「…よし。あとの細かい『聖杯』関連のバイパス処置は、マルタさんと遠坂に任せた。俺は、…約束通り、まともな飯を作るよ」
俺はガクガク震える膝を叩いて立ち上がった。
虚数魔力を使い果たし、太極拳の勁力も空っぽだが、不思議と気分は晴れやかだった。
「ちょっと、佐藤! あんたその体で台所に立つ気? 私が…ま、まぁ、見かねて手伝ってあげるわよ。あんたの家の冷蔵庫、大したもの入ってなさそうだし」
遠坂が、文句を言いながらも腕まくりをしてキッチンへ向かう。
手伝うと言いつつ、彼女の目は私が仕切るわよと言わんばかりの、いつもの優等生モードだ。
「助かるよ、遠坂。…衛宮、お前も座ってろ。アヴァロンの余波で疲れてるだろ。…桜、待ってろよ。焦げてない、最高の卵焼きを作ってやるからな」
「…はい。…楽しみに、しています」
桜の微かな微笑。
それは、雑誌の広告にあった彼女ができましたという胡散臭い言葉よりも、ずっと価値のあるものに思えた。
仮初めの平穏と、これからの居場所
食事の後、俺たちは割れた窓から吹き込む夜風に当たりながら、これからのことを話し合った。
「…このアパート、もう住める状態じゃないわね。壁に穴は開いてるし、魔術の残滓が酷すぎるわ」
遠坂が、惨状を見渡して溜息をつく。
「…佐藤先輩。私のせいで、すみません…」
「気にするな。もともとボロ屋だったんだ。…それより、桜。…お前、これからどうする」
俺が問いかけると、桜は小さく俯いた。
間桐の屋敷には、もう戻れない。臓硯を物理的に粉砕したとはいえ、あそこは彼女にとって地獄の象徴だ。
「…私の家に来なさい、桜」
遠坂が、ぶっきらぼうに、けれど拒絶を許さないトーンで告げた。
「遠坂の屋敷なら、防衛結界も完璧よ。
…それに、あんたには教えなきゃいけないことが山ほどあるんだから。…姉としてね」
「…お姉、ちゃん…」
桜の瞳に、再び涙が溢れる。
今度は絶望の涙ではなく、止まっていた時間が動き出すための、温かい雨だ。
「…それが一番いい。マルタ、あんたも遠坂の屋敷で桜の護衛を頼めるか? 俺は…まぁ、このアパートの片付けと、適当な寝床を探すよ」
「もちろんです、マスター! 聖女の名にかけて、桜さんの笑顔を二度と曇らせはしません」
マルタが力強く頷く。
「佐藤…。俺も、手伝わせてくれ。…間桐の…桜のこと、俺もちゃんと知りたいんだ。弓道部の後輩としてじゃなくて」
士郎も、真っ直ぐな目で俺を見た。
「ああ。…聖杯戦争はまだ続いてる。キャスターや、他のサーヴァントも残ってる。…でも、まずは今夜くらい、ゆっくり寝ようぜ」
俺は、窓の外の夜空を見上げた。
虚数の属性を持つ一般人転生者。
俺の戦いはここからが本番かもしれないが…隣で笑い始めた少女と、頼もしい仲間たちがいる。
(…あの雑誌の広告、あながち嘘じゃなかったな)
俺は、懐に隠していた「胡散臭い雑誌」をそっとゴミ箱に放り込んだ。
冬木の夜は、今度こそ、穏やかに更けていった。
灰色の朝、透き通る呼吸
翌朝。冬木市の空は、昨夜の激闘を洗い流したような、どこまでも高い冬晴れだった。
遠坂の屋敷の一室。
朝日が差し込む柔らかなベッドの上で、桜がゆっくりと目を覚ました。
隣には、彼女の安眠を物理的かつ霊的に守り抜いたマルタが、穏やかな表情で控えている。
「…おはようございます、桜さん。気分はどうですか?」
「マルタさん…。はい、すごく…体が軽いです。あんなに重かった何かが、全部消えたみたいで…」
そこへ、寝不足で隈を作った俺と、朝から台所で遠坂と火花を散らしていた士郎が顔を出した。
「…よお。起きたか、桜」
俺の声に、桜が弾かれたように顔を上げる。
その瞳には、昨夜までの死の気配は微塵もなかった。
ただの、年相応に瑞々しい少女の瞳だ。
「佐藤、先輩…。あ、あの…昨日は、本当に…」
「お礼ならもういい。…それより、顔色が良くなって安心したよ」
俺はベッドの脇に歩み寄り、パイプ椅子を引き寄せて座った。
魔術回路を使い果たした体は鉛のように重いが、彼女の顔を見ていると、不思議と疲れが引いていく。
「…先輩。私、夢を見ていたみたいです。ずっと暗い水の底に沈んでいて、誰も助けてくれないって思ってて…。でも、先輩の拳の熱さが、私を引っ張り上げてくれました」
「…太極拳は、気を回すのが仕事だからな。…悪くないだろ? 中国五千年の歴史も」
俺が冗談めかして言うと、桜はふふっと、鈴を転がすような声で笑った。
その笑い声を聞いた瞬間、俺の胸の中にあった転生者としての義務感のような重石が、すっと消えていくのを感じた。
「…良かったな、本当に」
俺は、自分でも驚くほど優しい声で呟いた。
原作の知識があろうとなかろうと、目の前のこの少女が笑っている。
それだけで、俺がこの世界に放り出された意味があった気がした。
「はい…。私、これから、やりたいことがたくさんあります。…料理も、ちゃんとお姉ちゃんに教わって…先輩に、今度こそ美味しいって言わせたいです」
「…ああ。期待してる。…でも、遠坂の料理はスパルタだぞ? 覚悟しとけよ」
「…佐藤、聞こえてるわよ」
ドアの影から、遠坂が顔を赤くして睨んでいる。
その後ろでは、士郎が苦笑しながら朝食のトレイを持っていた。
「…さて。聖杯戦争はまだ終わっちゃいないけどな。…今日は、とりあえずその朝飯を全部食え。…話はそれからだ」
俺は桜の頭を、今度は保護者としてではなく、友人として、ぽんぽんと軽く叩いた。
窓の外からは、冬木の街の日常の音が聞こえてくる。
俺の、そして桜の本当の人生は、この眩しい朝日の中から始まったのだ。
学校への登校路、俺は隣を歩く遠坂凛に問いかけた。
昨夜の騒動から一夜明け、俺たちは寝不足の体を引きずりながらも学生としての日常に戻っていた。
昼休み。俺は士郎と一緒に弓道場の近くを通りかかった。
いつもなら、間桐慎二が不遜な態度で部員を怒鳴り散らしているはずの時間だ。
「…静かだな、衛宮」
「ああ。間桐…慎二のやつ、今日は学校に来てないみたいだ。桜があんなことになって、あいつも動揺してるのか…それとも」
士郎が複雑な表情で道場を見つめる。
本来ならライダー(メデューサ)を連れて暴れているはずだった慎二だが、ライダー(マルタ)は俺の元にあり、桜は遠坂の屋敷にいる。
彼は今、ただの魔術の才能がない一般人として、空っぽの間桐邸に取り残されているはずだ。
「…ま、あいつのことは放っておけ。今は桜が安全なのが一番だ」
「そうだな。…佐藤、さっき桜と廊下ですれ違ったんだ。遠坂と一緒にいたけど、あいつ、今まで見たことないくらい明るい顔で笑ってたよ」
士郎が少し照れくさそうに笑う。
「『あ、衛宮先輩!』って大きな声で挨拶されてさ。…なんだか、俺まで嬉しくなった」
俺は、その言葉を聞いて心の底から安堵した。
桜が、普通の後輩として士郎に笑いかけられる。
放課後。
俺は一人、屋上で陳式太極拳の型をなぞっていた。
魔力はまだ空っぽに近いが、体を動かすことで気の巡りを整える。
「…静かすぎるのも、不気味なもんだけどな」
結界がないということは、この学校は安全な聖域になったわけではない。
キャスターや、バーサーカー、そしてあの黄金の英雄王…。
嵐の前の静けさ、という言葉が脳裏をよぎる。
その時、背後の空気がわずかに揺れた。
「――マスター。修練中、失礼します」
実体化したマルタが、俺の隣に立った。
彼女の聖女としての直感が、街の端々で蠢く不穏な魔力を敏感に察知している。
「マルタ。…学校に異変はないか?」
「はい。学園内に邪悪な術式は見当たりません。…ですが、マスター。遠くで、非常に巨大な暴力がぶつかり合う気配がします。…おそらく、アインツベルンの巨人と、青い槍兵…ランサーですね」
「…始まったか」
俺は構えを解き、深く息を吐いた。
聖杯戦争の本流は止まらない。
「行こうか、マルタ。…桜を守るって決めたんだ。戦いからは逃げられない」
「はい。この鉄拳…いえ、主の加護。存分に振るわせていただきます!」
俺たちは、夕闇に染まり始めた冬木の街を見下ろした。
結界のない平和な学校を守り抜くための、本当の戦いが幕を開けようとしていた。
運命の歯車は、形を変えながらも残酷に噛み合い始めた。
その夜。
衛宮邸の蔵から放たれた目も眩むような黄金の光を、俺は遠坂の屋敷の屋上からマルタと共に目撃した。
「…召喚されましたね。清廉にして苛烈、騎士の王の霊基です」
マルタが静かに告げる。
士郎はついに、最強の守護者――セイバーを引き当てた。
俺たちが介入しても、彼が聖杯戦争という濁流に呑み込まれる運命までは変えられなかったらしい。
「…行くぞ、マルタ。士郎だけじゃ、あの雪の城の怪物を止めるのは荷が重すぎる」
冬木の住宅街。
街灯の下で、それは悪夢のような光景だった。
巨躯を誇る黒い獣――バーサーカー(ヘラクレス)が、その手に持つ巨大な斧剣を振り下ろす。
対峙するのは、召喚されたばかりで魔力供給が不安定なセイバー。
そして、後方で援護する遠坂凛とアーチャーだ。
「…ふふ、あははは! 殺しちゃえ、バーサーカー!」
銀髪の少女、イリヤスフィールが残酷に笑う。
「――そこまでです、幼き迷い子よ!」
凛とした声が夜空に響いた。
上空から飛び降りたマルタが、その白く細い拳に、物理法則を無視したほどの衝撃を纏わせる。
「鉄拳制裁(ハレルヤ)ッ!!」
ズドォォォォォン!!
マルタの拳が、バーサーカーの斧剣と真っ向から激突した。
火花が散り、アスファルトがクレーター状に陥没する。
あのギリシャ神話最強の英雄の怪力と、聖女の素手が、互角に拮抗していた。
「…なっ、素手でバーサーカーを止めたの!?」
凛が驚愕の声を上げる。
アーチャーですら、投影した双剣を構えたまま目を見開いた。
「遅れて済まない、遠坂。…衛宮、無事か!」
俺は太極拳の歩法で士郎の隣に滑り込んだ。
「佐藤! お前、そのサーヴァント…」
「…パワー勝負なら、うちの聖女様も負けてないぞ」
「…ライダー。助太刀、感謝します」
セイバーが、息を整えながらマルタに視線を送る。
「いいえ、主の羊たちを守るため、共にこの暴虐を鎮めましょう」
二人の英霊が並び立つ。
片や伝説の聖剣、片や悪竜をも平伏させる鉄拳。
バーサーカーは、初めて自分と力で渡り合える敵を前に、喉の奥で低く唸った。
「…つまんない。ライダーなんて聞いてなかったわ」
イリヤが不機嫌そうに唇を尖らせる。
だが、その視線は俺に向けられた。
「…お兄ちゃんたちの友達? 貴方の魔力、変な感じ。…実体がないのに、底なしの影みたい」
「…虚数だからな。あんたのバーサーカーがどれだけ硬くても、俺の影はすり抜けて、内側から叩き壊すぞ」
俺は陳式太極拳の予備動作――「起勢(きせい)」を取る。
18本の回路をフル稼働させ、虚数の魔力を拳に凝縮する。
相手は大英雄。普通なら絶望的な戦力差だ。
だが、今の俺には、守るべき「日常」がある。
「――セイバー、マルタ! 合わせてくれ! 一気に押し戻す!」
「了解した、マスター! ――征きます!」
「主よ、この一撃に勝利を! ――はぁああああっ!!」
月明かりの下、黄金の剣光と聖女の衝撃波、そして俺の虚数の拳が、黒い巨獣へと一斉に解き放たれた。
「…信じられない。付き合ってられないわ」
「…帰りましょうバーサーカー」
バーサーカーが闇の中へと撤退し、夜の静寂が戻ってきた。
衛宮邸の居間、畳の上に集まったのは俺、士郎、遠坂、そして三騎の英霊――セイバー、アーチャー、マルタだ。
「…さて。全員揃ったところで、隠し事はなしにしよう。特に、そこの騎士王(セイバー)様には耳の痛い話になるが」
俺はあえて、正面に座るセイバーを真っ直ぐに見据えた。
彼女は背筋を伸ばし、その翠の瞳に戸惑いと警戒を宿らせている。
「佐藤…? 聖杯について、何か重大な懸念があるというのですか」
「懸念どころじゃない。…断言する。冬木の聖杯は、とっくの昔に中身が腐りきってる。…中に入っているのは万能の願望機なんかじゃない。『この世全ての悪(アンリマユ)』という呪いの泥だ」
「なっ…!?」
遠坂が立ち上がり、士郎は言葉を失う。
俺は一呼吸置き、さらに踏み込んだ。
「証拠は、桜だ」
その名を出した瞬間、遠坂の顔が強張る。
「桜の体の中にいた蟲。あれはただの使い魔じゃない。聖杯の破片と繋がるための受信機だった。彼女を苗床にして、聖杯はあの泥を溢れさせようとしていたんだ。…昨日、俺たちが切り離したあのドロドロの魔力。あれを見て、まだ聖杯が清浄なものだと言い張れるか?」
「見ていないので何とも言えませんが事実だとすると…」
セイバーが唇を噛む。彼女にとって、聖杯は亡き祖国を救うための唯一の希望だ。
「ですが…それは間桐の魔術師が歪めた結果ではありませんか? 聖杯そのものが汚染されているなどと、にわかには…」
「…いや、佐藤の言う通りだ」
低く、冷めた声でアーチャーが口を開いた。
「私も確信がある。あの聖杯に願えば、救済ではなく破滅が訪れる。…王よ。貴女が求めるやり直しの願いを、あの泥がどう解釈するか想像がつかないのか?」
沈黙が流れる。
セイバーの拳が、膝の上で震えていた。
彼女が歩んできた苦難、抱えてきた理想。
それが呪いの種になると突きつけられ、彼女の霊基が揺らいでいる。
「…セイバー。俺も物語(原作知識)として、あんたが何を背負ってるかは知ってるつもりだ」
俺は立ち上がり、彼女の前に膝をついて目の高さを合わせた。
「でもな、桜を見てくれ。あいつはあの泥のせいで、人生を、心を、全部めちゃくちゃにされかけた。…あんたが守りたい人々の幸福の中に、あの少女は入っていないのか?」
「……」
「聖杯なんていらない。あんなもの、この街に…この世界に残しておいちゃいけないんだ。…俺の提案は一つ。この聖杯戦争を勝ち抜いて、最後の一人が聖杯を手にするんじゃない。…全員で、聖杯そのものを解体する」
「…解体、ですって? 佐藤、あんたそれがどれだけ大変なことか分かってるの!?」
遠坂が叫ぶが、その目はどうやってやるのと先を急かしている。
「遠坂の知識、士郎の剣、マルタの奇蹟、そして俺の虚数魔力。これだけ揃えば、大聖杯の根元を物理的、魔術的に叩き壊せるはずだ。…セイバー。あんたの聖剣は、泥を撒き散らすためじゃなく、災厄を断つためにあるはずだろ」
セイバーは長く、深い溜息をついた。
やがて、彼女はゆっくりと顔を上げ、かつての王としての威厳を取り戻した瞳で俺を見た。
「…認めましょう。人一人の人生をあのように蹂躙するものが、正しき奇蹟であるはずがない。…佐藤斗真。貴殿の提示する解体こそが、騎士の歩むべき道であると、私の剣が告げています」
「…決まりだな」
俺は士郎と拳を合わせた。
士郎は少し不安げながらも、力強く頷く。
「…わかった。俺も、聖杯なんていらない。…桜がもう二度と苦しまないように、全部終わらせよう」
冬木の夜空の下、異例の同盟が結ばれた。
優勝者を決めるための戦争は、今、この瞬間から大聖杯破壊作戦へと姿を変えたのだ。