すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果 作:ヤンデレすこすこ侍
フィーネを拾ってから、七日が経った。
たった七日である。
なのに離宮の空気は、もう前とは別物だった。
「殿下、本日の予定です」
朝食の席についた俺の前に、一枚の紙が差し出される。
差し出したのは当然、フィーネだ。
「起床、朝食、剣術、座学、謁見準備、昼食、書類確認、魔術訓練、茶会一件、夕刻にエルヴィナ様との面談」
「待て」
「はい」
「なぜ俺の予定をお前が完全に把握している」
「把握していないと困りますので」
「誰が」
「私が」
すぱっと返された。
朝だぞ。
もう少し眠たそうにしろ。
しかもこいつ、最初の頃に『殿下のお隣の部屋にしてください』だの『言動分析を』だの言っていたが、あれから一週間で本当にやり始めた。
食事の好みは把握された。
執務中に無意識で机を叩く癖も把握された。
機嫌の良し悪しが、紅茶を飲む速度で分かるとか言い出した。
最近では、俺が言葉にする前に、今日は甘い菓子を先に出させましたとか平然とやる。
怖い。
いや、ありがたいんだが。
ありがたいんだが、怖い。
「殿下」
「なんだ」
「本日は、第三皇子宮主催の小茶会があります」
「知ってる」
「参加者の名簿、顔写真、家系図、利害関係、派閥、過去三年の発言傾向をまとめました」
「なんでそんなものがある」
「作りました」
「七日で?」
「睡眠時間を少し削れば」
「削るな!」
俺がそう言うと、フィーネはほんの少しだけ目を伏せた。
「……殿下がお嫌でしたら、今後は控えます」
「その言い方やめろ。俺が悪者みたいになるだろ」
「事実では?」
「違う」
フィーネは小さく首を傾げる。
「私は、殿下のために最短を選んでいるだけですが」
「そこなんだよ」
俺は額を押さえた。
「なんでそんなに全力なんだ」
「申し上げたはずです」
「何を」
「私は、殿下が与えてくださるすべてを使って、殿下の望みに応えると」
相変わらず、声は静かだ。
感情を喚き立てるわけでもない。
ただ、揺るがない。
「飢えておられるなら満たすと、退屈なら退屈と言えなくすると」
「だから、いちいち言い方が重いんだよなあ……」
ガレスが後ろで無言のまま肩を震わせた。
笑ってるな、あいつ。
「殿下」
「はいはい、なんだ」
「本日は茶会がありますので、そろそろそのだらしない座り方も直してください」
「俺の扱いが雑になってないか?」
「対等ですので」
「便利だな、その理屈!」
***
小茶会というのは、言葉の響きほど気軽なものではない。
場所は本宮の温室庭園。
参加するのは皇族に近しい上級貴族の子女たち。
将来の派閥、婚姻、取り引き、情報交換、牽制。
そういうものを紅茶の香りで包んで飲み込む、非常に面倒な場だ。
本来なら、俺はこういう場が大嫌いである。
『まあ、レオンハルト殿下』
『今日もご立派で』
『ご活躍、いつも耳にしておりますわ』
――うるさい。
そういうのは聞き飽きた。
だが今日は少しだけ違った。
なぜなら。
「殿下。背筋」
「はい」
「視線はやや上」
「はい」
「笑顔は三割」
「注文が細かい」
「四割ですと相手が勘違いします」
「何をだよ」
「そのうち分かります」
俺の半歩後ろに、フィーネがいるからだ。
今日の彼女は、離宮で用意させた淡い灰青のドレスを着ていた。
装飾は控えめ。
だが仕立てがいい。
灰銀の髪ともよく合っていて、初めて会った時のぼろ布姿を知る俺でも、一瞬別人かと思うほどだった。
それなのに、立ち方だけはまるで変わらない。
静かで、真っ直ぐで、逃げない。
「緊張してるか?」
「しておりません」
「嘘だな」
「ほんの少しだけ」
「隠さないのか」
「殿下には見抜かれるので」
最近そればっかりだな。
「お前、今日が実質的な宮廷デビューみたいなものだろ」
「そうですね」
「嫌なら無理して来なくてもよかったんだぞ」
「なぜです?」
フィーネはきょとんとした。
「殿下が出られるのに、私が出ない理由がありません」
「出ない理由、って」
「殿下が普段どのように扱われ、誰がどのような意図で近づくのか。把握すべき最優先事項です」
「うん」
「それに」
「それに?」
「殿下のお隣が、不愉快なもので埋まるのは困ります」
さらりと言われて、俺は一瞬黙った。
「……お前、それなりに独占欲強くないか?」
「強いと思います」
「認めるのか」
「認めた方が早いので」
あっさりしているのに重い。
なんだこの女。
***
茶会は、始まって三分で面倒になった。
「まあ、こちらの方が?」
「ええ。最近、殿下が離宮に迎えられた客人だとか」
「とてもお綺麗ですこと」
「どちらのご令嬢なのかしら」
好奇心、探り、値踏み、計算。
笑顔の裏に入っているものが分かりやすすぎる。
俺の正面には、宰相家の娘リリアーヌ。
その隣に、騎士団長家の次女セレスティア。
あと何人か。
全員、年は近い。
全員、笑顔が上手い。
フィーネは俺の半歩後ろで、実にきれいな礼をした。
「フィーネと申します。未だ浅学ではございますが、お目通りの栄を賜りまして光栄です」
「まあ、なんて綺麗な発音」
「どなたに礼法を?」
「離宮で少し学ばせていただきました」
よし、完璧だ。
外面だけなら。
「殿下のおそばに侍るなんて、さぞ大変でしょう?」
「ええ」
即答だった。
俺が吹き出しそうになる。
だがフィーネは表情ひとつ変えない。
「大変です。殿下は時折、ご自身の価値を軽く見積もられますので」
「……は?」
「それを周囲が当然と思い始めると危険ですから、常に確認が必要で」
「え、ええと……」
「ですが、そうしたお姿も含めて、非常に目が離せない方です」
空気が一瞬止まった。
おい。
おいおいおい。
お前、初手から何を言ってる。
リリアーヌが微笑みを保ったまま、俺へ視線を滑らせる。
「殿下。ずいぶんと、熱心な方をお拾いになりましたのね」
「そうだな。本人もそう言ってる」
「お優しい殿下のことですもの。困っている方を放っておけなかったのでは?」
「いや、割と俺の都合だが」
「殿下」
「いてっ」
フィーネに後ろから軽く靴を踏まれた。
地味に痛い。
だが、周囲には見えない位置だ。
こいつ、やるな。
「殿下はお戯れを」
にこやかに言いながら踏み続けるのやめろ。
「フィーネ様は、殿下にとってどのような立場なのですか?」
と、セレスティアが問うた。
その声音は柔らかい。
だが針はある。
客人か、侍女か、愛妾候補か、単なる気まぐれか。
そういう線引きを知りたいのだろう。
俺が答えるより早く、フィーネが言った。
「殿下が望まれる相手です」
「ぶっ」
噴きかけた紅茶をどうにか飲み込んだ。
苦しい。
「失礼。何?」
「殿下が望まれる相手です」
「言い直しても危ない」
「事実ですが」
「どこを切り取っても危ない!」
令嬢たちの視線が一気に集まる。
あっ、これ駄目なやつだ。
だがフィーネは平然としていた。
「殿下は、立場や打算で曇らぬ会話を望まれました」
「……」
「ですので私は、その望みに応えるべくここにおります」
ああ、なるほど。
説明としては間違っていない。
間違っていないが、言葉選びに一切の配慮がない。
リリアーヌが扇で口元を隠し、くすりと笑った。
「まあ。では、殿下にとって、特別ということですのね」
「特別です」
即答。
しかも断言。
今度こそ、全員の視線が完全に変わった。
「お、おいフィーネ」
「はい」
「もう少しこう……濁すとか」
「なぜです?」
「なぜって」
「殿下は私に、客人としての立場、学ぶ機会、財産、未来をくださいました」
「うん」
「弟妹の命まで救ってくださいました」
「それはまあ」
「でしたら、殿下にとって、私は特別なのだと思われます。そして、私にとっても、殿下は特別です」
静かだった。
声を張り上げてもいない。
ただ、当たり前のことを当たり前のように言っただけの声だった。
なのに、妙に響いた。
周囲の令嬢たちは、社交用の笑顔を浮かべたまま言葉を失っている。
たぶん、打算込みの
だが、ここまで真顔で、何の照れもなく、真正面から言い切るやつは珍しい。
俺だって珍しいと思う。
というか重い。
正面から浴びると普通に重い。
「……フィーネ」
「はい」
「少しは恥じらいを覚えろ」
「なぜです?」
「俺が困るから」
「殿下が困るのは、今さらでは?」
「否定できないのがつらい」
その時、セレスティアが微笑んだまま切り込んできた。
「ですが、殿下の特別を名乗るには、少々お立場が弱いのではなくて?」
「お立場、ですか」
「ええ。どれほど殿下がお優しくとも、宮廷には宮廷の釣り合いがございますもの」
ああ、来たな。
露骨ではないが、要するに『出自が足りない』と言いたいのだ。
俺が口を開こうとした、その前に。
「ご安心ください」
フィーネが穏やかに微笑んだ。
「私も、現状で釣り合っているとは思っておりません」
「……」
「ですので、釣り合うところまで参ります」
「は?」
令嬢たちが呆然と口をあけた。
「学び、身につけ、必要なものを揃え、殿下のお隣に立つに足る人間になります」
「ちょっと待て」
「最短で」
「待てと言ってるだろ」
何度目か。
令嬢たちが完全に黙った。
それはそうだ。
普通、こういう場では、遠回しに謙遜したり、笑って流したりする。
真正面から『足りないので埋めます』とは言わない。
しかもこの女、本気だ。
知っている俺だけが分かる。
こいつは冗談でこういうことを言わない。
「殿下」
フィーネが俺を見る。
「学院首席、取ればひとまず十分でしょうか」
「ここで確認するな」
「公的評価は分かりやすい指標ですので」
「お前、空気って知ってるか?」
「存じております」
「じゃあなんでこうなる」
「殿下の前では不要かと」
やめろ。
そういうの、外で言うな。
本当にやめろ。
だが、令嬢たちの反応は意外だった。
呆れより先に、困惑と、それから少しのたじろぎ。
たぶん彼女たちも見たのだ。
フィーネがただ背伸びしているのではなく、本気でそこまで来る気でいることを。
リリアーヌが紅茶を置く。
「……殿下は、大変な方をお側に置かれましたのね」
「それは俺が一番よく分かってる」
「退屈は、なさらなそうですわ」
「ああ、本当にな」
心からそう返すと、リリアーヌは初めて少しだけ素で笑った。
***
茶会の後半。
少し空気が和らいだところで、事件は起きた。
温室庭園の外縁。
薔薇棚の近くで、俺が一人になったほんの短い時間だった。
「殿下」
声をかけてきたのは、ひとりの少年貴族だった。
年は十六ほど。
辺境伯家の次男、アルノー。
名前くらいは覚えている。
「どうした」
「少し、お耳に入れたいことが」
「その顔は碌でもないな」
「失礼ながら、殿下のお側の方についてです」
ああ、もう来たか。
早いな。
「どんな?」
「素性の知れぬ者を、ああも近くへ置かれるのは危ういかと。情にほだされて一時の寵を与えるのはご自由ですが、将来を考えるなら――」
そこまで聞いたところで。
「へえ」
静かな声が、横から入った。
アルノーの肩がびくりと揺れる。
いつの間に来たのか、フィーネがそこに立っていた。
「一時の寵」
「……」
「将来を考えるなら、ですか」
「き、君に言ったわけでは」
「ですが私の話でしたよね?」
笑っている。
笑っているのに全然温かくない。
初めて会った奴隷市の目だ。
あれが、綺麗な笑顔の中にそのまま入っている。
「フィーネ」
「はい、殿下」
「ほどほどにな」
「善処します」
信用できない。
フィーネはアルノーへ一歩近づいた。
「ご忠告、感謝いたします」
「そ、そうだろう。私はただ殿下のためを思って」
「では一つ、確認しても?」
「な、何を」
「あなたは、殿下の何をご存じですか」
「は?」
「朝の機嫌の見分け方は?」
「……」
「甘味と塩味、どちらを先に出すと執務効率が上がるかは?」
「……知らない」
「剣術の後、右肩にだけわずかな疲労が残る癖は?」
「そんなもの」
「書類が増えると筆圧が強くなり、三枚目から文字が少しだけ雑になることは?」
「……」
アルノーが黙る。
おい。
なんでそんなことまで知ってるんだお前。
「殿下が、退屈だと仰りながら、本当はずっと飢えておられたことは?」
「……」
「周囲に人がいても、一人でおられる方だったことは?」
「……」
「それを知りもせず、何をもって殿下のためだと?」
空気が冷えた。
俺でさえ、一瞬息を呑んだ。
フィーネの声音は静かだったが、その静かさが逆に怖い。
「お前」
思わず口を挟む。
「それ以上は」
「失礼しました」
フィーネはすっと一歩引いた。
だが、視線だけはアルノーから外さない。
「ただ、勘違いは困りますので」
「勘違い?」
「私は、気まぐれに侍っているのではありません」
その言葉に、俺は嫌な予感を覚えた。
これ、たぶん止めても無駄な流れだ。
「殿下に救われたから恩義がある、では足りない」
「おい」
「恩義だけなら、礼を尽くして離れれば済みます」
「おい」
「ですが私は、もうそうではないので」
アルノーが完全に気圧されている。
俺も少し気圧されている。
「フィーネ」
「はい」
「今のお前、すごく危ないこと言いそうだから」
「危なくありません」
「本当か?」
「本当です」
そして、こいつは本当だと思って言う時ほど危ない。
フィーネは俺の隣に立った。
距離は近い。
けれど触れはしない。
ただ、当然のようにそこにいる。
「殿下は、私の人生を変えました」
「……」
「弟と妹の明日を繋いでくださった」
「……」
「私に、選ぶ自由をくださった」
アルノーだけではない。
少し離れた位置にいた侍女や護衛たちまで、気配を潜めてこちらを見ている。
「だから私は」
フィーネは淡々と、けれど一言ずつ確かめるように言った。
「殿下が望まれるなら学びます」
「……」
「必要なら立場を得ます」
「……」
「お隣に立つに足りないと言われるなら、足りるまで積み上げます」
「……」
「殿下を軽んじるものがあるなら、相応に排します」
「排すな」
即座に突っ込むと、フィーネは俺を見上げた。
「言葉の綾です」
「目が本気なんだよなあ」
「殿下」
「なんだ」
「私は、殿下の敵が嫌いです」
「まだ敵と決まったわけじゃないだろ」
「では、殿下を雑に扱うものが嫌いです」
「それも範囲が広い」
「広いですね」
「認めるな」
フィーネは、それでも静かに続けた。
「でも、一番嫌なのは」
「……」
「殿下ご自身が、ご自分を雑に扱うことです」
今度は、俺が黙る番だった。
予想していなかった。
てっきりまた、『誰も近づけさせません』みたいな重い話が来ると思ったのだ。
いや、重い話ではあるのだが、方向が少し違う。
「殿下は、平気な顔で何でも与えます」
フィーネは言う。
「信じることも、許すことも、背負うことも、あまりに軽く差し出される」
「……」
「でも、それを当然と思う者ばかりになれば、いつか殿下だけが空になります」
「……そんな大げさな」
「大げさではありません」
ひどく静かに、言い切られた。
「ですから私は、重くなります」
「は?」
「殿下が軽く差し出してしまうものを、軽く受け取らないために」
「……」
「ちゃんと重いと、返します」
「…………」
「殿下がくださったもの全部、軽かったことにしないために」
風が吹いた。
温室の外、薔薇の葉が揺れる音がした。
アルノーがまだいることも、一瞬忘れた。
ああ。
そういうことか。
こいつの言う重いは、執着だけじゃない。
俺が無造作に投げたものを、ちゃんと命の重さで受け取っているから、結果として重くなるのだ。
弟妹の命。
身分。
未来。
選ぶ自由。
俺にとっては、できることをやっただけだった。
だがフィーネにとっては、それで人生の軸ごと変わった。
だから、この女は軽く返さない。
笑って流さない。
全部、本気で抱えて返してくる。
……そりゃ重いわけだ。
「……殿下」
フィーネが、ほんの少しだけ声を落とした。
「ご迷惑でしょうか」
「何が」
「私が」
そこで初めて。
初めて、本当に小さく不安そうな色が見えた。
ああ、ずるいな、と思った。
こんなふうに真正面から来るくせに、肝心なところではちゃんと怖がるのか。
「迷惑ではない」
俺は言った。
「重いだけだ」
「……はい」
「かなり重い」
「承知しております」
「だが」
少しだけ笑う。
「悪くない」
フィーネが目を見開いた。
「むしろ」
「……」
「お前くらいでちょうどいいのかもしれん」
「……殿下」
「ただし、排すのはやめろ」
「善処します」
「だからその返事が怖いんだって」
そこでようやく、アルノーが我に返ったように咳払いした。
完全に置いていかれていたな、こいつ。
「……失礼しました、殿下」
「おう」
「私は、余計なことを申しました」
「分かればいい」
「フィーネ殿にも」
「お気になさらず」
フィーネはにこやかに言った。
「次からは、殿下を語る前にもう少し観察なさってください」
「それ、まだ刺してるぞ」
「事実ですので」
アルノーは引きつった顔で去っていった。
うん。
あいつ、しばらく俺たちに近づかないだろうな。
***
離宮へ戻る馬車の中。
俺は向かいに座るフィーネをじっと見ていた。
フィーネは最初こそ平然としていたが、やがて居心地悪そうに眉を寄せた。
「……何でしょう」
「いや」
「何か」
「お前さ」
「はい」
「ほんとに重いな」
「はい」
即答だった。
開き直るな。
「自覚あるんだな」
「あります」
「直す気は」
「殿下がお望みなら」
「……」
「ですが、お勧めはいたしません」
「なんで」
「軽くなった私は、たぶん今の私ほど役に立ちません」
「そこを役立つかどうかで語るのがもう重い」
フィーネは少しだけ考え、それから言った。
「では、言い換えます」
「おう」
「私は、殿下に救われたことを、一生軽く扱いたくありません」
「……」
「ですから、軽くはなれません」
参った。
こういうのを真正面から言われると、さすがに参る。
「……一生、か」
「はい」
躊躇いもなく頷く。
「長いぞ」
「承知しています」
「俺が途中で面倒になって追い出したら?」
「追いつけるところまで追います」
「怖い」
「追いついた先で、話し合います」
「ちゃんと話し合う気はあるのか」
「もちろんです。逃げなければ」
「前提が重い!」
ガレスが御者席の外で肩を揺らしている気配がした。
あいつ絶対聞いてるな。
フィーネは窓の外へ一瞬目を向け、それからまた俺を見た。
「殿下」
「なんだ」
「本日、不快な思いをさせてしまったなら申し訳ありません」
「茶会の件か」
「はい。私はまだ、宮廷での言葉の丸め方に不慣れです」
「それは本当にそう」
「ですが」
「うん」
「殿下を、雑に扱われるのは嫌でした」
そこで少しだけ口ごもる。
「……それだけは、どうしても」
夕陽が差し込んで、灰銀の髪がやわらかく光った。
その横顔は綺麗だった。
綺麗で、真面目で、少し危うい。
でもまあ。
それくらい本気で来られた方が、俺には合っているのかもしれない。
「なら、次からはもう少し上手くやれ」
「上手く」
「そうだ。刺すにしても、もっと見えないように刺せ」
「承知しました」
「覚えが早いな!?」
「殿下のご希望ですので」
「いや、違う、そうじゃない」
フィーネはくすりと笑った。
最近分かってきたが、こいつは本当に面白がっている時、ほんの少しだけ笑う。
「でも、殿下」
「なんだ」
「本日は、少しだけ安心しました」
「何に」
「私の重さが、迷惑一色ではなかったことに」
そう言って、彼女はとても小さく息をついた。
「よかったです」
その
俺が軽く投げたものを、こいつはこんなにも大事に持っている。
なら、こっちも少しくらいは真面目に受け止めるべきなのだろう。
「……フィーネ」
「はい」
「お前のその重さ、今すぐ全部は慣れん」
「ええ」
「だが、嫌ではない」
「……はい」
「だから、まあ」
少しだけ視線を逸らす。
「これから調整していこう」
「調整」
「距離感とかな」
「善処します」
「本当に頼むぞ」
フィーネは、数秒だけ黙っていた。
それから、今まで見た中でいちばん柔らかい顔で笑った。
「はい、殿下」
「うん」
「では一生かけて、ちょうどよい重さを探します」
「一生が重いんだよなあ……」
思わずそう呟くと、フィーネは嬉しそうに目を細めた。
「ええ。ですので、どうか途中で飽きないでくださいね」
「たぶん、もう飽きる暇がない」
「でしたら、何よりです」
馬車は夕暮れの皇都を進む。
窓の外では、石畳が黄金色に染まっていた。
たった七日。
まだ七日だ。
なのに俺の隣には、もう当たり前みたいにこいつがいる。
静かで、真面目で、よく見ていて、少し怖くて、やたらと重い。
――だが、不思議と悪くない。
たぶん俺は、思っていたよりずっと早く、
この重さに慣らされていくのだろう。
そしてフィーネはたぶん、慣れた頃にはさらにその先まで来ている。
……うん。
やっぱり、とんでもないものを拾ったな。