私は冬です。
雨だった。
細い雨が、大学構内の石畳を均一に濡らしている。
水面のように光る地面を見下ろしながら、日守終音は歩いていた。
雨の日は嫌いではない。
世界の輪郭が曖昧になる。
人の表情も、声も、少しだけ鈍くなる。
その曖昧さの中で、本音だけが浮き上がる瞬間がある。
その日、声をかけてきたのは向こうだった。
「終音!」
振り向くと、手を振っている男がいる。
同じ学部の学生で、いつも人の輪の中心にいるタイプだ。
明るく、社交的で、噂話に詳しい。
そして――少し、作りすぎている。
「久しぶりだな。最近見ないけど、何してんの?」
「普通に授業出てる」
「相変わらずそっけないなあ」
誠は笑う。
笑顔は整っている。だが目元の筋肉がわずかに硬い。
疲れている
終音は無意識に分析している。
「今から暇? ちょっと話したいことあってさ」
雨脚が少し強くなる。
終音は一瞬迷う。
関われば、剥がすことになる。
だが、断らなかった。
「いいよ」
駅前のカフェは、雨宿りの客で混んでいた。
窓際の席に座ると、誠はすぐにスマートフォンを取り出した。
「これ見て」
画面にはSNSの投稿。
誠が大勢に囲まれて笑っている写真。
「昨日の飲み会。めちゃくちゃ盛り上がってさ」
「そう」
「俺、やっぱ人といると落ち着くわ」
そう言いながら、誠は写真をスクロールする。
だが、指先がわずかに震えている。
「……でもさ」
唐突に、声が落ちる。
「なんか、わかんなくなるときあるんだよな」
終音は何も言わない。
「俺、何が好きなんだっけ、とか」
カフェのざわめきが遠のく。
誠は笑おうとするが、失敗する。
「みんなといると楽しい。でも、一人になると、急に静かになってさ」
静か。
その言葉が、終音の内側をかすめる。
「静かになると、何が聞こえる?」
誠は目を瞬く。
「え?」
「静かになると、何が残る」
誠は視線を落とす。
長い沈黙。
「……何も」
その言葉は軽い。だが重い。
終音の胸の奥で、冷たい衝動が広がる。
空洞だ。
中身が、薄い。
「嘘ついてるだろ」
誠の肩が跳ねる。
「は?」
「楽しいって言った。でも、本当に楽しい人間は、何が好きかわからなくなったりしない」
誠の目が細くなる。
「お前、何が言いたいんだよ」
「仮面が厚すぎる」
空気が張り詰める。
雨音が強くなる。
誠は笑う。
「意味わかんねえよ」
だが、その笑いは歪んでいる。
終音は続ける。
「誰かに嫌われたくないから、全部合わせてるだけだろ」
沈黙。
誠の指が、テーブルの上で止まる。
「……だったら何だよ」
声が低い。
「それの何が悪い」
「悪くない。ただ――」
終音は言葉を選ぶ。
壊すか、止めるか。
「そのままだと、いずれ自分がわからなくなる」
誠の目が揺れる。
一瞬だけ、本音が覗く。
「……もう、わかんねえよ」
小さな声だった。
「どれが俺で、どれが作った俺なのか」
終音の胸が、わずかに疼く。
見たい。
崩れる瞬間を。
誠が泣くのか、怒るのか、壊れるのか。
あと一言、強く言えばいい。
「全部偽物だな」
そう言えば、きっと崩れる。
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
代わりに、別の言葉を選ぶ。
「一つだけ、本音を言ってみろ」
誠は動かない。
「今、誰にどう思われたい?」
長い沈黙。
やがて、誠は小さく言う。
「……本当は、誰にも期待されたくない」
その瞬間、空気が変わる。
仮面に小さな亀裂が入る。
「疲れたんだよ。盛り上げるのも、空気読むのも」
誠は笑う。
今度は、少しだけ本物だ。
「でもさ、それやめたら、誰もいなくなる気がして」
終音は頷く。
依存だ。
承認への依存。
「今日だけ、何もしなくていい」
「は?」
「誰にも連絡しないで、一人で帰れ」
誠は眉をひそめる。
「それで何が変わる」
「わからない。でも、わからないまま続けるよりは、少しマシだ」
誠はスマートフォンを見る。
通知が光る。
グループチャット。
次の飲み会の話題。
誠はそれを見つめ、やがて画面を閉じた。
「……既読つけないの、久しぶりだわ」
「怖いか」
「めちゃくちゃ」
誠は笑う。
だがその目は、少しだけ軽い。
カフェを出る頃、雨は止みかけていた。
誠は言う。
「お前さ、なんでそんなこと言うんだよ」
終音は少し考える。
「壊れる瞬間より、壊れない瞬間のほうが面白いから」
誠は呆れたように笑う。
「変なやつ」
駅の分岐で別れる。
誠は振り返らない。
だが、背中は以前よりわずかに力が抜けている。
終音は一人、濡れた道を歩く。
胸の奥で、衝動が静かに渦巻く。
壊したかった。
本当は。
だが、壊さなかった。
それが正しいのかはわからない。
救ったとも言い切れない。
ただ、仮面に亀裂を入れただけだ。
世界は相変わらず薄い膜に包まれている。
人は仮面を被り続ける。
そして自分の内側にも、仮面がある。
俺は、どれが本物だ
雨上がりの空は、まだ白い。
終音は目を細める。
揺れは消えない。
救いと破壊の間で、彼は今日も選び続ける。
終わらない実験のように。
そして次に剥がすのは、誰の仮面だろうか。
友達っていいよね