すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果   作:ヤンデレすこすこ侍

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第三十話

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 翌朝、南区へ向かう前に、俺たちはまた負けていた。

 相手はもちろんミアである。

 

「おねえさま、寝た?」

 

 朝食の席。

 ミアは例のぬいぐるみを抱いたまま、フィーネをまっすぐ見上げていた。

 

 小さい。

 だが強い。

 

 離宮内で最も有効な抑止力、という評価は正しいのかもしれない。

 

「寝ました」

「何刻?」

「……」

「おねえさま」

「三刻ほど」

「ほんと?」

「はい」

 

 ミアはそこで俺を見た。

 

「殿下は?」

「俺も寝た」

「何刻?」

「三刻ほど」

「ほんと?」

「本当だ」

 

 なぜ朝から裁判を受けているのだろう。

 しかも裁判官が六、七歳の少女である。

 隣でガレスが無表情のまま茶を注いでいる。

 

 絶対に笑っている。

 顔は動いていないが、空気で分かる。

 

「ガレス」

「はい」

「お前、ミアに確認方法を教えたか」

「いいえ」

「本当に?」

「ミア様は優秀でございますので」

「答えになっていない」

 

 ミアは満足したらしく、小さく頷いた。

 

「じゃあ、いってらっしゃい」

「……ミア」

 

 フィーネの声が少し柔らかくなる。

 

「いいのですか」

「うん」

「昨日は、一緒にいたいと言っていました」

「でも、おねえさま、戻ってくる」

「はい」

「殿下も」

「俺もか」

「うん」

 

 真正面から言われると、返しづらい。

 

「戻る」

「ほんと?」

「本当だ」

「じゃあ、いい」

 

 強い。

 やはり強い。

 

 ルークは向かいの席で、少しだけ硬い顔をしていた。

 食べ終えた皿の横に、木剣はない。

 ガレスに言われて、食卓へ持ち込むのはやめたらしい。

 

 その代わり、背筋だけは妙に伸びている。

 

「ルーク」

「はい」

「お前も来たいか」

 

 ルークは一瞬だけフィーネを見た。

 それから、正直に頷いた。

 

「はい」

「だろうな」

「でも、今日は行きません」

「理由は」

「姉さまが、まだ早いと言ったので」

「納得してるか」

「……半分くらい」

「正直でよろしい」

 

 フィーネが静かに言う。

 

「ルーク」

「はい」

「あなたが来ないのは、弱いからではありません」

「……はい」

「ミアの側にいてください」

「ミアを守るためですか」

「はい」

 

 ルークの表情が少しだけ変わった。

 守る、という言葉は効くらしい。

 

「分かりました」

「ありがとうございます」

「姉さま」

「はい」

「怖かったら、戻ってきてください」

「……はい」

「殿下も」

「俺も?」

「姉さまを止める役なので」

「お前、よく分かってるな」

「はい」

 

 フィーネがこちらを見た。

 

「殿下」

「何だ」

「弟に何を教えたのですか」

「何も教えてない」

「では、観察力ですね」

「エレノアス家、全体的に強くないか」

「褒めています?」

「半分ほど」

「残り半分は?」

「怖い」

「承知しております」

 

 朝から調子がいつも通りで、少し安心した。

 

 いや、安心していいのかは分からない。

 だが少なくとも、フィーネは立っている。

 怖いと言いながら、今日も立っている。

 

 だから俺も行く。

 

 皇都南区。

 旧エレノアス商会跡地へ。

 

 

   ***

 

 

 南区へ向かう馬車の中は、妙に静かだった。

 乗っているのは、俺、フィーネ、ガレス。

 表向きはそれだけだ。

 影の護衛はいるが、影は数に入れない。

 そういうものだ。

 

 窓の外では、皇都中央の白い石造りが少しずつ崩れ、商人街の色へ変わっていく。

 

 看板。

 荷車。

 香辛料の匂い。

 人の声。

 遠くで鳴る金属音。

 

 南区は、いつ来ても生き物みたいに騒がしい。

 そして、この区画は俺にとっても無関係ではない。

 俺がフィーネを拾った奴隷市も、南区にあった。

 

「殿下」

 

 フィーネが隣で言う。

 

「顔に出ています」

「どの顔だ」

「懐かしい、とは違う顔です」

「正確だな」

「はい」

「お前は?」

「私も、懐かしいとは少し違います」

 

 彼女は窓の外を見ていた。

 灰銀の目は、通りの奥の細い影まで拾っている。

 

「戻りたい場所ではありません」

「ああ」

「ですが、なかったことにもしたくありません」

「そうか」

 

 重い。

 だが、その重さは今日の場所に必要なものだと思った。

 

 ガレスが向かいで静かに口を開く。

 

「旧エレノアス商会の建物は、現在、別の香料商が使用しております」

「半分だけ残っているんだったな」

「はい。債務処理後、正面部分は改装。奥の倉庫と左側の石壁は旧来のままとのことです」

「よく調べたな」

「必要でしたので」

「便利だな、その言葉」

「殿下方が多用されるので」

 

 俺とフィーネは一瞬だけ黙った。

 

「おい」

「私もですか」

「お前はかなりだろ」

「殿下ほどでは」

「いや、お前の方が多い」

「記録を確認しますか」

「するな」

 

 ガレスは何も言わなかった。

 だが、今のやり取りもたぶん記録されるのだろう。

 本当にうちの執事は油断ならない。

 

 

   ***

 

 

 旧エレノアス商会は、大市場から少し外れた商業通りの角にあった。

 道幅は広くない。

 けれど人通りは多い。

 荷車が行き交い、香料袋を抱えた若い店員が走り、店先では主婦らしき女たちが値切り合っている。

 

 その中に、目的の建物はあった。

 今の看板には、別の商家名が掲げられている。

 南方香料、乾燥花、保存樹脂。

 扱う品は、奇妙なくらいエレノアス商会の記録と似ていた。

 

 だが、建物の雰囲気は半分だけ古い。

 右側は新しい木材で組み直されている。

 窓枠も扉も新しい。

 けれど左側の石壁と、入口の低い段差、それから奥へ続く梁は、明らかに古かった。

 

 フィーネが足を止めた。

 

「ここか」

「はい」

 

 声は静かだった。

 ただ、ほんの少しだけ薄い。

 

「入口の石段が、そのままです」

「分かるのか」

「三段目が欠けています」

「本当だ」

 

 見れば、確かに三段目の端が斜めに欠けている。

 目立つほどではない。

 むしろ、知らなければただの傷だ。

 

「昔、ルークがここで転びました」

「ミアじゃなくて?」

「ルークです」

「意外だな」

「本人は、今でも認めないと思います」

「それは聞きたいな」

「聞かないであげてください」

「善処する」

「信用できません」

 

 少しだけ、フィーネの声が戻った。

 たぶん、そういう小さな記憶があるからこそ、余計に痛いのだろう。

 

 店内へ入ると、香料の匂いが濃くなった。

 乾燥花、樹脂、木箱、布袋。

 甘い匂いと苦い匂いが混ざっている。

 現在の店主らしき男が、俺たちを見るなり緊張した顔になった。

 

 ガレスが一歩前へ出る。

 

「事前にお伝えした件でございます」

「は、はい。旧エレノアス商会の建物確認、ですね」

「はい」

「奥は片付けております。ですが、その、古い部分はあまり手を入れておりませんので」

「それで結構です」

 

 店主の視線が俺へ向く。

 俺は皇族章を外してはいない。

 隠す気もない。

 だが今日は、威圧するためではなく、余計な抵抗を減らすために使っている。

 

「仕事の邪魔はしない」

「は、はい」

「聞きたいことがあれば後で聞く。まずは見せてもらう」

「承知しました」

 

 店主は深く頭を下げ、奥へ案内した。

 

 店の奥は、表より空気が古かった。

 

 床板に軋みがある。

 壁に残った棚の跡。

 天井の梁には、古い吊り金具。

 倉庫へ続く細い扉。

 

 フィーネは一つ一つを見ていた。

 表情は変わらない。

 だが、歩幅が少しだけ遅い。

 

「ここに、薬草袋がありました」

「今は樹脂だな」

「はい。昔は、リューリカの乾燥花がこの棚の上に」

「母上が好きだったやつか」

「はい」

 

 彼女は棚の跡へ指を近づけた。

 触れはしない。

 

「触っていいんじゃないか」

「よろしいのですか」

「店主」

「は、はい。もちろん」

 

 フィーネは少しだけ頷き、棚の跡に指先を当てた。

 

 軽く。

 確かめるように。

 

「母は、よくここで香りを選んでいました」

「ノエラ殿か」

「はい。身体が強くありませんでしたので、長く立つと父が怒りました」

「怒るのか」

「静かに」

「静かに怒るの、怖そうだな」

「父は、殿下ほど分かりやすくありませんでした」

「比較対象にするな」

 

 ガレスが静かに咳払いした。

 笑ったな。

 絶対に笑った。

 

 フィーネは奥の梁を見上げた。

 

「ここに、小さな飾り紐がありました」

「飾り紐?」

「母が季節ごとに替えていました。春は薄青、夏は白、秋は赤茶、冬は銀」

「よく覚えてるな」

「覚えていたのではなく、今思い出しました」

「……そうか」

 

 人の記憶は妙なものだ。

 紙に書かれた名前では動かなくても、石段の欠けや棚の跡で急に戻ってくる。

 たぶん今、フィーネの中ではこの薄暗い倉庫に、かつての光景が重なっている。

 

 父がいて。

 母がいて。

 幼いルークが転んで。

 ミアがまだもっと小さくて。

 フィーネが姉で、娘だった場所。

 

 それを、今は別の商家が使っている。

 

 悪いことではない。

 商売の場所は移る。

 建物は売られ、直され、次の人間の生活になる。

 

 だが、痛いことではある。

 

「フィーネ」

「はい」

「大丈夫か」

「大丈夫ではありません」

「珍しく正直だな」

「ここで嘘をつくと、殿下が顔に出されるので」

「俺のせいか」

「はい」

「責任転嫁では?」

「対等ですので」

「便利だな、本当に」

 

 フィーネはほんの少しだけ口元を緩めた。

 だが、すぐに店主へ向き直る。

 

「お尋ねします」

「は、はい」

「この建物を引き継がれた時、旧エレノアス商会のものは残っていましたか」

「大きなものはありませんでした。棚と梁と、奥の石壁くらいです。帳簿類は債務処理の時点で持ち出されたと聞いております」

「誰に」

「商務院の整理人、と聞いております。ただ……」

 

 店主が少し言い淀む。

 

「ただ?」

「当時の話を知っている者なら、隣の路地におります」

「隣?」

「昔、この建物の横でパン屋を営んでいた老人です。今は通りの裏で、小さく店を続けています。エレノアス商会の頃を覚えているかと」

 

 フィーネの指が、ほんの少しだけ止まった。

 ガレスがすぐに確認する。

 

「名は」

「皆、爺さんと呼んでいます。店名もろくに出していませんが、古い者なら分かります」

「行くか」

 

 俺が言うと、フィーネは一拍だけ置いて頷いた。

 

「はい」

 

 

   ***

 

 

 裏路地のパン屋は、店というより窓だった。

 小さな焼き窯。

 古い木枠の受け渡し台。

 軒先には焼きたての黒パンが数個だけ並んでいる。

 表通りの賑やかさから一歩外れただけで、空気は少し静かだった。

 

 老人は、窯の前に座っていた。

 

 痩せた背中。

 白い髪。

 皺だらけの手。

 

 だが、目だけはよく動く。

 

「客かい」

 

 老人がこちらを見た。

 ガレスが前へ出ようとしたが、フィーネが小さく首を振った。

 自分で進むつもりらしい。

 

「突然の訪問、失礼いたします」

 

 フィーネは静かに言った。

 

「昔、この通りにあったエレノアス商会について、お話を伺いたく参りました」

 

 老人の目が、フィーネの顔で止まった。

 

 灰銀の髪。

 灰銀の瞳。

 姿勢のよさ。

 静かな声。

 

 老人は長く黙った。

 それから、ゆっくり立ち上がった。

 

「……お嬢さん」

 

 フィーネのまつげが、ほんの少し動く。

 

「はい」

「覚えているとも」

 

 その一言で、路地の空気が変わった。

 フィーネは表情を変えなかった。

 変えなかったが、俺には分かった。

 

 息が、ほんの少し止まった。

 

「ヴェネルさんとこの、上のお嬢さんだ」

「……はい」

「大きくなったな」

「はい」

「生きていたのか」

「はい」

 

 老人はそこで、深く息を吐いた。

 

「よかった」

 

 ただ、それだけだった。

 だが、その言葉は記録よりずっと重かった。

 フィーネは頭を下げた。

 

「父と母を、覚えておられますか」

「忘れるものか。ヴェネルさんは真面目な商人だった。ノエラさんは身体が弱かったが、店の香りを選ぶ目が良かった」

「……」

「ルーク坊も、あの石段で転んで泣いていた」

「本人は認めません」

「だろうな。強情な目をした子だった」

「今もです」

「そうか」

 

 老人は少し笑った。

 その笑いは、昔を懐かしむものだった。

 

 だが、次にこちらを見た時、その目は少し曇っていた。

 

「それで、何を聞きたい」

「父の最後の取引についてです」

 

 フィーネは迷わなかった。

 やはり、この女は退かない。

 

 老人の顔が曇る。

 

「……嫌な話だ」

「承知しております」

「なら、言うが」

 

 老人は焼き窯の横の椅子を示した。

 俺たちは座らなかった。

 フィーネも立ったままだ。

 老人も、それを見て無理には勧めなかった。

 

「ヴェネルさんの店が傾く前、見慣れない荷車が来ていた」

「荷車」

「ああ。黒い鳥の紋が入っていた」

「……」

 

 フィーネは何も言わなかった。

 ガレスがわずかに目を伏せる。

 

 俺は内心で息を吐いた。

 

 黒い鳥。

 黒鴉商会。

 

 またそこか。

 

「翼を広げた鳥だ。鴉だと言う者もいた。私は商会名までは知らん。ただ、あの紋は覚えている。黒くて、嫌に目立った」

「何度来ましたか」

「三度は見た。一度目は昼。二度目は夕方。最後は、朝早くだ」

「朝早く」

「まだ店が開く前だった。ヴェネルさんが、相手の男と表で話していた。声を荒げてはいなかったが……まあ、穏やかではなかった」

「内容は」

「細かくは聞こえん。ただ、ヴェネルさんは『これは話と違う』と言っていた」

「……」

 

 フィーネの指先が、静かに冷えた。

 俺は隣に立っていたから分かる。

 袖の端から覗く指が、ほんの少し白くなった。

 

「その後、どうなった」

「すぐに役人が来た。禁制品だ、触媒だ、取引停止だと騒ぎになった」

「父は」

「抗議していた。だが、あれは早すぎた」

「早すぎた?」

「ああ。普通、商人同士の揉め事なら、確認が入る。帳簿を見る。荷を確かめる。組合にも話が行く。だがあの時は、もう全部決まっているようだった」

「……」

「差し押さえの札が貼られるまで、あっという間だったよ」

 

 老人は悔しそうに言った。

 

「ヴェネルさんが悪い商人だったとは、私は思わん」

「……」

「もちろん、私は隣のパン屋だ。商いの全てを知っていたわけじゃない。だが、あの人は、子供に食わせるパンの代金を遅らせたことは一度もなかった」

「パンの代金」

「ああ。お嬢さんが小さい頃、よく取りに来ただろう。黒パン二つと、白パン一つ」

「……白パンは、母の」

「そうだ。ノエラさんが食べやすいように、柔らかく焼いた」

 

 フィーネが目を閉じた。

 

 泣かない。

 まだ、泣かない。

 

 けれど、今の言葉は確実に届いている。

 老人は少しだけ声を落とした。

 

「だから、あの人を紙の上の悪者だけにはしないでくれ」

「……はい」

 

 フィーネは静かに答えた。

 

「そのために、来ました」

「そうか」

「ありがとうございます」

「礼はいらん。生きていたなら、それでいい」

 

 老人は店先の黒パンを一つ取った。

 そして、フィーネへ差し出した。

 

「食べるか」

「……」

「昔ほど腕はよくないが、まだ焼ける」

 

 フィーネは一瞬だけ迷った。

 それから、両手で受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

 声は、少しだけ細かった。

 俺は老人へ銀貨を出した。

 老人が目を細める。

 

「殿下から金を取るのは、寿命が縮みそうだ」

「じゃあ長生き代だ」

「変な理屈だな」

「よく言われる」

 

 老人は銀貨を受け取らなかった。

 代わりに、もう一つパンを俺へ押しつけた。

 

「そこのお嬢さんを泣かせるなよ」

「泣かせるな、か」

「違うのか」

「泣ける場所にする方が近い」

「……そうか」

 

 老人は俺をしばらく見た。

 そして、ゆっくり頷いた。

 

「なら、しっかり立っていなさい」

「老人に説教される皇子」

「人は年を取ると、皇子にも説教できる」

「ガレスみたいだな」

「殿下」

 

 ガレスが静かに咳払いする。

 

「何だ」

「私は、年齢に関係なく申し上げております」

「もっとひどいな」

 

 フィーネがほんの少しだけ笑った。

 

 小さく。

 だが、確かに。

 

 

   ***

 

 

 帰り道、フィーネはパンを包んだ布を膝の上に置いていた。

 馬車ではなく、少しだけ歩いた。

 フィーネがそう望んだからだ。

 旧エレノアス商会から大通りへ戻るまでの、短い石畳。

 彼女がかつて歩いた道。

 今は別の店が並び、別の人間が通る道。

 

 その上を、フィーネは静かに歩いていた。

 

「殿下」

「何だ」

「この角を曲がった先に、井戸がありました」

「今はないな」

「はい」

「覚えているのか」

「今、思い出しました」

「そうか」

 

 彼女の記憶は、戻るたびに痛いのだろう。

 それでも、フィーネは足を止めない。

 

「お前」

「はい」

「あれを聞いた時、笑いそうだったな」

「はい」

「またか」

「皮肉が過ぎますので」

「……」

 

 分かる。

 分かってしまう。

 

 観測対象二号。

 灰銀の編入生。

 同期率。

 反応。

 折れ羽根の連中は、フィーネをそんなふうに記録した。

 

 だが、その前に。

 観測対象になる前に。

 

 フィーネの家を潰したかもしれないのは、同じ黒い鳥の網だった。

 

 特別な陰謀ではなく。

 ただ、利益のため。

 潰せる商会を潰し、在庫を奪い、権利を拾い、債務を動かす。

 その結果、フィーネは奴隷市へ行った。

 

 そこで俺と出会った。

 そして折れ羽根が観測を始めた。

 

 ふざけた話だ。

 本当に、皮肉が過ぎる。

 

「笑いたいか」

「いいえ」

「怒りたいか」

「はい」

「じゃあ怒れ」

「今は、記録します」

「お前らしいな」

「怒ると、順番を間違えそうですので」

「順番?」

「まず証言。次に照合。次に記録。最後に訂正です」

「最後なのか」

「はい」

「殴るのは?」

「殿下の担当かと」

「俺の役割、だいぶ雑じゃないか」

「適材適所です」

「褒めてる?」

「かなり」

 

 かなりなのか。

 ならいいか。

 いや、よくない気もする。

 

 俺はフィーネの手元を見た。

 包まれたパン。

 その布を押さえる指先は、まだ少し白い。

 

「手」

「はい?」

「冷たい」

「気のせいです」

「嘘だな」

「……はい」

 

 珍しく素直だった。

 俺は何も言わず、彼女の指先に自分の手を重ねた。

 フィーネが一瞬だけ止まる。

 

「殿下」

「嫌なら離す」

「嫌ではありません」

「ならいい」

「ですが」

「何だ」

「少し、心臓に悪いです」

「お前でもそうなるのか」

「なります」

「へえ」

「嬉しそうですね」

「少しな」

「重いです」

「お前に言われたくない」

 

 フィーネは目を伏せた。

 だが、手は離さなかった。

 

 通りの端で、ガレスが少しだけ歩調を緩める。

 

 気を遣ったのか。

 それとも観察したのか。

 

 たぶん両方だ。

 

「フィーネ」

「はい」

「父親のこと、少し分かったな」

「はい」

「まだ全部じゃない」

「はい」

「黒い鳥も、決定的ではない」

「はい」

「でも、紙だけじゃなかった」

「……はい」

 

 フィーネはパンの包みを見下ろした。

 

「父は、商人でした」

「ああ」

「母は、柔らかい白パンを食べていました」

「ああ」

「ルークは石段で転びました」

「ああ」

「私は、それを忘れていました」

「今、思い出した」

「はい」

 

 彼女は小さく息を吐いた。

 

「殿下」

「何だ」

「記録とは、怖いですね」

「急にどうした」

「紙に残らないものほど、なくなった時に戻しにくい」

「……そうだな」

「でも、人が覚えていることもあります」

「あの老人みたいに?」

「はい」

「なら、取りに行けばいい」

「はい」

 

 フィーネの声が、少し戻った。

 

「取りに行きます」

「次は?」

「薬種商マクスヴェル」

「父の旧友か」

「はい」

「怖いか」

「怖いです」

「それでも?」

「行きます」

 

 即答だった。

 やはりいつものフィーネだ。

 

 だが、その手はまだ冷たい。

 だから俺は、もう少しだけ握っていた。

 

「殿下」

「何だ」

「そろそろ離していただかないと、歩きづらいです」

「先に言え」

「少しだけ、言いそびれました」

「お前が?」

「はい」

「珍しいな」

「ですので、記録しないでください」

「俺は記録官じゃない」

「ガレス様が」

「ガレス」

「はい」

 

 少し後ろから、何食わぬ顔で返事が来る。

 

「今のは記録するな」

「承知いたしました」

「本当に?」

「殿下の御命令ですので」

「信用できないな」

「では、私的記憶として」

「もっと駄目だろ」

 

 フィーネが小さく笑った。

 今度は、先ほどより少しだけ自然だった。

 

 南区の喧騒は、相変わらずうるさい。

 荷車が軋み、商人が叫び、香料とパンの匂いが混ざっている。

 その中で、フィーネは旧エレノアス商会の方向を一度だけ振り返った。

 

 表情は静かだった。

 涙はない。

 怒りも、まだ表にはない。

 

 だが、俺には分かる。

 今日、彼女は少しだけ取り戻した。

 

 紙に削られた名前ではなく。

 帳簿に潰された商会でもなく。

 誰かの記憶の中に残っていた、家の匂いを。

 そして同時に、黒い鳥の影もまた濃くなった。

 

 面倒だ。

 本当に面倒だ。

 

 だが、もう後戻りする道はない。

 

「フィーネ」

「はい」

「明日は西区だな」

「はい」

「マクスヴェルに会う」

「はい」

 

 彼女はパンの包みを胸元に抱き、静かに言った。

 

「父の友人に、会いに行きます」

 

 その声は、怖さを含んでいた。

 けれど、折れてはいなかった。

 

 俺は頷く。

 

「行くか」

「はい、殿下」

 

 石畳の上を、俺たちは歩き出す。

 

 紙の上ではなく。

 帳簿の中でもなく。

 

 人の記憶を、こちらの足で取り戻すために。

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