聖杯解体という前代未聞の合意がなされた衛宮邸。
だが、その決意をあざ笑うかのように、冬木の夜気にはべっとりと湿った魔力が混じり始めていた。
深山町の山上に位置する柳洞寺。
その境内に潜む魔女――キャスター(メディア)は、水晶体に映るアパートの残骸と、遠坂の屋敷に集う面々を眺め、不敵に口角を上げた。
「…あら。あの子、間桐の操り人形かと思っていたけれど。まさかあんな異物が割り込んで、呪縛を焼き切ってしまうなんてね」
彼女の視線の先には、俺、佐藤斗真の姿があった。
虚数の魔力。それは神代の魔術師である彼女にとっても、計算外のノイズだ。
「キャスター。深追いは禁物だ。あのライダー(マルタ)…ただの英雄ではない。あれは、我らサーヴァントという枠組みを内側から破壊しかねない理を持っている」
影から現れたのは、アサシンのサーヴァントではない。
葛木宗一郎の傍らに立つ、青いタイツの槍兵――ランサー(クーフーリン)だった。
彼は言峰綺礼の命により、一時的にこの陣営と協力関係にある。
「分かっているわ。力押しをするほど私は愚かじゃない。…けれど、聖杯が汚染されているというのなら、話は別。あの娘――間桐桜の中にまだ残っている回路を奪えば、私が真の聖杯を編み直せるかもしれないわ」
キャスターの指先が、空中に魔法陣を描く。
彼女の狙いは、もはや聖杯戦争の勝利ではない。
聖杯そのものの再定義だ。
翌日。俺は学校の屋上で、マルタと共に昼食を摂っていた。
遠坂の屋敷に預けている桜の様子は、マルタの伝言によれば驚くほど安定しているとのことだが、俺の胸騒ぎは収まらない。
「…マスター。先ほどから、微かな『糸』が貴方に絡みつこうとしています」
マルタが箸を置き、鋭い視線を空に向けた。
「糸? キャスターか」
「はい。空間を転移させるための座標固定術式…。どうやら、彼らは貴方や桜さんを、この平穏から引き摺り出そうとしているようです」
俺は太極拳の呼吸で、体内の虚数魔力を薄く、広く展開した。
すると、目には見えない粘着質な魔力の糸が、俺の周囲を囲んでいるのが分かった。
「…上等だ。直接俺たちを誘い出そうってか」
「佐藤!」
そこへ、息を切らした士郎が駆け込んできた。
その後ろには、苦虫を噛み潰したような顔の遠坂もいる。
「どうした、衛宮。そんなに慌てて」
「…柳洞寺だ。さっき、キャスターから直接『招待状』が届いた。…『聖杯を解体したいのなら、その鍵を持つ娘(桜)を連れてこい』って」
遠坂が、手元の通信用宝石を握りつぶす。
「完全にナメられてるわね。桜を餌に、私たちが揃って罠に飛び込むのを待ってるのよ。…でも、行かないわけにはいかない。あそこには、大聖杯へ繋がる地脈の結節点があるもの」
「…罠だと分かってて踏み抜くのは、太極拳の基本じゃないがな」
俺は立ち上がり、軽く肩を回した。
関節がパキパキと鳴る。昨夜の消耗は、マルタの奇蹟のおかげでほぼ完治している。
「マルタ。…今度は、魔女狩りだ。あんたの拳で、あの歪んだ神代の魔術をブチ壊せるか?」
「もちろんです、マスター。…迷える魔女に、正しい愛と物理の教えを授けて差し上げましょう」
マルタが拳を合わせると、衝撃波で屋上のフェンスが微かに震えた。
俺たちは、決戦の地となる柳洞寺へと視線を向けた。
聖杯解体への第一歩。それは、冬木で最も狡猾な魔術師との対決から始まる。
冬木の街を一望できる、柳洞寺の長い石段。
その中腹、不自然なほどの静寂が支配する踊り場に、「彼」はいた。
「――よう。意外と早かったな、マスターにサーヴァントの御一行さん」
青いタイツのような装束を翻し、真紅の魔槍を肩に担いで不敵に笑う男。
ケルトの英雄、ランサー(クーフーリン)だ。
その視線は真っ直ぐに俺とマルタに向けられていた。
「ランサー…。キャスターの門番か?」
「ま、契約のついでだ。あのアバズレ…失礼、奥様は奥で忙しくしててな。ここから先は『通すな』って仰せだ。…特に、そこの姐さん。あんた、昨日バーサーカーとやり合ったってな? 槍使いの血が騒いで仕方ねえんだわ」
ランサーが槍を構える。
その瞬間、空気が物理的な圧力となって押し寄せてきた。
神代の英雄が放つ、純粋な殺気。
「…マスター。この男、昨日までの敵とは毛色が違います。淀みのない、純粋なる武の体現者です」
マルタが俺の前に一歩踏み出し、戦闘態勢を取る。
「ここは私とマスターの仕事です。貴方方は、奥の魔女を!」
「…っ、分かったわ! 行くわよ、衛宮、アーチャー!」
遠坂が弾かれたように階段を駆け上がる。
ランサーは一瞬、彼女らを追う仕草を見せたが、俺の虚数の魔力が彼の足元を影のように浸食したのを感じ、足を止めた。
「ほう。…ガキ、お前。ただの一般人転生者じゃねえな。その影、踏み込むと底が見えねえ」
「趣味で太極拳やってる、ただの高校生だよ。…間桐のクソジジイをぶっ飛ばした勢いが、まだ残ってるんだ。…マルタ!」
「――承知ッ!!」
マルタが弾丸のように飛び出した。
武器は持たない。
だが、その拳こそが聖女の法だ。
「ハァアアアッ!」
「おっとぉ!」
ランサーの突きを、マルタは最低限の動きでかわし、その懐へ潜り込む。
太極拳の「揉手(じゅうしゅ)」の要領。
相手の槍の柄に手を添え、その力を螺旋の動きで無力化しながら、もう片方の拳をランサーの腹部へ叩き込む。
ドゴォッ!!
「…ッ、重てえな、おい!」
ランサーが横飛びに退避する。
衝撃波で石段が粉砕された。
だが、俺も止まらない。
俺は18本の回路を回し、ランサーの退路を限定するように虚数の衝撃波を地面から這わせる。
「――『歩法・縮地』!」
一気に距離を詰め、ランサーの死角から掌底を放つ。
「『単鞭(たんべん)』!」
「チッ、小癪な真似を!」
ランサーが槍を石突で振り回し、俺の掌底を弾く。
金属音が響く。俺の拳は虚数の魔力で硬化させていたが、それでも骨を伝う衝撃は凄まじい。
「マスター、行ってください! ――主よ、悪しき牙を砕く力を!」
マルタの背後に、巨大なタラスクの幻影が重なる。
彼女の拳が黄金の光を放ち、ランサーの魔槍ゲイ・ボルクと正面から衝突した。
「あはは! 楽しいぜ、聖女様! だが、俺の槍は避けるだけじゃ防げねえぞ!」
「避けるつもりはありません。…全て、この愛(物理)で受け止めます!」
石段全体が震動し、火花が夜の闇を照らす。
俺は、二人の超常的な戦闘を見守りながら、奥に潜むキャスターの糸を探った。
ここを抜ければ、聖杯解体のための中枢だ。
(…待ってろ、桜。今、この腐った儀式の元栓を閉めてやる)
石段を震わせるマルタとランサーの激突。
その轟音を背中に聞きながら、俺は一人、柳洞寺の本堂へと続く歪んだ空間の前に立っていた。
キャスターが張り巡らせた、重層的な防衛結界。
普通なら魔術師が何年もかけて解読する代物だが、俺にはそんな時間は必要ない。
「…悪いな、キャスター。俺の属性は虚数だ。実在する魔術の論理なんて、俺の前では幽霊みたいなもんだよ」
俺は12本のメイン回路と6本のサブ回路、計18本の魔術回路を限界まで逆流させる。
右手に凝縮されたのは、光を吸い込むような漆黒の魔力。
陳式太極拳の「震脚」と共に、俺はその拳を結界の「継ぎ目」へと叩き込んだ。
「――『開門(かいもん)』ッ!!」
パリン、と硝子が割れるような乾いた音が響く。
神代の魔術師が誇る鉄壁の防御が、虚数の浸食によって「存在しなかったこと」に書き換えられ、崩壊していく。
「…なんですって!? 私の結界を、力任せに…いいえ、存在そのものを消したというの!?」
本堂の奥、大聖杯へと繋がる儀式場で、キャスター(メディア)が驚愕に目を見開いた。
彼女の目の前には、遠坂と士郎、そしてセイバーとアーチャーが既に陣取っている。
だが、彼女が最も警戒すべきは、最短距離を「最短ではない方法(虚数空間)」で突破してきた俺だった。
「よう、奥様。…不法侵入で悪かったな」
俺は肩で息をしながら、キャスターの正面に現れた。
虚数魔力の酷使で、視界がチカチカと明滅する。
だが、拳の感覚だけは研ぎ澄まされていた。
「佐藤…! あんた、無茶しすぎよ!」
遠坂が叫ぶが、その顔にはどこか信頼の色がある。
「小賢しい小僧が…。間桐の娘を救った程度で、この私に勝てると思っているの? 聖杯は私のもの。汚染されているというのなら、私が白く塗り潰して見せるわ!」
キャスターが杖を掲げる。
空間が歪み、無数の魔弾が雨のように降り注ぐ。
神代の魔術――一発一発が、現代の最高位の魔術師の全力投球に匹敵する威力。
「セイバー、士郎を頼む! アーチャー、遠坂を! ――キャスターは、俺が叩く!」
俺は太極拳の「閃展(せんてん)」を使い、最小限の動きで魔弾の隙間を縫う。
普通の魔術師なら一瞬で蒸発する火力の渦。
だが、俺の虚数魔力は、触れる魔弾のベクトルを僅かにずらし、空振りさせる。
「――『青龍探爪(せいりゅうたんそう)』!」
一気に懐へ潜り込み、キャスターの喉元へ鋭い手刀を突き出す。
「くっ…近接戦などッ!」
キャスターが空間転移で逃れようとするが、俺の虚数魔力が彼女の転移先を影のように先回りして封じる。
「逃がさないぜ、魔女さん。…あんたの不幸な身の上には同情するが、桜をまた道具にしようってんなら、その根性ごと叩き直してやる!」
俺の拳に、昨日臓硯を粉砕した浸透勁が宿る。
ターゲットはキャスター本人ではない。
彼女が操る柳洞寺の地脈そのものだ。
「――そこだッ!!」
俺が床に拳を叩きつけた瞬間、柳洞寺全体が大きく揺れた。
キャスターが地脈から汲み上げていた膨大な魔力の供給路が、虚数の楔によって一時的に切断される。
「魔力が…途切れた!? 嘘でしょう!?」
絶好の好機。
「セイバー、アーチャー!! ――今だ!!」
俺の叫びに呼応し、黄金の剣と白銀の双剣が、動揺した魔女へと一斉に解き放たれた。
セイバーの一撃とアーチャーの双剣が、魔力供給を絶たれたキャスターの防壁を粉砕した。
「…そんな、私が、こんな現代の羽虫に…っ!」
キャスターは血を吐きながら後退し、空間転移で柳洞寺の奥へと消えた。
深追いする余裕はない。
俺の虚数魔力の楔によって地脈が歪み、本堂の床に底なしの亀裂が走り始めていたからだ。
「佐藤! 床が…!」
士郎が叫ぶ。
亀裂からは、どろりとした、どす黒い魔力が霧となって溢れ出していた。
それは昨日、桜の体内に感じたものと同じ――「この世全ての悪(アンリマユ)」の予兆だ。
「…ここが、入り口だ。大聖杯がある地下空洞へのな」
俺は膝をつき、激しく荒い息を吐いた。
18本の回路がオーバーヒート寸前で悲鳴を上げている。
そこへ、ボロボロになりながらもランサーを振り切ったマルタが駆け寄ってきた。
「マスター! 無事ですか!?」
「ああ…なんとかな。マルタ、悪いが肩を貸してくれ。…これからが、本当の掃除の時間だ」
石段の向こうから、優雅に、かつ傲岸不遜に歩み寄る二つの影。
黄金の甲冑を纏った「人類最古の王」ギルガメッシュと、法衣を翻し、冷徹な愉悦を瞳に宿した聖職者、言峰綺礼だ。
「…ふん。雑種どもが、身の程もわきまえずに聖杯を弄ぶか。…その汚物、我の所有物であることを忘れたか?」
ギルガメッシュの背後の空間が、ゆらりと揺れる。
一、二…ではない。
数十、数百の宝具の原典が、黄金の波紋となってその姿を現した。
「佐藤斗真。…君の虚数の揺らぎは、この街に余計なノイズをもたらした。…桜という苗床を奪い、聖杯を解体しようという不遜。…その報い、ここで受けてもらう」
言峰の指の間には、「黒鍵」が挟まれている。
彼らの目的は、解体ではなく完成。
汚泥に満ちた聖杯を、そのままこの世に解き放つことだ。
「…最悪のタイミングで、最悪の連中が来たな」
俺は18本の魔術回路を最大出力で叩き起こした。
横に立つマルタが、かつてないほどの神聖な気迫を放つ。
「マスター、お下がりください。…この黄金の王、その魂に宿る傲慢…主の敵として、これほど相応しい相手もいません!」
「セイバー、士郎! 言峰は任せる! ギルガメッシュの宝具の雨は、俺とマルタで受け流す!」
「――わかった! 投影、開始(トレース・オン)!!」
士郎が叫び、無限の剣製(アンリミテッドブレイドワークス)の片鱗を見せるように、無数の模造刀を周囲に展開する。
「死ね、雑種!」
ギルガメッシュの合図と共に、音速を超える宝具の雨が降り注ぐ。
普通なら、一撃でこの山ごと消し飛ぶ火力だ。
「――マルタ! 行けッ!!」
「――はぁああああっ!!」
マルタが、その聖なる衝撃波を拳に纏わせ、弾丸のように飛び出した。
飛来する宝具を、彼女は素手で、あるいは肘の「化勁(かけい)」で叩き落とし、弾き飛ばす。
さらに、俺は彼女の背後から虚数の魔力を展開した。
「…『纏絲勁(てんしけい)』・虚数浸食!」
空間そのものを虚数で歪ませ、飛来する宝具の座標を僅かにずらす。
ギルガメッシュの狙いが、俺の影に触れた瞬間、その軌道が螺旋を描いて明後日の方向へと逸れていく。
「…ほう? 我の財宝を受け流すか。面白い。…だが、これならばどうだ!」
空間が裂け、今度は槍、鎌、鎖といった絡め手の宝具が放たれる。
だが、俺は太極拳の「雲手(うんしゅ)」の要領で、両腕を大きく回した。
「あんたの宝具は確かに強い。…だが、攻撃が単調なんだよ! ――マルタ、合わせてくれ!」
「――承知! ――『不変なる愛』!!」
マルタの拳が黄金の鎧を打ち据え、俺の虚数の掌底がギルガメッシュの足元を影で拘束する。
神話の王が、初めてその傲慢な顔に「驚愕」の色を浮かべた。
一方、言峰は士郎の泥をも厭わぬ執念とセイバーの剣技に追い詰められていた。
「…ふむ。計算外だったな。…佐藤斗真、君という存在そのものが、この聖杯戦争の決定的なバグだったわけだ」
言峰が最後にそう呟き、黒鍵を投げ捨てて撤退の構えを見せる。
ギルガメッシュも、自身の鎧に付いた僅かな凹み(マルタの拳の跡)を不快そうに見つめ、忌々しげに鼻を鳴らした。
「…興が削がれた。…雑種。その汚物と共に、泥に塗れて消えるがいい」
黄金の光と共に、王は去った。
彼らにとって、この場の勝利よりも自分の美学が汚されることの方が耐え難かったのだろう。
「…助かったな。…衛宮、遠坂。…今度こそ、最後だ」
俺はボロボロになった手を握りしめ、地下への階段を指差した。
この乱入劇すらも、今の俺たちにとっては「絆」を深めるためのスパイスに過ぎなかった。
俺たちは、崩落した床の下に広がる巨大な地下空洞へと足を踏み入れた。
そこは、冬木の地脈の結節点。
数十年、数百年の時をかけて願いを呪いへと変換し続けてきた、巨大な魔術炉心。
中心に鎮座するのは、おぞましい肉塊のような、あるいは巨大な心臓のような聖杯の残骸。
そこから溢れ出す黒い泥が、滝のように周囲を浸食していた。
「…これが、聖杯の正体。…なんて醜悪な」
セイバーが、黄金の剣を握りしめたまま絶句する。
彼女が求めていた奇蹟の成れの果てが、この地獄絵図だった。
「遠坂。…設計図は頭に入ってるな?」
俺は震える手で、ポケットから予備の宝石を取り出し、彼女に渡した。
「ええ。…ここが解体地点。アーチャーが構造を解析して、私がこの宝石を触媒に魔術式の逆回転をかける。…でも、それには膨大な時間がかかるわ。その間、この泥の防衛本能が黙っちゃいないわよ」
遠坂の言葉に応じるように、周囲の泥が盛り上がり、形を成し始めた。
一体、二体…ではない。
数えきれないほどの黒い影の軍勢。
それは聖杯を守るための、名もなき亡霊たちの波だ。
「…ふん。ようやく俺の出番か」
士郎が、その手に干将・莫耶を投影する。
「佐藤。…お前は遠坂の隣で、虚数魔力の中和に専念してくれ。…こいつらは、俺とセイバー、それにマルタさんで食い止める!」
「…頼んだぞ、士郎。…お前がこいつらを斬るたびに、桜の未来が一つずつ手に入っていくんだ。…負けるなよ」
「ああ。…投影、開始(トレース・オン)!!」
士郎の叫びと共に、地下空洞で最後にして最大の戦いが始まった。
士郎、セイバー、マルタ、そしてアーチャーが、四方から迫る泥の軍勢を迎え撃つ。
その中心で、俺は遠坂と背中を合わせ、残った全ての魔力を右手に集中させた。
「――『虚数潜航』。…さあ、寝ぼけた奇蹟を叩き起こして、永遠に眠らせてやるよ」
俺の指先が、大聖杯の核へと触れた。