凱が指し示した先、真っ白なシーツの上に、点、点と、鮮烈な
それは吸い込まれるような、純度の高い赤。
那の視神経を焼き、逃れようのない現実の証左として其処に鎮座している。
鼻先に触れた自身の指先が、生温かい。
那が呆然と手を離すと、重力に従って、一滴の鮮血が掌の窪みへと滑り落ちた。
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布の上に広がる鮮烈なる赤は、彼の脆弱な理性を掻き乱し、粉砕するのに十分な衝撃を孕んでいた。
夢の「けだもの」がもたらした、あの次元を削り取るような絶対的破壊。
それは単なる脳内の電気信号に留まらず、境界を越え、現実の那の肉体にまでその牙を突き立てていた。
「あ゛あ……っ!?」
那は思わず、裏返った悲鳴のような息を漏らした。
夢の筈だった。
痛覚も、嗅覚も、全ては睡眠という名の麻痺が作り出した幻影であるべきだったのだ。
それなのに、鼻腔からは今も止めど無く、鉄錆の臭いを孕んだ奔流が流れ落ちている。
那は半狂乱になりながら、溢れ出る其れを拭った。
深く、然して鈍く紅い色の鮮血。
指の間を滴り、手首を伝って浴衣の袖を汚していく。
掌の窪みに溜まった血の池は、行灯の光を反射して、まるで底なしの深淵のように揺らめいていた。
「砂座間さん、先ずは止血を……お話は、その後で構いませんから!」
オクヤスが、己の背筋を伝う冷汗も拭わずに那の側へと歩み寄り、その細い肩をそっと支えて壁際へと連れ寄せた。
その必死な声も、今の那には水底から響くくぐもった音のようにしか聞こえない。
凱は既に布団から跳ね起き、部屋の隅にある棚や、持参した鞄をひっくり返して、止血のためのティッシュや冷却材を、荒々しい手つきで探し求めている。
那は、止血の為に震える指先で自らの小鼻を強く摘んだ。
圧迫――物理的な対処。
──此れで、止まるはずだ。
──止まってくれなければ、困る。
然し、もし此の血が、このまま枯れることなく流れ続けたら?
夢の中の存在が、現実という膜を破り、自らの肉体を内側から破壊し、侵しながら、ついには存在を「向こう側」へと引き摺り込んでしまうのではないか。
「…っ゛…う゛ぁ……っ」
其の確信となりつつある妄信が、那の心中を二度、三度と激しく揺さぶった。
彼は壁に頭を預け、必死に酸素を求めて喘いだ。
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数十分という時間が、永遠の拷問のように過ぎ去った後、ようやく鼻腔から溢れていた血の奔流は、その勢いを失い、止まった。
だが、那はいまだ、自らの肉体が夢の中で破壊された
現実と非現実の
「……夢、だ…っ、あれは、夢で……っ」
那は自己の
今の彼に出来る唯一の抵抗。
其れは、目の前の凄惨な事実を「偶然の産物」として切り捨てる、虚しい自己暗示以外に存在しなかった。
震える小手先で、汗と湿気に濡れた髪をくしゃり、と無造作に掻き毟る。
萎縮するように俯いた彼の視線の先で、シーツに吸われた鮮血は、酸素と反応して僅かに黄ばみを擁した掠れ染みへと変貌を遂げていた。
「……あなたも……っ」
不意に、衣擦れの音が静寂を裂いた。
──伊藤だ。彼女は、いつの間にか布団の上に上体を起こし、焦点の定まらない瞳で那を見つめていた。
「…あなたも、見たんですね……っ、
其の吃りを含んだ声色が、那の意識を強引に現実に引き戻した。
「…彼です、っ。彼が私に独立的観測の
──
あの、瞳を持った巨大な虚無。
物理法則をコントラバスの弦のように弾き鳴らし、咆哮一発で自分を数メートルも吹き飛ばした、あの「けだもの」が?
少なくとも那自身は、あれを人間と言語的、あるいは精神的な意志の疎通が交わせるような対象として受け取ることは、不可能に近かった。
あれは天災であり、断絶であり、理解を拒む「神」の末端ではないのか。
「…と、言うより…っ、私達に『問い』──ζ(ゼータ)を送っているのは…おそらく、彼の分散的な、意識で…っ。実際は、枝分かれした
伊藤の言葉は、理解を深めるどころか、那の心臓に再び恐怖という名の楔を打ち込んだ。
何故、自分が選ばれた。
何故、ただ「背景」として生きようとする自分に、そんな巨大な存在が接触を試みる。
「──なあッ!」
其の一喝が、一瞬にして部屋を支配した。
――凱だ。彼は伊藤の異様な譫言を断ち切るように立ち上がり、その巨躯で彼女を威圧した。
「…アンタは、一体……何なんだ?何を知っていて、何を隠している!」
「…っえ……っ?」
「
凱の声色は、制御しきれない焦燥と、鋭利な刃のような怒りで満ちに満ちていた。
凱は一歩、また一歩と畳を踏み、伊藤の胸元へ詰め寄る。
その瞳には、もはや「保護対象」を見る慈しみなど微塵もなかった。
「彼に何をした?アンタが描いた『血の曼荼羅』だか何だかが、現実にこの青年の肉体を壊し始めてるんだぞ。アンタの言う『高次の介入』だの何だののツケを、何の関係もない彼に払わせるつもりか!」
「凱さん!ステイです!」
オクヤスが必死に凱の腕を掴み、制止を試みる。
だが、其の足取りを止めることは叶わない。凱の理性は、那が流した血を見た瞬間に、その限界点を突破していた。
「アンタが顔を見知っただけの此の青年が、其の高次の神とやらに壊されかねんとしている事…其の異常性を汲め! 説明しろ!」
「…わ、わたし……っ、私は……っ!」
伊藤は激しく目を泳がせ、救いを求めるように掌で空を切った。
彼女自身もまた、その巨大な濁流に呑み込まれている一被害者に過ぎないのかもしれない。
だが、今の凱にそんな弁明は通用しなかった。
「…
その時、那が、ふと譫言のように、そのギリシャ文字の名を呟いた。
「…ゼータ?」
伊藤の胸ぐらを掴まんとする勢いだった凱が、動きを止め、那の方を一瞥した。
「…伊藤さん。貴女は、世界の不可思議を…此の世界の理を、彼に与えられた其の生物達によって、数理で説かんとしていましたよね…っ」
那は、いまだ止血の感触が残る鼻の下を拭い、潤む瞳を真っ直ぐに伊藤へと向けた。
「…つ、つまりっ…あれは、謎を解き明かす算段を貴女に与えたんだ。私達に、この世界に解いてほしい答えが…あのけだものの意識の中に…ζの問いの中に、ある。…そうではないんですか?」
伊藤は、那の問いかけに、弾かれたように肩を震わせた。
「…私はっ、あれに…っ、アンちゃんの監視はあれど…目配せを頂いているんです…っ。で、でも…っ」
彼女は、震える手をゆっくりと差し出し、包帯の巻かれた自らの人差し指を伸ばした。
「…堪忍袋、というものがっ…あれにも、あったのでしょう…っ。あれはあの時、私に…っ、半ば強引に『令』をかけた…っ」
其れが、あの凄惨な「血の曼荼羅」を描かせた衝動であることを、その場の全員が直感的に理解した。
彼女は、ただ自発的に狂ったのではない。「高次存在」が、その観測の遅滞に痺れを切らし、媒介者の肉体を直接ハックして、無理矢理にその真理を出力させたのだ。
其れなら、彼女が紡いでいた「会話」にも合点がいく。
「…つまり、どういうことだ」
凱が、低く、押し殺した声で訊く。
「彼は『あらわれ』…顕現そのものになる事を急いています…っ。其の前に、私達は…選択を、しなければ、ならない…っ」
「選択というのは…何だ」
凱の問いは、現実的な狩猟者のそれだった。
「其れを
伊藤の言葉に、凱は鼻で笑うような吐息を漏らし、その鋭い眼光で彼女を射抜いた。
「…伊藤さん。アンタは其の生物達を、ソイツ自身に与えられているんだろう?…だとしたら、答えは一つじゃないか」
凱が、冷徹な推論を口にする。
「…ソイツは、自ら殺されることを望んでいるんじゃないのか?…介錯を、強いたんじゃないのか」
一瞬、室内の空気が凝固した。
――介錯。それは、あまりにも残酷で、然れど救いに満ちた響きを含んでいた。
「…死の渇望では…ないと思います…っ」
伊藤は首を横に振り、自身の指先を見つめた。
「…寧ろ、選択を与えている…っ、この世界が、彼を受け入れるのか…あるいは、拒絶するのか。其の答えを、見極めようとしているんです…っ」
那は、再び襲ってきた激しい眩暈に、壁を強く掴んだ。
自分は、ただの背景ではなかったのか。
何故、世界の天秤の重りとして、自分の魂が其処に置かれなければならないのか。
「…私達はっ、だからこそ…その答えを知る為にっ、向かわなければ…いけない…っ、上色見神宮にっ…!」
鼻を抜ける血の臭いが、再び強くなったような気がして、那は絶望と共に眼蓋を閉じた。
灯の窓の隙間から、陽光が、僅かに射してきている。
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