すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果 作:ヤンデレすこすこ侍
翌朝。
俺はいつも通りガレスに起こされた。
「殿下、お時間です」
「あと五分」
「起床予定より三分遅れております」
「あと五分」
「本日の予定を組んだのは殿下ではなく、客人の方です」
「……」
そこでようやく目を開けた。
ベッドの脇には、いつもの無表情な老執事。
そしてその背後には――いた。
フィーネである。
朝だというのにもう身支度を終えていて、灰銀の髪もきっちり整えられ、両手を前で重ねて静かに立っている。
怖い。
なんで客人が起床確認に来てるんだ。
「なぜいる」
「本日の最優先事項は、弟と妹への面会です」
「そうだな」
「その前に殿下が寝坊で機嫌を崩されると、進行に影響が出るかと」
「俺の睡眠より進行を優先するな」
「睡眠時間は昨夜確保済みです」
「管理され始めてる……」
ガレスが控えめに咳払いした。
「殿下。ご安心ください。客人殿は私より数段厳格なだけでございます」
「安心材料がひとつもないが?」
フィーネはいつもの静かな顔で言った。
「朝食の内容も確認済みです。殿下は空腹時に若干気が短くなられるので、糖分を先に」
「そこまで解析するな」
「効率のためです」
「怖いって」
だが、まあ。
悪い気はしなかった。
正直に言えば、弟妹に会わせる件は俺も少し緊張していた。
あの場では勢いで明日会わせると言ったが、フィーネにとっては人生そのものに関わる再会だ。
失敗はしたくない。
だからこそ、こうして予定どおりに全部進んでいると、少しだけ安心する。
「……分かった。起きる」
「はい」
「ただし次からは寝室の外で待て」
「善処します」
「その返事は信用できない」
***
弟妹を保護した家は、皇都北区の静かな住宅街に用意させた。
離宮から馬車で三十分ほど。
もともと、俺が表向き慈善事業に使っている屋敷のひとつだ。
小綺麗だが、必要以上に豪華ではない。
兵士も目立たぬように私服で配置済み。
監視ではなく保護だと悟らせるための配慮である。
馬車の中、フィーネは今日も静かだった。
だが、昨日の静けさとは少し違う。
膝の上に置かれた指先が、ほんのわずかに強く組まれている。
窓の外を見る頻度も多い。
落ち着かないのだろう。
「緊張してるのか」
俺が言うと、フィーネは一瞬だけこちらを見た。
「ええ」
「隠さないんだな」
「殿下はたぶん見抜いておられるので」
「見抜いてる」
「でしたら、隠す意味がありません」
理屈が通っている。
「弟妹には、どう説明してある?」
「姉を探していたところ、身元の分かる大人に保護された、と」
答えたのはガレスだった。
「皇族の名はまだ伏せております。突然知らされても混乱するかと」
「妥当だな」
フィーネが小さく息を吐く。
「ありがとうございます」
「まだ早い」
「いえ。こうして会えるだけで十分です」
そう言ってから、彼女は少し間を置いた。
「……ただ」
「ただ?」
「私のことを、責めるかもしれません」
「責める?」
フィーネは視線を落とした。
「何も言わずに消えましたから」
「……」
ああ、そういうことか。
彼女は自分から身売りした。
弟妹を守るために、最も高く売れる手段を選んだ。
理屈では最善だったのだろう。
だが、弟妹からすれば、ある日突然、姉がいなくなったことに変わりはない。
「その時はその時だ」
俺は言った。
「責められたら受け止めろ。泣かれたら慰めろ。抱きつかれたら抱き返せ」
「雑ですね」
「再会に完璧な正解なんかない」
「……そういうところは、妙にちゃんとしているのですね」
「妙にをつけるな」
フィーネは少しだけ笑った。
その笑みはすぐ消えたが、肩からひとつ分、力が抜けたように見えた。
***
屋敷の客間に通される。
部屋には柔らかい日差しが差し込み、焼きたてのパンの匂いがかすかに漂っていた。
先に着いていた女中頭が深く頭を下げる。
「保護したお二人は、別室で朝食を済ませております。怯えはありますが、健康状態は安定しております」
「よし。連れてきてくれ」
「かしこまりました」
扉が閉まる。
その間、フィーネは一言も喋らなかった。
ただ、立ったままじっと扉を見ている。
普段の彼女なら椅子を勧められれば座るし、状況を観察して何か言う。
それがない。
完全に余裕を失っている。
「座るか?」
「……いえ」
「そうか」
しばらくして、扉が開いた。
入ってきたのは、少年と少女だった。
少年は十歳前後。
少し癖のある栗色の髪。痩せてはいるが、目つきはしっかりしている。
少女は六つか七つくらい。兄の袖をぎゅっと掴み、緊張で固まっていた。
そして次の瞬間。
「――姉さま!」
少年が叫んだ。
フィーネの肩が大きく震えた。
「ルーク……ミア……」
ああ、名前それか。
いい名前だな、と思う間もなく、二人は駆け出した。
フィーネも同時に動く。
次の瞬間には三人まとめて抱き合っていた。
少女のミアは声を上げて泣き、少年――ルークは泣くまいとして失敗し、ぐちゃぐちゃの顔で姉の服を掴んでいる。
フィーネは二人を抱きしめたまま、何度も何度も髪を撫でた。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
「姉さま、どこ行ってたの……っ」
「ごめんなさい、大丈夫、もう大丈夫です」
「ほんとに、ほんとに姉さま?」
「ええ、ええ……遅くなってごめんなさい」
俺は黙って一歩下がった。
こういう時、余計なことは言わない方がいい。
何もかも俺が用意した再会だとしても、この時間に俺が踏み込むのは無粋だ。
ミアが泣きながらフィーネの首にしがみつく。
ルークは最初こそ強がっていたが、やがて耐えきれず顔を伏せた。
フィーネはそんな二人を、壊れ物みたいに、けれど力いっぱい抱きしめていた。
……へえ。
こんな顔、するんだな。
市場でも、離宮でも、基本的に彼女は静かだった。
感情がないわけではなくても、外には出さない人間だと思っていた。
だが今は違う。
目元も声も、完全に崩れている。
そこまで感情をむき出しにできる相手がいる。
それを見て、少しだけ安心した。
この女、ちゃんと人間だ。
「姉さま」
しばらくして、ルークが顔を上げた。
「この人たちは……?」
ああ、そろそろこっちの番か。
フィーネが振り返る。
赤くなった目をそのままに、だが姿勢だけは戻して、俺を見た。
「この方が、私たちを助けてくださったのです」
「……」
ルークが俺を見る。
警戒がはっきり分かった。
いい目だ。
姉を守る側の目だな。
「おれたちを、売ったりしない?」
直球で来た。
後ろで女中頭が息を呑む。
だが俺は別に気を悪くしない。
「しない」
「ほんとに?」
「本当だ」
「なんで助けるの?」
「姉を気に入ったからだ」
「殿下」
フィーネが低く呼んだ。
「言い方」
「嘘じゃないだろ」
ルークの警戒が一段上がった気がする。
あ、ちょっと待て、これは違う意味に取られるやつか?
「違うぞ」
「何がですか」
「いや、だから、変な意味じゃなくて」
「殿下、年少者相手に焦ると余計に怪しく見えます」
「うるさい」
すると、ミアがフィーネの後ろから顔だけ出して、じっと俺を見た。
「……おねえさまの、おむこさん?」
「違う」
「違います」
俺とフィーネの声が綺麗に重なった。
一拍置いて、ルークが初めて少しだけ口元を歪めた。
笑いをこらえた顔だ。
よし。
空気が少し緩んだ。
「俺はレオンハルト」
とりあえず名乗る。
「今はお前たちを保護してる。それだけだ」
「……レオンハルトさま」
ルークが慎重に言う。
「姉さまは、もう苦しまなくていいの?」
「いい」
「おれたちも?」
「いい」
「ほんとに?」
「何回聞くんだ」
「大事だからです」
今度はフィーネが言った。
「ルーク」
少年は唇を引き結んだあと、俺へ向かって頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
俺は肩をすくめる。
「今後のことはこれから決める。住む場所、学ぶこと、誰が世話をするか。お前たち本人の希望も聞く」
「おれたちの?」
「そうだ」
するとミアが小さく手を挙げた。
「おねえさまと、いっしょがいい」
「……」
フィーネの表情が、また少し揺れる。
俺はその横顔を見てから答えた。
「すぐには難しい」
「どうして?」
「姉は、これから忙しくなるからだ」
ミアの顔が曇る。
ルークも何か言いたげだ。
そこでフィーネが、しゃがんで二人と目線を合わせた。
「ルーク、ミア。聞いてください」
二人が頷く。
「私は、これからここで学びます」
「まなぶ?」
「ええ。強くなって、賢くなって、もう二度と、誰にも私たちの生活を奪わせないために」
「……」
ルークの目が、少しずつ真剣になる。
「だから、少しだけ離れて過ごします」
「少しだけ?」
「ええ。でも会えます。手紙も書けます。約束します」
ミアは今にもまた泣きそうだったが、フィーネはその小さな頬を包み込んだ。
「ミア。私は、いなくならない」
「ほんと?」
「本当です」
「ぜったい?」
「絶対です」
ミアはしばらく唇を尖らせていたが、やがてこくりと頷いた。
ルークは俺を見た。
「姉さまは、ここでちゃんと守られるんですか」
「守る」
「姉さまが嫌がることを無理にされたりしない?」
「しない」
即答すると、ルークは少しだけ考え、それからまた深く頭を下げた。
「……じゃあ、お願いします」
その言い方が、少しだけ大人びていて。
胸の奥がちくりとした。
こういう子供が、早く大人にならなきゃいけない世界は、やっぱり好かん。
「よし」
俺は手を叩いた。
「今後についてはこっちで詰める。お前たちは今日は腹いっぱい食って、風呂に入って、寝ろ」
「はい」
「姉とは?」
ルークが聞く。
「昼まで一緒にいていい」
「殿下」
ガレスが視線で確認してくる。
「構わん。今日は予定をずらす」
「ですが、魔力測定が」
「後ろへ回せ」
「かしこまりました」
フィーネが俺を見た。
「……よろしいのですか」
「家族との再会より優先される予定なんかあるか」
「ありますよ、皇族には」
「俺の予定表にはない」
フィーネは何か言いかけ、結局言わなかった。
ただその代わり、ほんの少しだけ、昨日より深い礼をした。
……やめろ。
その重みの乗った礼は効く。
***
昼過ぎ。
離宮に戻った俺たちは、当初の予定どおりフィーネの魔力測定を受けることになった。
場所は地下の訓練室。
魔力を測る水晶や触媒が揃っており、皇族や上級貴族の子弟が使う設備だ。
立ち会うのは俺とガレス、それから宮廷魔術師長のエルヴィナ。
銀縁眼鏡の向こうに冷えた金の目を持つ女で、年齢不詳。
多分三十代半ばくらいだが、魔術師は見た目が当てにならない。
実際、俺が五歳の頃から見た目があまり変わっていない。
「それで、殿下」
エルヴィナは測定水晶を調整しながら、淡々と言った。
「奴隷市から拾ってきた少女の魔力測定を、なぜこの私が?」
「拾ってきたは言い方が悪い」
「では、買ってきた少女で」
「さらに悪い」
「事実でしょうに」
こいつ、昔から口が悪いんだよな。
腕が確かだから切れないが。
「客人だ」
「なるほど」
エルヴィナはフィーネを一瞥した。
「その客人殿に、皇族用の測定器具と魔術師長の時間を割く理由は?」
「俺が気に入ったからだ」
「最低の説明ですね」
今度はエルヴィナまでそれを言うのか。
フィーネは俺の隣で静かにしていたが、やがて一歩前へ出た。
「初めまして。フィーネと申します」
「宮廷魔術師長、エルヴィナ」
「よろしくお願いいたします」
「別に」
エルヴィナは素っ気なく返す。
「測定に必要なのは礼儀ではなく正確さです」
フィーネはそれでも表情を変えなかった。
「では正確にお願いします」
「……」
エルヴィナの眉が、ほんのわずかに動いた。
あ、気づいたな。
この子、思ったよりちゃんと返してくるぞって。
「いいでしょう」
エルヴィナは白手袋をはめる。
「手をこちらへ。水晶に触れて、流れに従って魔力を流してください」
「感覚が分かりません」
「普通はそうです。ですからまず、私が誘導します」
フィーネが水晶に手を置く。
透明だった結晶が、わずかに青白く光った。
「……ほう」
エルヴィナの声が低くなる。
「殿下」
「なんだ」
「これは普通ではありません」
「へえ?」
俺も少し身を乗り出した。
水晶の内部で光が筋を描く。
普通の測定なら、属性や魔力量に応じて色が散るだけだ。
だがフィーネのそれは違った。
光が、幾重にも分岐しながら、綺麗に整列していく。
まるで誰かが線を引いたみたいに、正確に。
無駄なく。
迷いなく。
「制御精度が異常です」
エルヴィナが言う。
「初誘導でここまで形を保つ者は、学院首席級でも滅多にいない」
おいおい。
そんなにか。
「魔力量自体は……殿下ほどではない。だが年齢比では十分以上」
エルヴィナの目が細くなる。
「問題は質です」
「質?」
「演算能力」
水晶の中の光が、今度は幾何学模様のように組み上がっていく。
円、線、層、そしてまた分岐。
「この娘、魔術式を理解する速度が異様に早い。誘導した流れをなぞっているのではなく、途中から自分で最適化している」
「は?」
俺はフィーネを見る。
「お前、今何してる」
「よく分かりませんが」
フィーネは水晶に触れたまま答えた。
「この方の流し方、少し無駄があったので」
「待て」
思わず俺とガレスとエルヴィナの声が揃った。
フィーネはきょとんとした。
「違うのですか?」
「違わないのが問題です」
エルヴィナが断言した。
「初学者が誘導術式の癖を見抜いて修正しないでください」
へええ……。
これは当たりどころじゃないな?
「さらに……属性適性も偏っていません」
エルヴィナが測定盤を切り替える。
「火、水、風、土……どれも平均以上。だが突出はしていない」
「器用貧乏か?」
「いえ、逆です」
エルヴィナは珍しく、はっきりと興味を示した顔になった。
「この娘の本領は、複合と補助です。複数の術式を同時に維持し、組み合わせ、他者の魔術効率すら引き上げる」
「他者の?」
「ええ。単独で敵を焼き払うタイプではない。だが軍でも宮廷でも、一人いるだけで全体の質が変わる」
なるほど。
王の隣に立つのに向いた才、ってことか。
フィーネ自身も少し意外そうだった。
「私は、強いのでしょうか」
「強い弱いの話ではありません」
エルヴィナは即答する。
「あなたは厄介です」
「褒め言葉として受け取ってよろしいですか」
「好きになさい」
俺は吹き出した。
やっぱり、こいつ面白いな。
ところが、次の瞬間。
フィーネが何気なく流れを整えた途端、水晶がひときわ強く光った。
ぱき、と音がする。
「……あ」
フィーネが呟く。
「まさか」
エルヴィナが目を見開く。
次の瞬間、水晶の上部に小さなひびが入った。
「おい!?」
「止めなさい!」
エルヴィナが慌てて魔力を遮断する。
光が収まり、訓練室に沈黙が落ちた。
「……壊した?」
俺が聞くと、
「壊しかけました」
エルヴィナが訂正した。
「初測定で、皇族用の上級水晶を」
「殿下」
フィーネがこちらを見た。
「器物損壊は減点対象でしょうか」
「まずそこを気にするのか」
「客人としての心証は大事かと」
「たぶん今さらそこじゃない」
エルヴィナはひびの入った水晶を見つめ、やがて深く息を吐いた。
「結論を申し上げます」
「おう」
「この娘、放置は危険です」
「危険」
「放置して埋もれさせるのが危険。才能の無駄という意味で」
なるほど。
「正式な教育を受けさせなさい。しかも最上位で」
エルヴィナはきっぱり言った。
「読み書き計算の段階で留めるなど愚行です。術式理解、記憶、同時処理、魔力制御。どれも上澄み中の上澄みです」
「そこまでか」
「そこまでです。十年かけて磨く才能を、この娘は三年で追いつく可能性がある」
「三年」
「ええ」
フィーネは黙って聞いていたが、やがて静かに尋ねた。
「殿下に並ぶには?」
「……」
エルヴィナの視線が、ゆっくり俺へ向く。
それからまたフィーネへ。
「誰と比較しているかと思えば」
「質問に答えろ」
俺が言うと、エルヴィナは肩をすくめた。
「殿下は規格外ですので、並ぶという表現自体が不適切です」
「つまり?」
「方向性を変えなさい」
エルヴィナはフィーネに言った。
「殿下と同じ強さになる必要はない。殿下が持っていない種類の強さを持ちなさい」
「持っていない種類」
「殿下は正面突破の化け物です」
「言い方」
「事実です。対してあなたは、配置・制御・補助・観察。盤面を整え、他者を最大化する側」
「……」
フィーネは少しだけ考え込み、やがて頷いた。
「分かりました」
「理解が早い」
「殿下の隣に立つためなら、何でも」
「重い」
反射で口から出た。
エルヴィナが初めて、ほんの少しだけ笑った。
「殿下。これは面白いものを拾われましたね」
「拾ってない。客人だ」
「はいはい」
***
――そして、その面白いものは、当日中に宮廷中へ広まった。
夕刻、本宮へ戻ると空気が妙だった。
廊下を歩けば視線が刺さる。
女官たちが囁き、若い貴族がわざとらしく会話を止める。
近衛騎士まで微妙に落ち着かない顔をしている。
「早いな」
俺が呟くと、ガレスが答えた。
「殿下が離宮に見知らぬ少女を迎え、客人扱いし、さらに魔術師長を呼んだとなれば」
「広まるか」
「広まります」
フィーネは俺の半歩後ろを歩いていた。
まだ正式な身分は整備中だ。
だから今は簡素だが質の良いドレスを着せ、最低限見劣りしないようにしてある。
それでも、彼女が昨日まで奴隷市にいたと知れれば、面白く思わぬ連中は多いだろう。
曲がり角をひとつ抜けたところで、さっそく当たりが来た。
「これはこれは、レオンハルト殿下」
声をかけてきたのは侯爵家の嫡男、ヴィルヘルム。
十七歳。鼻につく優男で、学院でも何かと取り巻きが多い。
俺に直接歯向かう度胸はないが、こういう時だけ妙に鼻が利く。
「ご機嫌よう」
「別に良くはない」
「おや」
ヴィルヘルムの視線が、ゆっくりフィーネへ向く。
値踏みするような、嫌な目だ。
「最近、殿下が珍しい客人を迎えられたと耳にしまして」
「耳が早いな」
「宮廷では、些細なことでも噂になりますから」
「今回のは些細じゃないがな」
俺がそう返すと、ヴィルヘルムはうっすら笑った。
「では本当に、その方が?」
「何が言いたい」
「いえ。ただ……殿下ほどのお方が、わざわざ市井の、それも出自の定かでない娘をそばに置かれるとは意外でしたので」
「出自は定かだが?」
「失礼。ですが、周囲がどう受け取るかは別でしょう」
ああ、面倒くさい。
こういう善意を装った牽制が一番うざい。
直接悪口は言わない。
だが、聞いている全員に、あの娘は釣り合わないと刷り込む。
俺が口を開こうとした、その前に。
「ご忠告、ありがとうございます」
フィーネが一歩前へ出た。
おっと。
ヴィルヘルムも少し意外そうに眉を上げる。
「私はまだ殿下の客人にすぎませんので、宮廷のしきたりについては学ぶべきことが多いのでしょう」
フィーネは静かに続けた。
「ですから、こうしてご心配いただけるのはありがたいことです」
「……」
「ただ」
そこで、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。
「ご心配は、殿下が私を選ばれたことに対してでしょうか。それとも、私が殿下のそばに立つに足るかどうかでしょうか」
ヴィルヘルムの笑みが止まる。
「どちらにせよ、いずれ分かることかと」
フィーネは淡々と言った。
「私はまだ何者でもありませんが、殿下は違います。殿下が判断されたことを、私ごときの出自だけで軽んじる方はいないと思っておりました」
「っ……」
おお。
上手いな。
自分を低く置きつつ、相手には殿下の判断を疑うのかと返している。
真正面から喧嘩は売らない。
だが、退かせるだけの圧はある。
ヴィルヘルムの取り巻きが、明らかに顔色を変えた。
「無礼を申したつもりはありませんよ」
ヴィルヘルムが言う。
「承知しております」
「ただ、殿下のお立場を思えば」
「ならなおさら、殿下がどなたを傍に置かれるかは、殿下がお決めになることです」
完封である。
俺が口を挟む隙すらなかった。
ヴィルヘルムは数秒黙り、やがて形だけの笑みを作った。
「……なるほど。聡明な方だ」
「恐縮です」
「またいずれ、学院でもお会いできるかもしれませんね」
「その時はぜひ」
そう言ってヴィルヘルムは一礼し、去っていった。
背中が若干固い。効いたな。
廊下に残る静けさの中、俺はフィーネを見た。
「お前」
「はい」
「強いな」
「まだ弱いです」
「そういう意味じゃない」
フィーネは少し首を傾げた。
「出過ぎた真似でしたか」
「いや、むしろ助かった」
「でしたらよかったです」
そのまま歩き出しかけた彼女を、俺は呼び止めた。
「一応聞くが、腹は立ってないのか」
「立っておりますが」
「立ってるのかよ」
「当然です」
フィーネは平然と答えた。
「ただ、あの程度で感情的になるのは効率が悪いので」
「冷静だな」
「お名前は覚えました」
「怖いこと言うな」
「後で殿下に、あの方の家の派閥と政治的立ち位置を教えていただけますか」
「なんで」
「対策のためです」
「何の」
「今後の」
重い。
そして早い。
「あと、学院とは?」
「ん?」
「あの方が仰っていた、学院」
「ああ、帝国学院のことか」
そういえばそうだ。
ちょうど来春の編入時期が近い。
「殿下は通っておられるのですよね」
「一応な」
「一応」
「授業が退屈で出席率がな」
「……」
「その目はやめろ」
フィーネは何かを決意した顔になった。
「分かりました」
「何が」
「殿下の学院生活も立て直します」
「余計なお世話だが!?」
「対等な相手を望まれるのでしょう」
「そうだが」
「でしたら、私は学院にも参ります」
「え」
ガレスが横から口を挟む。
「制度上は可能かと。殿下の推薦と、身分の仮整備、そして本日の測定結果があれば、特例編入も十分あり得ます」
「お前まで何を言い出す」
「客人殿を最速で鍛えるには、最適な場でございましょう」
「いや、でも、学院にこいつ入れたら」
「面白いことになりそうですね」
「エルヴィナみたいなこと言うな」
フィーネは真顔のまま言った。
「殿下」
「なんだ」
「私は、殿下が望まれた対等に最短で到達します」
「だから、その言い方がもう」
「学院、政治、魔術、人間関係。全部学びます」
「全部」
「ええ。殿下の隣で、殿下が退屈する暇もないくらいに」
「そこなんだよなぁ……」
やはり、嬉しいのだ。
嬉しいのだが、重い。
明らかに重い。
ただ、その横顔はどこまでも真剣だった。
弟妹と再会して。
自分の才を知って。
宮廷の敵意にも触れて。
それでも怖じけないどころか、むしろ火がついたように見える。
ああ、なるほど。
たしかにこれは、埋もれさせたら危険だ。
俺が与えると言ったものを、こいつは本当に全部、自分の糧にしてしまうだろう。
しかも遠慮なく、容赦なく。
「……分かった」
俺は頭を掻いた。
「学院の件は検討する」
「ありがとうございます」
「まだ決まってない」
「決まる前提で準備します」
「早い」
フィーネはそこで、ほんの少しだけ笑った。
「ご安心ください、殿下」
「何が」
「殿下の選択が間違いではなかったと、すぐに証明してみせます」
その言葉に、廊下の窓から夕陽が差し込んだ。
灰銀の髪が、淡く赤く染まる。
綺麗だな、と思った次の瞬間。
「そのために、まずは本宮の人間関係を把握したいので、今夜から一覧を作ります」
「怖い」
「殿下の周囲で敵にも味方にもなり得る方を優先的に」
「怖いって」
「あと、先ほどのヴィルヘルム様。あの方は要注意ですね」
「もう分析してる」
「当然です」
「当然じゃない」
「それから」
フィーネはごく自然に言った。
「殿下の婚約候補についても把握が必要かと」
「なんでそこまで行くの!?」
「殿下の将来に関わりますので」
「お前、まだ来て二日目だぞ!?」
「足りませんか」
「密度が高すぎる!」
ガレスが後ろで小さく笑った。
俺は思わず天井を仰ぐ。
たしかに、退屈はしないだろう。
こいつがいる限り、絶対に。
問題は――
俺が欲しかった対等に話せる相手って、こんなに全力で人生へ食い込んでくるものだったか、ということだ。
どうにも違う気はする。
するのだが。
フィーネはもう、完全にそのつもりだった。
「殿下」
「なんだ」
「本日中に、学院の過去五年分の首席成績一覧は確認できますか」
「何に使う」
「目標設定です」
「怖い」
「ご安心ください」
「だから何が」
「殿下の隣、空けておいてくださいね」
そう言って微笑む彼女に、俺は言葉を失った。
……ああ、これ。
宮廷がざわつくのも分かる。
この女、たぶん本当に来る。
しかも俺が思っているより、ずっと早く。