背後で燻る不気味な噴煙の影から逃れるように、ヘッドライトが照らし出すのは、手入れの行き届いた竹林と、其の奥に鎮座する古風な門構え。
車が止まり、エンジンが静かに息を付く。
周囲を支配するのは、夜の森が放つ冷徹な静寂と、遠くで響く地鳴りの残響のみである。
「着いたぞ。……降りよう」
凱の短く、刺々しい言葉に促され、那は半ば意識を失いかけている伊藤を慎重に支えながら車外へ出た。
夜気が肌を刺し、先刻までの血と硝煙の臭いを一時的に上書きする。
門を潜った先に現れたのは、
軒先には古びた提灯が一つ、風に揺れることもなく灯っており、其の光は不自然なほどに一定の輝きを保っている。
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「…よう、
玄関先に立つと、引き戸が音もなく滑り、一人の女性が姿を現した。
其の姿は、この山奥の閉鎖的な村には不釣り合いなほどに洗練されている。
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濃紺の着物を隙なく着こなし、背筋を真っ直ぐに伸ばした立ち姿は、実年齢を推し量ることを拒絶するような、神秘的な瑞々しさを湛えている。
「随分と騒がしい夜に訪ねてきたものね、凱」
鈴を転がすような、だが芯の通った声。
僅かな苛立ちを隠すように鼻を鳴らした凱は、一歩前へ出た。
「話は通っている筈だ。急ぎでな。…奥の部屋を使わせてもらう」
凱の急くような物言いに、白河御は眉一つ動かさず、ただ静かに那の肩に力なく頭を預けている伊藤へと視線を向けた。
其の瞳は、まるで伊藤の精神に刻まれた異常を既に見抜いているかのように、鋭く、それでいて慈悲深く細められる。
「……構わない。案内しましょう」
白河御の先導で廊下を進む。足裏に伝わる床板の冷たさが、那の焦燥を僅かに鎮める。
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案内されたのは、八畳ほどの和室であった。
踏み入れた瞬間に漂う、新しい畳の芳香と、微かな沈香の香り。
其れは、つい数十分前まで那たちが身を置いていた「非日常の地獄」とは、完全に切り離されたもののようであった。
天井を見上げれば、無機質なシーリングライトが均一な光を投げかけている。
古式ゆかしい建築の中に、当然のように存在する近代的な設備。
其の調和が、却って那には奇妙な浮遊感を抱かせた。
白河御は、那たちが伊藤を畳の上に横たえるのを黙って見守っていたが、やがて静かに口を開いた。
「理由、先の超災だけでは無いのでしょう?」
其の問いは、凱に向けられたものだった。
数十年の付き合いがあるという二人の間には、他者が立ち入る隙のない、特異な信頼関係が横たわっている。
「伊達に数十年の仲じゃない」
「取り分け、貴方の頼みですものね」
白河御の言葉には、どこか悪戯めいた響きさえ混じっていた。凱は顔を背け、乱暴に髪を掻き回す。
「ほんと……悪いな、白河御先生」
其の短い謝罪には、凱らしくない不器用な情念が込められていた。
オクヤスは、二人の間に流れる熟練した空気感に、どこか居心地の悪そうな、あるいは羨望に似た悔しさを滲ませた表情を浮かべていたが――すぐに那の方へと向き直る。
「…いかんいかん、僕としたことが。砂座間さん、此方に寝かせてあげて」
「はい。伊藤さん……此方に」
那は、壊れ物に触れるような手つきで、伊藤の体を布団へと落ち着かせた。
彼女の呼吸は浅く、荒い。額にはびっしりと脂汗が浮き、其の青白い頬は異常な高熱によって赤く上気している。
「……φ、φの収束が……っ」
伊藤の薄い唇から、微かな、だが明瞭な言葉が漏れた。
それは意味を成す対話ではなく、脳が処理しきれない情報の濁流を外部へ吐き出しているかのような、異質な響きを伴っていた。
「…ダ、メっ、これじゃ……位相が……曼荼羅が、書き換わって……っ」
那は、彼女の冷え切った手を握りしめる。
彼女の指先は、今なお空中で見えない円環を描こうとして、痙攣するように動いている。
那は、自分自身の胸の鼓動が早まるのを感じた。
彼女が今、どのような領域を彷徨っているのか。
あの血で描かれた異常な図形が、彼女の精神をどこへ連れ去ろうとしているのか。
「彼女の熱、尋常じゃない。…白河御先生、何か冷やすものを」
那の切実な訴えに、白河御は静かに頷き、部屋の隅に置かれた水差しへと手を伸ばす。
「砂座間さん…でしたか。彼女の言葉に耳を傾けるのは、幾か先にしておいて。それは、今の貴方が受け止めるには、重すぎるかもしれない」
白河御の忠告は、那の耳の奥に冷たく突き刺さった。
彼女は、何を知っているのか。
那は、伊藤のうわ言に耳を塞ぎたい衝動と、其れを理解しなければならないという使命感の間で、激しく揺れ動く。
部屋の外では、依然として不穏な地鳴りが遠雷のように響き続けている。
槻御輿村を包む闇は、この小さな庵の光さえも飲み込もうとするかのように、一層深みを増していくのであった。
「…わたし」
伊藤の瞳が、僅かに開く。
だが、其の焦点は那を捉えてはいない。彼女の瞳が見据えるのは――
「…み、えたの、あらわれの、影が……」
其の声は、震える那の指先を伝い、彼の魂の最深部へと、呪いのように深く沈み込んでいった。
「那さん、ここは私と白河御先生に任せて、貴方は少し休んできてください」
オクヤスが、努めて明るい声で那の肩を叩いた。
其の手の温もりが、那の強張った意識を現実へと繋ぎ止める。
「でも、彼女が…」
「貴方が倒れては元も子もありません。…汗と、あの血の臭いを、先に落としてしまいなさい。此処の湯水は体だけでなく、心の澱みも流してくれる」
白河御が、含みのある微笑を湛えながら、廊下の先を指し示す。
那は、自分の手の平を見つめた。
乾燥し、皮膚に張り付いた赤黒い染み。
伊藤が自らの指を裂いて描き出した、狂気の公理の残滓ともいうべきか。
自らが探求的好奇心で「知りたい」と感じたものが、いま、恐怖に置き換わりつつある。
自分が――あるいは世界という存在の境界線が、その血によって侵食されているような感覚。
「……失礼します」
那は、逃げるように部屋を辞した。
背後から、伊藤の断片的な呻きが、薄い障子越しに追いかけてくるような錯覚を覚えながら。
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