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噴火の轟鳴が止んでから、幾許。
地を這うような
那は自らの膝が泥と灰に塗れるのも厭わず、震える手で彼女の細い手首を支える。
「……伊藤さん、しっかり……もう、大丈夫ですから」
那の声色は、眼前で繰り広げられた自然災害の応酬に対する
彼は震える手でポケットから清潔なハンカチを取り出す。
然して、ズタズタに擦り切れた彼女の人差し指を、脆い硝子細工を扱うような手つきで慎重に包み込んだ。
純白の布地に、じわりと濃厚な赤が滲む。
掌には、不気味なほど確かな、生きているものの熱が伝わる。
介抱を続けながら、那の視線はアスファルトに刻まれた「其れ」に、呪縛されたかのように釘付けとなった。
「…あれを、其のまま映したわけじゃ、ないのか……」
そこには、半径一・五メートルにも及ぶ巨大な血の文様が鎮座していた。
それは、数刻の時間猶予で描き殴られたとは思えないほど
クロッキー帳に記されていた数理モデルや、高次元の
那は、伊藤がこの文様を刻む直前、誰もいない虚空に向かって熱烈に語りかけていた光景を反芻する。
彼女が捉えている知覚の世界は、自分たちが共有しているこの「現実」とは、位相そのものが根底から異なっている。
その残酷なまでの断絶を、鉄の臭いと共に突きつけられたような気がした。
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「……只事じゃない」
何時に無く真剣な面持ちと、それでいて隠しきれない畏怖を孕んだ声で、オクヤスが呟く。
未知の巨躯を前にした幼子のような表情で、脚許の文様と遥かの噴煙を交互に見返しながら、微かに身震いを繰り返していた。
「此処までの超常……其の現実化を、物理的な揺れと一緒に見せつけられたんだ。冗談や見間違い、あるいは狂人の戯言として片付ける訳にはいかない」
凱は深くしゃがみこみ、眼前の血の曼荼羅を、まるで未解決事件の物証を検分するかのような鋭い眼差しで見つめた。
「オカルト等と安易な言葉で片すなど、さらさら出来ん。…此れは、我々の既存の法や論理が及ばない、全く別の
其れを指す血溜まりは、噴火の余熱に煽られてもなお、乾くことなく鮮血そのままの純度を保ち、脈動するように沸き立っている。
那はそれを見て、背筋に身の毛もよだつような
自らの足元にある地面が、もはや確かな物質ではなく、何らかの巨大な「意志」が記述された流動体であるかのような錯覚だった。
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噴煙は依然として空を覆い、西に傾き始めた太陽の光を遮断している。
非日常という名の泥潮が、平穏な日常を完全に塗り潰していく。
「…移動しよう。ここでの滞在は、彼女の治療という面でも、我々の安全という面でも、限界が近い」
「私も…ですか?」
那が問うと、凱は向き直り、その鋭い眼差しを幾分か和らげて、僅かに微笑を浮かべた。
「出来れば同行願いたい。現状、彼女の持つ複雑怪奇を、直感であれ一番深く理解しているのは貴方だと思う」
那は一瞬、躊躇うような動作を見せた。
自分のような波風を立てることを嫌う人間が、これ以上の深淵に足を踏み入れるべきなのか。
だが、傷ついた伊藤の横顔を見たとき、彼の中にあった
彼女について知っているのは、飽くなきまでの探究心と、その内に秘めた、世界を救うのか壊すのかも定かではない
だからこそ、凱の投げたその言葉を安直に呑み、彼女を放置して去るのは、何よりも無粋で、かつ「自分」という存在を裏切る行為だと感じた。
――更に彼女について、知っていかねばならない。
その決心が、那の胸の中で静かに、けれど強く結実する。
「此処からは警察としての仕事というよりは、無礼講…と言うより、私の個人的な興味からの私事に近い」
凱は、セダン車パトカーの其の隣に駐車された、僅かに年季を感じさせる旧車を指先し、此方を向いた。
「先ずは私の知人が切り盛りしている寂れた旅館で、此のひと夜を凌ぐ。彼処なら灯を確保できるはずだ」
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灰の降り始めた村道を抜け、深い森の奥へと続く険しい道へと進路を取る。
セダンのタイヤが小石を弾く音だけが、静寂の中に只管、響いていた。
闇に沈みかけた斜面に、幾星霜もの風雪に耐えてきた木造建築の影が浮かび上がる。
その名の通り、停滞する闇の中で唯一の生存権を主張する灯台のように、玄関先に吊るされた小さなランプが、彼らの到着を静かに待ち受けていた。