ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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湯煙と芹の字

 

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脱衣所の床板は、足裏から体温を奪い去る。

御輿庵 灯(みこしあん ふぁろ)の最奥、湿った沈黙の支配する空間で、那は独り、自身を規定していた衣類(ころも)を剥がしていく。

指先が微かに震え、釦を外す動作に遅滞が生じる。

布地が肌を離れるたび、そこには冷気が入り込む。山嶺の夜が持つ実体的な冷たさの刻印。

 

鏡の中の自分を見ることは忌避(きひ)する。

そこには、生存戦略(ルーティン)という名の透明な殻を失い、あの大地を揺るがした知的な狂気の余波に晒された、無防備な肉体が存在しているはずだった。

 

浴室の扉を開くと、飽和した蒸気(じょうき)が視界を遮断する。

硫黄の微かな臭気が鼻腔を突き、呼吸は重度を増した。

 

那は洗い場に蹲り、蛇口(コック)を回す。

吐出された熱水が、陶器の肌を叩き、激しい飛沫となって彼の皮膚を打った。

 

指先を見る。

そこにはもう、伊藤が描き出した鮮血の残滓(ざんし)など存在しない。

物理的な洗浄は数分前に完了している。

しかし、網膜に焼き付いたあの幾何学的な曼荼羅は、眼蓋を閉じるたびに鮮明な色彩を伴って蘇る。

 

彼女の指が描いた軌跡。

それは論理(ロゴス)の極致でありながら、同時に既存の物理法則を根底から否定する暴力でもあった。

 

…彼女に、嫌悪(けんお)を抱いているのではない。

其処に在るのは、圧倒的な高位存在を前にした際の、根源的な畏怖(いふ)だ。

 

境界を侵食し、世界の理を書き換えようとするあの熱量に対し、彼という矮小な個体は、ただ震えることしか許されない。

 

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石造りの浴槽には、白濁した湯が満ち溢れている。

 

足を踏み入れると、暴力的なまでの熱が足首を噛んだ。

彼は痛みに近いその感覚を、むしろ歓迎した。

熱によって思考を麻痺させ、意識を現在の物理的な刺激へと繋ぎ止める。

 

ゆっくりと、腰を下ろす。湯面が上昇し、腹部、胸部、そして鎖骨を包み込んでいく。

湯船に身を沈めると、熱の塊が全身の毛細血管(ちばしり)を強制的に拡張させた。

 

浮力を得た体躯は、現実感から遊離し、液体の闇の中へと沈降していく。

那は、首筋までを熱水に浸し、濡れた髪が湯面に広がるのを放置した。

 

黒い糸となって漂う髪の隙間から、天井の染みを凝視する。

先刻の余震とは異なる、微細な震動が脊髄を伝った。

 

それは地球の鼓動か、あるいは私の内面で崩壊を開始した平穏の断末魔か。

閉ざされた浴室の空間で、那は、自分がもはや「ただの観察者」へ戻るための退路を完全に断たれた事実を、熱い湯の感触と共に受容せざるを得なかった。

 

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同じ時刻。灯の居間では、重苦しい空気が行灯の光を屈折させていた。

 

ちゃぶ台の上には、伊藤のクロッキー帳と、オクヤスが引っ張り出してきたコピー用紙に記憶を頼りに書き写した血の文様の再現図が広げられている。

 

凱は、険しい表情でそれらを見つめ、煙草に火をつけた。

「…これは、単なる偶然や幻覚で片付けられんな」

凱の低い声が、部屋の隅々にまで染み込んでいく。

オクヤスは、自身の描いた歪な円環を指でなぞりながら、落ち着かない様子で膝を揺らした。

「偶然なわけないですよ…。あの揺れ、あの噴火…其れに応えるような、彼女の譫言と此の絵は、此の世界のことわりを無視してます」

 

二人のやり取りを、一段低い場所で静かに見守っていた館の主、白河御が立ち上がった。

「…少し、お待ちを。此の表記、どこか引っかかる」

 

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彼女は、古びた桐箱(きりばこ)を抱えて戻ってくると、それを恭しく畳の上に置いた。

「…それは何だ?」

凱の問いに答えず、彼女は慎重に蓋を開けた。

中から現れたのは、和綴じの古い冊子だ。

表紙には墨痕鮮やかに『槻御輿縁起残録(つきみこしえんぎざんろく)』と記されていた。

 

「著者名がありますね」

「自社出版でもないメモノートの類に名前を書くタイプの著者様ね…」

凱はオクヤスの発見に軽い口を叩くと、其の文字をなぞる。

 

「せ…せり…」

著者の名は掠れて読めない部分もあったが、達筆な明朝文字で微かに『芹沢(セリザワ)』の姓を視認出来た。

 

「以前、此の村の北端の山奥に住んでいる知人の書斎で見つかったんです。気味が悪いと謂うので、此処で預かっていたんですが」

「其れだけ聞くと、いまわしき呪物を承り預かった、的なイメージだな」

「…実際のところ、私も此の筆記の意図が汲めなくて怖かったのよ」

白河御は口を噤み、僅かに眉を顰めた。

「案外、齢を迎えた数百年前の御老人のボケ防止日記ノートかも知れんがね」

凱は、僅かでも彼女の其の表情を和らげようと、再び軽口を叩いてみせた。

 

彼女がその頁をめくると、部屋の中に古書の乾いた、どこか沈香(じんこう)に似た香りが広がる。

「…此処を見てください」

彼女が指し示した頁には、黄ばんだ紙面を埋め尽くすように、複雑な幾何学図形が描かれていた。

 

「…っあ、あ…」

オクヤスが、息を呑む。

 

其処にあったのは――彼が、そして伊藤が描いたものと驚くべき精度で一致する、多重円環と線分による構成図。

 

線の湾曲、結節点の配置、円の重なり、然して「生物」。

それは、数千年の時を超えて、同じ設計思想に基づき出力された『真理』の写しであった。

 

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