私は人生で一度も嘘をついたことがありません。
終音は、初めて「待ち伏せ」された。
大学の正門を出たところで、声がかかる。
「日守終音さん、ですよね」
女だった。
年齢は二十代後半ほど。
スーツ姿。無駄のない立ち方。
「どなたですか」
「少し、お時間いただけますか」
笑っているが、目は笑っていない。
逃げる理由はない。
だが、胸の奥がわずかに冷える。
近くのカフェに入る。
向かい合って座ると、女は名刺を差し出した。
「フリーのライターです」
名刺には確かにそれらしい肩書きがある。
「何の取材ですか」
「あなたについて」
静かな声。
終音は表情を変えない。
「心当たりがありません」
「最近、あなたと関わった人たち」
女は指を折る。
「自殺を考えていた女子学生。暴力沙汰を起こしかけた男子学生。内部不正未遂の会社員。問題を告発した警察官。未完成の画家」
秋星の呼吸が、一瞬止まる。
「偶然にしては、出来すぎている」
女はコーヒーを一口飲む。
「あなたが関わったあと、彼らは“踏みとどまる”か、“半分壊れる”」
半分。
図書館の彼女の言葉がよぎる。
「何が言いたいんですか」
「あなたは何をしているんですか?」
質問はまっすぐだ。
終音は答えない。
女は続ける。
「あなた自身は、何も失っていない」
その指摘は鋭い。
「安全圏から、他人の人生を揺らしている」
既視感。
ずるい。
同じ言葉。
「取材なら、証拠が必要でしょう」
終音は冷静に言う。
「私、彼ら全員に話を聞きました」
女は微笑む。
「あなたの名前が、出る」
胸の奥で、何かが強く打つ。
「どう語られているか、聞きますか?」
沈黙。
「少女は言いました。“今日だけ生きるって言われた”」
終音の指先がわずかに動く。
「男子学生は、“中途半端が一番壊れる”と」
「画家は、“未完成でもいいと言われた”」
「警察官は、“曲げないほうがいいと言われた”」
「会社員は、“全部失う覚悟でやれと言われた”」
女は静かに言う。
「あなたは、極端です」
終音は目を伏せる。
「でも彼らは、あなたに感謝している」
「でも?」
「あなた自身が、どこに立っているのかを、誰も知らない」
視線が刺さる。
観察者。
今は観測される側。
「私は興味があるんです」
女は言う。
「あなたは救っているのか、壊しているのか」
「どちらでもない」
「では?」
終音は初めて、言葉に詰まる。
自分は何だ。
救済者?
破壊者?
傍観者?
「……境界にいるだけです」
正直な答えだった。
女は目を細める。
「危ういですね」
「自覚しています」
「いずれ、どちらかに落ちます」
その言葉は予言のようだった。
「記事にするつもりですか」
「まだ決めていません」
女は名刺を指でなぞる。
「でも、もしあなたが誰かを本当に壊したら」
一瞬の沈黙。
「私は書く」
冷たい宣言。
「あなたの選択は、記録される」
終音の胸の奥で、衝動が動く。
記録。
観測。
他人の人生を揺らしてきた自分が、今度は外側から枠を与えられる。
「あなたは、壊したいんですか?」
女が問う。
終音は、しばらく考える。
「……壊れる瞬間が、見たい」
初めて、はっきり言葉にする。
女は息を飲む。
「正直ですね」
「でも」
終音は続ける。
「壊れない可能性も、見たい」
矛盾。
女は小さく笑う。
「あなた、自分を実験している」
図星。
「そのうち、自分も被験者になりますよ」
終音は立ち上がる。
「もうなっているかもしれません」
会計を済ませ、店を出る。
背中に視線を感じる。
観測される。
記録される。
選択が、物語になる。
それは、今までと決定的に違う。
境界の上は、静かな場所ではなくなる。
誰かが見ている。
もし次に壊せば。
それは、個人的な衝動では済まない。
夜風が吹く。
薄い膜の世界。
だが今日は、その膜の外側から視線を感じる。
落ちるなら、見られながらか
奇妙な高揚が、胸をかすめる。
危険だ。
この感覚は。
だが、止まらない。
物語は、静かに収束へ向かっている。
次に訪れる境界は。
自分だけの問題ではなくなる。
そして終音は知る。
観測される選択は、これまでよりも重い。
壊すか。
壊さないか。
今度こそ、その結果は、誰の目にも触れる。
逃げ場は、もうない。
自分が見る側だと楽しいけど、見られる側だとめんどくさいよね。