イースタン・アーカイブ ~ファンタズム・ロータス~ 作:hh9528
「はぁっ…はぁ…。」
少女が走る。
何かがおかしい。震える腕を強く握りしめ、一人の少女は必死に木陰に隠れて呟いた。
こんなの、絶対におかしい。
荒い息を極力殺しながらも、怯える体は真冬のようだった。
空に長く掛かる黄昏の下、ろうそくの火が揺らぐように影が伸びたり縮んだりして踊っている。
永遠の黄昏が放つ淡い橙色のあざ笑いが、直接耳に届くようだった。
木陰から勇気を振り絞って顔を出したが、顔色はさらに蒼白になるだけだった。
黄金色の野原に揺らめく陽炎。まるで闇が実体化して周囲を吸い込みそうな恐怖。
少女は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちた。
ー
殺伐とした雪原。人影のない死の地にぽつんと立つ古い建築物。
幽霊でも出そうな遥かなる夕闇の下、人の声そのものが異質であった。
常識を打ち破るその声の主は、百鬼夜行連合学院・花鳥風月部のコクリコだった。
「失望したわ。風流を汚したばかりか、皆の顔に泥まで塗るとは。」
事の発端は単なる過ちだったのかもしれないし、過度な欲望だったのかもしれない。
理由がどうであれ、花鳥風月部の部長・コクリコは、最後に見る顔に軽蔑と無関心を浮かべたまま背を向けた。その視線の先では、名も無き花鳥風月部の落ちこぼれが地面に額を擦りつけ、慈悲を乞うていた。
「コクリコ様…!どうか、お願いです…。もう一度だけチャンスを…!」
「醜いわね。」
冷酷にコクリコと呼ばれる、黒い花魁風の女性が身を翻した。
無数の手が伸びてくる。体を強く掴み、奈落へと引き摺り込む。昼と夜が交差する隙間へ。
少女は泣き叫びながら黄昏へと引き摺り込まれた。指先が少女の目を覆い、甘い声が囁くと、少女は気を失い深淵へと吸い込まれていった。
少女は、黄昏を苦痛に満ちた地獄だと思っていた。
しかし、目を開けて見た風景は、ここが黄昏の中であることを忘れるほど穏やかだった。
微かに掛かる夕暮れの太陽は、どこか昔の思い出を現像したような温もりがあり、黄金色に染まった稲と葦の海は微かな風に揺らいでいた。
少女が恐怖から抜け出すのに時間はかからなかった。地面に手をついて立ち上がり、制服のあちこちについた土を払い落とす。カチャリ。スリングで固定した古い銃が、ここが単なる妄想や幻覚ではないことを教えてくれるようだった。
「実る稲…。そして葦原…。さらに、永遠に続く不吉な…?黄昏…!ここが、あの…『遠野(とおの)』?」
怪談の起源、怪異の原型。
妖怪たちの地と呼ばれる伝説の地。少女はその美しさに短く感嘆した後、すぐに何かを決心したような表情になった。
妖怪が怪異の原型であるならば、必ずや妖怪の方が怪談よりも強いはずだ。そして、自分が怪談を使役出来るように、妖怪もまた操ることができるはずだと。
漠然と、無限に広がる黄金色の野原に僅かな恐怖を抱きながら、少女は黄昏を横切って走り出した。
ー
夢の境界にて。
陽炎が立つように、細心に境界の線を指先で弾けば、森羅万象が花開き、雨粒の下の波紋のように散ってはまた咲く。
幻想郷の均衡、人間と妖怪、神秘と恐怖。あるべき場所にある人妖と神。忘れられた者たちの…。
八雲 紫は首を傾げた。忘れられた者たちの。その後は?
不自然に切り取られた記憶に、紫は足を組んで座る。「隙間(スキマ)」には上下左右の概念がないため、まるで宇宙空間を自由飛行するように。
八雲紫がここにどれだけいようと、外の時間は長く流れていないはずだが、疲れを感じていたのだろうか?
八雲 紫は目を開けた。
そして、八雲 紫は息を呑んだ。初めて見る光景。まるで無限に広がる黄金の海に剥製にされた黄昏。初めて嗅ぐ匂い。見知らぬ場所。
『…次元迷子?座標エラー?夢の世界の心象空間…?』
八雲 紫は冷静になろうと集中した。しかし、人差し指を軽く噛みながら指先で空間を開こうとしたものの、微かに震えていた。
ジッパーを開けるように、漆黒の境界が少しずつ裂ける間に入ってくる情報。そのどれもが、見知らぬものばかりだった。
空間の隙間から吹く風の中には、忌々しい火薬の匂いと、青臭い人間の気配しかなかった。学校、学院、学び…。そしてそれらが見えざる手を伸ばすように、八雲 紫に飛びかかってくるという直感がした。
八雲 紫は銃弾を避けるように急いで「スキマ」を閉じ、体を大きく反らした。今のものは?何かが明確に自分を狙っている?触れていれば間違いなく何かが大きく狂っていたはずだという、妖怪としての生存本能が心臓を強く打ち鳴らしていた。
流れる冷や汗、湧き上がり始める怒り。直感的に脳裏を掠める一つの生存ルール。
能力を使うな。
八雲 紫はこの訳の分からない漂流に当惑していた。そして、その静寂を破ったのもまた、あどけない声だった。
「やっと見つけた…!妖怪…!あれ?」
手入れの行き届いていない障子紙の札と、骨董品のような筆を握りしめ、いつか見たような古い様式の制服を着た子供。
まるでおもちゃを見つけたようにはしゃぐ声の子供の頭上には、淡い光輪(ヘイロー)が座標を無視してぷかぷかと浮かんでいた。
八雲 紫はゆっくりと姿勢を直し、音のした方へと振り向く。
冷静に。刺激して良いことはないと、情報を集めるために。自分を辛うじて落ち着かせ、自然な笑みを浮かべて答えようとした瞬間、その女の子は唐突に言葉を続けた。
「これで…。これを、妖怪を使役すれば、コクリコ様もまた私を認めてくれる!さあ…。大人しくしなさい、妖怪!」
使役?妖怪を?この私を?
八雲 紫は耳を疑った。彼女が自分を知らないということはあり得る。
しかし、無知は免罪符にはならない。相応の代償を払うべきだった。だが…情報を収集しなければならないのに…。純真な人間の生徒の楽天的な雰囲気が、先ほどまで自分を縛り付けようとした手と重なって見えた。
妖怪のアイデンティティを強制的に抉り取る、無礼極まりない文法が紫の脳裏を掠める。
身の程も知らず、どこに触れようとしているのかも知らず。誰を前にしているのかも分からない阿呆に。状況も相まって、八雲 紫の理性が徐々に沸騰し始めた。
すでに心を満たしていた当惑と怒りは、無礼さに触れて急速に膨張する水蒸気のように、理性を吹き飛ばすには十分だった。
ザアァァァッ!
柔らかな風が黄金の野を叩き、銃口から吹き出す橙色の光は黄昏に溶け、銃声すらも掻き消される。阿鼻叫喚。凄惨な悲鳴だけが響き渡った。
揺らめく影。無数の瞳が絶えず少女を見つめては消える幻覚のような怪現象。少女は紙も筆も投げ捨てて走った。私が望んだのはこんなことじゃなかったのに。何かが間違っている。
少しの慰めにもならない古い銃だけを強く抱きしめ、少女は木陰から恐る恐る顔を出した。
黄金色の瞳。逆光を受けながらも影を貫き揺らめく、明星のような視線。冷たく、しかし断固たる怒り。人の形をした妖怪はもう追ってくる気配はなかったが、見つめられるだけで精神が陽炎のように散ってしまいそうな恐怖に、少女は素早く姿勢を直し、地面に這いつくばった。カサッ…。カサッ…。這って逃げる。
「威勢が良かったのは最初だけね。お嬢ちゃん」
じわり。前に踏み出した腕に軽い体重が乗しかかり、少女はそのまま硬直した。ゆっくりと上を見上げると、黄金色の瞳が影を貫いて少女を見つめていた。少女は冷や汗を流しながら素早く頭を下げ、戦慄する。本当に殺されるのではないか。その恐怖に彼女は息をすることすらままならなかった。
「ごめんなさい…。ごめんなさい…。許して…」
消え入るような声に、八雲 紫はしばらく見つめた後、体の力を抜いて足を退けた。
吹いてくる風に込められた青春の『テクスチャ』が、まるで自分に「そうしないでくれ」と訴えかけているような気がした。
不快な気持ちも、また人間一人の命などどうでもいいと言うように、紫の表情はすぐに冷めた鋼のように冷たくなった。
同様に、ここでの腹いせは何も生み出さない無意味なことだと判断し、八雲 紫は彼女が逃げるのを放置することに決めた。
「帰りなさい。青空の下へ。そして二度と、遊び半分で帳(とばり)を捲(めく)らないことね」
先ほどまで吹き荒れる嵐のように激しかった怒りが一息で止み、冷たい声が響く。少女はその言葉を魂に刻み込むようにガタガタと震えながら、無我夢中で走った。
ついた泥も、汗で張り付いた髪も気にすることなく、ただ無我夢中で。この揺らめく黄昏の影から反対の方向へとひたすらに。そして、酷い吐き気を感じた頃には…。
百鬼夜行自治区。田舎の中の田舎。しかし、人の気配がまだ残る村の入り口へと出ていた。
少女は喜びと恐怖に息を荒げながら、自分が見ているものが果たして現実なのかを噛み締めていた。錯乱交じりの鋭い声で悲鳴を上げながら歓喜した。
黄昏からの生還、妖怪の実存、何よりもそれらから無事であるという喜び。
「はぁ、はぁ…!やっぱり噂は本当だったんだ!『影の王』を!『黄昏の主』を、私ははっきりと見たわ!」
彼女の生還は、百鬼夜行に小さな噂の種を残すことになった。「影の王。黄昏の主」と呼ばれる極東の禁断の地。これが八雲 紫の、訳の分からない漂流記の最初の物語だった。