「――ッ、熱い…!」
大聖杯の「核」に触れた瞬間、俺の意識は冬木の地下空洞から切り離された。
視界を埋め尽くすのは、赤黒い、粘着質な「悪意」の海。
そこには、かつて桜を蝕んでいたものの数万倍に及ぶ、濃密な呪いが渦巻いている。
『…なぜ。…なぜ、終わらせようとする。…願え。…呪え。…それが、人間の本性だろう?』
実体のない声が、俺の脳髄を直接かき混ぜる。
現れたのは、ボロ布を纏った、影のような青年の幻影。
「…あいにくだな。俺はそんな高尚な哲学に付き合うほど、暇じゃないんだ。…太極拳の基本はな、無駄な力を抜くことだ。…あんたのその巨大すぎる『呪い』も、俺にとってはただの『澱み』でしかない」
俺は精神世界の中で、ゆっくりと腰を落とし、構えを取った。
現実の体は遠坂に支えられているだろう。だが、ここでの俺は、18本の回路を一本の太い「柱」へと練り上げた、純粋な魔力体だ。
『…虚数の影か。…存在しないはずのものが、私に触れるというのか』
「存在しないからこそ、何にでもなれるんだよ。…行くぞ、アンリマユ!」
黒い泥が、巨大な津波となって押し寄せる。
俺は一歩踏み込み、その波の「芯」を捉えた。
「――『倒巻肱(とうかんご)』!」
螺旋の動きで泥の圧力を後方へ受け流し、その勢いをそのまま利用して、虚数の衝撃をアンリマユの胸元へ叩き込む。
物理的なダメージではない。これは「存在の否定」だ。
『…っ、がああああッ!?』
「あんたは、誰かの願いで『悪』にされた。…だったら、俺がその『定義』を、虚数の闇で塗り潰してやる!」
俺の拳から、これまで溜め込んできた全ての虚数魔力が溢れ出す。
それは、あらゆる色を吸い込み、無へと帰す絶対的な影。
一方、地上では士郎たちが限界を超えた戦いを繰り広げていた。
「――『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』ッ!!」
セイバーの聖剣が泥の軍勢を薙ぎ払い、道を作る。
「佐藤! 終わらせなさい!! ――『全工程完了』ッ!!」
遠坂の絶叫と共に、大聖杯に打ち込まれた宝石の楔が、魔術式を逆回転させ、炉心を崩壊へと導く。
「…はぁ、はぁ…。…せい、のッ!!」
精神世界で、俺は最後の一撃を放った。
「――『十字手(じゅうじしゅ)』!!」
虚数と実数が交差し、アンリマユの幻影が、大聖杯の炉心ごと霧散していく。
呪いの海が引き、代わりにそこには、何も残らない虚無だけが広がった。
衝撃波と共に、地下空洞が激しく崩落し始める。
俺の意識が現実に戻ると、そこには倒れそうになる俺を支えるマルタと、ボロボロになりながらも笑っている士郎、そして涙を拭う遠坂の姿があった。
「…終わった、のか」
「ええ。…大聖杯は、今、この世界から完全に消滅したわ」
遠坂が、崩れ去る心臓部を見つめて呟く。
「…佐藤、ありがとう。…これで、本当に、桜は…」
士郎が、その場に座り込んだ。
空洞の天井が崩れ、そこから差し込んできたのは、本物の朝日の光だった。
冬木の夜が、今度こそ完全に、終わりを告げたのだ。
大聖杯の崩壊と共に、冬木の霊脈を満たしていた膨大な魔力が霧散していく。
それは同時に、この現世に留まるための錨を失ったサーヴァントたちの、別れの時を意味していた。
崩れ落ちた地下空洞の出口、朝日に照らされた丘の上。
そこには、透き通るような光の粒子を纏い始めた三騎の英霊が立っていた。
「…やっぱり、お別れなんだな。マルタ」
俺は、隣に立つ青い衣の聖女を見上げた。彼女の輪郭は、既に陽炎のように揺らぎ始めている。
「はい、マスター。…契約の鎖が、主の御許へと解けていくのを感じます。…寂しいですが、これが正しい『戦いの終わり』の形です」
マルタは、いつもの凛とした微笑みを俺に向けた。
その手は、数々の敵を粉砕し、俺を支え、桜を救った力強い武の拳。
彼女は俺の前に立つと、太極拳の合掌に近い仕草で、深く頭を下げた。
「佐藤斗真。…貴方の拳には、迷いがありましたが…最後には、愛する者を守るための確かな芯が通っていました。…素晴らしい演武を見せていただきました。感謝を」
「…感謝するのはこっちだよ。あんたがいなきゃ、俺は今頃、影に呑まれて消えてた。…ありがとな、マルタ。…あんたは、最高の聖女で、最高のライダーだったよ」
「ふふっ。…次に会う時は、もう少し、力を抜くことを覚えなさい。…主の加護が、貴方と桜さんに、永遠にありますように」
彼女が最後に俺の肩をポン、と叩いた。
その温かな感触を残したまま、マルタの姿は無数の黄金の粒子となって、朝の光に溶けていった。
「…佐藤斗真」
次に声をかけてきたのは、セイバーだった。
彼女もまた、清廉な光の中に消えようとしている。
だが、召喚された時のような悲痛な焦燥は、もうその瞳にはない。
「貴殿の示した『解体』という結末。…私は、それを受け入れます。…国を救うことは叶いませんでしたが、一人の少女の絶望を断ち切った。…それこそが、私の剣の真実であると、今は誇れます。…さらばです、虚数の魔術師」
彼女は士郎に短く言葉を交わすと、王としての礼を尽くし、静かに消滅した。
そして、少し離れた場所に立っていたアーチャー。
彼は、最後まで不機嫌な保護者のような顔で、こちらを眺めていた。
「…フン。理想だけでは救えぬものを、理屈と拳で抉じ開けたか。…佐藤、貴様の虚数というノイズが、この結末の歪みを正したことだけは認めてやろう」
「…アーチャー。あんたにも、世話になったな。…ルールブレイカー、助かったよ」
「礼には及ばん。…佐藤斗真。貴様は、せいぜいその無駄なお節介を、今度は自分の幸せのために使うんだな」
皮肉を吐き捨て、赤い外套が風に舞う。
最後に一瞬だけ、彼は俺たちを見て、少しだけ満足そうに口角を上げた。
三騎の気配が完全に消えた。
残されたのは、ボロボロになった俺と士郎、そして遠坂凛。
そして、少し離れた場所で、俺たちの無事を祈るように待っていた桜。
「…終わったな。本当に」
士郎が、空っぽになった自分の手を見つめて呟く。
「…ええ。聖杯戦争は、これでおしまい。…さて、佐藤。あんた、これからどうするの?」
遠坂が、赤くなった目をこすりながら俺を見た。
「どうするって、決まってるだろ。…学校行って、太極拳練って、…桜が作った焦げてない飯を食う。…それだけだよ」
俺は、駆け寄ってくる桜に向かって、大きく手を振った。
魔術師の物語は終わった。
けれど、俺たちの一般人としての、少しだけ特別な日常は、今、始まったばかりだ。
数日後。
俺は新しく借りた、日当たりのいいアパートの窓から、冬木の街を眺めていた。
隣のキッチンでは、遠坂の厳しい指導を乗り越えた桜が、少し得意げにエプロン姿で立っている。
「…先輩! 朝ごはん、できましたよ。今日は…焦げてませんから!」
「ああ。…今行くよ」
俺は、懐で眠る18本の回路を、そっと鎮めた。
魔術師でも、転生者でもない。
ただの「佐藤斗真」としての日常が、ここから始まろうとしていた。
聖杯戦争が終結して一ヶ月。
冬木市の日常は、驚くほど平穏に取り戻されていた。
新しく借りた日当たりの良いアパート(今度は壁に穴も開いていないし、家賃もそこそこだ)のベランダで、俺は独り、陳式太極拳の「単鞭」の型をなぞっていた。
回路は変わらず18本。
虚数の魔力も健在だが、今はただの健康法として気を回している。
「…ふぅ」
一通りの型を終え、俺は手すりに寄りかかって、沈みゆく夕日を眺めた。
隣の衛宮邸からは、今日も今日とて賑やかな声が聞こえてくる。
遠坂凛が「衛宮くん、その火加減じゃ甘いわよ!」と怒鳴り、士郎が「分かってるって、遠坂!」と返し、そして…。
「…はぁ」
俺は、思わず深い溜息を吐き出した。
脳裏をよぎるのは、例のあの胡散臭いオカルト雑誌の裏表紙だ。
『聖杯戦争に参加したら彼女ができました!』
「…嘘じゃねえかッ!!」
俺は思わず、夕日に向かって魂の叫びをぶちまけた。
いや、わかっている。
状況は劇的に改善した。
桜は間桐の呪縛から解き放たれ、今は遠坂の屋敷で(たまに衛宮邸に料理を習いに来ながら)元気に笑っている。
士郎は相変わらずのお節介焼きだが、セイバーとの別れを経て、少しだけ大人になった。
俺自身、死にかけることもなく、五体満足で生き残った。
だが、だ。
「…なんで俺、未だに一人でコンビニ弁当食ってんだよ」
桜は、確かに俺を慕ってくれている。
「先輩、今日はこれを作ってみたんです!」と弁当を持ってきてくれたりもする。
だが、その視線の端には、いつも命の恩人としての過剰な敬意や、あるいは一緒に地獄を潜り抜けた士郎や遠坂への家族愛が混じっている。
…何というか、こう、甘酸っぱい男女の仲というよりは、『戦友(とも)』としての絆が強すぎて、付け入る隙が一切ないのだ。
「マルタさんも『主の加護を』とか言って消えちゃったし…。アーチャーに至っては『自分の幸せのために使え』だぁ? こちとらそのために虚数魔力でドロドロの泥と戦ったんだよ!」
結局、俺は凄腕の太極拳使いで聖杯を解体した立役者という、一般人としては盛りすぎな肩書きを手に入れただけで、肝心の彼女というリターンだけが未実装のままだ。
「…佐藤先輩?」
不意に、下から声がした。
見下ろすと、買い物袋を抱えた桜が、不思議そうにこちらを見上げている。
「そんなところで、何を叫んでいらしたんですか?」
「あ、いや…。…なんでもない。ちょっと、気の練り方が足りないかなって思ってさ」
「そうですか? 先輩の太極拳、私は世界一格好いいと思ってますよ。…あ、そうだ。今日、遠坂さんと一緒にたくさん肉じゃがを作ったんです。…一人じゃ食べきれないので、もしよかったら、今から…」
桜が、少しだけ頬を染めて、はにかむように微笑んだ。
その表情は、かつての死んだ瞳とは似ても似つかない、春の陽だまりのような温かさだった。
「……」
俺は、一瞬だけ言葉に詰まった。
…まあ、いい。
雑誌の広告にあったような即席の彼女は手に入らなかったが。
こうして、夕暮れ時に笑顔で夕飯を誘ってくれる誰かがいる。
その日常を抉じ開けたのは、間違いなく俺の拳だ。
「…おう。今すぐ行くよ、桜。…焦げてないんだな?」
「もう! 失礼ですよ、先輩!」
ぷう、と頬を膨らませる桜を見て、俺は苦笑いしながらベランダを後にした。
彼女ができるまでには、まだ虚数の距離があるかもしれないが。
とりあえず、今日の晩飯はコンビニ弁当じゃなさそうだ。
「…ま、悪くないか。…ありがとな、マルタ」
俺は空に向かって小さく呟き、階段を駆け下りた。