雨だった。
細い雨が、街を均一に濡らしている。
世界を覆う薄い膜が、今日は少し厚く感じられた。
終音は大学の図書館にいた。
人の少ない閲覧室。窓際の席。
向かいに座った女は、しばらく本を開いたままページをめくらなかった。
指先だけが、震えている。
視線は文字を追っているふりをしているが、焦点は合っていない。
終音は気づく。
崩れる直前ではない。もう一段、内側だ
壊れる直前の人間は、もっと露骨だ。
この女は違う。
静かに、決めている。
「雨、止みませんね」
終音が声をかけると、女は一瞬だけ肩を跳ねさせた。
「……ええ」
声は落ち着いている。
「傘、持ってきてなくて」
嘘だ、と終音は思う。
鞄の横に、濡れた折り畳み傘がある。
「帰らないんですか」
「もう少ししたら」
視線は逸れたまま。
終音はページを閉じる。
「誰かを待ってるんですか」
「いいえ」
即答。
その速さが、不自然だった。
沈黙。
雨音だけが窓を叩く。
「決めた顔をしてる」
終音は静かに言う。
女の呼吸が止まる。
「……何をですか」
「たぶん、誰にも言わないこと」
長い沈黙。
やがて女は、本を閉じた。
「あなた、何者?」
「観察者です」
「趣味が悪い」
「よく言われます」
女は笑わなかった。
「共犯になりたいの?」
その言葉は、あまりに唐突だった。
終音の胸が、わずかに高鳴る。
「何の」
「見て見ぬふりの」
視線が、初めて真正面から合う。
透明な目だった。
「私はね」
女はゆっくり言う。
「明日、会社を辞めるの」
「いいことですね」
「違う」
即座に否定。
「辞める前に、全部消してやろうと思ってる」
雨音が一瞬、遠のいた気がした。
「全部?」
「データ。顧客情報。内部資料。三年分」
声は震えていない。
「バックアップは?」
「ある。でも私が触れる範囲なら、かなり困る」
終音は理解する。
復讐だ。
「不当な扱いを受けた?」
女は笑う。
「よくある話よ。功績は上司のもの。失敗は部下のせい」
「だから壊す」
「ええ」
静かな肯定。
「死ぬよりは健全でしょう?」
終音の胸の奥で、冷たい衝動が広がる。
これは、自傷ではない。
他害。
だが、動機は理解できる。
「止めてほしい?」
女は首を振る。
「背中を押してほしい」
共犯。
その響きは甘い。
終音は思う。
今ここで「やめろ」と言えば、止まるかもしれない。
だが。
「やらなかったら、後悔する?」
女は少し考える。
「……すると思う」
「やったら?」
「わからない。でも、今よりはスッキリするかも」
短絡的だ。
だが、その短絡が人間だ。
終音の中で、天秤が揺れる。
救い。
破壊。
どちらがこの人にとって正しい?
正しさなんて、誰が決める
この前の警察官の顔がよぎる。
正しさを曲げなかった男。
では、この女は?
曲げられた側だ。
終音はゆっくり言う。
「あなたが消したいのは、データじゃない」
女の瞳が揺れる。
「何」
「評価だ」
沈黙。
雨音が強まる。
「奪われた評価を、取り返したい」
女の喉が動く。
「……違う」
「違わない」
「違う!」
小さな声の叫び。
周囲の学生が一瞬こちらを見る。
女は息を整える。
「私は、ただ……」
言葉が途切れる。
終音は追い打ちをかける。
「消しても、あなたの評価は戻らない」
「わかってる」
「むしろ、もっと悪くなる」
「わかってる!」
涙が滲む。
「でも、何もしなかったら、私がいなかったことになる」
その言葉に、終音の胸が微かに軋む。
存在証明。
破壊による自己証明。
危うい。
だが、理解できる。
終音は一瞬だけ、深く呼吸する。
そして。
「なら、やればいい」
言ってしまった。
女が固まる。
「……本気?」
「中途半端にやるなら、やめたほうがいい」
自分でも驚くほど、冷静な声。
「やるなら覚悟してやる。全部失う覚悟で」
女は終音を見つめる。
「あなた、止めないの」
「止めてほしい?」
沈黙。
女は、ゆっくり首を振る。
「……ううん」
その瞬間、何かが決まった。
終音は立ち上がる。
「共犯にはならない」
女が眉を寄せる。
「どういう意味」
「俺は見ない」
それだけ言って、閲覧室を出る。
廊下を歩きながら、心臓の鼓動が早まる。
止めなかった。
背中を押した。
あの女は、やるだろう。
明日、ニュースになるかもしれない。
会社は混乱する。
誰かが責任を取る。
何人かが困る。
それでも。
俺は、何をした
胸の奥の衝動が、じわりと満たされる。
壊れる瞬間を、間接的に作った。
甘い。
ぞっとするほど、甘い。
外に出ると、雨は強くなっていた。
透明な膜が、世界を包む。
終音は濡れながら歩く。
自分の選択の重さを、まだ実感できないまま。
もしかしたら。
あの女は最後の瞬間に思いとどまるかもしれない。
もしかしたら。
本当に全部を消すかもしれない。
どちらでもいい、と一瞬思った自分に気づく。
足が止まる。
違うだろ
本当に?
本当に、どちらでもいいのか?
胸の奥の「何か」が、笑う。
救いと破壊の境界は、もう曖昧だ。
終音は雨の中で目を閉じる。
選択は、刃だ。
そして今、その刃は、確実に誰かを傷つける方向へ振られた。
問題は。
次に傷つくのが誰か、ということだ。
他人か。
それとも。
――自分か。
雨は、まだ止まない。
行動する、しない
どちらがいいんですかね