この話は4話です。
その男と出会ったのは、展示室だった。
大学の敷地内にある小さなギャラリー。
白い壁に、無数の未完成のキャンバスが立てかけられている。
完成作は、ひとつもない。
終音はその異様さに足を止めた。
一枚だけ、中央に置かれたキャンバスがある。
抽象画。青と灰色が激しくぶつかり合い、中央だけが真っ白に塗りつぶされていた。
「そこ、まだ触らないで」
背後から声がする。
振り向くと、痩せた男が立っていた。
三十前後だろうか。無精髭。目の下の隈。
だが、その目だけは異様に鋭い。
「完成してないんですか」
終音が問うと、男は笑った。
「完成なんて、ない」
声は乾いている。
「納得できたこと、一度もないから」
男の名は、
このギャラリーを借りて個展を開く予定らしいが、展示されているのは未完成作ばかりだった。
「全部、途中で壊したくなる」
遼はキャンバスを見つめながら言う。
「もう少しで届きそうになると、急に気持ち悪くなるんだ」
終音は、その言葉に微かに反応する。
壊したくなる。
「完成が怖いんですか」
遼は黙る。
「……完成したら、それ以上いけないだろ」
静かな声だった。
「未完成なら、まだ可能性がある。でも完成したら、そこまでだ」
秋星はゆっくり頷く。
壊れることを先延ばしにしている
完成=終わり。
終わり=評価。
評価=否定。
その連鎖を恐れている。
「あなたは?」
遼が突然尋ねる。
「何を作ってる人間だ」
終音は少し考える。
「人を観察してます」
遼は笑う。
「気持ち悪いな」
「よく言われます」
遼はキャンバスの白い中央を指差す。
「ここを塗れない」
「どうして」
「完璧にしたいから」
その瞬間、終音の胸の奥で何かが疼く。
完璧。
その言葉は刃物のようだ。
完璧でなければ意味がない。
中途半端なら、壊したほうがいい。
「壊せばいい」
気づけば、口にしていた。
遼の目が細くなる。
「簡単に言うなよ」
「壊して、また作ればいい」
「時間は有限だ」
遼の声が少し荒れる。
「俺はもう若くない。次がある保証なんてない」
ギャラリーの空気が重くなる。
終音の中で、二つの衝動がせめぎ合う。
――壊させろ。
――止めろ。
遼はパレットナイフを手に取る。
白い部分に、ゆっくりと刃を当てる。
「ここを塗れば、終わる」
手が震えている。
終音は思う。
今、背中を押せば。
「やれ」と言えば。
遼は塗るだろう。
完成するか、壊れるか。
どちらに転んでも、面白い。
喉が熱くなる。
だが。
「今日だけ、未完成のままでもいい」
言葉が出る。
遼の手が止まる。
「は?」
「完成は明日でもいい。今日、無理に塗らなくていい」
遼は不機嫌そうに笑う。
「逃げろって言ってるのか」
「違う。延命だ」
沈黙。
遼はナイフを下ろす。
「……お前、変なこと言うな」
「よく言われます」
遼はキャンバスから目を離す。
「完成させなきゃ意味ないと思ってた」
「意味は誰が決める」
「客だ」
「じゃあ、あなたは?」
遼は答えない。
長い沈黙のあと、椅子に腰を落とす。
「怖いんだよ」
小さな声。
「完成させて、誰も何も言ってくれなかったら」
終音は理解する。
承認だ。
結局、どこへ行っても、人は他者に縛られる。
胸の奥で、冷たい声が囁く。
――言え。
――「誰も評価しない」と。
言えば、遼は崩れる。
だが終音は、別の言葉を選ぶ。
「評価がなくても、あなたは描くんだろ」
遼は目を上げる。
その目は、少しだけ赤い。
「……描くよ」
「なら、それでいい」
ギャラリーの窓から、夕方の光が差し込む。
遼は白い中央を見つめる。
「今日は、塗らない」
そう言って、ナイフを机に置く。
終音の胸の奥で、何かが沈む。
同時に、疲労が押し寄せる。
壊さなかった。
だが、救ったわけでもない。
ただ、先延ばしにしただけだ。
ギャラリーを出ると、空は薄紫に染まっていた。
遼は言う。
「また来いよ」
「未完成のままですか」
「たぶんな」
少しだけ、穏やかな笑み。
終音は一人で歩き出す。
足取りが重い。
今日は三人目だ。
少女、青年、誠、そして遼。
壊さなかった。
だが。
俺は、何をしている
救っているのか。
実験しているのか。
境界が曖昧になる。
胸の奥の衝動は、消えていない。
むしろ。
抑え続けることで、濃くなっている気がする。
夜風が冷たい。
世界は薄い膜に包まれたまま。
未完成なのは、キャンバスだけではない。
終音自身もまた、未完成だ。
そして。
未完成である限り、壊れる可能性も、救われる可能性も、両方を抱え続ける。
揺れは深くなる。
次に出会うのは、もっと危うい人間かもしれない。
あるいは。
次に壊れるのは、自分かもしれない。
終音は、薄暗い街を歩き続けた。
選択という名の、終わらない刃を握ったまま。
絵を描く人ってすごいですよね。