もう全て書ききってるから多分完結するはず。
薄曇りの空は、まるで世界そのものが薄い膜に包まれていることを示しているようだった。
朝六時。
目覚ましよりも早く目が覚めるのは、習慣ではない。眠りが浅いだけだ。
秋星は天井を見つめたまま、しばらく呼吸の数を数える。四つ吸って、四つ止めて、八つ吐く。胸の奥に沈んでいる「何か」が浮き上がってこないように、慎重に。
それは衝動と呼ぶにはあまりに冷たい。欲望と呼ぶにはあまりに理屈じみている。
ただ、世界を分解したくなるだけだ。
物理的に、という意味ではない。
人の嘘、恐怖、矛盾、依存――そういったものを丁寧に剥がして、芯を露出させたい。
そして、そこに何もなければいいと思う。
「……最悪だな」
自分の思考に自分で呟く。
今日もまた、平凡な一日を演じなければならない。
大学へ向かう電車の中。
人々は皆、スマートフォンの画面を覗き込んでいる。笑い、怒り、悲しみ――感情の断片だけが流れていく。
終音には、それらがすべて薄い紙でできた仮面に見えた。
隣に立つ少女が、ふいに彼を見上げた。
視線が合う。
その瞬間、終音の内側で「何か」が微かに軋んだ。
――壊れかけている。
直感だった。
少女の左手首には包帯が巻かれている。
視線は落ち着かず、しかしどこか決意めいた硬さを帯びている。
「次で降りますか?」
気づけば、声をかけていた。
少女は驚き、そして小さく頷く。
「……はい」
ドアが開く。
彼女は降りようとして、わずかにふらついた。
終音は自然な動作で腕を掴む。
その瞬間、彼女の皮膚越しに伝わる脈動が、妙に早いことに気づく。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫、です」
嘘だ。
終音の中で、冷たい衝動がささやく。
――この子は、今夜、死ぬ。
理由はわからない。ただ確信に近い。
終音は一瞬、選択を迫られる。
関わらない。
それが最も安全で、最も正しい。
だが、もし壊れるのだとしたら。
壊れる瞬間を見たい、という欲求が胸を刺す。
「……もし時間があるなら、少し話しませんか」
言ってしまった。
少女は戸惑いながらも、どこか救いを求めるように頷いた。
大学近くの古びた喫茶店。
薄暗い店内で、コーヒーの湯気が静かに立ちのぼる。
「どうして、声をかけたんですか」
少女が尋ねる。
終音はカップを見つめたまま答える。
「あなたが、消えそうだったから」
少女の指先が震える。
「……消えたいって、思ってます」
ああ、と終音は内心で頷く。
やはり。
「理由を聞いても?」
「理由なんて、たくさんありすぎて……でも、どれも本当じゃない気がするんです。友達のことも、家族のことも、将来の不安も。全部、言い訳みたいで」
少女の目に涙が溜まる。
「本当は、ただ疲れただけかもしれない」
終音は、静かにその言葉を反芻する。
疲れただけ。
人が壊れる理由として、それはあまりに単純で、あまりに残酷だ。
「死んだら、楽になると思いますか」
終音はあえて問う。
少女はしばらく黙り、それから小さく首を振る。
「わからない。でも、今よりは静かになる気がして」
静か。
その言葉に、終音の胸の奥がわずかに疼く。
彼自身もまた、静寂を求めている。
衝動の消えた、空白のような静寂を。
「……なら、今日だけ生きてみませんか」
自分でも意外な言葉だった。
「今日だけ?」
「明日のことは考えなくていい。今夜、眠るところまででいい。それができたら、明日を考える」
少女は戸惑い、そして苦笑する。
「子どもみたいですね」
「ええ。人間はだいたい子どもです」
沈黙。
やがて、少女は深く息を吐いた。
「……わかりました。今日だけ」
終音は頷く。
胸の奥の「何か」が、わずかに沈静化していることに気づく。
壊れる瞬間を見たい衝動は、まだ消えていない。
だが同時に、壊れずに済む可能性を試したい自分もいる。
それは矛盾だ。
だが終音という存在そのものが、矛盾の塊だった。
夕暮れ。
少女と別れた後、終音は一人で歩く。
今日、彼女は死なないだろう。
それが正しかったのかはわからない。
もしかしたら、苦痛を先延ばしにしただけかもしれない。
それでも。
「……少なくとも、今日は壊れなかった」
呟く。
世界は相変わらず薄い膜に包まれている。
人は簡単に壊れる。
そして自分の内側にも、壊したがる何かが棲んでいる。
だが、もし。
壊すのではなく、壊れない可能性を選び続けるとしたら。
そのとき、自分は何になるのだろう。
日守終音は、まだ知らない。
ただ一つ確かなのは――
彼の物語は、破壊ではなく「選択」から始まったということだった。
人に話すことって案外馬鹿になりませんよね。