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浴衣に着替え、乾かした髪をいまいちどそっと拭きながら、那が居間へと戻ってきた。
脱衣所の冷気で冷えた身体は、まだ温泉の熱を芯に宿している。しかし、彼の表情は少しも晴れていなかった。
居間には既に、四組の敷き布団が川の字を描くように整えられている。
その右側二つの布団の上で、凱とオクヤスが腕を組み、重苦しい沈黙を共有しながら那を待っていた。
「…まさか、だ。事情聴取からこうなるなんて誰が想像した?」
凱が自嘲気味に笑い、手元の灰皿に視線を落とした。
その指先には、まだ消したばかりの煙草の微かな残り香が漂っている。
「…運命と言えばちょっとクサいが、此処までだと…最早、そういう類いな気もしてきたな」
凱のその言葉に、那は何も答えなかった。…答えようが、なかった。
那は、左端で死んだように眠る伊藤の隣――左から二列目の布団へと歩を進めた。
彼女の寝息は浅く、時折、何かに怯えるように指先が跳ねる。
「寝ろ。明日は…今日より酷いことになるかもしれん」
凱の短い促しに従い、那は吸い込まれるように布団の中へと身を沈めた。
意識は、灯された行灯の光が消えるよりも早く、暗い底へと沈下していった。
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其処は、いつもの灰色の世界。
空を覆い尽くすほどの噴煙が、視界の全てを濁らせ、肺に突き刺さるような硫黄の臭いが鼻腔を蹂躙する。
那の足元には、砕けた瓦礫と、それらを浸すどす黒い液体。
そして、目の前には『かれ』がいた。
那が、その人生において最も消し去りたく。
同時に最も忘れてはならないと呪い続けた、かつての友人。
噴煙の向こうに消えたはずのかれの肉体は、腰を過ぎたあたりで無残に折れ曲がり、瓦礫の下で静かにその生命の終わりを待っている。
自分の想像が生み出したビジョンだとしても、那は其のリアリティに耐えかねた。
岩陰に隠れ、その光景をただ見つめることしかできない。
…今迄と同じ。何度も繰り返された、那の精神を削り取るだけの再生。
――ごめん、と、声にならない掠れた叫びを漏らし、嗚咽が喉の奥で血の味がするほどの苦みとなって溢れ出す。
実体を持たないはずの涙が頬を伝い、熱を帯びて地面の灰を濡らしていく。
許されるとか、許されないとか、そんな高尚な話ではない。
それは反射であり、呼吸であり、彼の魂に刻まれた永遠の反芻だ。
那が喉を震わせ、二度の嗚咽に身を捩ろうとした――その時だった。
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不意に、世界の法則が変質した。
けたたましい轟音が、空を割る。
それは落雷の音とも、大地の軋みとも違う。
巨大な弦楽器――精密に調弦されたコントラバスの弦を、イバラの爪で手荒に掻き毟るような、不協和音の炸裂。
その振動は空気を物理的な質量として震わせ、那の脳漿を直接、激しく叩き、劈いた。
那は耳を押さえ、岩陰で胎児のように丸まる。
今迄の夢にはなかった、未知の事象。
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恐る恐る、岩陰から顔を覗かせた那の瞳に、この世のものとは思えない光景が映り込む。
噴煙の向こう側で、透き通るような青白い雷が、あるいは深海に棲んでいる生物が放つような生体発光が、不規則に、しかし脈動するように瞬いている。
光が爆ぜるたび、闇の中にその輪郭が浮かび上がる。
其処に現れたのは、巨大な「瞳」であった。
人間の意匠を模したようでいながら、生物的な温かみは微塵も存在しない。
光を反射するのではなく、周囲の光を全て呑み込み、咀嚼し、無へと帰す。
僅か下には、硬質な質感を想起させる「牙」が幾重にも並び、その奥には口腔とも呼べる位相の歪みが口を開けている。
目の前に居るのは、物質的な肉体を持たない、不可視のけだもの。
高次存在の残滓、あるいは世界の「外側」の――――。
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「あ……ッ゛あ……あっ!」
那の喉から、掠れた吐息が漏れる。
その時、突如として那の背後が、爆発的な輝きに包まれた。
びがり、びがりと、空を垂直に貫くような、白銀の雷光。
それは那を照らし出し、
同時に「けだもの」の存在をこの次元に繋ぎ止めるための、冷酷な照明弾。
けだものは、その光を忌避するように――あるいは宣戦布告への応答として、二度、天を衝くような叫びを齎した。
その叫びは、音という概念を超え、純粋な破壊の風圧となって那を襲った。
身体が木の葉のように宙に舞う。
数メートル先の硬い岩陰に投げ飛ばされ、背中を叩きつけられる。
衝撃波が鼓膜を突き破り、那の耳元からは、温かい鮮血が溢れ出した。
混乱が、那の意識を泥濘のように支配する。
これが夢であるという自覚はあった。
自分の意識が、寝室の布団の中に留まっていることも理解していた。
明晰夢。そう呼ぶには余りに過剰な、死のリアリティ。
幾ら「消えろ」と意識の深淵に念じても、目の前のけだものは霞むどころか、その輪郭をより鮮明に、より凶悪に研ぎ澄ませていく。
「止まれ」と自らの血脈に命じても、夥しいまでの血量が、止まることを知らずに耳孔から、鼻から、溢れ出して止まらない。
自身の身体が、情報として処理され、この夢の世界に溶解していくのを感じる。
やがて、けだものはその巨大な口腔を、那の眼前にまで近づけた。
喉の奥、その暗黒の位相の中に、一転して失明せんばかりの露光が凝縮されていく。
それは世界の終わりを予見させる、純粋な能の収束。
那は、肺に残った最後の息を、そっと漏らした。
抗う気力さえ、その圧倒的な存在感の前に霧散していた。
浮世離れした死に際。
この光に焼かれ、自分という「観測者」が消滅する。
それは彼にとって、ある意味で完成された救済のようにも思えた。
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「──あ゛ああ゛あぁッ!?」
那は、布団の上で跳ねるようにして飛び起きた。視界が激しく回転する。
恐怖で茹だる全身を、滝のような冷や汗が濡らしている。
「砂座間さん、大丈夫か!」
横から飛んできた鋭い声に、那の意識がようやく現実の重力へと繋ぎ止められた。
隣では、既に身を越していた凱が、心配と警戒が入り混じった表情で那の肩を掴んでいる。
その向こう側では、オクヤスが今にも叫び出しそうな驚愕の表情で立ち尽くしていた。
那は震える手で、自分の耳元を触った。
血は出ていない。音も聞こえる。
鼻を抜けるのは、死の臭いではなく、庵の古い木材と、微かな温泉の残り香。
だが、那の呼吸は整わない。
夢の中で見たあの「瞳」。
そして、自分の背後から放たれた、あの暴力的なまでの光。
其れらは、決してただの脳内のバグなどではない。
この村に、この地殻の下に、そして伊藤の脳内、世界の外側に潜んでいる「何か」が、那という観測者をマトとして定め、観測を開始した証左だった。
「……夢っ、でした…っ」
那は、掠れた声で、それだけを絞り出した。
凱は那の肩を掴む力を緩めず、低い声で応じた。
「只の夢なら、お前の鼻からこんなモノは出ねえよ」
凱が指し示した指先を見て、那は凍りついた。
シーツの上に、点、点と、鮮やかな赤色が染みを作っている。
那の手が触れた鼻先からは、今もなお、現実の血が滴り落ちていた。
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