提出後です」

「戸籍院内で?」

「断定はできません」

 

 その言葉は、つまり可能性はあるという意味だ。

 

「面倒だな」

 

 俺が呟くと、フィーネがすぐに言った。

 

「殿下」

「分かってる。顔に出すな、だろ」

「いえ」

「違うのか」

「もう出ていますので」

「ひどい」

 

 ガレスが静かに咳払いした。

 

「殿下。戸籍官殿の前でございます」

「分かってる」

 

 戸籍官は聞こえないふりをした。

 良い判断だ。

 フィーネは母の旧姓欄を見つめたまま、静かに問う。

 

「復元は可能ですか」

「原本だけでは難しいでしょう。ただし、副本、婚姻時の紹介状、社交名簿、保証人控えが残っていれば可能性はあります」

「保証人控え」

「薬種商マクスヴェルが保管していれば」

「……」

 

 そこで一本、道ができた。

 

 母の旧姓。

 父の旧友。

 薬種商マクスヴェル。

 

 次に探すべきものの一つだ。

 

「もう一つ」

 

 ハインベルクが別の箱を開ける。

 

「商会登録と廃業記録です」

「昨日の初期照会より詳しいものか」

「はい。正式照会に伴い、商務院から原簿写しが出ました」

 

 紙が置かれる。

 

 エレノアス商会。

 南方香料。

 乾燥薬草。

 保存用樹脂。

 少量の魔術触媒。

 その文字列を見て、フィーネは小さく息を吸った。

 

「父の商いです」

「そうか」

「この香料名は、母が好きでした」

「どれだ」

「リューリカの乾燥花です。食卓に、薄く香りを移すために」

「香料って食うのか」

「殿下」

「何だ」

「野菜よりは好まれるかと」

「今それを刺すのか」

「少しだけ」

 

 少しだけか。

 ならいいか。

 

 いや、よくない。

 

 だが、その一言でフィーネの声が少し戻った。

 戸籍院の乾いた空気の中で、ほんのわずかに人の生活の匂いが混じる。

 

 父が扱った香料。

 母が好きだった香り。

 子供だったフィーネが覚えている食卓。

 そういうものまで、折れ羽根は紙に変えたのだ。

 

 ハインベルクが次の紙を示す。

 

「廃業原因は、禁制触媒混入による取引停止。主要取引先三件が同日に契約解除。翌月に債務譲渡。さらに翌々月、家財差し押さえ」

「早すぎるな」

「はい」

 

 フィーネが目を細める。

 

「主要取引先三件が同日に解除、ですか」

「不自然です」

「父が商いで一度失敗したとしても、全取引先が同時に切るのは早すぎます」

「同感です」

 

 戸籍官ではなく、ハインベルクが答えた。

 

「また、債務譲渡先の原記録が削られています。昨日お渡しした初期照会では、南区の小商会名義としましたが、原簿を見る限り、その小商会は譲渡時点ですでに実体が薄い」

「黒鴉商会の下請け」

「その可能性が高いです」

 

 黒鴉。

 その名が出た瞬間、部屋の空気が沈む。

 

 昨日の眠り香。

 旧印の包み。

 折れ羽根の木札。

 そして、エレノアス商会の破産。

 

 繋がっていく。

 嫌な方向に。

 

「父は」

 

 フィーネが言った。

 

「父は、商いを間違えたのでしょうか」

 

 声は静かだった。

 だが、そこにわずかな揺れがあった。

 

 俺は答えるより先に、紙を見た。

 

 取引停止。

 債務譲渡。

 差し押さえ。

 禁制触媒。

 

 冷たい言葉が並んでいる。

 だが、ここには父の顔はない。

 父がどんな声で子供に話したかも、どんな香りを店に置いたかもない。

 

「分からん」

 

 俺は正直に言った。

 フィーネがこちらを見る。

 

「殿下」

「俺はお前の父を知らない。だから、失敗しなかったとは言えない」

「はい」

「だが、少なくとも」

 

 俺は紙を指で叩いた。

 

「この記録は、失敗した商人を処理した紙じゃない」

「……」

「潰すために整えた紙に見える」

 

 ハインベルクが無言で頷いた。

 戸籍官も口を挟まない。

 ガレスは静かに目を伏せている。

 

「だからまずは、そこから始める」

「以前も、同じことを仰いました」

「そうだったか」

「はい」

「じゃあ、俺は一貫してるな」

「雑な一貫性です」

「褒めてる?」

「少しだけ」

 

 少しだけならいい。

 

 その時、閲覧室の扉が叩かれた。

 ハインベルクが許可を出す前に、扉の外から聞き慣れた声がした。

 

「入ってもいいかな」

 

 兄上だった。

 第一皇子エドゥアルト・アズヴォルデ。

 朝から完璧な顔で現れた。

 昨日から寝ているのか怪しいのに、整いすぎている。

 

「兄上」

「レオン。やはりここにいたね」

「やはりって」

「君たちは紙を見つけるとそこへ行く」

「俺は紙が嫌いなんだが」

「でも、フィーネ殿は?」

「好きではありません」

 

 フィーネは即答した。

 

「必要だから見ます」

「そうか。失礼した」

「いえ」

 

 兄上は長卓の横へ立ち、持ってきた薄い紙束を置いた。

 

「商人ネットワーク側の十五年分の倒産記録を洗っていた。エレノアス商会と似た処理が、少なくとも六件ある」

「六件」

「禁制品混入、債務譲渡、取引先の一斉解除、家財差し押さえ。その後、残った在庫と権利が黒鴉商会周辺へ流れる」

「つまり」

「破産誘導の型だ」

 

 破産誘導。

 嫌な言葉だ。

 

 だが、分かりやすい。

 

 商会を潰す。

 債務を動かす。

 在庫を拾う。

 権利を奪う。

 それを商人網として繰り返す。

 

「折れ羽根がやったのか」

「そこはまだ不明だ」

 

 兄上は慎重に言った。

 

「黒鴉商会が利益のために行っていた通常業務に、折れ羽根が後から便乗した可能性もある。逆に、折れ羽根の資金源として黒鴉が初めから組み込まれていた可能性もある」

「どっちも嫌だな」

「同感だよ」

 

 兄上の目は笑っていなかった。

 フィーネは紙束を見つめていた。

 

 その顔は静かだ。

 だが、静かすぎる。

 

「つまり」

 

 彼女は言った。

 

「父の商会は、観測対象として狙われたわけではなく、ただ利益のために潰された可能性がある」

「現時点では、そう見る方が自然だ」

 

 兄上は嘘を言わなかった。

 

「君自身が観測対象として記録されたのは、奴隷市の翌日からだ。少なくとも黒鴉の帳簿上はね」

「はい」

「だから、エレノアス商会の倒産と、君の観測対象化は、別の線かもしれない」

「はい」

「ただし、その別の線が、後で交差した」

 

 フィーネは目を閉じた。

 

 残酷な話だ。

 彼女の家は、もしかすると特別な陰謀で潰されたわけではない。

 ただ商人網の利益のために、潰せる家として潰された。

 そして、その結果、フィーネは奴隷市へ行った。

 

 そこで俺と出会った。

 それを折れ羽根が観測し始めた。

 

 意図された悲劇ではない。

 だから軽い、わけがない。

 むしろ、その方がよほど腹立たしい。

 

「皮肉が過ぎますね」

 

 フィーネが静かに言った。

 

「お前」

「はい」

「笑いそうな声だったぞ」

「はい」

「笑いたいか」

「いいえ」

「じゃあ何だ」

「笑わないと、怒りそうですので」

 

 重い。

 けれど、今は分かる。

 

 泣くより先に。

 怒るより先に。

 人はたまに、笑いそうになる。

 フィーネはそういう段階を、とっくに通り過ぎて生きてきた女だ。

 

「フィーネ殿」

 

 兄上が声をかける。

 

「はい」

「ここから先は、君自身の記憶に触れることになる」

「承知しております」

「商会跡地、旧取引先、保証人、母方の出自。どれも君にとって楽ではない」

「はい」

「それでも進めるか」

「進めます」

 

 一拍も置かなかった。

 

「理由は?」

「私の家名を、折れ羽根の札にしたくありません」

「……」

「黒鴉商会の帳簿にも、債務裁定所の記録にも、観測候補という紙にも、私たちの名前はあります」

「はい」

「ですが、それだけではありません」

「それだけではない?」

「父は商人でした。母は母でした。ルークは弟で、ミアは妹です」

 

 フィーネは静かに言う。

 

「私は、その全部を、もう一度自分の側から記録します」

 

 兄上が黙った。

 ハインベルクの筆が止まりかける。

 

 だが、すぐに動き出した。

 かり、かり、と乾いた音が響く。

 

 今の言葉は、記録されるべきだと思った。

 珍しく、記録官に文句を言う気にならなかった。

 

「レオン」

 

 兄上が俺を見る。

 

「何だ」

「君は?」

「俺?」

「君も当事者だ。どうする」

「どうするも何も」

 

 俺はフィーネを見た。

 

「手伝うと言った」

「そうか」

「それに、知らないまま隣に立たれるのは嫌だとも言った」

「なるほど」

「だから見る。全部ではないかもしれないが、見られるところまで」

「君にしては真面目だ」

「褒めるな」

「褒めているよ」

 

 珍しいな。

 兄上に褒められると、どうにも据わりが悪い。

 フィーネが小さく息を吐いた。

 

「殿下」

「何だ」

「ありがとうございます」

「まだ早い」

「では、また先払いで」

「商人の娘だな」

「はい」

 

 その返事は、昨日より少しだけ強かった。

 

 

   ***

 

 

 照会の最後に、戸籍官が三枚の写しを用意した。

 

 一枚目。

 エレノアス家の出生記録。

 

 二枚目。

 ヴェネルとノエラの婚姻記録。

 

 三枚目。

 商会登録と廃業記録。

 

 そして、別紙として、照会継続のための申請書。

 

「今後の照会には、未成年者二名の戸籍整備についても確認が必要です」

 

 戸籍官が言う。

 

「ルークとミアか」

「はい。現在、第三皇子宮の一時保護対象として処理されていますが、正式にエレノアス家直系として整備する場合、本人確認および後見者指定が必要になります」

「後見者」

「未成年ですので」

「俺でいいのか」

「可能です。ただし、政治的には」

「面倒か」

「面倒です」

 

 戸籍官まで面倒と言った。

 俺は思わず兄上を見る。

 兄上は穏やかな顔で頷いた。

 

「選択肢はいくつかある。第三皇子宮の保護対象のまま据える。フィーネ殿の仮爵位に付随する親族保護として扱う。あるいは本宮直轄の関係者保護に切り替える」

「どれがいい」

「それをこれから決める」

「面倒だな」

「人の人生だからね」

「……そうだな」

 

 それは茶化せなかった。

 ルークとミアにも、名前がある。

 意思がある。

 家名を取り戻すと言っても、フィーネだけの話ではない。

 

「聞くか」

 

 俺が言うと、フィーネがこちらを見た。

 

「弟妹に、ですか」

「ああ」

「未成年です」

「でも、あいつらの名前だ」

「……」

「お前の話でもあるが、あいつらの話でもある」

 

 フィーネは少しだけ黙った。

 それから、ゆっくり頷く。

 

「はい」

「聞こう」

「はい」

 

 兄上が小さく笑った。

 

「レオン」

「何だ」

「君は最近、本当に変わったね」

「悪い方向か」

「面倒な方向だ」

「それ悪い方向じゃないか」

「いや」

 

 兄上はフィーネを見て、それから俺へ戻した。

 

「たぶん、良い方向だ」

 

 やめろ。

 朝から兄に真面目に褒められると、本当に落ち着かない。

 

「殿下」

 

 フィーネが静かに言う。

 

「照れておられますね」

「照れてない」

「耳が」

「見るな」

「はい」

 

 はいと言いつつ、見ている。

 重いというか、遠慮がない。

 

 ガレスが後ろで咳払いをした。

 笑ったな、この爺。

 

 

   ***

 

 

 離宮へ戻る頃には、空は薄く曇っていた。

 雨が降るほどではない。

 けれど、明るくもない。

 まるで今日の話に合わせたような空だった。

 

 客室棟の小部屋で、ルークとミアを呼ぶ。

 フィーネは写しを机の上に並べた。

 だが、二人の前に出す前に、少しだけ手を止めた。

 

「姉さま?」

 

 ルークが不安そうに呼ぶ。

 フィーネは顔を上げた。

 

「ルーク。ミア」

「はい」

「なあに」

「今日は、家の名前の話をします」

 

 ミアがぬいぐるみを抱きしめる。

 

「エレノアス?」

「はい」

 

 フィーネは頷いた。

 

「お父さまとお母さまの名前です。私たちの名前でもあります」

「また、名乗れるの?」

 

 ミアの声は小さかった。

 フィーネは即答しなかった。

 嘘をつかないためだろう。

 

「すぐには、まだ」

「まだ?」

「手続きがあります。確認もあります。嫌な記録も見ることになります」

「嫌な記録?」

「お父さまの商会が潰れた時の記録です」

「……」

 

 ルークの顔が固くなる。

 十歳だ。

 だが、分かる。

 分かってしまう年齢だ。

 

「父上は」

 

 ルークが言った。

 

「父上は、悪いことをしたんですか」

 

 フィーネの指が、ほんの少しだけ震えた。

 それを見て、俺が先に言う。

 

「まだ分からん」

「殿下」

「ただ、今出ている記録を見る限り、誰かがかなり手を入れている」

「手を」

「商会を潰すために整えた跡がある」

 

 ルークは唇を噛んだ。

 

「じゃあ、父上は」

「だから、まだ分からん」

「……はい」

「分からないから調べる」

 

 俺がそう言うと、フィーネがこちらを見た。

 何かを言いたそうだったが、言わなかった。

 今は弟に向き合う方を選んだのだろう。

 

「ルーク」

 

 フィーネが呼ぶ。

 

「はい」

「お父さまの記録を取り戻すことは、楽しいことではありません」

「はい」

「知らない方が楽なこともあるかもしれません」

「……はい」

「それでも、私は知りたいと思っています」

「姉さまが?」

「はい」

 

 ルークは姉を見た。

 真剣に。

 子供の目ではある。

 けれど、守ろうとした者の目でもある。

 

「俺も知りたいです」

「ルーク」

「父上が悪くないなら、悪くないって知りたい。悪かったなら、何を間違えたのか知りたい」

「……」

「だって、俺たちの父上だから」

 

 フィーネが黙った。

 ミアが、そっと口を開いた。

 

「お母さまの名前も?」

「はい」

 

 フィーネの声は少しだけ柔らかくなる。

 

「お母さまの昔の名前も、削られていました」

「けずられた?」

「紙から消されていました」

「なんで?」

「それを、調べます」

 

 ミアはしばらく考えた。

 そして、ぬいぐるみの耳を握ったまま言う。

 

「お母さま、いなくなったのに、また消されたの?」

「……」

 

 その言葉は、きつかった。

 フィーネが息を止める。

 ルークも顔を伏せる。

 俺も一瞬、何も言えなかった。

 子供は時々、核心をそのまま踏む。

 

「そうだな」

 

 俺は言った。

 

「だから戻す」

「戻せる?」

「全部は無理かもしれない」

「ぜんぶじゃないの?」

「死んだ人は戻らない。潰れた店も、そのままには戻らない」

「……うん」

「でも、名前は戻せる。誰が消したかも、たぶん探せる」

「殿下が?」

「俺と、フィーネと、ガレスと、兄上と、あと紙が好きな連中が」

「紙が好き」

「記録官だ」

 

 ミアは少しだけ目を瞬かせ、それから小さく頷いた。

 

「じゃあ、お願いする」

「おう」

「おねえさまも?」

「はい」

 

 フィーネはミアの前に膝をつき、目線を合わせた。

 

「私も、戻します」

「こわい?」

「少し怖いです」

「ミアも」

「はい」

「でも、言う」

「はい。怖い時は、言ってください」

「おねえさまも言う?」

「……はい」

 

 今度は間が短かった。

 

「言います」

「ほんと?」

「はい」

「殿下も?」

「俺も?」

「うん」

「……善処する」

「ぜんしょ?」

「だいたい信用できない返事だ」

「殿下」

 

 フィーネが俺を見る。

 ルークも見る。

 ミアも見る。

 逃げ場がない。

 

「分かった。言う」

「ほんと?」

「本当だ」

 

 ミアは満足そうに頷いた。

 やはり強い。

 ルークが机の上の写しを見る。

 

「姉さま」

「はい」

「俺たちは、エレノアスを名乗っていいんですか」

「あなたたちが望むなら」

「望むなら?」

「はい。強制はしません」

「姉さまは?」

「私は名乗ります」

 

 即答だった。

 

「フィーネ・エレノアスとして、殿下の隣に立つと決めています」

「重いな」

「殿下」

「悪い。つい」

「事実ですので」

「自分で言うな」

 

 ルークは少しだけ笑った。

 ミアもつられて笑う。

 その笑いで、部屋の空気が少しだけ戻った。

 

「俺も」

 

 ルークが言った。

 

「俺も、エレノアスがいいです」

「理由は」

「姉さまと、ミアと、父上と母上の名前だから」

「……はい」

「それに、なくしたままだと、嫌です」

 

 単純な言葉だった。

 だが、それで十分だった。

 

 ミアがぬいぐるみを抱いたまま言う。

 

「ミアも」

「はい」

「おねえさまと同じがいい」

「……はい」

 

 フィーネの目が、ほんの少しだけ潤んだ気がした。

 だが涙は落ちない。

 まだ、落ちない。

 

 それでいい。

 無理に泣く必要はない。

 泣けないなら、まだその時ではないだけだ。

 

 いつか泣ける場所ができればいい。

 たぶん、そのためにも今日の手続きは必要なのだろう。

 

 

   ***

 

 

 夜。

 書斎の机には、今日の写しが並んでいた。

 

 出生記録。

 婚姻記録。

 商会登録。

 廃業記録。

 母の削られた旧姓欄。

 父の保証人、薬種商マクスヴェル。

 そして、旧店舗所在地。

 

 皇都南区。

 大市場に近い商業地。

 

 今は別の商家が入っているらしい。

 

「明日、行くのか」

 

 俺が言うと、フィーネは地図を見下ろしたまま頷いた。

 

「はい」

「ルークとミアは」

「置いていきます」

「だろうな」

「まだ早いかと」

「お前は?」

「私は行きます」

「怖いか」

「怖いです」

「それでも?」

「はい」

 

 即答だった。

 いつものフィーネだ。

 

「私が暮らした場所です」

「ああ」

「父の店で、母がいた場所で、ルークとミアが小さかった場所です」

「ああ」

「そこを、黒鴉商会や折れ羽根の記録だけにしたくありません」

「……そうだな」

 

 フィーネは地図の上、旧エレノアス商会の位置へ指を置いた。

 

「殿下」

「何だ」

「同行していただけますか」

「今さら聞くのか」

「確認です」

「行く」

「ありがとうございます」

「ただし」

「はい」

「無理はするな」

「善処します」

「信用できない」

「では、殿下が見張っていてください」

「それ、最近便利に使ってるだろ」

「有効ですので」

 

 俺はため息を吐いた。

 

 窓の外には夜の庭。

 離宮の灯り。

 中庭では、もうルークの木剣の音はしない。

 ミアも眠ったはずだ。

 マリアが確認しているだろうから、そこは信用できる。

 

 フィーネはまだ地図を見ている。

 静かな横顔。

 灰銀の髪。

 奴隷市で見た時から変わらない、よく見ている目。

 

 だが今は、見ているものが違う。

 

 未来だけではない。

 俺だけでもない。

 自分の過去。

 家族の名前。

 父の商い。

 母の消された旧姓。

 その全部を見ようとしている。

 

「フィーネ」

「はい」

「家名を取り戻すのは、面倒だな」

「はい」

「紙だけじゃ済まない」

「はい」

「人にも会う。場所にも行く。嫌な話も聞く」

「承知しております」

「ならいい」

 

 俺は地図を見た。

 

「明日は南区だ」

「はい」

 

 フィーネの返答は静かだった。

 けれど、昨日より少しだけ強い。

 

 エレノアス家。

 紙の上で削られた名。

 商人の都合で潰されたかもしれない店。

 そして、誰かが消した母の旧姓。

 

 家名は、紙の上だけでは戻らない。

 たぶん、人の記憶の中にも取りに行かなければならない。

 

 面倒だ。

 本当に面倒だ。

 

 だが、フィーネが隣にいる。

 怖いと言いながら退かず、重い過去の前でも自分の名を書く女が。

 なら、俺も行くしかない。

 

「殿下」

「何だ」

「退屈では、ありませんね」

「……ああ」

 

 俺は地図の南区に視線を落とし、息を吐いた。

 

「少し、退屈が恋しいくらいだ」

「それは困ります」

「お前、本当に限度を覚えろよ」

「善処します」

「信用できないな」

「でしたら」

 

 フィーネはほんの少しだけ笑った。

 

「最後まで責任を持ってくださいね」

 

 またそれか。

 だが、今さら逃げる気もない。

 

 机の上で、エレノアス家の写しが静かに重なっている。

 

 折れ羽根の記録ではなく。

 黒鴉商会の帳簿でもなく。

 こちらから開いた、こちらの記録。

 

 その一枚目に、フィーネ・エレノアスの筆跡があった。

 家名を取り戻す第一歩は、紙の上に刻まれた。

 

 次は、石畳の上だ。

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