すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果   作:ヤンデレすこすこ侍

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第九話

 公開討論会の翌日。

 

 帝国学院の朝は早い。

 いや、正確には、俺にとってだけ早い。

 

「殿下、起きてください」

「……」

「殿下」

「聞こえない」

「聞こえておいでですね」

「聞こえないという意思表示だ」

「便利な理屈ですね」

「お前ほどではない」

 

 薄く目を開けると、視界の端に灰銀がいる。

 いた。

 またいた。

 

「なんでいるんだ」

「朝食をご一緒する約束でしたので」

「した記憶がない」

「昨日の帰りに、明日は遅れるなよ、と」

「それは一般的な注意であって、同行の確約ではない」

「私は確約と受け取りました」

「解釈が強いな……」

 

 ベッドから身を起こす。

 眠い。

 非常に眠い。

 だが、フィーネはもう制服姿で、机の上には湯気の立つ茶まで用意されていた。

 

「お前、いつから俺の生活をこんな自然に侵食してるんだ」

「侵食ではありません」

「じゃあ何だ」

「補助です」

「言い換えただけでは?」

「印象が違います」

「違うな、確かに。補助の方が逃げにくい」

 

 フィーネは小さく首を傾げた。

 

「本日は一限が政治史でしたね」

「……よく覚えてるな」

「殿下の時間割ですので」

「怖い」

「管理上、必要です」

「まだ管理対象から外してもらえてないのか、俺」

 

 外してもらえないらしい。

 恐ろしいことである。

 

 身支度を整えて寮棟を出ると、空気が少し違った。

 いや、少しどころではないかもしれない。

 廊下ですれ違う生徒たちの視線が、昨日までと変わっている。

 

 露骨にひそひそはしない。

 だが、見ている。

 しかも今度は、俺ではなくフィーネを。

 

「……有名人だな」

 

 俺が言うと、

 

「不本意です」

 

 とフィーネは平然と答えた。

 

「望んだ形ではありません」

「でも必要だったんだろ」

「はい」

「ならまあ、多少は仕方ない」

「そうですね」

 

 歩いていると、下級生らしき二人組が前方でぴたりと立ち止まった。

 そして勢いよく頭を下げた。

 

「き、昨日はすごかったです!」

「応援してました!」

 

 フィーネは瞬きをひとつしたあと、きれいに一礼を返した。

 

「ありがとうございます」

「え、あ、はい!」

「その、お、お疲れさまでした!」

「ありがとうございます。あなた方も、良い一日を」

 

 二人は顔を赤くして去っていった。

 

 ……強いな。

 こういうときの返しが、妙に堂に入ってる。

 別に媚びてもいないのに、感じがいい。

 たぶんこれは天性だ。

 

「慣れてるのか?」

「何にでしょう」

「今みたいなやつ」

「いいえ」

「そうは見えなかった」

「戸惑っている顔を見せる方が、相手も困るかと思いました」

「そういう配慮が自然に出るの、やっぱ強いよな」

「殿下に言われると少し不思議です」

「なんでだ」

「殿下は、そういう配慮を無意識でなさるので」

「俺が?」

「はい」

「そんな覚えはないが」

「覚えておられないから自然なのだと思います」

「褒められてるのか分からん」

「半分は」

「残り半分が怖いんだよな」

 

 食堂も、当然のように人が多かった。

 そして当然のように視線も多い。

 だが昨日の講堂を越えた後だと、少し耐性がついた気がする。

 

 席につくやいなや、今度は上級生が声をかけてきた。

 法学科の女子生徒だ。確か二年の首席候補の一人。

 

「フィーネさん」

「はい」

「昨日の、人はそれより少しだけ複雑ですので、という締め、とても素敵でした」

「ありがとうございます」

「今度、討論会の記録を見返したいのですが、もし書き起こしができたら読ませていただけませんか?」

「私が書くものは、まだ整理前ですが」

「それでもぜひ」

 

 そう言って去っていく。

 ……おい。

 もう普通に声をかけられてるじゃないか。

 

「一晩でずいぶん変わったな」

「そうですね」

「実感あるか?」

「少しだけ」

「嬉しい?」

「少しだけ」

「そこは一貫してるな」

「浮かれて失敗するのは避けたいので」

「偉いなあ」

「殿下も見習われますか」

「俺はもう少し浮かれて生きたい」

 

 朝食を終え、講義棟へ向かう。

 途中でやたらと道が空く。

 俺のせいもあるが、今日はたぶん半分以上フィーネのせいだ。

 

 政治史の講義でも、教授が初っ端からやってくれた。

 

「昨日の討論会は実に興味深かったですね」

 

 老教授はそう言って、眼鏡の奥から教室を見回した。

 

「特に、出自は有利であって絶対ではないという視点は、近世帝国史の実例にもよく接続します」

「……」

「編入生の方、後で参考文献を紹介しますよ」

「ありがとうございます、教授」

 

 うわあ。

 公認された。

 この学院、こういうところは早い。

 

 講義のあと、教室を出たところで、今度は見知った顔が待っていた。

 

「レオン」

「……アリサか」

 

 第二皇女アリサ・アズヴォルデ。

 俺の姉にあたる。

 兄上ほど露骨に表へ出るタイプではないが、宮中でも学院でも情報の回りは早い。

 穏やかな顔でいるくせに、意外と何でも見ている人だ。

 

「昨日、面白かったわ」

「面白かったで済ませるな」

「だって実際、面白かったもの」

 

 姉上はくすりと笑って、それからフィーネへ視線を移した。

 

「はじめまして、ではないわね」

「……」

「遠目には何度か見ていたもの。きちんとお話しするのは初めてだけれど」

 

 フィーネはすっと一礼した。

 

「フィーネと申します」

「ええ、知っているわ。昨日で、学院中が覚えてしまったものね」

 

 姉上はやわらかく微笑む。

 この人の厄介なところは、物腰が柔らかいまま核心へ来るところだ。

 

「あなた、度胸があるのね」

「必要でしたので」

「その答え方、嫌いじゃないわ」

「姉上」

「何?」

「楽しんでるだろ」

「少しだけ」

 

 少しか。

 たぶん嘘だな。かなりだろ。

 

「一応、忠告に来たの」

 

 姉上が声を落とした。

 

「今日からしばらく、声をかけられるでしょうね」

「もうかけられてる」

「ええ。けれど、もっとよ」

「……」

「昨日の討論会で、学院側は()()()()()()から()()()()()()に変えたわ」

「早いな」

「学院だもの」

 

 最近その言い回し流行ってるのか?

 

「特に兄上の周辺は、放っておかないでしょうね」

「やっぱり来るか」

「来るわ。だってあなたが表に出して、学生会長が認めてしまったもの」

「最悪だな」

「褒め言葉よ」

「どこが」

「少なくとも、埋もれなかった」

 

 姉上はそこで、フィーネを見る。

 

「気をつけて。優しい言葉で近づく人ほど、何を見ているか分からないから」

「承知しております」

「いい返事ね。レオンよりずっと」

「比較対象がおかしくない?」

「正確よ」

 

 正確らしい。

 ひどい話だ。

 

 姉上は最後に俺の肩を軽く叩いた。

 

「あなたも、ちゃんと見ていなさい」

「何を」

「この子のことをよ」

「見てる」

「足りないわ」

「なんで断定できるんだ」

「姉だから」

「雑だな……」

「あなたにだけは言われたくないわね」

 

 そうして姉上は去っていった。

 去り際まで優雅なのが腹立たしい。

 

「殿下」

「なんだ」

「お姉様は鋭い方ですね」

「鋭いし面倒だ」

「愛情深くも見えました」

「まあ、それはそうだな」

「よいことです」

「お前、うちの家族への評価が妙に落ち着いてるな」

「観察対象ですので」

「家族まで観察対象に入れるのか……」

 

 そして昼休み。

 

 来た。

 

 いや、来るとは思っていたが、本当に来ると面倒さが増す。

 

「第三皇子殿下」

 

 講義棟の中庭回廊。

 呼び止めてきたのは、見覚えのある男だった。

 

 ルシアン・グラーツ。

 第一皇子派の中心にいる伯爵家嫡男。

 兄上の側近候補として名前が挙がることも多い。

 成績優秀、礼儀正しい、対外的評判も上々。

 そして、こういう手合いにしては珍しく、表面上の感じが本当にいい。

 

 だから厄介なのだが。

 

「珍しいな」

 

 俺が言うと、ルシアンは上品に笑った。

 

「少しご挨拶をと思いまして」

「わざわざ?」

「ええ。昨日の討論会、拝見しておりました」

「そうか」

「見事でした、フィーネ嬢」

 

 フィーネは一礼した。

 

「ありがとうございます」

「学院でも、すでに大きな話題ですよ」

「それは光栄です」

「謙虚でいらっしゃる」

 

 ……感じがいいな。

 腹立つくらい感じがいい。

 

「それで?」

 

 俺が先を促すと、ルシアンは少しだけ笑みを深めた。

 

「単なる称賛だけで終えるのも不自然でしょう」

「自覚はあるんだな」

「多少は」

 

 彼はちらりと周囲を見た。

 回廊には人がいる。

 だが、距離は取っている。

 露骨に聞き耳を立てるほど愚かではない連中だ。

 その代わり、誰もが()()()()()()にいる。

 

 学院らしい。

 本当に学院らしい。

 

「兄殿下の周辺でも、昨夜は随分と話題になりまして」

「へえ」

「珍しい、という意味で」

「何が」

「第三皇子殿下が、あそこまで明確に後ろ盾を示されたことが」

 

 ああ、そこを見てるのか。

 フィーネ個人だけじゃない。

 俺の動きも込みで見ている。

 

「それで、挨拶?」

「半分は」

「残り半分は?」

「確認です」

 

 今日何度目だ、その単語。

 

「兄殿下――第一皇子殿下は、優秀な人材を歓迎されます」

「そうか」

「出自、経歴、それらを踏まえた上でなお、能力のある者を適切に遇するお方です」

「へえ」

「ですので」

 

 ルシアンは、丁寧すぎるくらい丁寧に言った。

 

「フィーネ嬢さえ望まれるなら、いずれ正式にご挨拶の機会を設けることもできるかと」

 

 ……来たな。

 

 遠回しだが十分明確だ。

 兄上陣営からの接触。

 しかも露骨な引き抜きではない。

 優秀な人材なら歓迎するという、いかにも正しい形で来る。

 

 上手い。

 腹立たしいほどに。

 

「それは」

 

 フィーネが静かに口を開く。

 

「光栄なお申し出です」

「ええ」

「ですが、私にはすでにお仕えする方がおります」

 

 即答だった。

 きっぱりしている。

 いいな。

 

 だがルシアンも崩れない。

 

「もちろん、存じております」

「でしたら」

「ただ、学院で学ぶ以上、視野は広い方がよろしい」

 

 柔らかい。

 実に柔らかい。

 そしてそのぶん、逃げ道がない。

 

「多くを見、多くを知り、その上で選ぶ」

 

 ルシアンは微笑んだまま続ける。

 

「賢い方なら、そうなさるでしょう」

 

 ほう。

 少し圧を足してきたな。

 断るなら、狭量に見える言い方にしている。

 

 周囲の空気も少しだけ張る。

 見ている連中も、ここから先の返しを待っているのだろう。

 

 フィーネはほんの一瞬だけ黙った。

 迷ったわけではない。

 たぶん、言葉を選んでいる。

 

「仰ることは理解できます」

「ええ」

「多くを見て、多くを知ることは必要です」

「その通りです」

「ですが」

 

 フィーネは、ほんの少しだけ視線を上げた。

 

「誰のもとで学ぶかを、私はもう選んでおります」

「……」

「広く見ることと、立場を曖昧にすることは、別ですので」

 

 回廊の空気が、ぴんと張った。

 

 おお。

 強い。

 これは強い。

 しかも礼を失していない。

 兄上の名を雑に扱わず、でも自分の立場も崩していない。

 

 ルシアンも、一瞬だけ目を細めた。

 ああ、これも効いたな。

 

「なるほど」

 

 だが彼はすぐに笑みを戻した。

 

「失礼しました。少し試すような物言いでしたね」

「いえ」

「ですが、安心しました」

「何が」

 

 俺が聞くと、ルシアンは俺の方を見る。

 

「軽い方ではないと分かりましたので」

「……」

「第三皇子殿下が、わざわざ隣に置かれる理由も」

 

 そう言って、彼はすっと一礼した。

 

「本日はこれで。いずれまた、お話しできれば」

「気が向けばな」

「ええ。学院ですので、機会はあるでしょう」

 

 お前まで言うのかよ。

 

 ルシアンが去ると、張っていた空気が少しだけ緩んだ。

 回廊の向こうで見ていた連中も、さりげなく散っていく。

 あからさますぎる。

 本当にあからさますぎる。

 

「……疲れるな」

 

 俺が言うと、

 

「はい」

 

 フィーネが即答した。

 

「非常に」

「珍しく完全同意だな」

「本日は特に」

 

 少し歩いて、人の少ない中庭の端まで出る。

 ようやく一息つけた。

 

「大丈夫か」

「はい」

「本当に?」

「少しだけ、緊張しました」

「だろうな」

「ですが、想定内です」

「想定してたのか」

「昨日の時点で、早ければ本日中に接触があるかと」

「予測が正確すぎて怖い」

「学院ですので」

「もうそれ万能語だろ……」

 

 フィーネはそこで、少しだけ息をついた。

 

「ただ」

「ん?」

「兄上陣営の方は、もっと高圧的かと思っておりました」

「ああ」

「実際には、とても丁寧でした」

「兄上の周りは、表向きはだいたいああだ」

「表向きは」

「そこが一番面倒なんだよ」

 

 兄上本人もそうだ。

 正しい。

 優秀。

 穏やか。

 誰が見ても次代の皇帝にふさわしい。

 少なくとも、外から見れば。

 

「ルシアンは悪いやつじゃない」

 

 俺は言った。

 

「少なくとも、わざと人を踏みにじって喜ぶタイプじゃない」

「はい」

「でも、だから安心していい相手でもない」

「承知しております」

「何が怖いか分かるか?」

「……」

()()()()()()()()()()()ところだ」

「……なるほど」

 

 フィーネの目が、少しだけ深くなる。

 

「断りにくい形で、恩と道理を積み上げる」

「そう」

「そして気づいた時には、選択肢が狭まっている」

「そういうことだ」

 

 フィーネは少し考えるように沈黙した。

 その横顔を見て、俺は続ける。

 

「兄上陣営は、敵意だけで来るわけじゃない」

「はい」

「むしろ大半は、本気で()()()()()だと思って動く」

「……」

「だから余計に厄介なんだよ」

 

 俺の言葉に、フィーネは静かに頷いた。

 

「理解しました」

「ならいい」

「殿下」

「なんだ」

「私は」

「うん」

「移りませんよ」

 

 さらりと。

 だが、妙にまっすぐに言う。

 

「……そうか」

「はい」

「即答だな」

「選んでおりますので」

「昨日も似たこと言ってたな」

「大事なことですので」

「便利だな、その返し」

「殿下ほどでは」

 

 微妙に言い返されている気がする。

 

 午後の実技講義に向かう途中、今度はもっと分かりやすい余波があった。

 模擬演習の組み分けで、普段ならフィーネを避けていた連中が、少し迷うようになっていたのだ。

 

「……」

「……」

「どうする?」

「いやでも、昨日のあれ見たら……」

 

 聞こえてる。

 丸聞こえだ。

 そして結局、二年の男子がひとり前に出てきた。

 

「その、フィーネ」

「はい」

「よければ、今回の連携演習、組まないか」

 

 おお。

 これは大きい。

 学院の空気が変わる時って、案外こういうところからなのだろう。

 

「ありがとうございます」

 

 フィーネは落ち着いて答えた。

 

「ぜひ」

「よ、よろしく」

「こちらこそ」

 

 相手は明らかに緊張していたが、フィーネがいつも通りなので少しだけ肩の力を抜いたようだった。

 

 実技演習そのものも悪くなかった。

 フィーネは昨日の討論会の印象そのままに、必要な時だけ前へ出る。

 無駄に目立たない。

 だが、連携の要所ではきっちり存在感を出す。

 

 終わったあと、担当教官が珍しく素直に褒めた。

 

「編入生」

「はい」

「昨日も思ったが、周囲を見るのが早いな」

「ありがとうございます」

「前へ出るだけが能じゃない。覚えておくといい」

「承知しました」

 

 そのやり取りを聞きながら、俺は思う。

 

 ああ、少しずつだが、本当に馴染み始めてるな、と。

 

 ただし。

 

 その日の放課後、ひとつだけ想定外があった。

 フィーネが自分の机に戻ろうとした時、ふと立ち止まった。

 

「どうした」

「……」

「フィーネ?」

 

 彼女の視線の先には、小さな封筒があった。

 白い上質紙。

 封蝋には、見覚えのある紋章。

 

 翼を広げた双頭の鷲。

 そこに月桂樹。

 

「……うわ」

 

 思わず声が出る。

 

「早いな」

「はい」

「早すぎる」

 

 フィーネが封筒を拾い上げる。

 表には、簡潔に名前だけ。

 

 ――フィーネ殿

 

「開けるぞ」

 

 俺が言うと、

 

「私宛です」

 

 とフィーネが静かに返した。

 

「先に私が確認します」

「……それもそうだな」

 

 封を切る手つきは落ち着いている。

 中には短い便箋が一枚。

 

 フィーネの視線が文字を追い、ほんのわずかに止まった。

 

「何て?」

「……」

「フィーネ」

「第一皇子殿下より、茶会への招待です」

「だろうなあ!」

 

 思わず天を仰いだ。

 もう来た。

 ついに本人から来た。

 

「日時は」

「三日後、放課後」

「絶妙に断りづらいな」

「はい」

「しかも茶会」

「はい」

「逃げ道が少ない」

「はい」

 

 フィーネは便箋を俺に差し出した。

 文面は実に丁寧だった。

 

 討論会、感服したこと。

 一度言葉を交わしてみたいこと。

 学院で学ぶ者同士、互いの視野を広げる機会としたいこと。

 

 うん。

 完璧だな。

 完璧に断りづらい。

 

「殿下」

「なんだ」

「どういたしましょう」

「……」

 

 どうするも何も、これはもう単なる学院内交流ではない。

 兄上本人が、フィーネを見に来た。

 いや、見に来るだけならまだいい。

 たぶん、測りに来る。

 

 能力。

 忠誠。

 そして、俺にとってどれほど重要かを。

 

「断るのも一手だ」

 

 俺は言う。

 

「でも、その場合は()()()と見られる」

「はい」

「行くのも一手だ」

「ですが」

「分かってる。取り込む気がなくても、周囲は勝手に意味づける」

「はい」

 

 沈黙が落ちる。

 

 廊下の窓から差し込む夕方の光が、封筒の縁を白く照らしていた。

 妙に静かだ。

 だが、その静けさの下で、面倒の気配がどんどん大きくなっている。

 

「……面倒だな」

 

 俺が言うと、

 

「はい」

 

 とフィーネは答えた。

 

「とても」

「今日何回目だ、この会話」

「大切な確認かと」

「そうかもしれん」

 

 俺は頭をかいた。

 

「とりあえず」

「はい」

「今日中に返事はするな」

「分かりました」

「姉上にも聞く。セレナにも探りを入れる」

「学生会長にも?」

「学院内での見え方を知りたい」

「……なるほど」

「あと、兄上の茶会の癖もな」

「癖」

「あるんだよ。あの人の()()()には、だいたい意味がある」

「恐ろしいですね」

「本当に恐ろしい」

 

 フィーネは便箋を折りたたみ、封筒へ戻した。

 

「殿下」

「ん?」

「私がどうしたいか、お聞きになりますか」

「……聞いていいのか?」

「はい」

 

 俺は少しだけ考えて、それから言った。

 

「じゃあ聞く。お前はどうしたい」

「行きます」

「即答だな」

「はい」

「理由は」

「避けても、先送りにしかなりません」

「……」

「それに」

 

 フィーネはまっすぐ俺を見た。

 

「殿下の隣に立つなら、いずれ向き合う相手ですので」

 

 またそれだ。

 またそういう真っ直ぐなことを、何の飾りもなく言う。

 

「……重い」

「はい」

「でも嫌いじゃない」

「存じております」

「最近それ多いな!?」

「学習しましたので」

 

 困る。

 だいぶ困る。

 だが、嫌ではないのが一番困る。

 

 窓の外では、もう夕暮れが深くなり始めていた。

 三日後。

 第一皇子の茶会。

 

 昨日までは、学院に認められるかどうかの話だった。

 だが、ここから先は違う。

 

 学院の内側だけでは終わらない。

 皇族の周辺。

 派閥。

 選別。

 見定め。

 たぶん、そういうものが本格的に始まる。

 

 面倒くさい。

 本当に、ものすごく面倒くさい。

 

 けれど隣の少女は、便箋を持ったまま、少しも視線を逸らしていなかった。

 

 灰銀の目は静かで、

 静かなまま、

 もう次を見ている。

 

 ――ああ。

 

 たぶん、こいつは本当に進むんだろう。

 学院の中だけじゃなく。

 その先の、もっと面倒な場所まで。

 

 俺の隣に立つと言った、その言葉のぶんだけ。




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