窓の外には、冬木市の冷え切った夜景が広がっている。
俺、佐藤 斗真(さとう とうま)がこのボロアパート「第ニ海星荘」に入居したのは、単にここ以外に穂群原学園へ通える空きの物件がなかったからだ。
「…なんだよ、これ」
手元にあるのは、コンビニで投げ売りされていたオカルト雑誌の裏表紙だ。
そこには、あまりにも時代錯誤で、かつ胡散臭い広告が躍っていた。
『聖杯戦争に参加したら彼女ができました! ~今ならあなたも万能の願望機に手が届く~』
普通なら鼻で笑ってゴミ箱行きだ。
だが、俺は知っている。
この街で、もうすぐ地獄のような殺し合いが始まることを。
そして、衛宮士郎という少年がその中心に立つはずであることを。
俺はただの転生者だ。趣味で陳式太極拳を練り、一般人として平穏に死ぬつもりだった。
魔術回路なんて、自分には無縁なものだと思い込んでいた。
だが、好奇心は猫を殺すという。
あるいは、虚数の属性が呼び寄せた引力か。
俺は広告に書かれた儀式――あまりにも簡素で、けれど妙に整合性の取れた術式を、遊び半分でなぞってみたのだ。
暫く経ち、ああそんなことあるはず無いよなと思い始めたころだった。
古びたドアが、遠慮がちだが拒絶を許さない重さでノックされたのは。
「…はい」
ドアを開けた瞬間、俺は息を呑んだ。
そこに立っていたのは、同じ学校の下級生。
間桐桜だった。
だが、俺の知っている「原作」の彼女よりも、その瞳は絶望的に濁っている。
光を反射しないガラス玉のような、死んだ魚の目。
「…あ。見つかった」
彼女は力なく微笑んだ。
その声には、生者特有の張りが一切ない。
「あの、広告を見て…お呼びになったのは、貴方ですか? 佐藤先輩」
「間桐、さん? なんで、ここに」
「分かりませんか? 貴方が、私を呼んだんですよ。私の『マスター』」
彼女が一歩踏み込むと、部屋の空気が一気に重くなった。
どろりとした、澱んだ魔力の気配。
彼女が俺の腕に細い指先を這わせる。
その瞬間、背筋に走ったのは電撃のような衝撃だった。
「こんなに立派な魔力回路を、十二本も。それに脇にも細いのが、三本ずつ…計十八本も眠らせているなんて。無自覚だったんですか?」
「えっ、回路…? 俺に?」
動揺する俺をよそに、桜は糸の切れた人形のように俺の胸元に倒れ込んできた。
冷たい。
死人のように肌が冷たいのに、彼女からは焦げ付くような情欲と、飢餓感が混じった異様な熱気が立ち上っている。
「お腹、空いちゃった…。もう、限界なんです。誰でも良かったけど…貴方がいい。貴方の、その虚数の温かさで、私を…」
服の上からでも分かる。
彼女の肌の下で、何かが蠢いている。
蟲だ。
間桐臓硯という怪物が植え付けた、彼女の命を蝕み、書き換えてしまった醜悪な寄生体。
士郎という光に出会えず、心が完全に折れてしまった彼女は、今やアンリマユという泥の出口として、ただ捕食を求めている。
(…ふざけんなよ、アンリマユ。)
桜の状態は最悪だ。
今さら蟲を摘出すれば、彼女の命そのものが崩壊する。
だが、俺は知っている。
この絶望的な袋小路をブチ破るための解答を。
そのためには、まずこの壊れかけた少女を、俺が繋ぎ止めなきゃならない。
「…分かった。とりあえず入れよ、間桐。腹が減ってるんだろ?」
俺は、震える彼女の肩を抱き寄せた。
陳式太極拳で鍛えた勁力が、無意識に彼女の澱んだ魔力を受け流す。
遠く、間桐の屋敷で老魔術師がニタリと笑った気がした。
だが、構うものか。
彼女がまともな女の子に戻って、それから俺に「彼女ができました」なんて笑える日が来るのなら。
偽物の広告を本物に変えてやるのも、悪くない。
「…くっ、動くな。少しじっとしてろ」
俺は倒れ込んできた桜の背中に手を当て、陳式太極拳の練気――纏絲勁(てんしけい)の要領で、自身の魔力と気を通わせる。
螺旋を描くように練り上げた勁力を、彼女の体内に蠢く不快な異物へぶつけるのではなく、包み込み、受け流す。
「ひゃっ、…あ、あは…。あったかい、です…佐藤、先輩…」
冷え切った彼女の肌が、俺の熱に当てられて微かに赤らむ。
俺の回路――メイン12本、サブ計6本から溢れ出す虚数の魔力は、彼女が抱える欠落と驚くほど親和性が高かった。
暴れていた蟲たちが、一時的に静まり返る。まるで凪いだ海のように。
(…いけるか? このまま気を回し続ければ…)
だが、そんな甘い期待は数秒で粉砕された。
「…足りない」
桜の瞳から、僅かに宿りかけた光が消え、底なしの飢餓が這い出してきた。
太極拳の気はあくまで調和だ。
だが、今の彼女は調和ではなく、空っぽの器を満たす生贄を求めている。
「先輩、それだけじゃ…私、ちっとも満たされない。もっと、奥の方…根っこのところを、全部…頂戴?」
「待て、間桐! 落ち着け、まだ話が――」
抗う間もなかった。
俺が太極拳で鍛えた体幹をもってしても、黒い聖杯に近い彼女の筋力には抗えない。
押し倒された畳の上で、彼女の細い指が俺の喉元を、胸元を、貪るように探る。
「…っあ!」
首筋に、鋭い痛みが走った。
吸血――いや、もっと直接的な魂の食害。
俺の魔術回路が悲鳴を上げ、18本のラインが焼き切れるような熱を帯びる。
血管を逆流するような感覚。
脳髄がとろけるような快楽と、命を削られる恐怖が同時に押し寄せた。
「ふ、うぅ…んっ、は…っ。…おいしい、です。佐藤、先輩…」
桜の喉が鳴る。
彼女の目は、獲物を喰らう獣のそれだ。
だが、その頬を伝うのは、皮肉にも熱い涙だった。
壊れ、汚れ、空腹に耐えかねて、唯一差し伸べられた手を食いらわなければ生きていけない――その絶望が、俺の胸に痛いほど突き刺さる。
「…これ、くらい…なら…」
俺は、意識を飛ばしかけながらも、彼女の背中を叩くことだけはやめた。
死ぬ間際まで吸い尽くされる予感はなかった。
俺の属性が虚数だったからだろう。
彼女という穴を埋めるには、俺の魔力はあまりに相性が良すぎて、少量でも彼女の渇きを一時的に止めてしまったのだ。
「…あ」
やがて、桜が口を離した。
唇の端を赤く染め、焦点の合わない目で俺を見下ろしている。
その表情は、空腹を満たした満足感よりも、一線を越えてしまったことへの深い諦念に満ちていた。
「…ごめんなさい、先輩。私…やっぱり、化物でした」
「…化物、にしては…お行儀が悪いな。人の部屋で、いきなり押し倒すなんて…」
俺は、貧血で回らない頭を必死に動かして、冗談を絞り出した。
死ぬほどは吸い取られなかった。
だが、立ち上がろうとした足は、生まれたての小鹿のようにガクガクと震えている。
「…さて。腹が膨れたなら、話をしようか。…間桐、君を助けたい」
俺の言葉に、桜の瞳が大きく揺れた。
翌朝。
俺の体調は最悪だった。
鏡を見れば、首筋にはくっきりと歯型――というより、魔力のパスが強引に繋がれた痕が残っている。
陳式太極拳で練り上げた内気のおかげで、なんとか立ち上がれるレベルだ。
「…おはようございます、先輩」
キッチンでは、桜が朝食を作っていた。
だが、その光景は「原作」のような手慣れたものではない。
士郎に教わっていない彼女の料理は、火加減も味付けも危なっかしい。
包丁の使い方もどこかぎこちなく、ただ義務として栄養を摂取するための作業に見えた。
出来上がった朝食の卵は黒く焦げていた。
「あ…ごめんなさい。私、こういうの、あんまり上手じゃなくて」
死んだ魚のような瞳のまま、彼女は小さく肩をすぼめる。
切なくなった。
この少女を、このまま聖杯の器として使い潰させるわけにはいかない。
学校での密談
穂群原学園の屋上。
俺は、昼休みの喧騒を避けて遠坂凛を呼び出した。
彼女は俺の顔を見るなり、美しい眉を不機嫌そうに跳ね上げた。
「…ちょっと、佐藤。あんたその顔、何? 幽霊にでも取り憑かれたみたいじゃない」
「幽霊ならまだマシだったよ、遠坂。…単刀直入に言う。間桐桜のことだ」
「桜…?」
遠坂の目が、一瞬で魔術師の鋭いものに変わる。
俺は隠さずに、すべてを話した。
自分が魔術回路を持つこと、昨夜「儀式」を行って桜が部屋に転がり込んできたこと。
そして――彼女の身体が、既に間桐の蟲によって修復不可能なほど蝕まれていることを。
「…っ、なんですって!? 臓硯のじじい、そこまで…!」
遠坂は手すりを叩いた。
その拳が震えている。
やはり彼女は、妹のことを捨て切れてなどいない。
「今の桜は、アンリマユ…聖杯の泥と繋がってる。俺が『虚数』の属性だったから、昨夜は食い殺されずに済んだけど、時間の問題だ」
「あんた、バカなの!? そんな状態の彼女を匿うなんて、死ぬ気?」
「死ぬ気はない。だから、あんたに頼みがある」
俺は遠坂の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「桜を救う方法を、一緒に考えてほしい。俺一人じゃ、知識も戦力も足りない。…これから俺も、サーヴァントを召喚する。その後で、本格的に作戦を練りたいんだ」
「…サーヴァントを? あんたみたいな素人が?」
「素人なりに、勝算はある。…遠坂、あんたは桜の姉さんだろう。あいつを人間として笑わせたいのは、俺だけじゃないはずだ」
遠坂は沈黙した。
葛藤し、唇を噛み締め、やがて大きくため息をつく。
「…わかったわよ。でも、勘違いしないで。これはあくまで、冬木の管理者の仕事としてよ。…まずはあんたが、まともな英霊を引き当てることね。話はそれからよ」
「助かる。…恩に着るよ」
俺は胸を撫で下ろした。
これで、凛の知識とバックアップは確保できた。
次は、この街で最もお人好しで、最強の癒やしを持つあいつ――衛宮士郎をどう巻き込むかだ。
(ルールブレイカーで縁を切り、アヴァロンで再生させる。…針の穴を通すような作業になるぞ)
首筋の傷が、ズキリと疼いた。
その日の夜。
俺のアパートの狭い一室は、異様な熱気に包まれていた。
床には、例の胡散臭い雑誌の付録…ではなく、遠坂から最低限これくらいは使いなさいと叩き込まれた正式な魔術文字で描かれた召喚陣。
「…先輩。本当に、やるんですか?」
背後で、桜が不安そうに裾を握りしめている。
昨夜俺を襲った時とは違い、今の彼女はただの怯えた少女だ。
その瞳の奥には、得体の知れない何かを呼び寄せることへの本能的な恐怖が透けていた。
「ああ。君を救うには、俺一人じゃ手が足りないからな。…大丈夫だ、信じろ」
俺は深呼吸をし、12本のメイン回路と6本のサブ回路、計18本の魔術回路を一気に回す。
陳式太極拳で練り上げた内気が、虚数の魔力と混ざり合い、独特の振動を刻む。
触媒はない。
だが、俺の中には拳を極めんとする意志と、この歪な状況を正したいという切実な願いがある。
「――告げる。汝の身は我が下に、我が運命は汝の剣に!」
詠唱と共に、視界が真っ白に染まった。
虚数の属性が、次元の狭間から最適な霊基を引きずり出す。
轟音。
アパートの床が抜けんばかりの衝撃と共に、立ち込める煙の中から一人の女性が現れた。
「――サーヴァント・ライダー。召喚に従い奔り参じました。…貴方が、私のマスターですね?」
現れたのは、清楚な青い衣装に身を包んだ、見目麗しい聖女。
その手には杖があるが、彼女から放たれる気配は魔術師のそれではない。
…重い。
一歩踏み出すたびに床が軋むような、圧倒的な武の圧。
「俺は佐藤斗真。…あんた、名前を訊いてもいいか?」
「はい。真名はマルタ。主の愛に応え、悪竜を鎮めし者です」
彼女は穏やかに微笑んだ。
だが、その視線が俺の構え――無意識に取っていた太極拳の予備動作に向けられた瞬間、その瞳に武芸者としての鋭い光が宿る。
「…ほう。マスター、貴方、なかなか良い拳をしていますね? その重心の置き方、ただの素人ではありません」
「趣味で少しな。…それより、マルタ。召喚早々で悪いが、見てほしい子がいる」
俺が横に控えていた桜を指差すと、マルタの表情が一変した。
聖女としての慈愛。
そして、それ以上に激しい怒りが、彼女の周囲の空気をピリつかせる。
「…これは、酷い。主よ、これほどの不浄が、まだ年若い少女の身を苛んでいるというのですか」
彼女は迷いなく桜に歩み寄り、その白く、それでいて岩をも砕きそうな力強い手で、桜の頬を優しく包み込んだ。
「安心なさい、娘さん。私は聖女ですが、話の通じない悪逆に対しては、この手で語ることも辞さない質(タチ)です。…マスター、貴方の目的は、この子を救うこと。相違ありませんね?」
「ああ。手段は選ばない。…力を貸してくれるか?」
「もちろんです! 祈りだけで救えぬなら、拳で道を切り拓くのみ!」
拳を握りしめたマルタの背後に、一瞬だけ、巨大なタラスクの幻影と…何より恐ろしい物理の暴力の予感が見えた。
(…これ、もしかしてキャスター(メディア)や臓硯を、文字通り物理で分からせられるんじゃないか?)
「あの、佐藤先輩…この人、すごく…圧が…」
圧倒される桜を背中に隠しながら、俺は確信した。
この鉄拳聖女なら、ルールブレイカーを投影する士郎が来るまでの間、文字通り物理的に桜を守り抜いてくれるはずだ。
翌日の夜。
桜をアパートで休ませ、俺は冬木大橋の袂、人気のない場所で遠坂凛、そして彼女のサーヴァントであるアーチャーと合流した。
赤い外套を翻し、冷徹な双眸で俺を見下ろすアーチャー。その視線は、俺の背後に控えるマルタに向けられている。
「…信じられんな。ライダーのクラスで聖女を引くとは。佐藤と言ったか? 君の運命力は、歪んでいるか突き抜けているかのどちらかだ」
「皮肉はいいよ、アーチャー。…本題に入らせてくれ」
俺はマルタを振り返り、一番気になっていたことを尋ねた。
「マルタ。あんたの『奇蹟』で、桜の体内の蟲を…摘出することは可能か?」
マルタは痛ましげに目を伏せ、首を横に振った。
その拳は、怒りに白くなるほど強く握りしめられている。
「…申し訳ありません、マスター。私の奇蹟は病を癒やし、悪を退けます。ですが、あの娘さんの状態は…もはや蟲と命が一つに編み上げられてしまっている。強引に引き剥がせば、彼女の霊基そのものが霧散するでしょう。主よ、これほどの呪いを、私は座視せねばならぬのですか…!」
「…すなまい酷なことを聞いた」
俺は唇を噛み、今度はアーチャーに向き直った。
「アーチャー。あんたに聞きたい。…キャスターの持つ宝具『破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)』。あんたの投影魔術で、あれを再現できるか?」
遠坂が隣で息を呑む。
アーチャーの眉がピクリと跳ねた。
「…ほう。なぜ私が投影を得意とすると? それに、キャスターの宝具などというマニアックな代物を指定する意図は何だ」
「あんたが何者かは、ある程度察しがついてる。…あの宝具のあらゆる魔術的契約を無効化する特性。それを使えば、桜と間桐臓硯、そして大聖杯との繋がりを断てるはずだ。違うか?」
アーチャーは沈黙した。
その冷ややかな視線が、俺の「知識」の出所を探るように突き刺さる。
やがて、彼はふっと鼻で笑った。
「…不可能ではない。だが、投影品はオリジナルに劣る。あれを完全に機能させるには、対象を直接『刺す』必要がある上に、斬り離した瞬間に生じる反動…つまり、命の補填をどうするかが問題だ。繋がっているからこそ、彼女は生かされているのだからな」
「そこは、別の手を用意するつもりだ。…あいつ、衛宮士郎の中に眠っている鞘をな」
「…っ、貴方、どこまで知っているのよ」
遠坂が詰め寄ってくる。
俺は彼女の肩を優しく押し留めた。
「遠坂。俺はちょっと勘のいい一般人だ。桜を救うには、アーチャーの剣と、士郎の中身、そしてマルタの守護。この全てが揃わなきゃならない」
「…気に入らんな」
アーチャーが腕を組み、不遜に言い放つ。
「私の剣を、あのような未熟者の補助に使うというのか。だが…」
彼は視線を落とし、少しだけ声音を和らげた。
「…あの少女の、救われぬ結末を書き換えるというのなら。その博打、乗らない理由もない」
「助かる。…マルタ、摘出の瞬間、あんたには奇蹟で彼女の魂が霧散しないよう、全力で繋ぎ止めてほしい。物理的な衝撃からもな」
「お任せください、マスター! 魂の防衛、そして…邪魔しに来るであろう不心得者の迎撃。私の『ハレルヤ』にかけて、完遂してみせましょう」
マルタがその場で拳を打ち鳴らすと、空気が爆ぜた。
アーチャーですら、一瞬だけこいつとは近接戦をしたくないという顔をして距離を取っている。
「…よし。役者は揃いつつある。あとは、士郎をどう説得するか…いや、あいつのことだ。事情を話せば二つ返事で飛び込んでくるだろうな」
冬木の風は冷たい。
だが、俺の胸の中には、昨日までの絶望とは違う、熱い闘志が灯っていた。
「遠坂。もう一つ、あんたにしか頼めないことがある」
俺は、去り際の後ろ姿に声をかけた。
遠坂は足を止め、怪訝そうにこちらを振り返る。
「何よ、改まって。私の管理に文句でもあるの?」
「いや。…衛宮士郎のことだ。あいつの中にある『鞘』を機能させるには、あいつ自身が魔術師として最低限、自分を維持しなきゃならない。…あんたの宝石魔術で、あいつのバックアップをしてやってほしいんだ」
「…はあ!? なんで私が、あのお人好しの世話まで焼かなきゃいけないのよ! 宝石がどれだけ高いか知ってるの!?」
遠坂は肩を怒らせて抗議するが、その頬は微かに赤い。
俺は苦笑しながら、太極拳の合掌に近い仕草で頭を下げた。
「代金は、この騒動が終わったら俺が陳式太極拳の奥義でも何でも伝授して、…いや、それは無理か。とにかく、あいつを死なせないためには、あんたの精密な魔力供給が必要なんだ。頼む」
「…ちっ、貸しにしとくわよ。特大のやつをね!」
吐き捨てるように言って、彼女はアーチャーと共に夜の闇へと消えていった。
翌日。
夕暮れ時の冬木市。
バイト終わりの衛宮士郎を校門近くで待ち伏せようとした、その時だった。
「…ッ、マスター。下がってください!」
並んで歩いていたマルタの、聖女としての慈愛が消え、戦士の殺気が爆発した。
彼女が俺の前に立ちふさがると同時、足元の影から、おびただしい数の「黒い何か」が這い出してきた。
「ひひっ、ひひひひ…。愉快、実に愉快。…まさか、桜をこれほどまでの力で守護する者が現れるとはな」
ねじ曲がった老人の笑い声。
街灯の影から現れたのは、杖を突き、死臭を漂わせる怪物――間桐臓硯だった。
「臓硯…! 出てくるのが早すぎるだろ」
「ほう、儂の名を知っておるか。…さて、佐藤斗真と言ったか。桜を返してもらおう。あれは儂の道具。外に置いておくには、少々、管理が杜撰になりすぎておる」
臓硯の合図と共に、影から無数の蟲が津波のように押し寄せる。
一匹一匹が魔力を喰らい、肉を侵食する。
普通の人間なら、見ただけで発狂する光景だ。
「…不浄。あまりにも、不浄です」
マルタの声が、地を這うような低音で響く。
彼女の背後に、巨大な霊基の圧が立ち昇る。
それは祈りというより、物理的な衝撃波だった。
「愛しき主の羊を、これほどまで弄んだ罪…。もはや祈りの言葉すら、貴様には勿体ない! ――沈みなさい、悪よ!!」
マルタが地面を強く踏み抜いた。
太極拳の震脚を遥かに凌駕する破壊力が、コンクリートを砕き、衝撃波となって押し寄せる蟲たちを文字通り粉砕する。
「な、なにいっ…!? ライダーのクラスでありながら、この膂力…!?」
「逃がしませんよ。…マスター、ここは私が食い止めます。貴方はその少年を!」
「…ああ、頼んだ!」
俺はマルタの背中を信じて駆け出した。
すぐ先には、異変に気づいて足を止めている、赤い髪の少年――衛宮士郎の姿があった。
「佐藤…? なんだ、今の爆発は!?」
「衛宮、説明は後だ! 今すぐ、俺と一緒に来てくれ。…桜を、間桐桜を救えるのは、お前しかいないんだ!」
俺は士郎の肩を掴み、その真っ直ぐな瞳を射抜くように叫んだ。
「…間桐を、救う?」
士郎は、俺に肩を掴まれたまま呆然と呟いた。
その瞳には、純粋な困惑だけが浮かんでいる。
「待ってくれ、佐藤。間桐…桜のことだよな? あいつ、弓道部の後輩で、いつも元気に挨拶してくれる…。救うって、あいつに何があったんだよ」
俺は、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
そうだ。
この世界線の士郎にとって、桜は家まで手伝いに来てくれる家族同然の存在ではない。
ただの、部活の後輩だった少女。
挨拶を交わす程度の、距離のある関係。
士郎が彼女の異変に気づくきっかけも、彼女が士郎に縋る理由も、まだこの世界には存在していなかった。
「…いいから、見ればわかる。信じろ、衛宮」
俺は半ば強引に士郎を引き連れ、ひた走った。
背後ではマルタの拳が空気を爆ぜさせ、臓硯の蟲どもを物理的に粉砕する轟音が響いている。
「ここだ」
アパートのドアを蹴破るようにして開ける。
狭い六畳一間に、遠坂凛とアーチャー、そして――。
布団の上で、脂汗を流しながら苦悶の表情を浮かべる桜がいた。
「なっ…間桐!?」
士郎が息を呑み、駆け寄る。
桜の肌の下で、何かが這い回っている。
その蠢きは服の上からでも判別でき、時折、彼女の喉から人間離れした呻きが漏れた。
「…遅かったわね、佐藤。状態が悪化してるわ。臓硯が近くに来たせいで、体内の蟲が共鳴し始めてる」
遠坂が、苦々しく宝石を握りしめながら告げる。
「遠坂…? なんでお前まで。…なあ、これ、どういうことだよ。間桐がなんでこんな…」
士郎の手が、震えながら桜の額に伸びる。
だが、その手が触れる直前、桜がカッと目を見開いた。
「…あ。…せ、んぱい…?」
その瞳は濁り、絶望の色に染まっている。
「…逃げて…。私…食べちゃう。…お腹が、空いて…全部、壊しちゃうから…」
「間桐…」
士郎が絶句する。
彼はまだ、魔術師としての覚悟も、この街の裏側も知らない。
ただの、「正義の味方」に憧れる少年だ。
だが、目の前で苦しむ後輩を見捨てられるはずがなかった。
「佐藤。…俺に、何ができる」
士郎の瞳に、逃避ではない、切実な光が宿った。
「アーチャー」
俺が合図を送る。
赤い外套の騎士は、不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、その手に一振りの奇妙な短剣を形作った。
「…本来、あり得ん話だがな。衛宮士郎。貴様の内に眠る守護の力を、今だけはこの少女のバックアップに回せ。私がこの『ルールブレイカー』で彼女を呪縛から切り離す一瞬――その瞬間の命の空白を、貴様が埋めるんだ」
「俺の…中の、力…?」
「遠坂がサポートする。…衛宮、お前にしかできない。桜を…ただの女の子に戻してやってくれ」
俺は士郎の背中を叩いた。
太極拳で練り上げた気を、励ますように彼の体内に送り込む。
「…わかった。やり方はよく分からないけど…間桐をこのままにするなんて、絶対に嫌だ」
士郎が桜の手を握る。
その瞬間、アパートの窓ガラスが衝撃波で割れた。
「――始めるわよ! アーチャー、佐藤、衛宮! 準備しなさい!」
遠坂の叫びと共に、狭いアパートの一室が、運命を書き換えるための戦場へと変わった。
「ひひっ、ひひひひ! 愚かよな、佐藤斗真。死に近い娘一人を救うために、これほどの英霊と魔術師を揃えるとは。だが、その努力もすべては儂の掌の上よ!」
アパートの壁を突き破り、無数の蟲が凝集して形を成す。
そこには、どろりと腐った執念の化身――間桐臓硯が立っていた。
「マルタ、桜を頼む! アーチャー、投影を維持しろ!」
「応! ですがマスター、貴方一人では――!」
「案ずるな、マルタ。…こいつの理屈は、俺が一番よく分かってる」
俺は一歩前へ出た。
心臓の鼓動を太極拳の呼吸法で制御し、18本の回路から『虚数』の魔力を溢れさせる。
俺の魔力は、実数世界には存在しない影。
それは、霊体や蟲という実在に依存する魔術師にとって、もっとも相性の悪い毒だ。
「…行くぞ、クソジジイ。五百年の執念ごと、粉砕してやる」
俺は腰を落とし、陳式太極拳の構えを取る。
「纏絲勁(てんしけい)」――螺旋の動き。
襲いかかる無数の刻印虫に対し、俺は逃げない。
逆に、その渦中へと踏み込んだ。
「死ねい、小僧!」
臓硯の杖から放たれた蟲の奔流。
だが、俺の指先が触れた瞬間、その「螺旋」に巻き込まれた蟲たちが、まるで洗濯機に入れられたかのように次々と弾け飛ぶ。
太極拳の「掤(ほう)・捋(りつ)・擠(せい)・按(あん)」。
相手の力を受け流し、自身の虚数魔力を乗せて倍にして返す。
「なっ…!? 儂の蟲が、触れるそばから霧散するだと!?」
「あんたの蟲は実在しすぎてるんだよ。虚数の影に触れれば、その存在自体が定義を失う!」
俺は一気に距離を詰める。
臓硯の本体――その、人の形を模した蟲の塊の懐へ。
「――『青龍出水(せいりゅうしゅっすい)』!」
螺旋を描きながら放たれる、渾身の突き。
ただの拳ではない。
拳の先に虚数の魔力を極限まで圧縮し、一点に集中させた「浸透勁」だ。
「ぐ、がぁあああああッ!?」
臓硯の胸が、物理的な衝撃を超えて、概念的に削り取られるように崩壊した。
虚数の衝撃は、彼の核である魂の所在すらも揺さぶる。
「…おのれ、おのれぇええ! 小僧、貴様ッ…!」
「往生際が悪いな。…だが、俺の役目はここまでだ」
俺の背後で、眩い光が弾けた。
アーチャーが投影した『破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)』。
そして、士郎の絶叫。
「――間に合えッ!!」
士郎が握った桜の手から、黄金の光――『全て遠き理想郷(アヴァロン)』の残光が溢れ出す。
ルールブレイカーが桜の胸元、臓硯との「契約」を象徴する刻印を貫いた瞬間、世界から音が消えた。
切り離された呪い。
行き場を失った臓硯の魔力が、逆流して本体へと襲いかかる。
「馬鹿な…儂の、儂の五百年が…! 桜ぁあああ!!」
「…あばよ、臓硯。あんたの居場所は、もうこの世界にはないんだ」
俺は最後の一撃として、太極拳の「金剛搗碓(こんごうとうたい)」を叩き込んだ。
真上から振り下ろされた拳が、臓硯の残骸をアパートの床ごと粉砕し、虚数の闇へと葬り去る。
静寂が訪れた。
ボロボロになった室内。
アーチャーは既に姿を消し、遠坂凛は肩で息をしながら、崩れ落ちる士郎を支えている。
そして、布団の上。
蟲の気配が消え、普通の、ただの少し顔色の悪い少女に戻った間桐桜が、ゆっくりと目を覚ました。
「…あ。…佐藤、先輩…?」
その瞳には、もう濁りはない。
俺は膝をつき、震える手で彼女の頭を撫でた。
「…ああ。おはよう、桜。…よく、頑張ったな」
「…お腹、空きました。…今度は、ちゃんと美味しいもの、食べたいです…」
彼女の小さな、けれど確かな言葉に、俺はこらえきれず笑った。
運命を変えた。
陳式太極拳と虚数の魔力、そして最高の仲間たちの協力。
この冬木の夜は、ようやく明けようとしていた。
あとがき
Fateシリーズのヒロインでは「間桐 桜」が一番好きな感じです。
こーいう広告今でもあるんでしょうかね?