すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果 作:ヤンデレすこすこ侍
俺たちは、学院の中央棟へ向かう石畳の道を進んでいた。
左右には手入れされた庭園、白い列柱、朝日にきらめく噴水。
帝国学院は、貴族子弟と上級官僚の子弟が集う場所らしく、無駄に荘厳で、無駄に広く、無駄に格式が高い。
要するに、面倒な場所だ。
「で、最初の授業はどこだ」
「一限、基礎魔術理論です」
「なんで把握してる」
「殿下の時間割を昨夜確認しました」
「勝手に?」
「効率のためです」
「俺の私生活がどんどん削られていく……」
だが、まあ。
授業の場所まで把握しているのは助かる。
俺は普段、学院の授業にさほど熱心ではない。
行けばできるし、出なくても困らないからだ。
そういう雑さでここまで来た。
それを、今さら横で全部管理され始めている。
なかなか新鮮である。
だいぶ息苦しくもあるが。
「殿下」
歩きながら、フィーネが静かに言った。
「前方、三時方向」
「ん?」
「おそらく殿下のお知り合いかと」
視線を向ける。
なるほど。
見覚えはある。
というか、見たくなくても覚えている。
中央棟の階段前に立っていたのは、兄上の派閥に近い連中の一人、クラウス・エーベルハルトだった。
伯爵家の次男。
人当たりはいいが、腹の中では常に損得を勘定しているタイプ。
成績は中の上、剣はそこそこ、愛想だけは抜群。
俺の前では妙に低姿勢だが、その実、情報を拾ってはあちこちへ流している。
面倒の匂いしかしない。
「おはようございます、レオンハルト殿下」
案の定、満面の笑みで近づいてきた。
「朝から元気だな」
「殿下ほどではございません。……そちらの方が、新たに編入されたという」
「ああ、フィーネだ」
「フィーネ様」
こいつ、様をつけたな。
早い。
情報処理が早い。
つまり値踏みも早い。
「私はクラウス・エーベルハルトと申します。学院生活でお困りのことがあれば、どうぞ何なりと」
「ありがとうございます」
「いえいえ。殿下のお側に立たれる方であれば、我々としても心を砕くのは当然のこと」
にこやかだ。
にこやかすぎて、砂糖を吐きそうだ。
フィーネは静かに彼を見返した。
「では、ひとつ」
「はい」
「私に心を砕くより、殿下に無用な話を持ち込まないでください」
「……え?」
笑顔のまま固まった。
俺は危うく吹き出しかける。
「殿下は朝から面倒事に巻き込まれると、授業への意欲がさらに下がります」
「いや、さらにって」
「ですので、もし殿下を思われるなら、本当に必要な用件だけを選別してお持ちください」
「……」
「それができないのであれば、今後は私が先に判断いたします」
うわあ。
柔らかい声で言う内容じゃない。
クラウスの笑みが、今度こそ微妙に引きつった。
「そ、それは……ずいぶんと」
「合理的かと」
「いや、しかし、私は殿下に忠誠を――」
「忠誠は結構です」
フィーネは微笑んだ。
「殿下はすでに足りていますので」
何がとは言わない。
だが全部伝わる。
俺は咳払いして割って入った。
「まあ、そういうことだ」
「殿下……」
「用があるなら俺に直接言え。フィーネを経由させる必要はない」
「ですが」
「ただし」
俺は少し笑った。
「朝一番に愛想だけの会話をしに来るのはやめろ。眠い」
クラウスは数秒黙り、それから形だけ頭を下げた。
「……承知いたしました」
「よろしい」
「では、また改めて」
去っていく背中を見送って、俺はぼそりと呟く。
「絶対また来るな」
「来ますね」
「言い切るな」
「諦めも早そうに見えて、損切りの基準が遅い方です」
「そんなとこまで見てたのか」
「声の温度で分かります」
「便利すぎるだろその観察眼」
フィーネは平然としていた。
まるで、今の一連がただの掃除でもあったかのように。
「……なあ」
「はい」
「お前、学院向いてるな」
「私も、今そう思いました」
「自覚あるんだ」
「明確に」
怖いなあ。
***
一限の教室は、昨日までの見学者としてではなく、受講者として入ると妙に景色が違って見えた。
円形に近い講義室。
段差のついた座席。
中央には教師用の広い机と、術式展開用の黒板。
朝の光が高窓から差し込み、磨かれた床を白く照らしている。
そして、生徒全員の視線が、入り口に立った俺たちへ向いた。
うん。
知ってた。
こうなるのは知ってた。
「殿下が出席してる……」
「隣、本当に座るの?」
「まさか前列?」
「先生、何も言わないの?」
ざわめきの中、担当教師のバルトロメウスが露骨に眉間を押さえていた。
五十代半ば。
理論魔術の権威。
頭は切れるが胃も痛めやすい、という顔である。
「……レオンハルト殿下」
「なんだ」
「本日は珍しく早いご到着で」
「褒めろ」
「胃薬代をご請求したい気分です」
「正直だな」
そこで教師の視線がフィーネへ移る。
「そして、編入生。フィーネ嬢」
「はい」
「席は……」
「殿下の隣でよろしいでしょうか」
思わず突っ込んだ。
「自分から言うのか」
「最も効率的ですので」
教師が俺を見る。
クラス全員も俺を見る。
視線の圧がひどい。
「まあ……別にいいだろ」
「……殿下がよろしいのであれば」
俺の言葉に教師が返す。
胃が痛そうだ。
その返事に俺は頷く。
「よし、決まりだな」
「強行突破で決まってしまいましたが」
フィーネは当然のように前列、俺の隣へ座った。
その瞬間、後方からいくつか息を呑む音がした。
なんだ。
俺の隣の席、そんなに価値あるのか。
……あるんだろうなあ。
面倒だなあ。
「では始めます」
教師が咳払いして講義を始める。
「本日は基礎魔術理論の復習と、今期の展開式について――」
板書が始まる。
属性循環、魔力経路の安定化、詠唱短縮における前提条件。
いつもの内容だ。
正直、俺には簡単すぎる。
聞いても聞かなくても大差ない。
そう思っていたのだが。
「殿下」
「なんだ」
「三行目の式、ひとつ抜けています」
「は?」
小声で言われ、黒板を見る。
……本当だ。
補助符号がひとつ省かれている。
授業を何度も聞いている俺ですら流しかけた程度の誤差だ。
「気づいたのか?」
「はい」
「入学初日で?」
「見えておりますので」
「怖い」
しばらくして、教師が説明を続ける。
「この場合、通常は第二節点を固定し――」
「先生」
すっと手が上がった。
俺の隣からである。
教室が静まった。
「……何でしょう、フィーネ嬢」
「黒板三行目の補助符号が欠けております。このままですと、第三節点の説明と整合しません」
「……」
教師が黒板を見た。
沈黙。
そして、ほんのわずかに目を見開く。
「……その通りです」
「ありがとうございます」
「初見で気づかれましたか」
「はい」
「……」
後方がざわつく。
そりゃそうだ。
編入初日の人間が、理論魔術の教師の板書ミスを指摘したのだから。
俺は肘をついて頬杖をつきながら、隣を見た。
「お前さ」
「はい」
「少しは加減しろ」
「なぜです?」
「初日に教師の誤記を拾うな」
「誤りは正した方がよろしいかと」
「それはそうだが」
「でしたら」
「正論で殴るな」
フィーネは小さく首を傾げた。
本当に分かっていない顔だ。
いや、分かっていてやっている可能性もあるな。
どっちにしろ厄介である。
講義はそのまま進んだ。
だが空気はもう変わっていた。
最初は殿下に付き従うだけの特例編入を見る目だったのが、
今は何かしでかすかもしれない相手を見る目に変わっている。
うん。
まずいな。
でもちょっと面白いな。
「では最後に、簡単な小問を」
教師が羊皮紙を配る。
短い応用問題だ。
五分で解ける程度の確認問題。
俺はさっさと書き終えた。
ちらりと隣を見る。
……早い。
こいつ、俺より早い。
「終わりました」
「お前、今始まって一分だぞ」
「はい」
「見直せ」
「もう終えております」
「可愛げがない」
回収後、教師が数枚をざっと見て、ぴたりと手を止めた。
「……」
「先生?」
「いえ」
教師は一瞬だけフィーネを見てから、何事もなかったように紙を揃える。
だが分かる。
当たりだ。
しかもかなりいい当たりだ。
授業終了の鐘が鳴る。
同時に、周囲がざわめきながら動き出した。
「ねえ、今の見た?」
「板書のこと?」
「問題も一番早かったわよね」
「本当に平民……?」
「でも殿下がつけた教師陣が」
「いや、それにしたって」
うるさい。
だがまあ、想定内だ。
「殿下」
「なんだ」
「二限に移動する前に、一点」
「今度は何だ」
「私、思った以上に目立っておりますね」
「今さらか」
「はい。少し認識が甘かったようです」
「珍しいな」
「修正します」
「何を」
「脅威度評価を」
さらっと怖いことを言うな。
立ち上がったところで、通路を塞ぐように一人の女子生徒が立った。
濃紺の髪を結い上げた、公爵家の令嬢――セラフィーナだ。
成績上位。
礼法も完璧。
そして俺に対して、あからさまではないが、好意と対抗心を混ぜた視線を向けてくる一人でもある。
あー。
なるほど。
そう来るか。
「レオンハルト殿下」
「おはよう」
「おはようございます」
彼女は俺へ一礼し、それからフィーネを見る。
「編入、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「ですが、ひとつ申し上げても?」
「どうぞ」
にこやか。
にこやかだが、剣の切っ先みたいな笑顔だ。
「殿下の隣席は、本来、周囲との調和を理解した者が座るべきかと存じます」
「ふむ」
「学院には学院の秩序がございます。特例であるほど、慎重さが求められるのではなくて?」
言ったなあ。
実に貴族的だ。
直接は刺さず、だが十分に血が出る言い方。
周囲がしんと静まる。
俺が口を開く前に、フィーネが一歩前へ出た。
「ご忠告、ありがとうございます」
「いえ」
「確認なのですが」
「何でしょう」
「学院の秩序とは、実力より先に座席の慣習を優先することですか?」
「……」
「もしそうであれば、私の認識不足でした。以後、改めます」
「っ」
うわ、上手い。
真正面から反論してるのに、一応は礼を崩していない。
だが受け手には痛い。
セラフィーナの表情がわずかに強張る。
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味でしょう」
「殿下のお立場にふさわしい配慮を、と」
「殿下がよろしいと仰いました」
「それは殿下のお優しさです」
「なるほど」
フィーネは小さく頷いた。
「では今後は、殿下のお優しさに見合うよう、私が結果で証明いたします」
「……結果?」
「はい。座る資格があるかどうかを」
教室の空気が変わった。
ただの言い合いではない。
宣言だ、これ。
「具体的には」
「成績、礼法、実技、対話能力、そのあたりでしょうか」
「……」
「もし不足があれば、ご指摘ください。改善いたします」
「……随分と、自信がおありなのですね」
「自信ではありません」
フィーネは微笑んだ。
「最短距離ですので」
うわ、出た。
いつものやつだ。
セラフィーナは数秒だけ黙り、やがて綺麗に一礼した。
「……承知しました。では、拝見します」
「はい、ぜひ」
彼女が去っていく。
周囲のざわめきが一気に戻った。
「見た?」
「真正面から……」
「公爵令嬢に……?」
「終わったわね、あの子」
「いや、始まったんじゃない?」
うん。
完全に始まってる。
俺は頭を抱えた。
「お前」
「はい」
「二限前でこれか?」
「効率的かと」
「何に対して」
「序列認識の更新です」
「学院を攻略対象みたいに言うな」
だが、フィーネは少しも怯えていなかった。
むしろ静かに燃えている。
その瞳を見て、俺は半ば確信する。
こいつ、本当に全部やる気だ。
口だけじゃない。
成績も、礼法も、立ち位置も、対話も。
全部積み上げて、真正面から俺の隣を取りにくる。
「殿下」
「なんだ」
「二限へ」
「切り替え早いな」
「時間は有限です」
「お前といると、人生が常に前のめりなんだよなあ」
教室を出る。
廊下にはまだざわめきが残っていた。
すれ違う生徒たちが、露骨にこちらを見る。
だが今度は、ただの好奇心だけじゃない。
警戒。
対抗心。
測る目。
いいぞ、と俺のどこかが笑っていた。
面白くなってきた。
ようやく、同じ場所に立とうとする人間が現れたのだ。
しかも一人じゃ済まない。
フィーネが動けば、周りも動く。
学院全体が、少しずつ揺れる。
「……なあ、フィーネ」
「はい」
「お前、今日中に何人敵を作るつもりだ」
「敵、ですか」
「少なくとも二人は増えた」
「誤解です」
「本当か?」
「私はただ、必要なことを申し上げただけです」
「その必要の置き方が鋭いんだよ」
「ですが」
フィーネは俺を見上げた。
「殿下の隣は、空席のままであっては困るでしょう?」
その言い方に、思わず笑った。
「困りはしない」
「では――「ただ」
「はい」
「空席よりは、面白い方がいい」
そう言うと、フィーネの目がほんの少し柔らかくなった。
「でしたら、よかった」
「何が」
「間違っていないようですので」
「何がだ」
「私の進み方が」
廊下の窓から、春の光が差し込む。
白い壁に、俺たちの影が並ぶ。
まだ、並んだばかりだ。
肩書きも、力も、積み重ねも、何ひとつ同じじゃない。
それでもこいつは本気で追いつくつもりで、
しかもたぶん、冗談みたいな速度で近づいてくる。
……悪くない。
やっぱり、悪くない。
学院初日の午前中にしては、だいぶ騒がしすぎるが。
「行くぞ」
「はい、殿下」
「あと」
「何でしょう」
「次はもう少し穏便にやれ」
「善処します」
「信用できない」
「対等を目指しておりますので」
「便利だなその言葉」
フィーネは小さく笑った。
その笑みは、最初に奴隷市で見たものより、少しだけ自然だった。
けれど奥にある熱は、たぶんあの時より強い。
こいつはきっと、止まらない。
上級生だろうが、
貴族派閥だろうが、
学院の慣習だろうが。
全部を踏まえて、
全部を見て、
全部に喧嘩を売るわけではなく、
それでも全部を押しのけて来る。
俺の隣に立つために。
そしてたぶん、その過程で俺自身も巻き込まれていく。
だが、それでいい。
退屈よりずっといい。
二限の鐘が鳴った。
俺たちは足を止めない。
白い廊下を、並んで進む。
第三皇子と、
たった今、学院の空気に最初のひびを入れた少女。
この日、帝国学院の多くの生徒はまだ勘違いしていた。
これはただの特例編入で、
少し目立つだけの出来事なのだと。
違う。
それは、もっと面倒で、
もっと厄介で、
そしてたぶん、ずっと長く残る始まりだった。
***
二限は、実技だった。
理論棟を出て、訓練場へ向かう石畳の道を歩きながら、俺は空を見上げた。
よく晴れている。
春の空気は軽い。
なのに周囲の視線はまったく軽くない。
「……増えたな」
「何がですか」
「こっちを見る人間だ」
増えた。
明らかに増えた。
一限の教室を出た時点でざわついてはいたが、廊下を二本抜けただけでもう学院中へ広まった気配がある。
第三皇子が朝から出席した。
編入生が教師の板書ミスを即座に指摘した。
しかもその編入生が、当然みたいな顔で俺の隣に座っている。
うん。
そりゃ広まる。
「殿下」
「なんだ」
「左後方、ひそひそ声が二組」
「逐一報告しなくていい」
「内容は『思ったより綺麗』『思ったより怖い』でした」
「後半だけやたら正確だな」
「前半も否定はしません」
「自分で言うのか」
フィーネは涼しい顔だった。
周囲に見られることにも、噂されることにも、もう露骨には動じていない。
この間まで奴隷市の檻にいたとは思えん適応力だ。
「緊張は?」
「あります」
「そうは見えない」
「殿下も、退屈そうに見えて実際は楽しんでおられる時があります」
「……」
「似たようなものかと」
言い返せなかった。
腹立つな、こういうところだけ妙に的確なんだよな。
訓練場へ入ると、空気が変わった。
屋外の広い魔術演習場。
白線で区切られた複数の区画。
端には防壁術式の柱が立ち、中央には模擬障壁と標的板が並んでいる。
実技担当の教師は、ドミニク・ハーゼン。
元宮廷魔導士団所属の男で、声がでかく、手もでかく、指導もだいたいでかい。
「おう、珍しい顔がいるな!」
開口一番それだった。
教員はだいたい俺に遠慮するか胃を痛めるかのどちらかだが、この男は前者がかなり薄い。
「殿下が二限続けて出席とは、明日は槍でも降るか?」
「失礼な。春雨くらいにしておけ」
「その横が例の編入生か」
「例の、になってるのか」
「一限でもう学院中に回ってるぞ」
ドミニクは豪快に笑ってから、フィーネを見る。
「名は」
「フィーネです」
「よし、フィーネ。今日は基礎制御と二人一組の連携訓練だ。編入初日だろうが容赦はせん」
「望むところです」
「即答か。いいな」
周囲がまたざわついた。
ほんと、こいつは一言で空気を動かす。
「では組を決める!」
教師が名簿を見ながら適当に割っていく。
当然のように、俺とフィーネは同じ組にされた。
いや、正確には当然ではない。
ただ教師が面倒を嫌っただけだ。
「殿下と編入生、同組! 異論ある奴は前に出ろ!」
数人が視線を交わした。
そして――やっぱり出た。
「あります」
前に出てきたのは、赤茶の髪をきっちり撫でつけた男。
ラウル・フェルンベルク。
子爵家嫡男。
成績は優秀、プライドはもっと優秀、そして俺に対しては敬意より対抗心が先に立つタイプだ。
「何だ、ラウル」
「その組み合わせでは訓練になりません」
「ほう」
「殿下はともかく、その編入生の実力は未確認です。実技で特別扱いをすべきではないかと」
なるほど。
言い方は丁寧だが、要するに新入りを試させろということだ。
俺は口を開きかけたが、その前にフィーネが一歩出た。
「提案があります」
「……何でしょう」
「未確認なら、確認すればよろしいのでは?」
「だから、その確認を」
「ええ」
フィーネは静かに頷いた。
「私が殿下の足を引っ張るかどうか、ご懸念なのでしょう」
「……」
「でしたら、実際に見て判断なさってください」
ラウルの目が細くなる。
こいつ、挑発がうまいな。
「では、私と?」
「いえ」
フィーネは首を横に振った。
「殿下と私の組が、あなたと任意の一名の組を相手取れば十分かと」
「おい」
「何でしょう、殿下」
「勝手に話を大きくするな」
「効率のためです」
便利だなその言葉。
周囲がどっと沸いた。
ラウルの顔色が変わる。
逃げれば格好がつかない。
受ければ、新入り相手に負けられない。
非常に面倒な盤面である。
ドミニク教師が面白そうに腕を組んだ。
「よし、採用」
「教師が一番楽しんでないか?」
「訓練は実践的であるほどいい!」
そう来たか。
ラウルは数秒考え、やがて一人の女子生徒を呼んだ。
水属性を得意とする優等生、ナタリア。
堅実で、連携もうまい。
妥当な人選だ。
「条件は簡単だ!」
ドミニクが大声で告げる。
「模擬障壁を三枚抜き、最後に中央標的へ印をつけた方の勝ち! 攻撃は威力制限あり、防御・妨害・補助は自由! 始め!」
開始と同時に、ラウル側が動いた。
早い。
まずナタリアが水膜を前面に展開し、ラウルが火球を絞って障壁一枚目を削る。
連携はきれいだ。
学院の優等生らしい、教科書どおりの速攻。
「殿下」
「分かってる」
俺も魔力を練る。
普通なら、ここで高火力でまとめて吹き飛ばせる。
俺にはそれができる。
できるが――
「やるか?」
「いえ」
フィーネの声は落ち着いていた。
「一枚目は譲ってください」
「譲る?」
「見せるべきものがあります」
次の瞬間。
彼女の指先から、細い魔力糸のようなものが三本走った。
派手さはない。
むしろ地味だ。
だが、それはラウルたちの前面に展開された水膜へ触れた途端、流れを歪めた。
「なっ」
水膜の厚みが一瞬だけ偏る。
ラウルの火球が狙いよりわずかに逸れ、障壁を抜く角度がぶれた。
その隙に、俺が最小限の風刃で残りを切る。
一枚目、突破。
「今のは」
「流れを借りました」
「借りるなよ、そんな簡単に」
だがフィーネはもう次を見ている。
二枚目の障壁。
向こうは態勢を立て直し、今度は同時に術式を重ねてきた。
「殿下、右上」
「了解」
俺が風で視界を揺らし、ラウルの照準をずらす。
その一瞬後、フィーネが障壁表面の節点を正確に弾いた。
ごく小さな干渉。
なのに防壁全体の揺れ方が変わる。
そこへ俺の魔術が刺さる。
二枚目、突破。
ざわめきが一段大きくなった。
「何をした!?」
ラウルが叫ぶ。
フィーネは答えない。
代わりに俺が言った。
「見ての通りだろ」
「くっ……! 殿下! 見ての通りじゃありません!」
「だろうな。俺も半分しか分かってない」
実際そうだ。
フィーネの術は、正面から叩き潰す類じゃない。
流れを読み、相手の組み方をずらし、最小の力で全体の効率を狂わせる。
派手じゃない。
だが、厄介だ。
三枚目。
今度は向こうも慎重になった。
ナタリアが防御を厚くし、ラウルは標的直行を狙う構え。
「殿下」
「おう」
「少しだけ、前へ」
「少しでいいのか」
「十分です」
俺が一歩踏み出す。
その動きだけで、向こうの意識が俺へ寄る。
そこを、フィーネが見逃さなかった。
彼女の魔力が、今度は直接障壁ではなく、地面に描かれた補助陣へ触れた。
出力ではなく、順序をずらす。
ほんの半拍。
それだけ。
ナタリアの展開した補助術が一瞬遅れ、
ラウルの魔術が半歩孤立し、
その空いた線を俺がまっすぐ貫いた。
三枚目、突破。
最後の標的へ、風刃が白い印を刻む。
沈黙。
それから、遅れて歓声ともどよめきともつかない音が上がった。
「そこまで!」
ドミニクが大声で止める。
ラウルは呆然と標的を見ていた。
ナタリアは悔しそうだったが、ちゃんと冷静だった。
「……今の、あなたが組みましたの?」
ナタリアがフィーネへ問う。
フィーネは頷く。
「殿下が動きやすい形へ整えました」
「整えた、って……」
「私単独では押し切れませんので」
「でも、殿下の術が全部、最短で通っていたわ」
「殿下が優秀なので」
「お前もな」
思わず口を挟むと、フィーネがこちらを見る。
「そうでしょうか」
「そうだよ」
「……でしたら、光栄です」
ほんの少しだけ、彼女の声が柔らかくなった。
あ、今ちょっと嬉しかったな。
分かりやすくはないが、だいぶ分かるようになってきた。
ドミニク教師が豪快に笑う。
「いい! 実にいい! 殿下は分かりやすく強い! 編入生は分かりにくく厄介だ!」
「褒めてます?」
「最高に褒めてる!」
教師はそのまま全員へ振り向いた。
「覚えておけ! 戦いは、火力だけで決まらん! 流れを読み、相手を崩し、味方を通す者がいるだけで盤面はひっくり返る!」
言われて、周囲の視線が変わったのが分かった。
さっきまでの好奇心や値踏みだけじゃない。
理解し始めている。
こいつはただ俺の隣に座るだけの特例じゃない、と。
「殿下」
訓練が一区切りついたところで、フィーネが小さく言った。
「何だ」
「ひとつ確認を」
「聞くだけ聞こう」
「今の私、足を引っ張ってはおりませんでしたか」
「むしろ引っ張ったのは俺の方だな」
「それはよかった」
そこで安心するのか。
いや、まあ、そこを一番気にしていたのは知ってるが。
俺が笑っていると、訓練場の入り口の方で人垣が割れた。
ざわめきが変わる。
さっきまでの喧騒じゃない。
もう少し、張りつめた種類のものだ。
「……誰だ?」
視線を向ける。
白に青の刺繍が入った上級生用の制服。
長い黒髪を一つにまとめ、涼しい顔でこちらへ歩いてくる女がいた。
知っている。
学院で知らない者の方が少ない。
帝国学院学生会長。
公爵令嬢。
そして、兄上――第一皇子派の中心人物の一人。
セレナ・ヴィルヘルミナ。
面倒の塊だ。
「レオンハルト殿下」
彼女は俺の前で止まり、きっちりと礼をした。
だがその目は、最初から俺だけを見てはいなかった。
半分以上、フィーネを見ている。
「学生会長殿が、わざわざ訓練場までとは珍しいな」
「ええ。少々、興味深い報告が重なりましたので」
「悪い予感しかしない言い方だ」
「ご安心ください」
彼女はそう言って、微笑んだ。
全然安心できない類の微笑みである。
「編入生の方に、お話がございます」
「私に?」
フィーネが静かに応じる。
セレナは頷いた。
「はい。あなたが本当に、殿下の隣に立つ方なのか――少し確かめたくなりました」
訓練場の空気が、すっと冷えた。
ああ、来た。
学院の面倒くさい本番が、ついに来た。