イースタン・アーカイブ ~ファンタズム・ロータス~ 作:hh9528
先生は体がだるい感覚の中で目を覚ました。
レイセンが置いていったモバイルバッテリーの残量は底をついていた。スマートフォンに繋がれた充電ケーブルを抜き、画面の時計を見る。午前6時。
真夏にしては少し肌寒い気温に、先生は身震いしながら鞄から洗面用具を取り出した。
思えば、ぐっすりと眠ることはできなかった。予想以上に、自然というのは昼夜を問わず騒がしかったのだ。
虫の音、鳥の声、獣の鳴き声……。単なる都市の慣れ親しんだ車の音とは違う、躍動感があった。
「ふぉ。」
顔に水をかけると、水道水では感じられない冷たさが睡魔を一気に吹き飛ばした。
不意打ちに近い驚きで完全に目が覚めた先生は、「今日も頑張ろう」と気合を入れ直した。
洗顔を終えて顔を拭いていると、ドアを叩く音が聞こえた。コンコン。防音など全く考慮されていない古い木造の建物には、音が何倍にも増幅されたように響き渡った。
「先生。もしかして、もう起きていますか?」
声の主はレイセンだった。
「うん。もう準備が終わるところだから、少し待っててくれる?」
「大丈夫です。さすが先生、勤勉ですね!」
弾んだ声のレイセンを待たせるのは申し訳なく思い、先生は急いでシャーレのロングコートを羽織り、慌ててネクタイを締めた。
そっとドアを開けると、昨日とは違う、きちんとした制服に身を包んだレイセンが、少し照れくさそうに前髪をいじりながら先生を待っていた。
「待たせたね? ええと……遠野の子たちに勉強の仕方を教えればよかったんだっけ?」
先生は愛想よく笑った。太陽はすでにほとんど昇っており、涼しさの中に暖かさが宿っていた。
レイセンは頷いたものの、まだ何か用件が残っているのか、複雑な表情をしていた。
「その前に、生徒会長が待っています。お話ししたいことがあると……」
「レイセンは副会長だったよね? 分かった。いつ行けばいいかな?」
「先生のご都合に合わせるようにと言われています」
なるほど。先生は待っていてくれたレイセンのため、とりあえず先へと歩き出した。
目的地は教室がある本館だ。そこでようやくレイセンは、先生のすぐ後ろについて歩き始めた。
「今からでも構わないよ。改善のためには、色んな意見を聞きたかったところだし」
レイセンは安堵の笑みを浮かべたが、すぐに困ったようにその笑顔を崩した。
漫画のキャラクターのように大げさなため息をつきながら、レイセンは注意事項を告げるようにはっきりと言った。
「現在、遠野の生徒会長は3年生の『八雲 紫』会長です」
「八雲 紫だね。うん、それで?」
「それが……ちょっと変わった人なので、先生に前もって言っておいた方がいいかと思いまして」
キヴォトスには変わった人が実に多い。普段それを口に出すことはないが、先生は誰よりもそれをよく知っていたし、日常的に感じていた。
概ね「個性」という肯定的な評価として受け入れてはいるものの、厳しい目で見れば間違いなくそうなのだ。
先生は様々な生徒たちを思い浮かべた。マコト、ナギサ、リオ……。各校のトップたちは、どいつもこいつも独特な個性を持っていた。その延長線上だろうか? 先生の口元には自然と笑みがこぼれた。
「そっか。たとえばどんな風に?」
「まず、毎回仕事を私にばかり押し付けます。言うことは立派なのに、何かをしているところを見たことがありません」
「うーん。それはちょっと良くないね」
「それなのに、私が何をしているのかはほとんど把握しているんです。まるで監視でもさせているみたいに。でも、遠野には監視なんてする暇な子なんていないんですよ。それでも報告する前から、色んなことに気づいているんです」
「ちょっとゾッとするね」
「そして、世界で一番ずる賢い人です。どんな無茶苦茶な要求を押し付けられても、我に返るとそれを受け入れている自分がいるんです。その上、突拍子もないことばかり言いますし……」
レイセンのためにある程度相槌を打ちながら話を聞いていると、先生は、レイセンが単に紫という生徒会長への愚痴をこぼしたかっただけなのだと感じた。
レイセンは文句を言いながら少しずつスッキリしたのか表情を和らげ、すぐに昨日生徒会に見せていたような凛々しい表情になり、先生の前に歩み出て指を広げてみせながらきっぱりと言った。
「だから、生徒会長が突拍子もない提案をしてきても、絶対に承諾してはいけません。絶対にですよ……! 分かりましたか、先生? 私たちには、学校を学校らしく立て直すという任務があるんですから!」
ヒートアップしたレイセンの顔が鼻先まで近づいてきたため、先生は両手を広げ、落ち着いてとアピールするように前後に軽く振った。
(苦労が絶えない生徒なんだな……)そうこうしている間に、二人は狭くて軋む、木の香りがする廊下を通り抜け、ある教室の前に立ち止まった。
生徒会室。そう書かれているその場所は、教室を二つ繋げて作られた少し大きめの部屋だった。
先生が「開けようか?」とレイセンに視線を送ると、レイセンは「少し待ってください」と言うように首を振り、先生の前に出てコホンと声と呼吸を整えた。
そして勢いよくドアを叩き、昨日他の生徒会たちに見せていたような、凛とした鋭い声で叫んだ。
「生・徒・会・長。先生をお連れしました」
少しの沈黙。レイセンは腕組みをしたまま、指でトントンと腕を叩き、時間を測るような動きを見せた。返事はすぐに返ってきた。
「入りなさい」
その声に、レイセンは先生に頷いてみせ、そっとドアを開けた。
所作のいちいちに時代劇のような重々しい雰囲気があり、先生は少しプレッシャーを感じたが、「ありがとう」と短くレイセンに感謝を伝えて教室に足を踏み入れた。
古くて型にはまった執務室があるだろうと思っていた先生は、その場所の奇妙な光景に息を呑んだ。
カタ、カタ、カタ。窓の外から吹く風に吹かれてゆっくりと回る、壊れかけの壁掛け扇風機。
開化期の様式を備えた無垢材の木材と床。プラスチック製の安っぽい本棚に刺さっている、時代もバラバラなファイルの束。
現代風の応接机の前にデデンと置かれた、古い革張りのソファ。
その上にだらりと横たわり、気だるげにクリーム色の大型犬の毛を指先で撫でている、小柄な金髪の少女。
服装は学校の制服のお手本のようにきちんと着こなしているが、上着や手足には西洋風の手袋と靴下を身につけ、こちらには視線すら向かない。
先生はその生徒を見た瞬間、昨日の出来事を思い出し「あっ!」と驚いた表情を浮かべた。忘れることのできない、あの黄金の草原。永遠に続くかのような場所で、道を案内してくれた少女。
二人はしばらくの間、何も言わなかった。先生は紫を見つめており、紫はただ平然と大きな犬の毛を指先でいじっていた。
沈黙を破ったのは、他でもないその犬だった。鼻をヒクヒクさせながらじっと先生を見つめていたが、見知った顔だと思ったのか、一瞬で尻尾をバタバタと床に叩きつけ、お尻を浮かせた。
紫が手を離すと、矢のように飛び出して先生に飛びついてきた。
へっへっと笑顔で先生の足元をうろつき、「早く撫でろ」とでも言うようにクンクンと鳴き声を上げると、沈黙に居心地の悪さを感じていたレイセンが犬の鳴き声を聞きつけ、敷居の隙間から顔をひょっこり覗かせた。
浮気をする犬と、客人のもてなしどころか先生への礼儀すら示さない生徒会長の姿に、レイセンは一瞬で眉間を歪め、ドアをバンッと開け放って叫んだ。
「生徒会長! 先生がいらっしゃったのに横になっているなんて、失礼じゃないですか!」
先生は「ごほん」と空咳をした。レイセンにも、遠野の生徒会長にも恥をかかせたくなかった。
しかし、目の前の小柄な生徒会長は瞬き一つせず、音がした方を見ることもなく、犬がいたはずの虚空を静かに見つめていた。
……この場にはただ、一匹の犬が先生の足元で尻尾を振り回し、重苦しい空気をぶち壊しているだけだった。
フンッ、フンッと息巻くレイセンの荒い息遣いが収まった頃になってようやく、紫はのっそりと身を起こして座った。
乱れた長い金髪が重力に従って柔らかくこぼれ落ち、先ほどの気だるさはどこへやら、好奇心に輝く瞳で先生を直視した。
一見すると平凡な動作だったが、どこか退廃的な空気が重くのしかかるような紫色の眼光。
目を閉じ、髪をかき上げながら生徒会長は口を開いた。
「レイセン。ここはあなたの部屋でもあるのに、許可が必要かしら?」
そして片目だけを開け、先生を真っ直ぐ見つめながら優しく言った。
「それから、名乗り合うのは初めてよね? シャーレの先生。ようこそ。遠野へ。」
ー
八雲紫は犬を奪っていった。実は、その犬は紫よりも先に紹介されていた。
名前は『こむぎこ』。3歳くらい。体重40キロ近い、可愛いクリーム色のゴールデンレトリバー。
撫でられるのが好きで、図々しく、人を『おやつをくれるかどうか』で判断するらしい。
どういうわけだが、短い自己紹介の時間の中で、先生は紫よりもこむぎこの方により詳しくなってしまった。
「レイセンが負担をかけていないか心配だわ」
雰囲気を整え、礼儀正しく座って先生の目を直視する紫の手には、ティーカップが握られていた。
かなりの骨董品に見えるが、年月の痕跡を熟成としてしっかりと留めているような、高級感のあるアンティークの土器。その飲み口を指先で軽く撫でながら、レイセンを呼ぶように手招きした。
先生は微笑みながら首を横に振った。穏やかな声で「そんなことないよ」と答え、紫の指先の動きを目で追った。
一向に掴みどころのないこの生徒を理解するには、まだ時間が必要だと先生は感じていた。
何より、その判断も、こむぎこの愛情攻撃のせいで全く集中できなかった。
レイセンは座っている先生の後ろに仁王立ちになり、腕組みをしたまま静かに紫を睨みつけていた。
不満に満ちた瞳だったが、先生がビシッと一言言ってくれることを期待して、今回は強気の態度を見せていた。
「先生。レイセンの面倒を見てあげてね。忙しい子だから」
「うん。まだ何人かとしか会ってないけど、みんなレイセンをすごく頼りにしているみたいだったよ。それに……」
レイセンの耳がピクピクと先生の方を向き、何度かパタパタと動いた。先生が褒めるたびに、鼻先と顔の角度がススッと上がっていく。
紫はその様子を横目で見て微笑んだ。紫はニヤリとした表情でレイセンを見つめながら言った。
「頼もしいレイセン。Wi-Fiルーターが壊れちゃったから、先生と一緒に修理してきなさい」
レイセンの耳がアンテナのようにピン!と逆立った。こむぎこはその殺気を察知したのか、ズボッ、と先生のコートの中に頭を突っ込んだ。
顔を真っ赤にしたレイセンは大声で即座に言い返した。それは対話というより、怒声に近かった。
「はい!? 先生もですか!? 会長! 先生はお客なんですよ!」
息を整えると、再び声を張り上げて食って掛かるように言葉を吐き出した。
「先生はまだ学校の案内も受けていませんし! 何より授業を正常化させなければならないお忙しい方なんですよ! 会長こそ、今回ばかりは絶対にご自身で直してみてください! それがどれだけ大変なことか!」
紫は臆する気配を微塵も見せず、ティーカップを手に取って余裕たっぷりに飲み込んだ。
カップに指を添え、静かな間を楽しみ、一口香りを味わい、再び優雅に机の上に置いた。
「なら、ヤマメに直させればいいわね」
「はい!? 会長、正気ですか!? 通信局を全部ぶっ壊して、通信局みたいな肉の乾燥台を作るに決まってるじゃないですか!」
紫は膝に手を突き、ゆっくりと体を起こした。その手にはいつの間にかリードが握られていた。
「でも、もうすぐこむぎこのお散歩の時間なのよ、レイセン」
「なっ!?……絶対に、ヤマメには何も言わないでください! ああもう! 本当に会長は役に立たないんですから! 行きますよ、先生!」
怒りの臨界点に達したのか、レイセンはそう喚き散らし、先生の腕を引っ張って荒々しい足音を立てながら廊下へと出て行った。
先生は、思っていた以上に彼女の個性が一筋縄ではいかないことを直感した。一方レイセンは、よくよく考えてみて「あれ……?」と首を傾げ、再び生徒会室を覗き込んだが、そこにはもう誰もいなかった。
「ああぁぁ……」
結局、またしても会長の手のひらで踊らされたことを自覚したレイセンは、耳をしわしわに萎ませたまま廊下の壁を背にしてしゃがみ込み、髪をガシガシと掻き乱しながら絶望に満ちた赤い目に涙を浮かべた。
先生はそんな彼女の肩を軽くポンポンと叩き、苦笑いしながら慰めにならない慰めの言葉をかける。
「大丈夫。他の子たちへの挨拶も兼ねて、私も一緒に手伝うよ」