徒党を組む
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K県、
山々が黒い
電気の灯る窓は数えるほどに過ぎない。
夜道を照らす街灯も、村の中心部から外れるに従って配置の間隔が広がり、やがて闇が純度を増していく。
――その闇の深みで、地殻が呻いた。
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阿蘇外輪付近に位置する政府学会直属の地震波観測所、
「
報を伝える白衣の男のけたたましい声とともに、警戒レベルの更新を告げる警報が発出された。
無機質なコンクリートの部屋に、電子音が断続的に鳴り響く。
「観測波形に非線形なノイズが混入しています!震源特定不能。エネルギーの
「機器の故障か? いや、センサーの
白衣の男たちの切迫した議論が交わされる中、山岳方面――火山帯から眩い稲光――或いは核分裂反応時の如き、眩い閃光が走った。
「「――ッ!何だ此のチェレンコフ光は――ッ!?」」
天井の蛍光灯がちらつき、
其れは、この後に起こる不可逆的な事象の「事前予告」に他ならなかった。
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正確には、物理的な震動そのものではない。
揺れの「予感」に――皮膚の下を微細な電流が走るような感覚、あるいは大気圧の微妙な変化に反応する知覚に、意識を強制的に引き摺り起こされた。
那は布団の中で身を硬直させ、耳を澄ます。周囲はまだ静寂に包まれており、聴覚が捉えるべき音響情報は存在しない。
しかし、背骨に沿って這い上がる冷たい覚醒が、直感の正当性を証明していた。
そして――来た。
最初は微かに。ベッドフレームのきしむ音か、あるいは自身の鼓動がもたらす錯覚かというレベルから、次第に確かな「動き」へと変質する。
建具が軋み、空間そのものが震えを帯びる。
吊り下げられた電灯の紐が、目に見えない糸に引かれて揺れる軌跡を空気中に描く。那は布団から這い出るでもなく、ただ天井を注視し続けた。
呼吸の
自らの血流が冷たく変質していくのを感じた。それは気温の低下に起因するものではない。内側から滲み出る、有機的な寒気だ。
揺れは長くは続かなかった。一分ほどで物理的な収束を見せ、静寂が戻る。しかし、その静寂は以前のものとは質が異なっていた。震えの余韻を
那は寝返りをうち、窓を仰ぎ見た。
外の暗闇は、何も語らない。山々の輪郭は相変わらずの黒さで、ただそこに在る。
しかし那の目には、遠くの山稜の一部が、ほんの僅かに歪んで見える。
――気のせいか。
いや、気のせいであってほしいと、切に願う。
心臓が、今になって不規則な
冷たい感触が、
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記憶というものは、整然とした年代順のアルバムのように綴じられているわけではない。特に、喪失と結びついた記憶は、断片的な破片として、鋭利な切っ先を持って無秩序に意識へ突き刺さってくる。
那の脳裏に最初に浮かんだのは、硫黄の臭いだった。
甘く、そして腐敗に近い、鼻腔の粘膜を焼くような鋭い臭気。
次に、灰が視界を覆う白い
その向こうで、友人の背中が――登山用ジャケットの鮮やかな
あの日も、地鳴りから始まった。
然し、あの時のそれは、今日の微かな震動とは比べ物にならない轟きだ。
大地そのものが怒りの咆哮を上げている状態で、足の裏から全身の骨格へと振動が直接伝わり、歯がガチガチと鳴った。
「那っ――早く!」
声がする。橙色のジャケットを靡かせた声の主が、手を差し伸べている。
しかし――那は動けない。
直前までの口論の余韻が、足を鉛のように重く固定していた。
些細なことだった。登山ルートの選択か、休憩時間の長さか、そんな
険悪な沈黙が二人の間に流れ、その沈黙と停滞した空気が、避難の決断をほんの数分、遅らせた。
――数分が、生死を分ける。
「っ――!?」
突如として轟音が倍増し、空が暗転した。
火山灰の奔流が、渓谷を埋め尽くす勢いで押し寄せてきた。
それは煙ではなく、灼熱の固体の
彼の衣類の彩色――もとい、其の肉体は一瞬で見えなくなり、叫び声も、すべてを飲み込む地獄の咆哮にかき消された。
那だけが、奇跡的に岩陰に身を隠すことができた。
呼吸のできない灰の海の中で、ただ一点の安全地帯に押し込まれ、外の破滅を、全身の感覚を研ぎ澄まして「聴い」ていた。
あのとき感じたのは、恐怖だけではない。
ある種の「確信」だった。
これは
「友」に酷い言の葉を投げつけたことへの。
小さな心のひだに潜む悪意への、当然の報いなのだ、と。
そして、その確信は、その後長く那を縛り続ける「規則」へと結晶化していった。
──他人に嫌われること。それ自体が、取り返しのつかない災厄への
だから、几帳面に、丁寧に、自らの輪郭を可能な限り控えめに描く。波風を立てず、無難に、社会の背景に溶け込む。それが、生存のための戦略となった。
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「はっ……っ!ふ、っ……うう…っ!?」
微かな叫びとともに、那がはっ、と目を見開く。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたアパートの天井だ。
肺が酸素を渇望し、浅く速い呼吸が繰り返される。眉は深く顰められ、汗に濡れた首筋に不快な粘り気が纏わりついていた。
那はゆっくりと手を動かし、湿った肌をなぞった。
指先に伝わる体温が、かろうじて現実に繋ぎ止めてくれる。
那は昔聞いたことのある、深呼吸の
四秒、吸う。五秒、止める。そして、六秒かけて吐き出す。
数回繰り返すと、肺の
落ち着きを取り戻した那は、ゆっくりとベッドから身を起こした。
窓辺から離れ、那は部屋の中央に立った。
時計の針は、無情にも時間だけを正確に刻み続けている。
午前五時十七分。眠気は完全に消え去っている。
身体は覚醒状態にあるが、精神は鉛のように重く、昨日の疲労が皮膚に直接張り付いているようだ。
最悪の目覚めというより、睡眠という仮死状態から不完全に蘇生したような、生煮えの覚醒感だった。
土曜日の幕開け。本来ならば、何も予定のない、心安らぐはずの朝であるはずだった。然し、今の那にとって「安らぎ」などという概念は、到達不能な遠い星の言葉のように感じられる。
すべてが億劫だ。布団を整えること、パジャマを脱ぐこと、一日の衣類に着替えることさえ、巨大な労力を要する登山に匹敵するように思える。
「……行こう」
独り言は空気に溶けて消える。停止したままでは、思考が悪い方向へと
那は、幾何学的に畳まれた服を手に取り、機械的な動作で身にまとった。
黒く切り揃えられた髪は、枕によってわずかに乱れているが、那は鏡を見ることもなく、櫛で数回撫でつけるだけで済ませた。
性別を曖昧にするその外観。
それは意識的な選択というより、自らを社会の視線から保護するための
次は、
まずは窓を全開にし、冷たい夜気を肺いっぱいに吸い込む。
酸素が血流に乗り、少しだけ思考の解像度が鮮明になる。――次に、白湯をゆっくりと一杯。胃腸を優しく刺激して目覚めさせ、身体の中心部から温めていく。
キッチンに立ち、那は今日という一日を「消化」しようとする。
火山性微動は紛れもない現実だった。然し、現時点で大きな被害の報告は入っていない。
ニュースを確認する気力も起きなかった。
スマートフォンの画面を眺めれば、おそらくSNSには地震に関する小規模な騒ぎが並んでいるだろう。しかし、それを目にすることは、無用な情報による汚染でしかない。
那は、情報の摂取を最小限に抑える生活を設計していた。他人の感情や意見が発するノイズが、自身の内面の平衡を乱すからだ。
あの項以来、那は外界の雑音に対する耐性が著しく低下している。人混み、賑やかな会話、突然の笑い声さえ、生存を脅かす脅威として感知されるのだ。
今日の課題は、この内側に渦巻く不安定なエネルギーを、どうにかして「げんきのみなもと」――脳内物質のセロトニンへと変換すること。
科学的に正確かどうかは重要ではない。
それは那が自分に課した、一種の信仰に近い行為である。
そのための手段が「散歩」だった。
決まった時間に、決まったコースを、決まったペースで歩く。
その反復運動と、規則的な呼吸、そして自然との接触が、神経系を整え、ほんの少しの安堵をもたらしてくれるという過去の実績があった。
準備を整える。ポケットには鍵と、ごく少量の現金。
緊急時用の小さなLEDライト。必要最低限の装備だけだ。
那はドアを開け、深夜から早朝へと変わりゆく時間帯の、ひんやりとした空気の中へと足を踏み出した。
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