私は方向音痴なので、物理的に迷うことがとても多いです。
薄曇りの午後、大学の図書館の片隅。
終音は窓際の席に座り、外の空をぼんやり見つめていた。電車の車内の喧騒とは違い、ここは静かだ。しかしその静寂の中でも、秋星の内面は騒がしい。
「関わるべきか、見守るべきか――」
胸の奥で、冷たい衝動が蠢く。人を観察するのは面白いが、観察した先に救済の選択肢があると、いつも迷う。
今日の対象は青年だった。
図書館の奥、窓際に座るその青年は、ノートを開きながらもページの文字に目を落としていなかった。
手元のスマートフォンに、誰かからのメッセージが何度も届いている。彼はそれを無視できず、何度も手を伸ばすが、承認を求めるように指先を止める。
親の名前、友人の名前、サークルのメンバーの名前――すべてに気を配りながら、結局何も自分で決められない青年だった。
終音はそっと近づく。声をかけるかどうか、一瞬迷った。
その瞬間、青年がスマートフォンを置き、ため息をついた。
「……また、怒られるのか」
小さな呟き。だが終音は聞き逃さなかった。
「自分で決めたいことはないのか?」
青年は驚き、少し後ずさる。
「え、あ……いや、でも……」
見守るのが安全。だが、関われば少しは変わるかもしれない。
「でも、迷惑かけたくなくて……全部、他人の顔色を気にしてしまうんです」
終音は頷く。理解してしまう自分に嫌気が差す。
胸の奥で、冷たい衝動が微かにざわつく。
「観察するだけでは足りない。でも、手を出せば何かが壊れるかもしれない」
終音は机に座る青年を見下ろしながら、静かに言った。
「自分の意思で動きたいなら、まず小さなことから決めてみるといい」
青年は目を伏せたまま、手を組み直す。
「……でも、うまくいく気がしないんです」
終音は少し間を置き、再び声をかける。
「失敗してもいいんだ。自分で決めること自体に意味がある」
青年は小さく息をつき、頷く。
だが、目には不安と迷いが残っている。
図書館の窓の外では、薄曇りの光が木々の葉を揺らしていた。
終音は、青年に触れずとも何かを変えられるのか――その可能性に胸をかすかに疼かせる。
同時に、自分が手を出せば彼を壊すかもしれないという恐怖も消えない。
「関わるべきか、見守るべきか」
揺れる心を抱えながら、終音はそっと立ち上がる。
街を歩く青年を秋星は少し離れて見守る。
道端で立ち止まり、スマートフォンを手にする青年。親からのメッセージ、友人からの催促――すべての通知が、彼の鎖になっているようだった。
終音は心の中で思う。
この鎖を断ち切らせることはできるだろうか? いや、今はまだ無理かもしれない。
青年はスマートフォンをしまい、深呼吸する。
「よし……やってみよう」
小さな声だったが、自分で決めた初めての言葉だ。
終音は微かに微笑む。
胸の奥で冷たい衝動はまだ残っている。
それでも、今日だけは、彼を見守ることを選んだ。
――選択による小さな変化。それだけで十分だと思えた。
夕暮れ。
青年は一人、帰路につく。
終音はその背中を遠くから見送る。
「今日、彼は壊れなかった」
胸の奥で、微かな安堵と不安が交錯する。
世界は相変わらず薄い膜に包まれ、人は簡単に壊れる。
だが、今日だけは――誰も壊れずに済んだ。
そして、終音の揺らぎもまた、少しだけ沈静化していた。
まだ、選択を続けなければ……
自分に言い聞かせるように、終音は歩き出す。
破壊ではなく、選択の軌跡の上を。
薄曇りの午後だった。
日守終音は大学の図書館三階、窓際の席に座っていた。ガラス越しの空は白く曇り、遠くの建物の輪郭がぼやけている。世界が薄い膜に包まれているような感覚は、相変わらず消えない。
静かな場所ほど、人の内側の音はよく聞こえる。
ページをめくる音。
ペン先が紙を擦る音。
抑え込まれた溜息。
そして――迷い。
終音は視線を本から外した。
三列向こう、窓の反対側の席に一人の青年が座っている。黒縁の眼鏡。整えられた髪。几帳面に揃えられた筆記用具。外から見れば、真面目で、問題のない学生に見える。
だが、指先が落ち着きなく震えていた。
机の上に置かれたスマートフォンが何度も震える。青年はそのたびにびくりと肩を揺らし、画面を確認し、すぐに伏せる。
既読をつけるべきかどうか。
返信をすべきかどうか。
言葉を選ぶべきかどうか。
終音は静かに観察する。
鎖だ
通知のたびに青年の呼吸が浅くなる。
メッセージの送り主は、おそらく親。あるいはサークルの代表。もしくは恋人。
どれでも同じだ。彼は常に誰かの期待の中で生きている。
自分で決めた顔をしていない。
終音の胸の奥で、冷たい衝動が小さく軋む。
剥がしてみたい。
その丁寧に整えられた仮面を。
中身が空洞かどうか、確かめたい。
ページを閉じる。
立ち上がる。
足音を立てないように近づく。
青年はノートに何かを書こうとして、ペンを止めたまま固まっていた。
「……また、怒られる」
小さな呟きだった。
終音は隣の席に腰を下ろす。
「何がですか」
青年は弾かれたように顔を上げる。
「あ、いや……」
「怒られる、って言ってましたよね」
しばらく沈黙が落ちる。
逃げるか、答えるか。
青年の視線が揺れる。
「……親からです」
声が小さい。
「成績のことですか」
「それもありますけど……将来のこととか。就職とか。公務員になれって、ずっと」
終音は頷く。
「なりたいんですか」
青年はすぐには答えなかった。
代わりに、机の上のスマートフォンを裏返す。
「……わかりません」
その言葉は、疲れていた。
わからない、か
終音はその言葉をゆっくり反芻する。
自分の欲望を持たない人間は、壊れやすい。
外側から押され続ければ、内側はいつか潰れる。
だが。
潰れる瞬間を見たい、とも思う。
その衝動が、微かに甘い。
「自分で決めたいことはないんですか」
青年は困ったように笑う。
「決めると、誰かが困る気がして」
「誰が」
「親も、友達も。みんな、期待してくれてるから」
終音は青年の目を見つめる。
そこには恐怖があった。
失望されることへの恐怖。
嫌われることへの恐怖。
拒絶されることへの恐怖。
依存だ
他人の期待を酸素にしている。
酸素を奪えば、窒息する。
胸の奥の声が囁く。
――奪ってみろ。
どこまで持つか、見てみたいだろう。
終音はゆっくりと息を吸う。
四つ。止める。四つ。吐く。八つ。
「もし全部の期待が消えたら」
「え?」
「親も友達も、何も言わなくなったら。あなたは何をしますか」
青年の目が泳ぐ。
「……考えたこと、ないです」
「じゃあ、今考えてみてください」
沈黙が長く落ちる。
図書館の空気が重くなる。
青年の喉が動く。
「……音楽、ですかね」
「音楽?」
「本当は、作曲をやってみたくて。でも、趣味でいいって言われて」
終音の中で、何かが微かに動く。
芯だ。
薄い仮面の下に、かすかな核がある。
壊してみたい衝動と、守ってみたい衝動が同時に立ち上がる。
「やってみればいい」
「無理です」
即答だった。
「親が許さないし、失敗したら終わりです」
「何が終わる」
「全部です」
青年の声は震えていた。
脆い
ほんの少し押せば、崩れる。
崩れたらどうなる?
泣くか。怒るか。壊れるか。
終音は一瞬、ほんの一瞬だけ、その未来を想像する。
胸がざわつく。
見たい。
だが。
少し前、少女が言った言葉が浮かぶ。
――今日だけ。
終音は視線を落とす。
「今日だけでいい」
「……え?」
「今日だけ、自分で決めてみる」
青年は戸惑う。
「何をですか」
「今から何をするか」
「今?」
「親に返信しないで、友達の誘いを断って、自分の時間を作る。今日だけ」
青年はスマートフォンを見る。
画面が光る。
《母:どう? ちゃんと勉強してる?》
《サークル代表:今夜のミーティング来られる?》
指先が震える。
「……無理です」
終音は立ち上がる。
「なら、俺は何も言わない」
「え?」
「あなたが壊れるのを見ても、きっと俺は後悔しない」
言ってから、自分の言葉の冷たさに気づく。
本心だ。
だが同時に、それを選びたくない自分もいる。
青年の目が揺れる。
「壊れるって……」
「自分が空っぽのまま、誰かの期待だけで生き続けたら、いずれ」
言葉を止める。
青年は俯く。
長い沈黙。
やがて、彼はスマートフォンを手に取り、深呼吸した。
「……今日だけ、ですよね」
「ああ」
青年は、母のメッセージを未読のまま閉じた。
サークル代表に、短く送る。
――今日は行けません。
送信。
指が離れる。
その瞬間、青年の顔から血の気が引く。
「……やっちゃった」
「どうだ」
「怖いです」
正直な声だった。
終音は頷く。
「それが、自分で決めるってことだ」
青年は目を閉じる。
しばらくして、ゆっくりと開く。
「……でも、少しだけ、楽です」
終音の胸の奥で、何かが静まる。
壊れる瞬間は、訪れなかった。
代わりに、かすかな自立が生まれた。
つまらないな
別の声が囁く。
でも、悪くない
矛盾が、胸の内で絡み合う。
図書館を出る頃、空は夕暮れに染まり始めていた。
青年は言う。
「明日は、また元に戻るかもしれません」
「それでもいい」
「……どうして、そんなことを言うんですか」
終音は少し考える。
「壊れる瞬間より、壊れない瞬間のほうが、今は面白いから」
青年は首を傾げる。
意味は理解していないだろう。
それでいい。
駅前で別れる。
青年は一人で歩いていく。
背中はまだ不安定だが、わずかに自分の重さを持っている。
終音は空を見上げる。
薄い膜はまだ世界を覆っている。
人は簡単に壊れる。
自分の内側にも、壊したがる何かがいる。
だが今日、彼は壊れなかった。
「……少なくとも、今日は」
呟く。
衝動は消えない。
救済もまた、完全ではない。
終音はその中間で揺れ続ける。
破壊と救いの間で。
それでも、選択だけは自分のものだ。
歩き出す。
次に壊れかけているのは、誰だろう。
あるいは。
壊れかけているのは、自分かもしれない。
薄曇りの空の下、終音の影は長く伸びていた。
終わらない揺らぎとともに。
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