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「…全く、冗談の種にもなりゃしない。此れは百年前の暇人の落書きなどではなく、紛れも無い設計図だ」
凱の指先から零れた煙が、行灯の仄暗い光の中で螺旋を描く。
『
幾何学的な整合性が、時空の断絶を嘲笑うかのように、其処に鎮座している。
オクヤスは戦慄に喉を鳴らし、広げられた新旧二つの図形を交互に見比べた。
「…同じだ。線の収束点も、外周を囲む非ユークリッド的な歪みも……全部、同じ。でも、どうして?伊藤さんは此の古書を読んでいた訳じゃない。現に、我々は今初めて此の庵に来たんだから」
その時。客間の奥、寝具を並べた暗がりから、衣擦れの音が響いた。
「…ち、違う…読んで、ない…っ!見えた、んですっ、其れが……其処に、在るべきだと、脳が…っ、座標を、指定、しただけ……っ」
掠れた、しかし異様なほどに明瞭な響きを伴った声。
寝間着姿のまま、壁を伝って這い出してきたのは――先程まで昏睡していたはずの伊藤だった。
彼女の頬は未だ熱に赤らみ、瞳は異様な光を宿して、ちゃぶ台の上の古書を射抜いている。
「伊藤さん!寝ていなくていいのか」
凱が椅子を蹴るようにして立ち上がり、彼女の肩を支えようとするが、伊藤は其の手を弱々しく、しかし拒絶の意志を込めて振り払った。
彼女の視線は、ただ一点、『縁起残録』の頁へと吸い寄せられている。
「…通り道なんですっ、数百年周期で……此の地を訪れる……
「客神と?」
凱の問いに、白河御が静かに、しかし重い溜息を吐いて頷いた。
「余り伝わっていませんが…此の地域の、昔の良からぬ言い伝え…でしょうか?」
「数千年に一度…あるいは数百年の不規則な周期で、此の世界の理が歪むんです…っ、其の歪みを…っ、それをっ、せかいの外から訪れる存在が『修正』しに…来るっ」
伊藤は、先方の言葉をなぞるように、震える指先で古書の図形を辿った。
「…でも、やっと、わかったっ、私っ…自分に愛し子が出来たって舞い上がっていたけどっ、此の子達は、そんな生易しい方々じゃ、なかった…!」
彼女の声が引き攣っていく。
「彼らは…単なる、観測者、でもない、…次元遡行、を通じて……っ、此の世界の体系を……根本から、ずらしに来る…」
伊藤は自らの首元を、僅かに悶えるようにしながらなぞった。
「其の為の手引きを……私に、させようと、している……!」
彼女の吃音は、恐怖によるものか、あるいは脳内に奔流する膨大な情報量を、人語という不完全な出力装置が処理しきれていないが故のものか。
凱は、彼女の瞳の奥に潜む「何か」を覗き込むように、低く、威圧的な声で問い詰める。
「…伊藤さん、訊く。お前は何処で其れを知った。今の、其の『マロウド』とやらの知識だ。そして、此の絵の端々に描かれている、此の生き物は、一体何だ?」
凱の指が、古書の余白に描かれた、名状しがたい怪異の姿を指した。
「…流れ込んで、私が描くことでっ、概念生物は意匠を持つんですっ……正体はっ、世界の外から、来た、ものとしか……。特に……アンちゃん」
その名が呼ばれた瞬間、微かに窓の外で風が哭いたような気がした。
「アンちゃんは……高次存在から、直接…第零次元を、通じて、彼処から送られた…偵察的、役割と……抑制の命を、併せ持っていた…。私、たちは…この子に、見張られて、いる…」
伊藤の言葉は、熱病に浮かされた者の戯言にしては、あまりに論理的な体系を成していた。
凱は煙草を灰皿に押し付け、苦々しく吐き捨てる。
「概念生物、に、伏兵か。SFじみた話が、此の人物の記録と一致するってのか」
「……上色見……神宮っ」
伊藤が、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「其処に……行かなきゃ、いけない………っ、次のあらわれが来る前にっ、『対話』の方法を探っておかないと、まずいんです…っ!」
上色見神宮。其れは、槻御輿の村外れ、鬱蒼とした杉林の奥深くに鎮座する、今や訪れる者も稀な寂れた古代神社だ。
村の境界、人界と山嶺の狭間に位置し、時には異界との通路であるとも云われた場所でもある。
白河御は、伊藤の言葉をまるで理解できない数式を眺める子供のような表情で聞いていた。
彼女はあくまで、蔵書を預かっていたに過ぎない。
この村のならわしが、これほどまでに具体的で、致命的な形を成しているとは、想像だにしていなかったのだ。
伊藤が、自嘲気味に呟く。
「……わ、笑える……でしょう?私のような……不完全な……演算器がっ、……世界の、……ずらしを……担当、……するなんて……っ」
彼女はそのまま、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
凱は、彼女の言葉を反芻するように、深く、深く息を吐いた。
「…あんな、末端の寂れた社に、何があるってんだ」
白河御が、震える手で茶碗を握りしめ、静かに、しかし毅然と言葉を添えた。
「…まずは、休息が必要です。凱様。…伊藤様も、そして那様も。…此処の温泉は、気を休めるには良いものです。……今は、此の世の理を解くよりも、…明日のために、身を休めることを……優先なさってください」
彼女の、地に足の着いた言葉に、凱は幾分かの冷静さを取り戻した。
確かに、これ以上の追及は、疲弊しきった彼らの精神を物理的に破壊しかねない。
「……オクヤス、伊藤さんを寝かせろ。…砂座間さんは……まだ湯の中か」
凱は、消えかかった煙草を灰皿に押し付けた。
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外では、噴火の余韻を孕んだ風が、庵の雨戸をガタガタと叩いている。
彼が、湯船の中で独り、自分の存在の境界を疑っていることも知らずに。
湯気の中に、那の意識は漂っていた。
濡れた黒髪が、熱水に打たれて額に張り付く。
彼は、指先の皮膚がふやけて白くなっていくのを、じっと見つめていた。
この肉体。
この物理的な質量。
これら全てが、あの大地を揺るがした其れの奔流の前では、どれほど脆いか。
彼は、かつて体験した「トラウマ」を反芻する。
目の前で理不尽に奪われた命。抗う術もなく、ただ背景として存在することしか許されなかった、あの無力感。
あの日、彼は『自分を消すこと』で生き残る術を選んだ。
だが、今。
この村で起きている事象は、彼がどれほど透明になろうとも、容赦なくその存在を炙り出し、物語の中心へと引きずり戻そうとしている。
蛇口から滴る水の音が、静寂を穿つ。那は、深く、深く湯に潜った。
耳を塞ぐ水の壁が、外界の喧騒を遮断する。
心臓の鼓動だけが、鼓膜を直接叩く。
生きている。――いまだ、私は生きている。
しかし、その確信さえも、湯気の向こう側に揺らめく不穏な影によって、刻一刻と削り取られていく。
那は、誰もいない浴室で、ただ熱に身を委ね、到来するはずのない明日への恐怖に、静かに身震いした。
御輿庵 灯の夜は、まだ始まったばかりだ。
それは、日常という名の安寧が、完全に死に絶えるための、最後の猶予。
彼らはまだ、その沈黙の深さを、本当の意味では理解していなかった。
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